2023-12-24 平和があるように

2023年 12月 24日 クリスマス礼拝 聖書:ルカ2:1-20

今日はさまざまなクリスマスにちなんだ讃美歌を歌ったり聴いてきましたが、世の中のクリスチャン以外の人たちも様々なクリスマスにちなんだ歌を作って歌っています。多くは家族や愛にまつわるものかもしれませんが、平和について歌ったものが少なくありません。いつの時代も愛と平和は誰もが求め、得たかと思えば手からこぼれ落ちてしまいやすいものです。

今年も戦争の影響や環境破壊の影響が世界中を巻き込み、経済的な混乱や貧富の格差はますます大きくなりました。争いの当事者や、それぞれを支援する国々も、平和と正義を求めていますが、それは自分たちにとっての平和と正義であって、相手を叩き潰すことで手に入れるしかないものです。

世界が平和であればいいのにと思いますが、どんどん遠ざかっているようにも見えます。

クリスマス礼拝の今日は、救い主イエス様がお生まれになったときに御使いが歌った歌の中にある「地には平和が」という言葉に注目し、イエス様がくださる「平和」について思いを巡らしましょう。

1.御子が生まれた夜

救い主が誕生した夜の出来事は何度もお聞きになったことがあるという人も多いと思います。けれどもこの物語は何度も聞き、味わう価値のあるものです。

神の御子であるイエス・キリストが赤ん坊として産まれるだけでなく、数百年前に預言された通りにベツレヘムでお生まれになるためには、いくつかの条件がぴったり重なる必要がありました。というのは、マリアとヨセフが暮らしていたナザレはずっと北のほうにあるガリラヤ地方だったからです。ヨセフはベツレヘム出身でしたが、ナザレで生活していた貧しいヨセフに、身重の妻を連れてわざわざベツレヘムに行く理由はありませんでした。

しかし、ちょうどそのころ皇帝アウグストゥスから住民登録の勅令がローマ帝国全土に出されました。ローマ帝国での住民登録は税金の台帳を作るために基礎となる資料です。

ローマ市民権を持っている人は出身地ではなく居住地で住民登録をするのですが、一部の地域では出身地に戻って登録することが行われていたそうです。当時の制度や事情についてはよく分からないことがいくつかありますが、ルカがこのようなことを記した目的ははっきりしています。救い主誕生が運任せでなされたのではなく、歴史を支配する神様がローマ帝国の動向さえも用いて事を行われたということです。

ベツレヘムはヨセフの出身地であったので結婚したマリアもいっしょに登録するために身重の体を気遣いながら旅をしました。

こうして舞台は整えられました。しかし約束の王、また救い主としてお生まれになったイエス様の誕生の場面は、質素で素朴です。豪華さも派手なお祝いもありません。それどころかイエス様の誕生で最も印象的なことばは7節の終わりにあるように「宿屋には彼らのいる場所がなかった」という言葉です。この言葉は、直接は家畜小屋で出産し、飼葉桶に赤ん坊を寝かせることになってしまった事情を説明しています。しかし間接的にはイエス様がこの地上で置かれた立場を象徴してもいます。

これまで三週にわたって救い主を待ち望んでいた人たちに注目して来ました。救い主を待ち望む人々は大勢いたのです。むしろ民族の悲願と言っても良いでしょう。それだけ待ち望まれたのに、多くの人々はイエス様を拒み、ついには十字架の死に追いやりました。ヨハネ1:11に「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」とあるとおりです。

イエス様の誕生を祝うために駆けつけたのは、この後出て来る羊飼いたちと東の国の博士たち。イエス様誕生に気付いたのは年老いたシメオンとアンナ。一方、エルサレムの住民とヘロデ王は救い主誕生の知らせに恐れ、不安がり、ヘロデ王にいたっては幼子を抹殺するためにベツレヘム中の生まれて間もない男の子たち全部を殺してしまうという残虐な振る舞いに出ます。

救いを待ち望んでいるのに、救い主が来られると不安がり、時に拒絶してしまうという人間の矛盾した姿がよく表れています。

2.御使いの歌

8節では場面がベツレヘム郊外に映ります。時はすでに夜。羊飼いたちは野宿をしながら羊の群の夜番をしていました。暑い地域ですが、夜になると急激に気温が下がる土地ですから、焚き火を絶やさないよう気をつけ、羊飼いたちは交代で休憩したり、話しをしながら狼などの野生動物の襲撃に目を光らせていたことでしょう。

