3回にわたって献金についてまとまったお話をしていますが、今日はその最後の回になります。
これまでカインとアベルのささげ物の物語、アブラハムがメルキゼデクに十分の一を与えたことを中心に、ささげ物の大切な意味、十分の一の精神は何かということを見てきました。ささげ物は神様の恵みと祝福の中にあることへの感謝と、これからも主が支えてくださることへの信頼を表す礼拝そのものでした。また、すべて与えられたものの一部は神のものであり、そのささげ物を通して地上での神のみわざがなされることを見てきました。
十分の一という律法は新約時代は無効になったとはいえ、献金はしてもしなくても良いもの、余裕があればしたらいいようなものではありません。今もなお、私たちは神の恵みの中を生かされているのであり、私たちのささげ物をとおして主はご自身の御わざをなさろうとしているのですから、喜んでそのわざに加わっていきたいものです。
しかし、何かしら基準がないと献金をどれくらいしたら良いのか困る面もあります。特に日本人である私たちには、目安とか、相場というものをどうしても気にしてしまいます。そこで今日は具体的にささげ物について新約聖書が教えている箇所から学びましょう。
1.熱意と冷淡の間で
第一に、献金をめぐっては私たちはいつも熱意と冷淡さの間で揺れ動きやすい者だということを自覚しましょう。
コリントの手紙で扱われている献金というのは、ユダヤの地方で起こった飢饉によって、エルサレム教会の兄弟姉妹がたいへんな苦境に陥っていたため、何とか彼らを支えようと集められた、義捐金のようなものでした。
遠くにある教会の皆さんのために献金するとなったら、思い浮かべるのは教会に連なっているクリスチャンの方々かもしれません。しかし、この時代の教会のイメージはもう少し広がりがありました。教会独自の会堂を持っていなかったため、町の中に何人かの有力な信者の家々に分散して集まるのが普通でした。礼拝と食事の交わりが密接に結びついていましたので、そこには信仰告白したクリスチャンたちだけでなく、その家族や友人などが一緒にいることはごく当たり前のことでした。
そこで、教会を支援するということは信者たちを支えるだけでなく、その家族を支援することにもなっていたのです。
とにかく、エルサレム教会の苦境に手を差し伸べようとなりました。その当時のことはコリント第一の手紙16章に記されています。パウロは、他の教会がやっているようにコリント教会にも献金するように指示していたのです。
「命じた」という言葉が使われていて、何か強制されているかのようにも見えますが、ささげ物によって貧しい人々を支えるという、律法に込められた精神が、新約時代にも生きていることの一つの例です。
これに対してコリント教会も熱心に賛成し、動き出したということがパウロの耳にも入りました。それが嬉しくて、パウロはコリント教会の熱心さをマケドニアの諸教会に話して聞かせたほどでした。しかもコリント教会の熱心さを聞いたマケドニアの諸教会も振るい立って、じゃあ、自分たちも!と献金を始めたのです。
そのマケドニアの人々の様子が8章に記されています。ここを読むと彼ら自身が極度の貧しさと激しい試練の中にあっても、喜んで献げ、エルサレム教会の人々を支えることを恵みととらえ、力以上にささげたことが記されています。その姿を想うだけで心が熱くなるような話しです。
ところが、そんなふうにマケドニア教会を励ましたはずのコリント教会は、パウロが第二の手紙を書く頃にはすっかり熱が冷めてしまっていたのです。9:3~4を見るとパウロがコリント教会の人々について抱いていた誇りが空振りに終わり恥をかくことになるのではと心配していたことがわかります。
初めの熱心がずっと続くという人もいますが、多くの場合、その情熱には波があります。コリント教会が特別だというわけではないのです。教会のための献金であれ、宣教師や何かの働きを支えるための献金であれ、「この働きのために献げたい」と最初に感じた感動が時とともに薄れたり、献金自体は続けていてもあまり祈ったり関心を持ったりしなくなることが起こりやすいのが私たち人間の現実だと思います。だからパウロがコリント教会に語りかけたように、私たちも時々呼びかけられたり、教えられたりして「そうだった」と思い出す必要がります。
2.心で決めたとおりに
第二に、献金を献げる時の具体的な基準は「心で決めたとおりに」ということです。仕方なくとか、いやいやとか、人の目を気にしてということではなく、教会や様々な働きの必要を聞き、自分の生活全体を考え、よく祈って献げるべき金額を自分で決めなさいということです。
8章に出てきたマケドニア教会のクリスチャンたちは貧しいながらに力に応じ、人によっては力以上に献げました。大事なのはそれぞれの人が自ら進んで、喜んで献げたということです。
ですからコリント教会にも喜んで、心で決めたとおりに献げなさいと教えているのです。
