2021年 7月 18日 礼拝 聖書:詩篇119:1-8
「戒め」という言葉には厳しい響きがあります。「○○を食べちゃいけない・しちゃいけない」という戒律。戒めを破ったときの罰則としての「戒規」。「懲戒処分」なんて言葉もあります。
不思議なことに、この戒めが詩篇の世界では「喜ばしいもの」「ハチミツのように甘い」ものとして描かれることがよくあります。そしてこの戒めに従うことがどれほど幸せなことかと何度も歌われるのです。クリスチャンはそういうことばを聞いて「アーメン、その通り!」と言うかもしれませんが、そう言う割には大好きな珈琲は毎日飲めても、なかなか聖書通読も続かないし聖書の学びに時間を取ることは結構決意と努力をしなければなりません。
この戒めという言葉以外にも、神の言葉を表す言い方としては「みことば」「さとし」「おきて」などがありますが、代表的なのはトーラーと呼ばれる「律法」です。
さて詩篇の第五巻は107篇から終わりまでで、最後の5つは「ハレル詩篇」といって、詩篇全体のまとめの頌栄です。この第五巻には神が出エジプトの時のように、ふたたび神の民を救ってくださるという希望をテーマに歌が集められています。そして今日開いているのはその第五巻のちょうど真ん中に位置しています。
1.幸いな人の歩む道
まず第一に、幸いな人の歩む道が、神の戒め、神のことばのうちにあります。
神のことば、戒めを「蜜のように甘い」と実感している人も、そうでない人も、まずは詩篇がどのような意味合いでそう言っているのか、私たちにみことばの性質や役割について何を伝えているのか、読み取っていきましょう。
119篇は詩篇の中でも一番長い詩で、8節ずつ、それぞれの節が同じヘブル語のアルファベットで始まる、「いろは歌」になっています。全部を見ることはできませんので今日は最初のアルファベット「アレフ」で始まる8節までを取り上げました。109篇全体も、この最初の8節も、歌のテーマは、ずばり「戒め」トーラーなのです。
1節~2節に二度繰り返して「幸いな人よ」と出て来ます。「なんて幸せ者なんだ」ということです。どういう人が幸せなのかというと、「全き道」である主のみおしえに歩む人、主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人だというのです。
ここで注意したいのは、正しい行いをすて完全に正しい生活をしている人が幸いだと言っているのではなく、完全な道である主の教えに歩むことを求めている人が幸いだと言っているという点です。これは大きな違いです。
二人の登山者のたとえを聞いてください。
一人は完全な装備を身につけたベテランの登山者です。もう一人は登山を始めたばかりで、装備も不十分、経験も足りません。
そんな二人が山を歩いていると大きな谷間に出くわしました。転げ落ちたら命を落としてしまうのは間違いありません。その谷に日本の橋がかかっています。一つはところどころ踏み板が抜け落ち、あちこちに錆が浮いているような古い吊り橋です。もう一つはしっかりと作られ風や人があるくことで揺れたりしない頑丈な橋です。
初心者登山者は迷うことなく頑丈で安全そうな橋を渡り始めましたが、そんな初心者を鼻で笑いながらベテラン登山者は危なっかしい吊り橋を渡り始めました。ところが途中まで渡ったころに突風が吹いて吊り橋の踏み板がはずれ、橋を繋いでいたワイヤーは錆びていたところから切れてしまいました。そうなってはベテラン登山者の完全な装備も、豊富な知識や経験も役には立ちません。彼は谷底へ落っこちてしまいました。一方、初心者登山者は風に煽られはしましたが、橋はびくともせず無事に向こう岸に行けました。
私たちは完全で経験豊かであるから幸せなのではなく、たとえ経験が浅く、準備も不十分、そのうえ知識も技術も足りないとしても、神のことば、という完全な道を歩めるから、安全、幸いだということです。
私たちは聖書のことば、とくに戒めや教えについて大きく誤解している場合があります。何しろ命令というかたちで書かれていることもあるので、これをちゃんと守らないと祝福や救いがないと思い込んでしまっていることがあるのです。しかし、旧約聖書のかなり厳しく思える戒めも含め、それらの教えは、それらを守った人たちを救うために与えられているのではありません。むしろ、罪深く、弱い人間が神の民として歩もうとするときに、安全に歩めるようにと備えられた確かな道、安全な橋なのです。
2.私たちを確かにする道
第二に、神の戒め、神のみことばは私たちを確かな者にします。
このことを正しく理解するために私たちが最初に思い出さなければならないことは、イスラエルの民は律法を与えられる前にすでに救い出され、神の民とされ、契約が結ばれていたということです。
シナイ山のふもとで、神の民となる契約を結び、神は彼らの主、王となってくださいました。律法は神の民となった人々が、周りの偶像だらけの世界とは一線を画した新しい生き方をするために与えられた道標でした。
