2020年 1月 1日 元旦礼拝 聖書:詩篇20篇
新しい年が始まりました。
どのようなお気持ちで新年をお迎えになったでしょうか。どんな願いをもって歩み始められたでしょうか。
ことしもいつものように詩篇からと言うことで、2020年ですので、詩篇20篇を開いています。
とくに数字合わせに大きな意味はなく、縁起を担いでというようなことでもないのですが、流れに身を委ねて神様が語られることに耳を傾けていこうという嗜好です。
さて、今日開いている詩篇20篇は、ダビデ王が作った詩の一つで、詩の背景となっている状況は、王が戦いに赴く備えをしているところです。戦いに備えている王のために民が祈り、王がそれに応え、そして最後に私たちの祈りのことばが登場します。
このような詩を私たちの信仰のどんな場面に当てはめるのがよいか考えて見ると、困難に立ち向かおうとしたり、願いや目標に向かっている、あるいは苦難の中にある一人の人のために兄弟姉妹が祈り、励まし、その本人もまた信仰に立って立ち向かっていこうというような、そんな情景を思い浮かべたいと思います。
1.主があなたにお答えになりますように
まず1節から5節ですが、ここは戦いの備えをしている王のために民が祈る場面です。
試練に立ち向かっている誰か、目標に向かって歩み出そうとしている誰かを思い浮かべて見ましょう。
1節のはじめに「苦難の日に」とあります。ダビデにとってこの戦いは、自分からしかけたり望んだ戦いではなく、降りかかってきた「苦難」であることがわかります。
しかし、ダビデはその苦難から逃げ回るのではなく、受け止め、勇敢に立ち向かおうとしています。ダビデは自分の力に自信満々だから受けて立とうというわけでないのです。
2節と3節を見ると、ダビデがこの戦いに臨むにあたって、まずは聖所において神様を礼拝し、捧げものをしていたことがわかります。民はそのことを知っていて、その主がダビデの祈りと願いを聞き届け、勝利を与えてくださるようにと祈り、5節にあるように、自分たちも王様と心を一つにして旗のもとに集まり、立ち上がりますと声をあげているのです。
私はこういう場面をよく目撃し、立ち会っています。みなさんもきっと経験しているはずです。
例えば、婦人会や祈祷会で、誰かが「こういうことのために祈って欲しい」と祈りの課題をかかげる時です。その人は、降って湧いたような困難になんとか向き合い、立ち向かおうとしていますが、その力と知恵を神様に求めるために、他の人たちに祈りをお願いします。それを聞いた周りの人たちが、そのために祈るのです。そこで起こっていることは、ダビデ王と民の祈りを軸にした交わりと同じことです。先週の礼拝のあとも、一人の姉妹から涙ながらに祈って欲しいと訴えがありました。私たちはそのような苦難の時にともに祈ります。
私たちは、兄弟姉妹が直面する困難、苦難を代わりに担うことはできませんが、立ち向かおうとする一人一人のために祈り、恐れや願いに共感し、その心を神様への望みと信頼につなぎ続けるよう励ますことができます。
2.主が祈りに応えてくださる
第二の場面は6節から8節です。民の祈りに応えてダビデ王が自分の確信について語る場面です。ダビデ王の確信は「主は応えてくださる」ということです。
「今、私は知る。」とダビデは語り始めます。
まだ戦いが始まる前ですが、すでに彼は主による救いと勝利を、すでに起こったことであるかのように「今、私は知る」「私はすでに確信している」と民に語り、もしかしたら自分自身に言い聞かせています。
民はダビデ王のための助けが、「聖所から」「シオンから」、つまり礼拝の場から送られるようにと祈りましたが、ダビデの心の目はもっと大きく広がり、「聖なる天から」神の「右の手の救いの御力」が送られるという確信となっていました。
私たちに与えられる助けは、この地上の力ではなく、天からの力、助けです。
しかしダビデがそのように確信できたのはなぜでしょうか。
それはダビデが何に助け、救いを求めたかという信仰のあり方を大いに関係があります。
7節で、王であり、この戦いのための指揮官でもあるダビデはこう言い切ります。