もう一つの実例を見てみましょう。エルサレムで教会が誕生してまだ間もない頃の例です。使徒の働き5章にアナニアとサッピラという夫婦が登場します。
当時エルサレム教会にはやもめを初めとする貧しい境遇の人たちが多く加わっていました。社会保障の制度などない時代です。そういう時には家族や親しい者同士が助け合うというのが基本的なあり方でした。そして旧約律法が生きていた時代ですから、本来であれば十分の一律法によって集められたものが貧しい人たちのサポートに用いられるはずですが、恐らくそうしたものが機能しなくなっていたのでしょう。
そこでイエス様をキリストと信じる生まれたばかりの共同体、教会はお互いを家族と認め、支え合うことにしました。余裕のある人たちは自分の持ち物を売り払っては教会で集め、それを分け合うことにしたのです。しかしこれは完全に自発的で自由に献げられるものでした。それなのに、多くの人たちが家や土地を処分してまでも互いのために献金したので、食べるのに困る人が一人もいない状態まで改善したのでした。己の利益「利己」ではなく他人の利益を優先する「利他」の精神というものがありますが、キリストによる救いと神の恵みに満たされた時に、利他の精神がここまでのことをなし得るという特別な実例です。
そんなエルサレム教会に、ある夫婦がいました。アナニヤと妻のサッピラは自分の土地を売り、一部を手元に置いて残りを教会に献げました。その時、土地の代金全部を献げたかのように説明したのです。すぐに嘘がばれてしまいますが、その時使徒ペテロは、土地は売らないで手元に残しておいても良かったし、たとえ売ってその代金をどうするかは自由にできたのに、あたかも全部献げたかたのように嘘をつくことは神の聖霊を欺くことだと厳しく指摘しました。後からやってきた妻もとっくに嘘がばれていることを知らず、ぬけぬけと嘘をつき通そうとします。二人は聖霊を欺くことがいかに罪深いことか、自らの死をもって知ることになります。それはまた教会全体に緊張感をもたらしました。
この例でも分かるように、どれくらい献げるかは完全に一人一人に任されています。教会の状況や様々な働きの様子を聞いて、神様の前で自分がいくら献げるべきか祈って決めたら、それを喜んで献げることです。十分の一という目安は使い易いものですが、それに至らない場合でも卑屈になったり誤魔化したりする必要もないし、それを越えた場合でも誇ったり、人より良いことをしたみたいに思うべきではありません。すべては聖霊様がご存じのことです。
3.良いわざにあふれるため
第三に、喜んで献げるとき、私たちは良いわざにあふれる者になります。
6節でパウロは種まきと収穫になぞらえて、出し惜しみすれば豊かな刈り取りはないが、たくさん蒔けば多くの収穫を得られるようなものだと言っています。
これは単純に金額の話しをしているわけではありません。人と比べて多いか少ないかではなく、神様が自分に任せてくださったものの中で、喜んで献げればその分豊かなリターンがあるよと言っています。
最近話題のクラウドファンディングやふるさと納税もそうですが、たくさん投資したり協力すればその分大きなリターンがあります。ただの買い物ではないので、その出資には自分が受け取る分と相手が計画している事業のために使う分が含まれています。
献金にも同じような性質があります。そして献金のリターンには、自分に返って来る面と他者に行き渡る面とがあるのです。
自分に返って来るものというのは、8~11節にあるように、喜んで与えてくださる神様がすべてのことに満ち足らせてくださるということ。ただそれは、自分の利益が増えるというより、もっと献げることができるようにしてくださるということです。
10節の終わりには「あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます」とあります。
献げた人が裕福になるという単純な話しではありませんが、喜んで献げた人は、確かに心も満たされ、神様に仕えたり、他の人の役に立つことに喜びを感じ、満足できるようになります。しかし、いやいやながら、強いられて、仕方なく、惜しみながら献げた人は、失った分に目が行きやすくなり、ますますケチになってしまいます。お金の事だけでなく、神様のため、他の人のために自分の時間や力を使うことにも出し惜しみするようになります。そうなっては得られるはずの祝福も素晴らしい経験もありません。
献金はまた、献げた教会や他の人に利益をもたらします。それは神様のみわざが為されることであり、必要としている人たちの必要を満たすことです。12節にそれは「奉仕の務め」であり、「欠乏を満たすだけでなく、神に対する多くの感謝を」生み出し、ますます神のみわざが豊かになっていくことだとあります。
