戦国時代末期から江戸時代に、キリスト教、当時のキリシタンへの弾圧が厳しくなり、隠れキリシタンと呼ばれる人たちが表面上は普通の人として暮らしながら、密かにキリスト教信仰を保って来ました。普通の人として暮らす、ということは江戸時代に確立した檀家制度の中に身を置き、仏教徒として暮らしながら、秘密の礼拝の場所、祈りのための道具、祈りの言葉などをごくごく限られた者たちの間で守り、伝えて来たということです。
今の日本ではそこまでの弾圧はありませんから、キリスト教信仰を持ってるからといって牢屋に入れられたり、3世代にわたって警察に監視されるなんてこともありません。それでも、多くの人から、友だちや職場で、自分がクリスチャンであることや教会に行っていることを積極的には話さないという声を聞きます。自分もそういうことがあったので、責めることは出来ないし、世渡りの知恵として、日本では政治と宗教について特定の立場を表明しないほうが周りの人と上手くやっていけるという面があるのも分かります。
しかし、どんな言い訳や正当な理由を挙げられたとしても、今日のペテロの物語を読むとき、私たちの心は深く探られます。これまでそのような経験がなかった人でも、いつの日か、主を告白するか、自分を守るか迫られることがあるでしょう。
1.ごまかしから否定へ
ペテロは捕らえられた主イエス様のことが気がかりで、一度は逃げ出したものの、あとから引き返し、裁判が行われている大祭司の家に潜り込みました。
しばらくはバレることもなく、イエス様が多くの偽証にも何も答えず、不利な証言をされても否定もせず、神を冒涜したと決めつけられ、死刑に値すると宣告される茶番劇を見届けていました。
マタイの福音書によれば、ペテロの否認は裁判があらかた決まった後に書かれていますが、実際の出来事として、裁判が行われている間に始まっていたことがヨハネの福音書から分かります。裁判の間、中庭ではたき火が焚かれており、皆が暖を取りながら座っていて、その中に混じっていました。
そこに一人の女中が近づき、ペテロの顔をしげしげと眺め「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね」と声を掛けてきたのです。びっくりしたペテロは「何を言っているのか、私には分からない」と答えてしまいました。この「召使いの女」という言葉は「奴隷の少女」という意味で、あの大祭司のしもべに剣で立ち向かったペテロが、幼い少女の前で弱気になっていたことが分かります。マタイは70節にあるように「皆の前で否定」したことを強調しています。マルコはそう言った後、誤魔化すかのように別の場所にそそくさと移動したことまで書いています。
中庭を離れて家の入り口近くまで行くと、ペテロの様子を見ていた別の女中が、周りにいる人たちに言いました。「この人はナザレ人イエスと一緒にいました」。
マルコの福音書では男の人が声をかけたことになっています。おそらく、最初の女中がイエス様の仲間じゃないかと言い始めたことで、何人かの人たちが「そういえば見覚えがある」と感じ、「一緒にいたじゃないか」と言い始めたのでしょう。ヨハネの福音書では「人々が」問いただしたことがはっきり書かれています。
それに対してペテロは誓って、「そんな人は知らない」と答えてしまいます。
最初は「何を言っているか分からない」と、誤魔化したペテロですが、ここでは「そんな人は知らない」と明確に否定しました。そこまで言うならと、皆もしばらくは何も言わなくなりました。
ところが、ほどなくして、決定的な証言が飛び出します。73節です「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」ガリラヤ訛りは、かなりきつかったようで、都会のエルサレムやユダヤの地方の人たちからはかなりバカにされていたそうです。こんな夜遅く裁判が行われている大祭司の家にガリラヤ人がいることはどう考えても不自然です。しかも、ヨハネの福音書には「大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人の親類」という人が登場し、「あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思う」と言い出したのです。
ペテロは「噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言ってしまうのです。
ペテロに対する詰問はだんだん具体的で核心に迫るようになっていくのに対し、ペテロの否定は、最初は「何の事だかわからない」という誤魔化しから、最後には自分に呪いをかけ、絶対違う、知らないと否定してしまったのです。その時、鶏が鳴きました。
2.主の教えとペテロの告白
4人の福音書記者のそれぞれの記述を丁寧に読んでいくと、ペテロがイエス様を知らないと言ったのは確かに3回なのですが、決して3回だけ聞かれたというようなことではなく、周りにいた人たちに何度も話しかけられたのです。一人がしゃべると他の人も「そういえば」と次々とペテロに問いかけた様子が浮かび上がって来ます。大祭司の中庭は、怪しいガリラヤ人がさっき死刑を言い渡されたイエス様の仲間なのかどうかで、そこそこの騒ぎになっていたことが分かります。