神の民となるために、クリアしなければならない条件として律法や神のことばが与えられたのではなく、神の民とされたから、神の民として歩めるように与えられたのが聖書の教えなのです。
ですから、神の戒め、神のみことばは、神の民として歩み始めた者を強め、励まし、成長させ、確かな者にしていくのです。そのような教えに従って生きるとき、3~5節にあるように、不正を行わず、主が教えた道を確実に歩む者へと確立されていくのです。
旧約聖書の中には律法として記されているのは出エジプト記から申命記までで、他の旧約聖書のすべての教えは、この律法に基づいて具体的な場面で適用され、励ましや警告の基準となりました。
律法には600以上の命令や禁止事項が書かれていますが、それらはあくあで神様とイスラエルの民が結んだ古い契約の中でのことであって、そのすべてが今日の私たちにそのまま当てはまるわけではありません。エジプトから脱出し、偶像しか知らなかった民が荒野や約束の地でただ一人の神を礼拝し、神の民として生きるために具体的な指針として与えられたのが律法だからです。
だから、山羊の子どもを母親のミルクで煮てはならないという不思議な戒めがありますが、それを適用して、鶏肉と玉子を一緒に料理する親子丼をクリスチャンは食べるべきではない、などと教える事はないわけです。そうした命令は、周りの民族が繁栄を求めて行う魔術的な儀式の真似をするなということで、料理方法のことを問題にしているのではないのです。
しかし旧約聖書の律法は、今は守る必要がないものだとしても、今でも私たちへの神の言葉です。それらを通して神様が神様との関係や人との関係、周りの文化との関係でどういうことを大事にし、どういうことに気をつけるべきだと考えておられるかが分かります。さらに私たちにはイエス様を信じる者が誰でも神の民とされるという新しい契約与えられた新しい契約にも、神の民となった私たちへの新しい律法があります。
新しいといっても旧約聖書の教えと無関係ではありません。新しい律法は「愛の律法」と呼ばれ、神を愛し、隣人を愛することを引き続き求め、十戒が教える基本的な道徳的な基準を変えることはありません。それらは現代においても、私たちが神の民として生きて行くための重要な、そして確かな道、安全な橋として役割を果たしているのです。
この世界は天地を造られた神を無視して、信じるのは構わないけれど、日常生活や経済活動には持ち込まないでねと釘をさします。道徳的な正しさよりも利益を追求します。個人でも国家でも、そうしがちです。そのような世界で神の民として生きて行くために確かな道を指し示すみことばが私たちを確かな者としていくのです。
3.感謝と直ぐな心に至る道
第三に神の戒め、神のみことばは、私たちに感謝と真っ直ぐな心を与えてくれます。
私たちが神のことばによって歩むとき、そなえられた安全で確かな道を歩み、その中で私たち自身が確かな者とされていくことで、みことばを与えてくださった神様への素直な感謝が生まれます。
またちょっと山上りの例を持ち出しますが、山を歩くと(山菜採りでなく、登山の時はということですが)、標高の高いところまで登山道が整備され、時には立派な木道が置かれてたり、危険なところには目印があり、ロープや鎖、梯子まで備えられていて驚かされることがあります。きっと地元の山岳会なんかが中心になって整備しているのだと思いますが、その人たちの願いは、登山者が安全に山頂まで行き、帰って来られることなはずです。それでも油断したり、自分の判断を過信してルートを外れたら大変危険なことになるのは目に見えています。そこまで資材を運搬し、整備するというのは相当の労力が必要なはずです。いつもどうやって運んだんだろうという驚きと共に、感謝の気持ちが自然とわき起こって来ます。
神様がイスラエルの民に与えた律法は厳しい面もありますが、奴隷状態から救い出された民が新しく生きていくための神からの贈り物でした。エジプトの神々しか知らず、これから向かう先で待ち受けるカナン人たちの忌まわしい偶像礼拝の誘惑に晒される中で、救い出してくださった神がどのような方で、どのような性質を持っておられ、それゆえにどう生きるべきか、確かな道標が必要でした。
もちろん彼らも人間ですから、神様の言葉に従いきれないこともあり、誘惑い陥って罪を犯したり、気づかぬうちに間違いを犯すこともありました。罪に対しては死による厳しい裁きもありましたが、彼らが死ぬ事のないようにと、赦しの道も備えられていたのです。しかも神様の赦しと憐れみは、先週学んだ通りに、私たちの罪深さや弱さを遙かに超えて深く大きいのです。
イスラエルの民がどんな道を辿ろうとも、常にそこには神様が指し示す道のりがあり、山頂まで安全に歩けるよう備えがあったのです。詩篇119篇はこのようなみことばを讃える言葉で満ちています。それは真実の道であり、私たちを生かすものであり、悩みの時の慰めだり、正義を指し示すもの、幾千もの金銀にまさり、揺るがないもの、ハチミツのように甘く、足元を照らす光であり、心を照らし、助けとなります。
