2021-10-03 旅の途中で

2021年 10月 3日 礼拝 聖書:ヘブル11:17-22

 こんなご時世なので、旅行というものを長い間していませんが、旅は楽しいものです。ほとんどの場合は、旅先で泊まる宿を予約してからでかけます。ときには旅先で立ち寄る観光スポットや食べてみたいご当地グルメの情報なんか仕入れておいて、あれこれ想像するのも楽しいですね。

こうした旅には、すでに得ているものと未だ得ていないものの両面があります。泊まる部屋や乗り込む新幹線の席はすでに確保していますが、実際に利用するのはその場に行ってから。すでに、あれこれ想像してワクワクしながら楽しんでいますが、本当に楽しいのは行ってからです。旅の前た向かう途中の楽しさも本物ですが、これから経験する喜びこそが目指すものです。そして旅の途中では長い道中、運転に疲れたり、迷惑な乗客を我慢したり、飽きてしまった子どもの気を紛らわすのに疲れてしまうこともあるでしょう。

前回、ヘブル書を取り上げた時に、信仰の歩みは旅のようで、私たちは天の故郷を目指して旅する旅人だというお話をしました。

私たちは旅の途中にあります。そこにもやはりすでに得ているものと、未だ待ち望んでいるものの両面があります。今日はそれが具体的に意味するところを、アブラハムからヨセフに至るまでの、「族長」と呼ばれる人たちの信仰の歩みを通して学びたいと思います。

1.祝福を手放して

第一に、アブラハムは信仰の旅の途中ですでに得た祝福を手放さなければならないという経験をしました。

17節は、創世記22章に出てくる、旧約聖書の中でも最も有名なエピソードの一つです。これは信仰の一種の試験のようなものでした。待ちに待って、不可能と思われた跡継ぎとなるイサクが誕生したのは創世記21章のメインイベントです。そして22章でいきなり「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた」と記されます。

アブラハムはこれまでもいろいろな困難に出会っていますが、試練という言葉が出てくるのは初めてです。今までも信仰が試されるようなことは度々ありましたが、それはどんな人の人生にも起こり得る危機です。しかし、この試練は、神様が意図してアブラハムを試すために与えたものでした。

その時、主はアブラハムにわざわざ「あなたの子、あなたが愛しているひとり子」と強調した上で、「イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」と告げたのでした。

この命令にどんな意図があるのが、どんな目的があるのか、何の説明もありません。しかし、アブラハムにとっては待ち望んでようやく与えられた、不可能とさえ思えた約束が目に見える形で、手で触れ、そのぬくもりを感じ、幸せを実感できるものとして与えられた、その祝福を手放すようにとの命令でした。

誰でも一度手に入れた、これはまさに神の祝福だと感じられるようなものを手放すのは簡単なことではありません。着なくなった服をリサイクルショップに持っていくのとはわけが違います。

アブラハムが何の迷いも葛藤も感じなかったわけはありませんが、まったくその点については触れられていません。

ではなぜ彼は神に従う事ができたのでしょうか。17節には「献げようとした」と訳されていますが、もともとの言葉の使い方では「もうすでに献げてしまっていた」という意味合いがあります。もう腹を決め、彼の心の中ではすでに死んだ者としていたのです。

アブラハムがそうすることができたのは、イサクが神の約束の子であり、神には人をよみがえらせることもできると考えたからだとヘブル書の著者は解説しています。

神が人を死者の中からよみがえらせることができるとアブラハムに告げたことはありません。しかし、神が真実で約束を必ず果たす方であるなら、たとえ今、その子を手放すようにという理解できない命令であっても、それが死を意味するとしても、約束に変わりはない。それなら、きっと死者の中からイサクを取り戻すことだってできるはずだとアブラハムは考え、そう信じたということです。それはアブラハムが自分を納得させるために考え出したことではなく、これまでの人生において神が真実で、人の目には不可能と思える約束も必ず守られる方だと証明してこられたという事実に基づくものでした。もちろん、アブラハムがイサクに手をかける前に神はとどめました。彼の信仰と従順は十分に証明されました。

信仰は祝福の実を手放さねばならない状況でも、与えてくださった神に信頼し、たとえ今それを失ったとしても神は私たちに約束を果たし、祝福を取り戻させてくださると信頼するものなのです。

2.人の思いを超えて

第二に、信仰の旅の途中では、神様は人の思いを超えて私たちを導きます。

20節と21節には、アブラハムの息子イサクと、その子ヤコブの話が出て来ます。

まずイサクですが、彼には双子の息子たちがいました。兄エサウと弟ヤコブです。お母さんリベカのお腹の中にいるときから張り合っている二人は、双子なのに見た目も性格もまるで正反対でした。神様は双子が生まれる前に、弟がアブラハムからイサクが受け継いだ契約、祝福の約束を受け継ぐことになると言われました。