そこにいた人たちがイエス様についてどう考えていたかは分かりませんが、大祭司のしもべたちが中心ですから、革命を企てる謀反人か、神を冒涜する愚か者というくらいには思っていたでしょう。その仲間となればどんな扱いを受けるか想像に難くありません。
しかし、マタイは、この記事を通して以前イエス様が弟子たちに教えたある事柄を思い出させようとしているようです。
鶏が鳴く前にわたしを知らないと言うだろう、というあの予告ではありません。もっと前の、弟子たちがイエス様こそ救世主だと信じて、その教えを熱心に聴き従っていたころの事です。マタイ10章はそんな時期に、イエス様が弟子たちをイエス様の代理として各地に遣わす時に教えた、様々な心得が記されています。特に、今日の出来事と関連があるのは10:32~33です。
「ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。」
イエス様は弟子たちに、人々の前でイエス様を主と認め、告白するか、それとも「知らない」と言ってしまうか、試される場面があることをご存じで、弟子たちにあらかじめ教えておられました。一羽のスズメでさえ、父の許しなしに命を落とすことはないのだから、人を恐れることはないと励ましてくださっていました。
ペテロは、他の人々がイエス様についていろいろとウワサしていましたが、確信をもって「神の子、キリストです」と信仰告白をし、いのちの危険を顧みず大祭司のしもべに剣で打ってかかるような勇敢さを示していました。それなのに、一人の若い女中に「あなたも仲間じゃないか」と言われた時、周りにいた人たちの刺さるような視線の前で、イエス様が警告したとおりに「知らない」と言ってしまうのです。
しかも、マルコの福音書には、ペテロが最初に「何の事かわからない」と誤魔化した直後に「鶏が鳴いた」とあります。その最初の鶏の一声をわざわざ書いているのは理由があったと思います。伝承によればマルコは主にペテロの証言を元に福音書を書いたと言われています。ペテロは思い返してみれば、あの時、最初に鶏が鳴いたのは、そのままではまずいぞという警告だったと感じていたのかもしれません。しかしペテロはイエス様を知らないという態度をエスカレートさせてしまいました。
そしてここでも「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」と言われた通り、ペテロの信仰やイエス様への思いとは裏腹に、人間の意志や勇気がいかに弱く脆いものであるかがあらためて浮き彫りになるのです。
3.気づきと嘆き
ペテロが3度目にイエス様を「知らない」と言った直後、鶏の鳴き声が響き渡りました。その時、はっきりと「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエス様のことばを思い出しました。
そして、ペテロは外に出て行って激しく泣きました。最初に鶏が鳴いたときに、彼の心に刺さる何かがあったのですが、今、イエス様がじっと彼を見て言われた言葉をはっきり思い出し、その通りのことをしてしまったことを悟りました。あれほど命を落とすようなことがあってもそんなことはしない、他の弟子たちがたとえイエス様を知らないと言っても、自分はそんなことはしないと誓ったのに、一人の少女の言葉によって引き起こされた恐怖に、まったく無力で何の抵抗も出来なかったことに、泣き崩れるしかありませんでした。
ルカの福音書には中庭の反対側からペテロを見つめるイエス様の視線に気付いたことが書かれています。開いて見ましょうルカ22:60~61です。「しかしペテロは、「あなたの言っていることは分からない」と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた。主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日は、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。そして、外に出て行って、激しく泣いた。」
このときペテロには何の救いも慰めもありませんでした。イエス様のまなざしは憐れみと、前に語った「立ち直ったら他の弟子たちの助けになりなさい」という期待を込めたものだったでしょうが、ペテロには痛みしか感じられなかったのだと思います。
おそらく彼が嘆きの中から回復し始めたのは、イエス様がよみがえった後、さらに数週間経ってガリラヤに戻ってからのことです。ヨハネの福音書だけが記している、その記事の中で、イエス様はペテロに三度「わたしを愛するか」とお尋ねになりました。ペテロはイエス様の求めるような愛が自分には無いことを自覚し、それでもイエス様の愛に応えたいという思いを表します。それに対してイエス様は「わたしの羊を飼いなさい」と、信頼を示してくれました。
