2023年 7月 16日 礼拝 聖書:第三ヨハネ1-15
誰でも愛する人や大切な人のためには幸せを願います。たとえ困難に直面することや乗り越えるべき試練があるものだと分かっていても、それでも子どもたちや大切な仲間が酷い目に会わないようにと心から願います。彼らが健やかであること、誰にも何にも傷つけられていないこと、安心していること、自分の生きている世界を肯定していられることを願います。
今日開いているのはヨハネが書いた三つの手紙の最後のものです。先週見た第二の手紙と分量的にはほぼ同じですし、同じようにちゃんと手紙の形式で書かれています。
そして、今回ははっきりと宛名が明記されています。ガイオという名の、おそらくエペソにあった家の教会の一つの責任者だったと思われる人物に宛てられたものです。相変わらず送り主については「長老から」とあるだけですが、ガイオや家の教会のメンバーには「長老」と言えばヨハネのことだとわかりきったことだったのでしょう。
ヨハネはガイオに対して何度も「愛する者よ」と親しく呼びかけています。ガイオが魂の幸いを得ているように、あらゆる点で幸いを得、肉体的にも健康であることを願ってこの手紙を書いています。すべての点で幸いを得ているとはどういうことでしょうか。愛する者の幸いを願った第三の手紙からご一緒に学びましょう。
1.真理のうちを歩む
ヨハネの手紙第三は、2節、5節、11節に出てくる「愛する者よ」という呼びかけが内容的な区切りになっています。
2節から4節は手紙の挨拶文になりますが、ここでガイオが「すべての点で幸いを得」ることを願ったヨハネは、魂とその他すべての点で幸いを得るための土台が、真理に歩んでいることであると証ししています。というのは、ヨハネが関わるすべてのクリスチャンについて、これ以上ない喜びが真理のうちに歩んでいるという知らせだからです。
このガイオという人物についてははっきりしたことは分かっていません。新約聖書にはガイオという名前の人物が何人か登場します。ガイオやその変形であるガイウスというのはローマではよくある名前でした。手紙の内容から彼が家の教会のリーダーであったことは間違いありません。ヨハネはこのガイオを愛し、喜び、信頼し、期待もしていました。何より彼に喜びをもたらしたのは、いろいろな人たちからのガイオについての評判です。人々は口々にガイオは「真理のうちに歩んでいる」とヨハネに語って聞かせました。
真理のうちを歩んでいる、つまりイエス・キリストを神の御子、約束された救い主として信じ、イエス様が使徒たちを通して教えられた新しい人としての生き方の原則にしっかり立って生きていることをヨハネは喜んでいます。そして、このことが、私たちクリスチャンの、魂だけでなくすべての点で幸いであることの土台になります。
もちろん、私たちは子どもたちや家族、友人が「元気にしているみたいだよ」とか「がんばって仕事をしているようだ」とか「子どもが生まれたんだって」といった話しを聞けば嬉しいし、それは素直に喜ばしいことです。
しかし、私たち自身が経験するように、仕事の成功の陰では家族や人間関係を犠牲にしてしまっている場合があったり、子どもが生まれたとしてもそれが夫婦関係や家族関係が順調であることの証しではありません。体は元気でも、いろいろな悩みを抱えていることはあります。一つ一つの喜ばしい知らせをいちいち疑ってかかる必要はありませんが、それら一つ一つは私たちが心と魂、生活全体が幸いであると言えるための土台ではありません。
お金、成功、健康は贈り物であり、喜ばしいものですが、幸いの土台ではありません。そうでなかったら、貧しい人、失敗が続いている人、健康に問題がある人は幸せにはなれないということになってしまいます。
しかし、イエス様が「幸いなことよ」といって私たちに示してくださったことは、悲しむ者、貧しい者、痛んでいる者たちが受け取れる幸いでした。
貧しい者は幸いだとおっしゃってくださったイエス様、私たちの救いのためにご自分のいのちを与えてくださったイエス様を神であり人となられた救い主と信じ、使徒たちを通して教えられたイエス様の弟子としての生き方の基本原則をしっかりと受け止め、その光の中を歩んでいること、つまり真理のうちを歩んでいることが私たちのすべてにおいて幸せであることの土台です。お金があるかどうか・成功しているかどうか・健康かどうかに関わりなく、あらゆる面で幸いであることがここにかかっているのです。
2.忠実に歩む
ヨハネがガイオに「愛する者よ」と語りかけている二つ目の箇所は5節から10節です。ここではガイオに対して、働きに忠実であるようにと励ましています。忠実であるという点では、5節にあるようにガイオはすでに忠実でしたし、その評判は他の人たちを通してヨハネに届いていました。
忠実さとは何でしょうか。5節から11節の中で中心的な話題になっているのは、兄弟姉妹をもてなすということについてです。とても意外なことのように思えますが、新約聖書はクリスチャンの忠実さということと、旅人や兄弟姉妹をもてなすということと結びつけています。