それはイエス様が、互いに愛し合うなら、あなたがたがイエス様の弟子であることが他の人たちにも明らかになると言われたことに通じています。神の恵みと祝福に感謝して喜んで献げることが、互いの必要を満たし、神の御業がなされ、献げた者も受け取った者も豊かにされることで感謝と愛があふれ、神様への賛美が生まれるのです。
これは自分の利益、損得でものごとを考え、出し惜しみするような献げ方からは決して生まれないものです。8:4には「聖徒たちを支える奉仕の恵み」とありますが、以前の翻訳のほうが好きです。以前の訳では「聖徒たちをささえる交わりの恵み」でした。献げることは、他のところでは見られない教会の交わりの豊かさを表すものです。そして、私たちは実際に献げることを通して、この交わりの豊かさの中に入れられていることを味わい、また神様が本当に満たしてくださることを味わえるのです。
適用 ますます豊かにされる
最初に献金のために何かしらの基準がないと不安になりやすい私たち日本人の傾向に触れました。
結婚式の時のご祝儀とか、葬儀の時の御花料とか、どれくらい出したら良いか、相場を聞いたり、兄弟や親戚の間で相談することがあります。
献金についても同じように聞かれることがあります。「どれくらいしたらいいですか。」「他の皆さんはお札を入れているように見えますが、小銭だと失礼でしょうかとか。」
まず具体的に献金の額を決める時ですが、教会や教会外の様々な宣教の働きのために何が必要とされているかを確かめ、神様の前で自分が献げるべき分をよく祈り、考えて決めましょう。
何度も聖書から確かめて来たように、旧約時代の十分の一律法は新約時代のクリスチャンにはそのままは適用されません。しかし、その精神は引き継がれています。すべては神様からの恵みと祝福ですから、その一部を主のために取り分け感謝をもって献げるのは当然のことです。
アブラハムやヤコブをモデルにして、十分の一を一つの基準にするというのも良い考えですが、税金や会費のように強制するようなものではありません。
かといって、単に「自分で決めたとおりに」となると、献金以外に必要な様々な出費や自分のために使いたいことなんかが次々出て来るものです。そうやってあれも必要、これも必要って考え始めると献金に充てられる分が大分目減りするものです。
そういう意味で、特に十分の一という目安を利用し、これは神の分と取り分けてしまうのは一つの知恵です。
献金は神の恵みと祝福への感謝の意味がありますから、献金の時間になってから慌てて財布の中をごそごそさぐるのではなく、あらかじめ準備し取り分けておいて、すぐに出せるようにしておくのはパウロも勧めていることです。
かくいう牧師たちは、礼拝の準備などに気を回しすぎて自分の献金を準備し忘れてしまうことがあるというのが一種の「アルアル話」になっています。それで、予備のお金を講壇のところに置いておく、なんて笑い話のようなことを真面目にやっている人もいます。それはともかく、事前に準備することは大事です。
また金額より大事なのは、献げることが礼拝であり、感謝であり、信頼であり、献身だという確信。主の働きがなされていくことに献金を通して参加しているのだという確信をもって献げる事です。あの極度の貧しさの中で献げたマケドニアのクリスチャンたちは、もしかしたら昨日までより少しお腹を空かせながらも、交わりの恵みに加われることで喜びに満たされていたのです。
私たちもそのように喜んで献げるなら、神様は様々なかたちで祝福し、満たし、ますます豊かにしてくださいます。私たちが自由に使えるお金は目減りするかもしれませんが、主のみわざに加わっていることで得られるものは彩り豊かなものになり、私たちの世界は拡がり、神様の御わざが確かにこの地上でなされていることをより確信するようになります。誰かが救われたり、成長したり、よい証しが出来たり、また実際に行く事はできなくても遠くで誰かがキリストに出会い、飢えや悲しみから助け出されたりするのを自分のこととして喜べるようになります。そして私たちは、自分の生活の中でも神様の様々なかたちで助け、祝福を味わえるでしょう。
喜んで与える者とさせていただきましょう。
祈り
「天の父なる神様。
3週にわたって献金について、献げることについて、その意味や聖書的な原則を学ばせてくださり、ありがとうございます。
どうか、私たちが喜んで献げる人となることができますように。私たちの感謝と信頼が真実なものでありますように。私たちの献げるものを通して、主がこの地において豊かにみわざをなさってくださいますように。救いのみわざや助けの必要な人たちに私たちが心を配り、祈り、与える者であることができるように助けてください。
私たちの心は移りやすく、冷めやすいところもあります。また主に当然献げる分より、日々の必要や楽しみのほうを優先させたい気持ちも起こります。どうぞ、すべてを満たし喜びを与えてくださる主への信頼を増し加えてください。
豊かに与える者となり、あなたのすべての豊かさに満ち足り者としてください。
イエス様のお名前によって祈ります。」