しかし、実際子どもが生まれてみると、イサクには元気で男の子らしい兄エサウのほうがお気に入りでした。もちろん、当時は長男が家督を継ぐということが自然なことでした。

イサクの後継者は誰になるのか、という物語にはイサクの思いだけでなく、妻リベカの考え、ヤコブとエサウのそれぞれの性格や行動がからみあって大変ドラマティックです。しかし、神様のご計画は兄ではなく、弟のヤコブにアブラハムの契約は引き継がれることでした。最後まで長男エサウに跡を継がせようとしていたイサクですが、それが神の変わらない約束だと悟ると、自分の願いや常識とは違うけれど、ヤコブを契約を受け継ぐ者とし、エサウには異なる道で生きることを告げたのです。

そうやってアブラハムへの祝福を受け継いだヤコブですが、この人もなかなか頑固で、強情な面がある人ですが、ある意味そのおかげでイスラエル12部族の始祖となる12人の息子たちを得ます。

21節に記されているのは跡継ぎの問題ではありません。ヤコブの家族を飢饉から救うことになったヨセフの子どもたちを祝福し、神を礼拝したときの話です。

なぜこれが信仰による行いと言えるのか、ぱっとみ分かりにくいところがあります。ヤコブには4人の妻と12人の息子たちがいました。その中の11番目の息子がヨセフでした。ヨセフが大活躍した話と兄弟たちとの確執の話は長くなるので割愛します。ヤコブが自らの死が近い事を悟った時、子どもたちを呼びました。普通なら12人の息子のうち、長男のルベンに家督を継ぐという話になるのですが、そうはなりませんでした。ここでも神様のみこころはヤコブの考えや人間的な常識とは大きく異なっていました。アブラハムの祝福は12人の兄弟たちに受け継がれ、彼らはそれぞれの部族の長となるのです。そのいわば遺言を語る場面で、やがて王となる者が表れるのは長男ルベンではなく、ユダの子孫からであることが告げられます。さらにヨセフの子どもたち、マナセとエフライムを祝福する段になって、ヤコブはあえて弟のエフライムの方を長子として扱い、間違ったんじゃないかと思ったヨセフを制し「これでいいのだ」と祝福を続けました。ヘブル書の著者はその事が、単にヤコブの思いつきやえこひいきなどではなく、神から出たことであり、ヤコブは信仰によって順番は違うけれども祝福したのだと解説しているのです。

イサクもヤコブも、神様のみこことが自分たちの思いや常識を超えてなされることを知りました。彼らは精一杯抵抗もするのですが、しかし最終的には神の前にへりくだり、信仰をもって受け入れ、次の世代へと託して行ったのです。

3.約束が遠のく時に

第三に、信仰の旅においては神の約束が遠のいたように思える時があります。

今日の最後の登場人物はヨセフです。ヤコブの11番目の息子であるヨセフは大変な飢饉の時に家族を窮地から救い出す大きな役割を果たしましたが、その人生は主に彼自身の性格的な問題のために苦労を伴うものでした。

ヨセフの母ラケルは4人いたヤコブの妻の中で最も愛された人でした。舅であり、伯父にあたるラバンのずる賢さとヤコブの頑固さが相まって、4人の妻を娶ることになったヤコブでしたが、彼はいつでも、兄エサウの追手を逃れ井戸の傍らで出会い一目惚れしたラケルを最も愛していました。ラケルの間にはもうひとり、ベニヤミンという息子も生まれましたが、出産の時にラケルが死んでしまったこともあり、ヨセフを他の兄弟たちよりも大事にしました。

ヨセフ自身も特別扱いされるのをいいことに兄たちが苛立つような振る舞いを繰り返し、ついに憎しみが募って「いっそ殺してしまおうか」という話になりました。ある日、絶好の好機がやって来ましたが、さすがにそれはまずいだろうということで通りがかったキャラバン隊に売りつけ、父ヤコブには動物に襲われて死んだことにしました。ですから、ヨセフがその後エジプトに奴隷として売られたことは兄弟たちも知らなかったのです。

エジプトで苦労しながら、神の御手の下にへりくだることを学んだヨセフは、神の恵みによって大きな機会を得ることになります。エジプトの王ファラオの夢を解き明かし、エジプトに7年の大豊作とその後に続く7年の大飢饉がやってくることを告げました。そして、飢饉に備える計画まで進言し、ファラオに取り仕切りを任されたのでした。それがヤコブと兄たち、一族全員を救い出すことになるのです。

