2020-06-28 引かれていく羊のように

2020年 6月 28日 礼拝 聖書:マタイ26:57-68

 皆さんは、身に覚えのないことで責められたり、とんだ誤解によってひどく非難されたような経験があるでしょうか。なければ幸いですが、あったならその辛さ、怒り、悔しさを思い出せるかもしれません。私もいくらかそうした経験があります。

そのようなとき、皆さんはどんな行動をしたでしょうか。場合によっては、会社内の上下関係の中でただ我慢するしかなかったというような悔しい状況であったかも知れません。しかし、可能であれば、反論したり、誤解を解こうとあがいてみたりしたのではないでしょうか。私は多くの場合そのような反応をして来ました。

今日の箇所は、おそらくペテロが見た光景を元に描かれています。イエス様のもとから皆ちりぢりに逃げ出した弟子たちですが、ペテロはどうしても気になって、イエス様を捕らえた群衆のあとをこっそりつけて行ったのです。そこで、ペテロが見たのは、まさに無実の罪をなすりつけられ、誤解に基づいた批判によって神を冒涜する者としてさばかれ、死刑を宣告される姿です。

罪のない方が、罪ある者として裁かれ、其れに対して何の弁明も反論もしないで「有罪」をただただ受け入れていくイエス様を、見捨てて逃げ出したペテロはどんな気持ちで見ていたでしょうか。そしてこの場面から何が語られたのでしょうか。

1.偽りと沈黙

最初に目に付くのは、祭司長や指導者たちの偏見と偽りに満ちた様子、それに対するイエス様の沈黙です。

捕らえられたイエス様が最初に連れて行かれたのは、大祭司カヤパと律法学者たち、長老たちといった面々が顔を揃えた場所でした。彼らがあの武装した群衆を差し向けた張本人達です。

そこで59節にあるように最高法院が開かれました。その中に下っ端の役人に紛れ込んだペテロの姿もありました。まだ有名人というほどではありませんので、ガリラヤ訛りさえバレないようにしていれば溶け込めると思ったのでしょう。

最高法院とは名前は立派ですが、当時のユダヤはローマ帝国の属国でしたので、死刑を宣告するような裁判の権限はありませんでした。彼らに出来る事といえば、聖書の律法とユダヤ教伝統の様々な規則に照らして、判決を下す、いわば宗教裁判所です。そこで有罪となり、死刑のような彼らに許されていない刑罰を与えたければ、有罪の証拠を集めてローマから派遣された総督ピラトに訴えなければなりません。

けれども、この裁判は茶番劇でした。彼らは最初からイエス様を亡き者にしよう、殺してしまおうと決めていました。ただ、法律的に手順を踏んで、いかにも正統な裁判であるかのような体裁を繕いたかったのです。

ですから彼らはイエス様を死刑にする口実を見つけようと、手当たり次第に証人を立てました。しかし、法的に矛盾があってはまずいわけですから、次々と証人を立ててはみるけれど、全体として矛盾していたり、論理的に破綻していたりして、どうしても決定打になりません。

そんなときに二人の証言者が貴重な証言をしました。61節「「この人は、『わたしは神の神殿を壊して、それを三日で建て直すことができる』と言いました。」

これは確かにイエス様の語った言葉でした。それはイエス様がご自分の十字架の死と三日目のよみがえりを指した言葉だったのですが、祭司長たちにしてみれば使えるネタでした。神殿を冒とくするような言葉に解釈できるからです。しかし、イエス様はご自分が不利になっても、間違いを訂正しようとはなさいませんでした。

もしイエス様が裁判で何が真実であるかを証明されることを期待していたなら、ここは彼らの証言に誤解があることを堂々と反論する場面です。イエス様には神殿を冒とくする意志はないし、その言葉の意味はまったく別なものだということを説明できたでしょう。

けれどもイエス様は何もお答えにならず、思わず大祭司も苛立って立ちあがり「何も答えないのか」と問いただすのほどでした。それでもイエス様は黙ったままでした。

イザヤ53:7に「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」とあるとおりです。

イエス様はこの裁判が不当で、最初から死刑宣告を導き出すための茶番劇であることをご存じでした。そのために多くの偽証が飛び出しても何もおっしゃらず、事が運ぶのを黙って待っていたのです。イエス様が求めているのはご自身の無罪証明ではなく、救いの実現だからです。

2.偏見と真理

第二に、ここには祭司長たちの偏見とイエス様の語る静かな真理があざやかに対比されています。

大祭司は、黙り続けているイエス様を尋問します。「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」

イエス様は、ご自分が何者であるか、ということを、揚げ足を取られないようにとても気をつけていました。しかし、確かに多くの人たちにキリストであると期待されていましたし、弟子たちもイエス様が神である事を信じていました。