おそらく、それが回復の出発だったことでしょう。それでも明確に「立ち直った」という言葉が出て来ません。そのあとも数週間イエス様と過ごし、彼が本当に回復できたのは、イエス様が天に帰り、ペンテコステの時に約束の助け主、慰め主である聖霊が注がれた時ではないかと私自身は考えています。
4つの福音書はどれも、ペテロが後悔し泣き崩れたところでこの出来事を終わらせています。マタイもこの福音書の中で、ペテロがその嘆きの中から立ち直ったかどうかは何も触れないままです。イエス様が彼を振り返って見つめたことも、ガリラヤ湖のほとりで語りかけたことも省略し、それどころかマタイはイエス様復活の出来事の中でもペテロの名前すら出していません。まるでこのあとのイエス様の十字架と復活という、もっとも大事な舞台の場面から退場してしまったかのようです。
ペテロは自分自身の弱さと罪の大きさ、こともあろうに愛し信頼し、必ず着いて行くと誓ったイエス様を知らないと言ってしまった罪と自分の弱さに気付き、打ちのめされ、嘆きました。
適用 嘆くこと涙すること
私たちは、悲しみや嘆きの中にあるとき、すぐに慰められることや励まされることを望むかもしれません。しかし、悲しみや嘆きから本当に回復するためには、十分に涙を流すこと、嘆く時をしっかり味わうことが必要です。
特に自分の弱さや罪に気付いた時は、この嘆きの時、後悔し、心の責めを感じとり、自分にがっかりし、自分のだめさ加減に打ちのめされることが、しかも相当の時間を味わうことが必要です。それがあってこそ、私たちは自分の罪深さや弱さを徹底して悟ることができます。お手軽な慰めで得られる平安や赦された喜び、お手軽なもので、薄っぺらになってしまいます。どれほど神様の恵みに頼らなければならないかを自覚できず、神様の恵み深さも、イエス様の赦しの大きさも理解できない、薄っぺらな信仰のままです。
コリント人への手紙第二には、コリント教会にあった信仰理解の間違いやクリスチャンとしての生き方や交わりの問題、道徳的な罪を厳しく取り上げたあとで、罪に気付いて嘆いている人たちを慰める言葉があります。コリント第二7:8~10を開きましょう。
特に10節に注目しましょう。「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」
救いは悲しみを通してもたらされます。もちろん、悲しみに押しつぶされないよう、支えと赦しが必要なのですが、悲しみを通してだけ得られる後悔のない、赦しや回復、成熟があるのですす。
時々、罪の告白を聞くことがあります。何年も、時には何十年も前の罪について長い間心に秘め、密かに苦しみ、自分を傷つけ続けて来た一つの罪について「聞いて下さい。祈ってください」と告白されるとき、私は神様の赦しと忍耐の大きさに驚き、感激します。一緒に祈って、重荷を下ろしてほっとした表情を見る時、回復に至るまで、どれほどの時を過ごさねばならなかったか。毎日涙に暮れていたわけではないかもしれないけれど、ずっと心にひっかりかり、時々思い出しては苦しみ、後悔し、自分にがっかりし続けて来たこともまた、その人にとっては必要な時間だったのです。
また、悔い改めの祈りをしたのに、赦されている確信が持てない、平安が戻って来ない、思い出して苦しむ。そういうことはよく聞きます。そのような時、気休めのように「大丈夫だから」と言われても心が穏やかになるわけではありません。私もそういう経験を何度となくしています。そういう中で自分の弱さがどういうものかをより深く知ったり、罪深いとはどういうことかをより深く知って謙虚になったり、より明確に悔い改めたり、神様の赦しの大きさを初めて知るかのような心持ちで感じ取れたりしました。
詩篇119:71にこうあります。「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。」ペテロのように悲しみや後悔のただ中にある時には、なかなかそんなふうに思えないものですし、心からからそう言えるようになるには、それなりの時間がかかります。しかし、弱さや罪深さを経験し、嘆き、悲しみ、悩むことは、決して無駄なことではなく、こうした苦しみ、悲しみを信仰の歩みの大切な一部として、しっかり受け止め、十分に嘆き、そうして備えられた慰めと癒やしを味合わせていだだきましょう。
祈り
「イエス様は悲しむ者は幸いだと言われました。悲しみや嘆きの中にあるときは、その意味が分かりません。
しかし、ペテロの失敗と涙から学ぶ中で、すこしだけその意味に近づくことが出来ました。
私たちのうちにも弱さがあり、罪があります。そのことに気づき、悲しみ、悩むことがあります。けれど、その悲しみを通してだけ知る事のできる恵みの世界があることを感謝します。悲しみの中にいるときは、なかなかそのことが分からないのですが、みことばを心に覚え、望みをもつことができますように。
そして、今まさにそのような嘆きの中にある者を守り支えてください。その悲しみの中であなたが示してくださる恵みを味わうことができますように。
あなたの深いご愛と忍耐と、豊かな恵みを感謝します。
主イエス様の御名によって祈ります。」