2024年 1月 14日 礼拝 聖書:ヘブル12:12-24
一週間のうち、何度か車を使わずに教会までを徒歩で往復しています。退院後、最初は家の周りを500m、800m、1kmと少しずつ歩く距離を伸ばし、やがて教会まで歩けるようになりました。片道30分くらいですが、往復すると1万歩前後と、まあまあの運動になります。今年は雪がほとんどないので、この時期でもまだ歩けるのがとてもありがたいです。
教会と家を往復するときはいくつかルートがあるのですが、大体同じ道を通ります。風が強すぎるとか途中で寄りたいところがあるといった場合はよさそうな道を選びます。もちろん、どの道を行っても、道の先に何があるか分かりますので、夜あかりが少なくて道が見えにくくても、ほとんど困ることはありません。
しかし人生の道のりはというと、いつも道の先がよく見えているわけではありません。見えているつもりだったのに分からなくなったり、出だしから不安のまま歩き始めることがあります。しかし何かの芝居の台詞のように「一寸先は真っ暗闇」なんでしょうか。
今日の箇所はヘブル書ですが、この手紙を最初に受け取ったクリスチャンたちは度重なる信仰の試練の中で、まさにこの道の先に何が待っているか見失いかけていました。
今日は人生を旅に喩えてクリスチャンの生き方について考えさせてくれるこの箇所から一緒に学んで行きましょう。
1.弱った手足の喩え
今日の箇所でヘブル書の著者ははじめに「弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい」と語りかけます。
気持ちが弱りかけた時などにこの御言葉によって励まされたり、もう一回頑張ろうと思えたりしたことが何度かありますが、そもそもヘブル書の著者は「弱った手と衰えた膝」という喩えで何を表そうとしているのでしょうか。
二つの手がかりがあります。まず12節冒頭の「ですから」という言葉と、「弱った手と衰えた膝」という喩えの出所であるイザヤ書の聖句です。
まず、「ですから」というのは12章始めから描かれているクリスチャンが直面していた試練の中でイエス様から目を離さず、良い実を結ばせる訓練と思って忍耐するようにという教えを受けて、ということです。私たちが今経験していることは、神様の許しの中で、私たちを成長させたり、正しい道へと連れ戻したり、信仰を増し加えたりするために訓練として与えられていることだから、弱った手と膝を真っ直ぐにしなさいという流れになります。
だとすると、試練によって疲れてしまった私たちの心や身体、ふらふらになった歩みをしゃきっとさせなさいということになりそうです。
では、引用元であるイザヤ書を開いてみましょう。イザヤ35:3です。
とても美しく、力強い詩ですが、流れとしては28章から続く、神に背を向けたイスラエルに対して厳しい言葉が向けられた一連の預言の一部です。神の言葉を無視し、霊的に堕落し、不真実に歩み、主ではなくエジプトに拠り頼むようになってしまったイスラエルに「あなたがたは災いだ」と厳しく迫ります。しかし、主の日が来れば、救が与えられます。その救いを待ち望んで弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ、と励ましているのです。
ということは、ヘブル書の著者が言いたいことは、試練のただ中にある人が苦難のために疲れてしまったとか、弱ってしまったというような心や身体の面だけでなく、試練の辛さの中で主の道から外れたり、誘惑に負けてしまうような、霊的によろめいている、そんな様を思い描いているのではないかと思われます。
そんなよろめいている者たちに「しかし、この試練を通して主が与えようとしているのは良きものだから、よろめく手足を伸ばし、人生の道のりを真っ直ぐにしなさい」と語りかけているのです。
真っ直ぐな道というのは確かに歩きやすいです。教会から家に帰る時間、この季節はまだ暗いので、時々段差が見えにくくなり、そのため歩きにくくなります。真っ直ぐで平らならそういう心配はありません。真っ直ぐな道は自分だけでなく、誰にとっても歩きやすいです。足の不自由な人が踏み外す苦ことなく、癒されると13節にありますが、これも喩えです。もちろん実際に足の不自由な人にとっても真っ直ぐな道はありがたいですが、ここで喩えているのは試練の中で同じように霊的によろめいている人たちや、まことの神様を知らないまま歩きづらい人生の道のりをひいひい言いながら歩いている人たちのことを指しています。私たちはそうした人たちが癒されるためにも、真っ直ぐな道を整えるべきだとヘブル書の著者は語っているのです。
2.まっすぐな道
では、真っ直ぐな道ってどういうことなのか。何を喩えているのでしょうか。
14~17節にその説明があります。
14節を見てみましょう。「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい」とあります。
二つのものを追い求める生き方が真っ直ぐな道です。
平和であることが大事なのは感覚的に分かります。特に、あちこちで戦争や紛争が続いていて、日本の周りでもリスクが高まっていると平和であり続けて欲しいと本当に願わされます。
しかしここでは国際政治の話しをしているわけではなく、私たちの身近な人間関係に主な関心があります。私たちが関わる人たちとの間に平和を追い求めなさい、というのです。確かに家族や友人、職場や近所の人たちとの間にギスギスした雰囲気がなく、笑いが絶えず、一緒に過ごすのが楽しいならどれだけハッピーでしょうか。