だから主の備えてくださった道である「全き道」「主のみおしえ」に歩む人には、素直な心で感謝する心が生まれたのです。
119篇の最後のところを見てみることにしましょう。169節から176節です。ここは各行がヘブル語のアルファベットの最後の文字「ターヴ」で始まる部分です。ここには詩人がみことばによって約束された悟りと救いによって、賛美と歌があふれるようにという願いがあり、この世にあってみことばによって生きることを選んだゆえに、助けがあるように、そしてほめ讃えることができるようにとクライマックスを迎えます。
そして最後の3行がとても大事です。詩人は、自分が聖書を真面目に勉強し、覚え、忠実に守っている敬虔な者とは思っていませんでした。滅びる羊のように迷っている者、神によって探し出されなければならない者として、これらの祈りと賛美を歌うのです。
適用 みことばは贈り物
ぜひ、時間をつくって詩篇119篇全体を味わってみてください。ヘブル語の詩の美しさは十分には味わえませんが、それでも宝物ののようなことばにいくつも出会うことができるでしょう。それは詩人の歌の巧みさである以上に、みことばそのものが私たちへの神様からの贈り物だからです。
詩人が滅び羊のようにさまよっているから、捜し出してくださいと祈った祈りに応えるように、やがて来られたイエス・キリストは良い羊飼いとしてご自身をお示しくださいました。その喩えの中で、失われた一匹を捜し出す方だと教えてくださいました。
イエス様ご自身が、律法を通して神様が示してくださっていた神の民としての本来の生き方、神様への愛と信頼と、隣人への愛と奉仕について見えるように教えてくれました。
私たちもまた迷子の羊のように、迷いやすく、心も歩みも不確かになりやすいものです。イエス様はそんな私たちを捜し出し、私のところに来なさい、私と共に歩んで、私から学びなさいとおっしゃってくださいました。
この世界には良い面もありますが、罪深く残酷な深い闇があり、私たちも否応なく影響を受けます。驚くべきことに、そうした道の方が歩き易そうに見えます。楽そうな道に逸れていってどんどん奥に向かい、帰る道が分からなくなってしまうように、私たちもこの世の考えや価値観に簡単に影響されます。
人間はもともと自分に興味があって欲しい情報を選んで取り込む習性があります。好きな芸能人の話題は、ちょっとしたものでも目に止まります。政権に否定的な感情を持っていれば良い点よりアラばかりが見えます。
最近のインターネット、SNSはそれを強化します。その人がどんな言葉を検索し、どの記事の所に注目したかデータを集めて、関連の深い記事や投稿を教えてくれるのです。便利な反面、そうやって興味あることにますます誘導し、不安は不安を呼び、怒りは怒りを増し、何が本当か分からなくなってしまいます。そのうえ私たち人間はそれほど賢くはなっていないので、元々持っている性質や弱さが強化されてしまいます。
そのような私たちに、今日も、聖書は私たちのための全き道として、私たちに確かな道、素直に感謝する心を与え、幸いをもたらしてくれます。
先日、ある方から、仕事関係でちょっとカチンと来ることがあったという話しを聞きました。でも神様が私を赦してくださったのだから、自分も赦さなきゃと、自分に言いきかせ、落ち着こうとしたそうです。それでも、不公平感とかもやもやした気持ちは残ると正直にお話してくれました。大事なことは心が鏡のように波一つ無い平穏さではありません。怒りや不満に支配された言葉や態度を取りたくなるわき道から、神の赦しをいただいた者としての歩むべき本来の道を思い出し、そこに戻ろうとしたということです。それがみことばの働きであり、そこに聖霊の助けがあります。
私たちの生活のあちらこちらに、楽そうに見え、好みに合っているように見え、実は危険なわき道がたくさんあります。そんな私たちに確かな道として備えられたみことばは、神様から私たちへの贈り物です。どうかこれを、守らなければ義と認められない戒律だとは決して思わず、また私たちを縛り付けるための規則集でもなく、神様が歴史を通して作り上げてくださった安全で確かな道として、イエス様がともに歩んでくださる道として感謝して受け止めて行きましょう。
祈り
「天の父なる神様。
私たちに聖書という贈り物をくださり、ありがとうございます。
読みにくかったり、分かりにくかったりすることはっても、恵みによって神の民とされた私たちが、主とともに歩んで行くためのすべてがここにあります。
感謝をもってみことばを受け止め、愛と信頼のゆえにみことばに従うことが出来ますように。日々の小さな出来事の中で、あなたの道を想い起こし、確かに歩んでいけますように。そのようにして私たちに備えられている幸い、感謝、助け、そして喜びを味わい、あなたを賛美するものとなれますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。」