先日、夜目を空に向けると冬の星座が美しく、はっきりと輝いていました。街の灯りがある空でもそれくらい星が見えたのですから、ベツレヘムの夜空はどれほど美しかったことでしょうか。東の博士たちが見たという星が羊飼いたちに見えていたかも知れません。

突然、羊飼いたちの周りを主の栄光が照らし、その光の中に主の遣い、天使が現れました。羊飼いたちは、当たり前ですが恐れました。こんな光景は今まで見たことがありません。明らかに自然現象とは異なります。

おびえる羊飼いたちに御使いは優しく語りかけ、民全体のための喜ばしい知らせを伝えます。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それがあなたがたのためのしるしです。」

イエス様の誕生は民全体にとっての喜ばしい知らせですが、御使いはわざわざ「あなたがたのための救い主」だと言っています。そして救い主が羊飼いたちのためであることのしるしは、赤ん坊が飼葉桶に寝ていることです。羊飼いとは無縁の王宮や高級な宿屋ではなく、家畜小屋の飼葉桶という彼らには馴染みの場所に救い主がお生まれになったということが、自分たちのための救い主だと分からせてくれるのです。

羊飼いたちはユダヤ人の生活と宗教に不可欠な羊を世話する大事な職業なのに、不幸なことに信頼されず、軽蔑された存在でした。しかし救い主はその羊飼いたちのためにもお生まれになったのだと言われたのです。

そしてさらに夜空を埋め尽くすような天使たちの軍勢が現れ、賛美しました。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように」

天使たちは、救い主誕生の究極的な目的を歌っています。神の栄光が表されること、そして平和が地に訪れることです。

この「平和」はとても深い意味のある言葉です。平和は「平和条約」や「平和な時代」のように、戦争や対立がない状態を表すことが多いですが、聖書でいう「平和」はさらにもっと良い状態のことも表しています。

「平和」はヘブル語で「シャローム」と言います。シャロームは「ごきげんよう」という意味合いで挨拶に使われる一般的な言葉ですが、それ以上に深い意味をもちます。シャロームの基本的な意味は「あらゆる面で完全で欠けがない」ということです。戦争がないとか、衣食住に困らないということだけでなく、人間関係や私たちの心のうち、そして罪と死によって損なわれてしまったこの世界全体の美しさも含めて完全に回復された状態がシャロームなのです。そのために救い主はお生まれになりました。

3.彼らは何を求めていたか

しかし、なぜ天使たちはこのようなことをわざわざ羊飼いたちに示したのでしょうか。そんなに神学的に深い意味なら聖書の専門家に語ったほうが良かったのではないでしょうか。

いや、そうではなく、羊飼いたちだからこそ、完全で欠けがない状態からは程遠い、不完全で欠けばかりがあることからの回復がどれほど素晴らしいか身に迫って理解できたのではないでしょうか。

塩分の取り過ぎは良くないとか、適切な運動をするべきだといった健康のためのアドバイスは耳にたこができるくらい聞かされていますが、一度病気で死ぬ思いをした後ではその意味合いが文字通り身に染みて分かります。

救いが必要だと自覚があり、しかも誰の目にも、自分でも受け取れなくても仕方がないと分かっているからこそ、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と言われた時に、確かめなきゃとすぐに行動に移したのです・

彼らは「あなたがたのためのしるし」と言われた、飼葉桶に眠っている幼子を探しにベツレヘムに走って行きました。そして御使いたちが語ったこと、見たことを全部マリアとヨセフに知らせ、全部が天使の告げたとおりだったと言って神をあがめ、賛美しながら羊の待つ丘へと帰って行ったのです。

羊飼いたちは先ほども触れたように、当時のユダヤ人の間では信頼されない人たちでした。実際に彼らが全員嘘つきで泥棒だったということではないはずです。しかし、日本でも江戸時代まで遡るようなある階層の子孫だからとか、そういう人たちが住む地域出身だからと差別されたり、何か問題を起こした外国人がいれば、あそこに国出身だからとか、簡単にレッテルが貼られ、差別されることがわりとよくあります。人間社会はどこでもそういった力が働くものです。「羊飼い」という職業だから、あるいはそのような服装をしているから、というだけでもう社会ののけ者にされていたわけです。しかもユダヤ教という視点で言えば、羊飼いのように律法に不忠実な者たちには神の国にはいる資格はない、神の平和からは最も遠い人たちと見なされたのです。異邦人でないだけまし、というわけです。