これに対してイエス様は「あなたが言ったとおりです」と答えました。「YES」と答えているようではありますが、ここは直訳すると「それはあなたが言っていることだ」となります。否定でも肯定でもない返事なのです。

大祭司や人々が期待し、理解してる王や政治的な指導者としてのキリストではないけれど、確かに聖書が約束した救い主、キリストではあるわけです。人々のキリストに対するイメージがあまりに偏っているため、イエス様は、ご自分のことを「キリストだ」と名乗る事は滅多になく、たいがいは「人の子」と名乗っていました。「人の子」も旧約聖書の預言に出てくる救い主を表す言葉の一つなのですが、そのほうが、天から来られ、人となった神の御子というイメージをよく表しています。

そのようなわけで、64節後半で、キリストが地上の王国を治める者ではなく、天の王座に着く者であることを言葉を選んで説明しています。

ここで大祭司は「ほらやっと尻尾を掴んだ」とばかりに、ついにイエス様を訴える口実を見つけたと思いました。

65節で大祭司は大げさに自分の衣を引き裂きながら「この男は神を冒涜した」と叫びました。もう証人なんていらない、ナザレのイエスの口から神を冒涜する言葉をここにいる者たち全員が耳にしたのだから、十分だ。死刑に値する。

しかしイエス様はここで「人の子」つまり、約束された救い主とは本来どういう方かを説明なさいます。キリストについて旧約聖書で預言されていたいくつかの姿を結び合わせ自然に解釈すればこうなる、という本来のキリストの姿をお示しになっているのです。それは大祭司たちが考えていたこの世の王や自分たちの権威を脅かす革命かのような存在ではなく、むしろ、神の権威を持つ方であることをはっきり示しているのです。

これは重要な言葉でした。もし、イエス様の語ることばが真実であるなら、大祭司たちは神ご自身の権威を否定し、その御心に背くことになります。もちろん、イエス様は確かにそういう方でしたから、静かに真理を語るだけでした。真理に対してどう向き合うかは彼らに任せました。しかし大祭司たちはそれを認めたくなかったので、彼らに残された道は、イエス様を神を冒涜する者として処断することだけでした。

えん罪事件と言うにもはばかるほどわざとらしく、悪意をもってイエス様を死刑にしようとするのを隠そうともせず、裁判ともいえない裁判が夜中じゅう続き、ついに最高法院は「彼は死に値する」という結論に達したのです。

3.拒絶された救い主

続く出来事は、見ていたペテロの胸を締め付けるような光景でした。悲しみと恐れを隠すので精一杯だったのではないかと思います。

67節と68節は、イエス様に対する侮辱の限りを尽くしたものでした。顔に唾を書け、グーでなぐり、平手打ちをし、「当ててみろ、キリスト。おまえを打ったのはだれだ」とからかいました。

先ほどもみたイザヤ53章には、神のしもべである救い主が、「蔑まれ」「のけ者にされ」「痛みを担った」「打たれ」「苦しめられた」「痛めつけられ、苦しんだ」「虐げとさばき」といった言葉が並んでいます。それでも神のしもべである救い主は「毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように」口を開かないのです。

イエス様に対するこんな粗暴な侮辱を与えたのは、「彼ら」つまりイエス様に死刑に値すると宣告した大祭司はじめ、祭司長たちや長老達でした。他の福音書には「下役たち」ということばもあります。寄ってたかってイエス様に侮辱を与えたわけですが、その中心には宗教的な指導者、人々の長老と呼ばれるような立派な人たちがいたということです。

もしかしたら、そうやって「この神を冒涜する男と私は無関係だ」ということをアピールしたかったのかもしれません。

とにかく、このようにして祭司長たちは、救い主としておいでくださった方、人の子としてお生まれになった神の御子を拒絶したのです。

人々を癒す方、人間の権威や都合で聖書を勝手に解釈するのではなく、神の言葉を神の言葉として語る教え、人格的な素晴らしさ、聖書全体が指し示すキリストの姿と役割が、はっきりと示され、多くの人たちが確かにキリストかもしれない、と信じ始めていた方を、彼らは拒絶しました。それ以外には、自分たちの間違いを認め、へりくだる道しかなかったのですが、彼らはそれがどうしても我慢なりませんでした。

さて、福音書が描いているのは、ユダヤ人が自分たちに約束された救い主を拒絶した出来事です。しかし、マタイの福音書が記されたのは、単にイエス様の身に起こったことを記録するためのものではありません。このユダヤ人たちの行動、反応は、すべての人々のイエス様に対する態度、反応の映し鏡でもあります。