それは第二の手紙でも見られたように、家の教会というあり方が教会の基本的なあり方であって、教会の営みの中心には、いつも教会である家の交わりに人々を招き、時には旅して来た兄弟姉妹や教師たちをもてなすということがあったからです。
そう考えて見ると、福音書に出てくるイエス様も、ずいぶんいろいろな人の家に招かれてもてなされていました。イエス様の弟子としていただいた取税人のマタイはイエス様と弟子たちを仕事仲間たちと一緒に食事をするために家に招きました。ザアカイの場合はイエス様のほうから声を掛けて「今夜はあなたの家に世話になりたい」と言いました。感激したザアカイは、イエス様と弟子たちを招き入れ、その場で悔い改め、償い以上のことをすると決意を示しました。マルタとマリヤの姉妹は、イエス様がエルサレムに行き来するときによく家に泊めています。
こうした実例と新約聖書のもてなしに関する教えは、教会というものが聖書の教えを学び、礼拝をささげるだけの場所ではなく、家族として互いを受け入れ、主にある兄弟姉妹を友として受け入れる交わりなのだということを表しています。
しかし、この「もてなし」を間違った動機ですることにも注意が必要です。9節に「ディオペレス」の名前が挙がっています。彼は、ヨハネのような聖書を正しく教える人たちに意地悪をし、受け入れず、自分が気に入った人たちだけを受け入れていました。そればかりか、他の人がすることにも邪魔をしていたのです。彼の動機は9節にあるように「かしらになりたがっている」ということでした。ガイオにとって代わりたかったのでしょう。人より影響力を持ちたい、優位に立ちたい。そんな利己的な動機によって、親切やもてなしという良い行いが競争の道具になり汚されてしまうのです。
現代の教会やクリスチャンの生活は、そもそも旅人をもてなすというようことは日常的にはまずありませんし、住宅事情やなにやらで、気持ちはあっても実際にはなかなか出来ない場合も少なくありません。しかし、少なくとも初めて教会を訪ねて来た方を歓迎し、もてなすことは出来るのではないでしょうか。ディオペレスのような利己的な動機や下心で新しい人と関わるような事はアウトですが、逆に知らない人だから声を掛けない、そういうのは牧師や受付の人に任せれば良いことだ、そんな風になっていないでしょうか。自分のことや仲の良い人たちとのことだけに関心が向いて、誰も知っている人がいない教会に勇気を持って訪ねて来て心細くしている人に全然関心が向かないとか、最近顔を見ていない兄弟姉妹に気付いていないとしたら、それは恥ずかしいことだと思うべきです。
3.良い手本に倣って歩む
さて、3度目に「愛する者よ」という呼びかけ出て来るのは11節です。文の流れとしては、ディオテレペスのような悪い動機でもてなしを利用することへの戒めの続きです。ここでは悪いものを見習わないで、善を見習いなさいと語りかけています。
ディオテレペスのような悪い模範ではなく、良い模範として名前が挙げられているのはデメテリオです。
使徒の働きには、エペソの町で銀細工職人として生計を立てていた同じ名前の人が、パウロの伝道のせいで食い扶持が減ってしまったと腹を立て、騒ぎを起こしたことが記されています。そのデメテリオが後に回心して、ガイオの模範になるような人物になったということならすごいですが、そうだと言えるほどの証拠は何もありません。ちょっと、良い話しとして受け取りたい誘惑はありますが、年代的な差も考えれば別人だと思ったほうが良さそうです。
それはともかく、手本とすべき人物にしては、手紙の中にはあまりに情報が少なくも感じます。彼が模範として十分なことは12節にあるように「すべての人たちが」、つまり彼を知っている人は誰もが推薦していますし、なにより「真理そのものが証し」している。使徒たちを通して教えられたイエス様の弟子としての新しい生き方の原則に照らして立派な人と言える。そしてヨハネ自身も推薦しています。
おそらくヨハネが手紙をデメテリオに託し、彼がガイオに届けたと思われますから、「会えば分かる」ということで詳しいことは省いたのかも知れません。
すでに十分真理のうちに歩んでいるとヨハネが喜ぶほどのガイオに、それでもなおデメテリオのような手本とすべき人物を紹介する理由は何でしょうか。
恐らく私たちには、若いうちはもちろんのことですが、どれほど成長し、あるいは年齢を重ねても、いつも手本とすべき人が必要だということではないでしょうか。そして手本とすべき人については、間違ってもディオテレペスのような人を選ばず、本当の意味で良い模範となる人を選べということなのではないでしょうか。
聖書から基本的な原則を学べたとしても、いざ実際に行動しようと思ったら、誰か手本になる人を見て真似してみることからはじめるのが一番効果的です。