しかしヘブル書の著者はヨセフの信仰がもっとも光った場面は、臨終の時だったと見抜いています。

創世記50:24~25でヨセフは兄弟たちにこのように遺言しました。「私は間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたがたを顧みて、あなたがたをこの地から、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」「神は必ずあなたがたを顧みてくださいます。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上ってください。」

これはヨセフの個人的な希望ではなく、神の約束に対する信仰の表れでした。創世記15:12~16を開いてみましょう。

神様はすでにアブラハムに彼の子孫が400年の奴隷生活の後に救い出され、約束の地に帰って来るというご計画を告げていたのです。ヨセフがエジプトで死ぬ時は、まだヨセフに対する尊敬があり、ヤコブの家族も丁重に扱われていましたが、時とともに状況も変わります。

一度約束の地を捨て、エジプトに移住して神様の約束が遠ざかったように見える状況でもヨセフはアブラハムへの神の言葉を覚えていて、いつの日か約束の地に帰る時のために明確に指示を残しました。私たちは出エジプト記の中に、その遺言が果たされたことを見る事ができます。ヨセフの信仰と共に、その言葉は語り継がれていたのです。

適用 アドナイ・イルエ

私たちは旅行する時、予約した切符がちゃんと使えるか、予約した宿に本当に部屋があるかは、あまり心配したりしないと思います。それが知らない国とか外国人に不親切な国とかに行ったらだいぶ事情は変わってきます。昔のことは知りませんが、少なくとも今の私たちの社会には交通期間や旅行会社、ホテルなどが長いあいだかけて築き上げた実績と信頼感があります。ある意味、それらの真実さを信頼してでかけるわけです。

聖書は、それと同じことを信仰の旅路においてもするのだと教えているのです。

神様はアブラハムとサラ、イサク、ヤコブ、ヨセフという族長たちの信仰の旅路を通して、神様が信頼にたるお方であることを教えてくださいました。旅の途中ではいろいろあり、神様がくださったチケットが信頼できるか試される場面はありましたが、彼らは信頼し、旅を続け、結果として神様の真実さは証明され、彼らの信仰もまた真実なものであることが証明されました。

時には、アブラハムがそうだったように約束のしるしそのものである何かを手放すよう促され、導かれ、戸惑い、恐れることもあるでしょう。

ある時には、イサクやヤコブがそうだったように、自分が思い描いていたのとは違う導きがあるということもあるでしょう。

あるいはヨセフが、遠く離れてしまった約束の地にいつの日か戻れることを願ったように、約束の実現が遠のいてしまったことを受け入れなければならないこともあります。

しかし、族長たちはその時々の信仰の試練を乗り越えました。神が備えてくださることを信じ、人の思いよりも神のお考えの確かさを信じ、神が約束を果たす方であることを信じてすべてを託すことができました。

神様はヘブル書を通して、同じような信仰の旅の途中での試練の時に、私たちにもそうであって欲しいと語りかけているのです。

私自身も、自分の短い信仰の旅路を振り返れば、これぞ自分のやりたかったこと、天職に違いないと思っていたことが取り上げられたり、きっとこうなっていくんだろうなと思っていたのとは全然違う方向に導かれ、戸惑うこともありました。

アブラハムとは違って、すぐには受け入れられず怒ったり、恨んだり、嘆いたりもしました。しぶしぶでも受け入れ、もう一度神様に信頼することにしたような者でも、神様は次の道へとちゃんと導いてくださいました。

最後にアブラハムがイサクと共に礼拝をささげた場所に一つの名前を与えた有名な箇所を開いて終わりにしましょう。今月のみことばにもなっている聖句ですが、創世記22:14です。

「アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある」と言われている。」

これから後も、神様は私たちに「あの山にのぼりなさい」と導くことがあるでしょう。そのような時に、神様がこれまで私たちに示してくださった真実と、聖書が繰り返し示し、人々が信仰によって応えた神の真実を思い出して、「そうだ、この山の上にも主の備えがある」と信じて上って行きましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今日もヘブル書を通して、信仰の旅路について学ぶことができ、感謝します。

私たちが天の故郷を目指すこの旅路で経験するすべての場面、そして試練の時でも、その山の上には主の備えがあることを信じて、歩み、登ることができますように、信仰と力とをお与えください。

困難の中で歩き疲れ、休息が必要な者もおります。どうか十分な回復を与え、再び歩み出すことができますようにあわれんでください。高い山を目の前にして足がすくんでいる者がいるならば、共に歩んで、背負ってくださる主がおられることを思い出させてください。

そして、何かを手放すことを求められている者が、主の備えを信じることができますよう助けてください。

私たちが一人で生きているのではなく、共に信仰によって生きる交わりの中にいることも感謝します。

私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります」

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