羊飼いたちが救いを待ち望んでいたという言葉は見られません。羊たちの世話をするために安息日律法を守れない羊飼いたちですが、この人たちが救い主を待ち望んでいなかった、すっかり諦めていた、敬虔な信仰を持っていなかったと決めつけることはできません。御使いのことばに対する反応の仕方を見ても、彼らが神のことばに応答するだけの敬虔さと信仰心を持ち合わせていたことがわかります。しかし、事実として羊飼いたちは当時のユダヤ人社会ではさげすまれていたのです。そして事実として、良い知らせを聞いた時にすぐさま確かめるために行動を起こしました。

彼らは賛美しながら帰って行きました。生活の大変さや社会的な差別は変わっていませんが、神のシャロームはまず彼らの心を満たしたのです。

適用:平和を求める祈り

先日、ウクライナの国立交響楽団の演奏を聴きに行って来ました。日本でもお馴染みで年末になるとよく耳にするベートーヴェンの第九を演奏するということで、これは聞かなきゃと妻と出かけました。

第九は「フロイデ」というフランスの詩人が作った詩が歌詞に用いられていますが、その歌詞の中に「あなたの力は時流が強く切り離したものを再び結び合わせる。そしてすべての人々は兄弟となる」という意味の歌詞があります。フランス革命の時代に様々なものが分断された社会の中で、もう一度人々が兄弟となる、という希望と喜びを歌った歌詞で、EUの国歌になってもいます。

ウクライナの楽団は戦争が始まってすぐに楽団員が戦場に行ったり、国がこんな状況になっているのに演奏なんかしている場合ではないと公演を中止していたそうですが、多くの市民から、音楽が人々を力づけるからと励まされ、演奏を再開したのだそうです。そんな演奏家たちの第九は本当に感動的でした。

しかし一歩外に出れば、戦争はまだ続いていますし、もっと身近な所にあらゆる痛みと悲しみがそこら中に転がっています。

しかし私たちはどんな苦境の中にいる時も、再び平和が取り戻されることを願います。それが一時的なものかも知れないと分かっていても、慰めと回復を願います。どうせまたダメだろうとか、また傷付くのはいやだからと望むことを止めようとしても、平和や心の平穏を求める衝動は消えません。

羊飼いたちの置かれた状況が自分たちの力では何ともしようがなく、諦めるしかないものだとしても、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と聞けば、駆けつけて確かめに行きたいのと同じです。

しかしイエス様がもたらした救いは、圧倒的な力で敵を蹴散らし、ユダヤ人にとっての平和だけをもたらすものではありませんでした。羊飼いたちが賛美しながら帰っていったように、シャロームはキリストに出会った人々の心にまず訪れるのです。

「みこころにかなう人々にあるように」と加えられています。多くの人は律法を守り、伝統に忠実な者たちが神のみこころにかなう人々だと思っていましたが、そうではないと見なされ、蔑まれていた羊飼いたちのような者こそ、みこころにかなう人々でした。

力なく、貧しい者、そうであることを自覚している者こそが、神の平和を受け取るのです。そしてキリストが完全な平和をもたらしてくださる日を期待して待ち望みながら、聖書が教えるように、私たちのうちに与えられたシャロームを、平和をまずは身近な人との間に築き、平和をつくる者となり、和解の使者となることで神の平和が私たちの周りに拡がっていくのです。

戦争の終結を祈ること、飢餓や貧困に苦しむ人々の救いを祈ることはもちろん大切です。助けを差し伸べられるならその手を引っ込めるべきではありません。しかし、私の心と魂に神様の平和が訪れることを求めましょう。この平和が私の周りの人々にもたらされることを願いましょう。

祈り

「天の父なる神様。

私たちのための救い主がお生まれになったことを祝うこのクリスマスに、もう一度、あなたの平和が私たちのうちに、またこの世界に訪れることを心から願います。

イエス様がお生まれになった夜、まず羊飼いたちの心に神の平和が与えられ、喜びと賛美が溢れたように、私たちの心と魂に触れ、平安と喜びを与えてください。私たちが関わる人たちとの間に平和をもたらしてください。争いや痛みの多いこの世にあって、私たちが平和をつくる者であることが出来ますように力づけてください。

クリスマスの祝福と恵みが多くの人々に届きますように。

 主イエス・キリストのお名前によって祈ります。」

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