反対に、どの人も自分の後の世代の人たちのための模範になることを意識しなければなりません。これは他の手紙の中で、親なら子どもに対して、年輩の人たちは若い人たちに対して、教会の指導者は群に属する人たちに対して、模範になるよう教えられていることからも明らかです。聖書の原則は、実例を見て使い方を学び、自分のものとしていけるし、同じ聖書の教えも、年齢や状況の変化の中で適用の仕方が変わってくるので、いつでも手本は有益です。
そう思って、今までも歩みを振り返ってみると、子ども時代、青年時代、大人になってから、そして今に至るまで、その時々に模範や手本にして来た人たちがいました。若い頃は漠然として憧れのようなもので「ああいうふうになりたい」という事だったり、大人になってからはもう少し限定的に「この部分についてはこの人から学びたい」という風な変化はありますが、そういう人たちと出会わせてくださった神様に感謝したいと思います。
適用:シャローム
手紙の最後の部分は13節~15節の結びの挨拶です。
第二の手紙の終わりと殆ど同じですが、ガイオ個人に宛てた手紙らしく、とても個人的な文面になっています。「そちらの友人たち一人ひとりに」は「一人ずつに」ということす。私は良く「皆さんによろしく伝えてください」という言い方を使ってしまうのですが、それよりずっと個人的です。ガイオの家の教会にいる一人ひとりの名前と顔を思い出し、その一人ひとりにちゃんと挨拶が伝わることを期待しています。
さて、この中でヨハネは「平安があなたがたにありますように」と挨拶を送っています。
この挨拶はユダヤ人がよく使う挨拶、聖書の中にも度々出てくる「シャローム」というヘブル語の挨拶をギリシャ語に直訳したものです。イエス様が十字架の死からよみがえられた後で、恐れと混乱の中にあるときに用いられた挨拶の言葉でもあります。「シャローム」は、あまりに一般的な挨拶で、「こんにちは」「ごきげんよう」「おはよう」といった程度の軽い意味でも用いられていました。
けれども「シャローム」は、罪と悪によって傷付き混乱したこの世界に神様がイエス様によってもたらそうとしておられる完全な回復、あらゆる面で幸いである姿を表す言葉でもあります。よみがえられたイエス様はそのような意味を込めて、怯えている弟子たちに「シャローム(平安があるように)」と語りかけたのでした。
そのシャロームをヨハネはガイオに送りました。ディオテレペスのような利己的な人物のために教会が混乱し、心をざわつかせていたであろうガイオにとって、シャロームはまさに必要でした。そしてこのことは手紙のはじめに「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります」と書いたことと完全に通じています。
ヨハネの手紙第三は、第一の手紙で示された、真理と愛のうちを歩み続けなさいというメッセージを、家の教会の具体的な状況の中でどう当てはめるか、指針を与えるために書かれました。それはガイオという個人を想定していますが、すべてのクリスチャンが真理のうちに歩み、忠実で、良い模範を手本として歩んで欲しいというヨハネの、いえ、ヨハネを用いたイエス様ご自身の願いです。
私たちがシャロームを得るために何が必要でしょうか。健康を維持することやしっかり稼ぐことは大事なことですし、生きていくために最優先にすべきこともあります。それでもすべての点で幸いを得、シャロームであるための土台として不十分です。この手紙にあったように、みことばの真理のうちに歩み、委ねられた働き、特に隣人を愛しもてなすことにおいて忠実であり、そしていつでも良いモデルを見つけて見習うことを大切にしなければなりません。また次の世代のクリスチャンたちが、そのように歩めるように私たち自身が模範になるべきことを意識しましょう。
そして私たちは、ヨハネが愛するガイオのために願ったように、自分のためだけでなく、私たちが愛する者たちにシャロームが訪れることを願いましょう。健康だけでなく、経済状況だけでなく、イエス様の愛と恵みに触れることで愛する者のたましいが幸いを得、その幸いが心と身体と生活のすべての点に行き渡り、シャロームで満たされることを願い求めましょう。
祈り
「天の父なる神様。
ヨハネの手紙を通して今朝も教えてくださりありがとうございます。愛する者の幸いを願ったヨハネのように、私たちも自分自身の幸いとともに、私たちが愛する者たちにもキリストにある幸いがもたらされ、シャロームであるように、どうぞ導いてください。
私たち自身がまず幸であるために、移ろいやすいものではなく、揺るぎない真理と委ねられた務めへの忠実さを追い求め、いつでも模範となる人々の手本に倣う者であらせてください。
どうか私たちの愛する者がたちが、この幸いを得ることができますように。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。」