福音書が書かれた時代、教会はユダヤ人からの批判やローマ帝国内のあちこちで迫害や嫌がらせにさらされていました。初代教会の様子を記録した様々な文書によれば、キリスト教に対して向けられた非難や誤解、偏見は現代にも通じるものがあります。

一神教は他の文化や宗教に寛容さがなく、いつも戦争を引き起こして来た。キリスト教は科学を否定している。キリスト教は道徳や倫理を押しつけている。キリスト教の愛は偽善だ。

イエス様ご自身に対する侮辱もありとあらゆる形で行われています。教会やキリスト教をネタにした悪い冗談や悪口はいちいち例に挙げませんが、いくつも耳にしたり目にしたことがあるでしょう。彼らは、イエス様が本当に神だったら、本当に救い主だったら自分がしていることはどういう意味か考えようとしません。しかし、それはまた、そこまで酷くないとしても、今はクリスチャンとなった私たちのかつての姿でもあったのではないでしょうか。

適用 私たちは知っている

コリント第一6:11「あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」

テトス3:3「私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。」

かつて、私たちもあの祭司長たちのようであったかもしれません。調子に乗ってイエス様をからかった下っ端役人のようだったかもしれません。イエス様の存在なんかこれっぽっちも知らず、神様に背を向けたまま自分が良いと思うように生きて来た者だったかも知れません。

かつてはそうでした。しかし、今私たちは知って居ます。あの違法ば裁判が行われている中で、ただ一人ペテロだけが、イエス様の本当のお姿を知り、ペテロだけがイエス様の愛と権威を間近で見て触れて、愛され、教えられて来ました。あのとき、彼は恐れと悲しみの中で「イエス様はそんな方じゃない」と声を上げることは出来なかったかも知れないし、自分の思い描いていた救い主の果たす役割とはあまりにも違って混乱していたかもしれませんが、イエス様との間に結ばれた絆が切れてしまうことはありませんでした。

同じように、私たちの周りの人たちが、たとえイエス様やキリスト教に批判的だったり、バカにしていたりしても、私も肩身の狭い思いをしたり、緊張し、悲しくなりながら何も言えなかったりすることもありました。でも、私たちは知っています。イエス様がやっぱり私たちの救い主であり、真理です。

そして私たちは知っています。イエス様は、あの祭司長や長老達、イエス様を侮辱する人たちのためにも、そのはずかしめを引き受け、耐え忍び、十字架の苦しみに向かってくださったことを。

自分たちが何をしているか知らずに、イエス様に背を向け、自分の罪深さに気付かない愚かなすべての人間、私たちもその一人です。その私たちのためにこの苦しみを、このあざけりを黙って受け止めてくださいました。私たちはそのことを知っています。

この十字架に至る物語を読む私たちに、イエス様は問いかけます。イエス様を救い主、キリストとしてまだ信じていない人たちには、あなたはどうするかと問いかけます。自分の罪を認めず、へりくだりことを拒否して、イエス様を拒み、祭司長たちの側に付くのか、それとも救い主として受け入れるのかと問いかけます。

すでにイエス様を信じている者達にもイエス様は問いかけます。周りの世界がイエス様を拒み、バカにするようなことがあっても、あなたは私を信頼するのかと。ひょっとしたらペテロのように臆病になり、迷い、立場をはっきりさせられずにいることもあるかもしれないけれど、しかし、改めて主の御苦しみを今一度目にし、あなたはどうするのかと、問いかけています。

今日は、イエス様が囚われの身となり、祭司長のもとで裁判を受けた場面をご一緒に読んできました。人間の醜さや愚かさが顕わになっているこれらの場面の中で、人の罪深さと愚かさを嘆きながらも、その救いのために黙って耐えてくださったイエス様。そのイエス様を心から愛し、信頼し、堅く立っていきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

イエス様がうけた酷い仕打ちは、私たちがあなたに向けていたものでした。どうぞ私たちの罪をお赦しください。

ペテロの恐れと小心は私たちのものです。どうぞ私たちをあわれんでください。

イエス様がこのような私たちのために、すべてを耐え忍び、黙って受け入れてくださって、罪ある者とされたゆえに、私たちは赦されました。

今なお、あなたに背を向け、イエス様を侮辱し、恐れる事をしらない人々があまりにも多くおりますが、そのような人々をこそ救おうと十字架への道を歩まれたことを覚えます。あなたが救いであり、道であり、いのちであり、真理であることを知っている私たちが、ますますその確信にたって居られますように、どうぞ励まし、強めてください。あなたの語りかけを聴いているお一人お一人が、イエス様を救い主としてその心に迎え入れることができますようにお導きください。

イエス様のお名前によって祈ります」