「ある者は戦車を ある者は馬を求める。
しかし私たちは
私たちの神 主の御名を呼び求める。」
「戦車」や「馬」は古代の戦争においては、いちばん強力な装備でした。エジプトを脱出しようとするイスラエルの民を追ったエジプト王が派遣したのはこの戦車と馬を主力とする大部隊でした。
ダビデの周辺の諸国が頼りにしたのも、戦車や馬といった力でした。イスラエルの歴代の王たちもしばしば軍備の増強によって守りを固めようとしました。もちろんダビデ自身もそういう現実的な備えということはしていましたが、しかしダビデは、軍備をちゃんとしたから勝てる、守れると考えていたわけではありません。やはり民とともに「私たちの神、主の御名を呼び求める」のです。
ダビデ自身がここで戦いのために備えている場面ですから、神様に全部お任せして、自分は何の準備もなしに戦いに臨もうということではありません。どんな準備をしたとしても、私たちが何より信頼するのは神様なのだという確信ことが、「大丈夫」という確信をもたらすのです。
私たちの問題は、神様に信頼するといいつつ、信頼しきれずに他のものに力と助けを求めたほうがいいんじゃないかという「二心」です。心が二つに別れていたら何も得られないとヤコブ書にもあります「そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。」
主に信頼する者は「まっすぐに立ち上が」ることができるのです。困難、試練の中で、向き合おうとしている挑戦、目標に対して、私たちが準備したものやあてにしている何かではなく、神様ご自身だと心を定める時、私たちが膝が崩れ落ちるように心が折れてしまわず、まっすぐ立ち上がり続けられるのです。
3.私たちに応えてください
最後の9節は再び民の祈りです。
王のために取りなす民が、王の信仰にたった確信を聞いた時、同じ心で神様に信頼し、助けを求めていることを確認し、「苦難の日」は「神への信頼の日」に変わりました。
「私たちが呼ぶとき」と訳されている分は、文字通りに訳すなら「私たちが呼ぶ日に」となります。これは1節の「苦難の日」と対になっている言い方です。
つまり、降りかかった災難、予期せぬ苦難の時は、ダビデ自身にとっても、民にとっても、主への祈りを通して「苦難の日」から「私たちが主を呼ぶ日」「主への信頼を告白する日」へと変えられているのです。
戦いはまだ始まっていませんから直面している状況や困難の事実になんの変化もありません。しかし、神に祈りを捧げる民にとって、もはや不幸に見舞われた、やっかいで、思いもよらない災難な日というような見方から、信頼すべき主に信頼し、天からの助けを送ってくださる神とともにあることを確信する日に変わったのです。
適用 今年一年のために
私たちが直面する様々な課題、そして、多くの思いがけない不幸や困難は私たちを悩ませ、心を折り、足取りを重くしがちですが、私自身の主への信頼と祈り、そしてその状況を知ってともに祈ってくださる兄弟姉妹の祈りと、交わりを通して、「苦難の日」から「主を呼ぶ日」に変わり、神様とともにあることを確信する日に変えることができます。
新しい年が始まる今、今年はこういうことに挑戦しようとか、目の前に何かがすでに迫っているかもしれません。不安や恐れがあるかもしれません。でも、「恐れ」から「主を呼ぶ日」に変え、神様とともに歩む一年とすることができます。
何も心配することなく、あまり高望みもせず、のんびり行ければ良いと思っている方もおられるでしょう。そのような安心、安全も、神様からの贈り物です。たまたま上手くいくのではないし、あなたの実力のせいでそうなるのではありません。やはり、神様に呼び求めながら歩みましょう。思いがけず忍び寄ってくる影もあるのですから、神と共に歩める幸いを感謝しつつ、油断なく歩みましょう。
これらの戦い、願い、そして祈りが、私一人、誰か一人のものではなく、この詩篇のように、分かち合われ、みんなが一人のために祈り、一人がみんなに主への信頼を証しし、一緒に神様を呼び求め、一緒に神様と歩んでいける、そんな一年でありますように。