しかし、そうした平和は時として表面的だったりします。「和を以て貴しとなす」という大昔の言葉が今も生きている日本では、お互いの様子や空気を読んで、まるく収まるよう自分の行動を抑制することが多いです。表だった争いや仲違いがないことは、社会にとっては極めて安全で秩序が保たれ好都合です。しかし、それで皆が幸福になれるかというと、まったくそうではないことを私たちはこの社会に生きる者としてよく知っています。表面的な平和の下に隠れた不平等や差別、異なる意見を押し殺す圧力は想像以上に暴力的です。そうしたことは新しくされたはずのクリスチャン同士、教会の交わりにも起こり得ます。
ですから、人間関係に平和を追い求めるだけでなく、聖さが求められるのです。
聖さという言葉にある種の冷たさを感じる人もいるのですが、それは誤解です。聖なる神様が私たちに愛と公正、あわれみと真実を示してくださったように、真の聖さは真実の愛で自分と他者を愛し、誠実、公正で寛容と忍耐強さをもって隣人と生きるものです。
平和とともに聖さを求める生き方は、一見大変そうです。地震で寸断された道を直し、真っ直ぐな道を造成する工事が大がかりになるのと同じです。しかしそのような道こそ、私たちの魂が傷付いたり弱ったりすることなく、平安と喜びのうちに歩める道です。私たちが寛容で嘘ついたりしないと分かれば、クリスチャンでない人や魂が傷付いた人も心を打ち明けやすくなります。
しかし、こうした平和と聖さを求める生き方、まっすぐな道を整えることを邪魔するもの、難しくするものがあります。15~17節にあるように、神の愛と豊かな恵みをいただき、イエス様の十字架によって赦され守られているのに、その恵みに留まることを止めたり、心の中に生まれた苦い芽を放置してどんどん荒れていくようなことがあるのです。その結果、16節に出てくるエサウの例のように、俗悪さと不品行という結果に至ります。
罪を犯すから神様の恵みから落ちてしまうのではありません。私たちは神様の恵みの中にあっても、やはり人間ですから間違いもあり誘惑に負けることもあるのですが、なお赦しの中にあり、悔い改めが平安を取り戻させます。しかし神様の恵みから遠ざかるなら、罪深く手の施しようがない生活にまで至る可能性があるのです。
3.その先にあるもの
もちろんエサウの例、「悔い改めの機会が残っていませんでした」というのは私たちに対する警告であって、悔い改めの時はいつでも備えられています。しかし、恵みに背を向け続ける人は、その悔い改めの機会を逃し続けてしまうのです。意地になってごめんなさいとゼッタイに言わない人のようです。
そんな俗悪さに溺れないよう、神様の恵みに留まり、まっすぐな道を整える生き方、平和と聖さを追い求める生き方をする、このクリスチャン生活の先には何があるのでしょうか。
中学校や高校の時代に、進路を考えるように言われ、いろいろ考えました。喫茶店のマスターになりたいとか、夢のようなことを考えたりもしましたが、実際にはそんなに先のことを現実的に見通せはしませんでした。ですから、このような人生になるとは考えもつきませんでした。大谷翔平選手は世界的なプレーヤーになるために、具体的な目標を掲げ、何歳までに何を実現したいかをきちんとまとめ、一つひとつ実行しているそうです。そんなふうにこの道の先を思い描ける人はなかなかいないかも知れません。
しかし聖書が私たちに教えているのは5年後、10年後にどんな暮らしをしているかではありません。18~24節に、この道の先にあるものが説明されていますが、ここに描かれているのは私たちが近づいている喜び、豊かな交わりとつながり、私たちのために犠牲となられたイエス様ご自身に近づこうとしていることです。
少し前の箇所で、アブラハムを初めとつする旧約の聖徒たちが信仰によって待ち望んだ、天の故郷と呼ばれているものです。
それはやがていつの日か実現する新しい天と新しい地の希望でもありますが、12:2によれば、イエス様はすでにこの希望の実現を始めておられ、完成まで成し遂げつつあると言うことが分かります。天の御国、天の故郷は未来の希望でもあり、今この時、主がともにいてくださることで実現されている御国の姿でもあります。
18~21節は、出エジプト記でイスラエルの民が主から律法を受け取る場面をたとえとして用いています。古い契約を結んだイスラエルの民がそのしるしである律法を受け取ることになりました。しかしそのために山に近づいたイスラエルの民には、モーセでさえ恐ろしさのあまり震えるような、五感に迫って来る恐怖を感じました。旧約時代の律法が与えられる時でさえ、神の前に近づくことはそうした恐れを引き起こしましたのです。
しかし、今私たちはもっと優れたものを受け取り、味わい、イエス様ご自身に近づこうとしているのです。
22~24節では詩的な表現で、イエス様の十字架の血によって結ばれた新しい契約がもたらした天の御国、天の故郷がもっと壮大で喜びに満ちたものであることを表そうとしています。
神ご自身がおられ、無数の天使達が喜び歌い、旧約時代の待ち望んだ聖徒たちから現在、未来のクリスチャンたちまで生きている者もすでに召された者も共に結び合わされたキリストの教会があり、そこに連なる私たちのために犠牲となられたイエス様ご本人とお会いすることになるのです。しかしそのような御国は今日の私たちの道の中にもあります。私たちが今生きている日々、私たちが整えていくよう励まされている人生の道のりは、いつも、確かにそこへと続いているのです。
適用:御国に続く道
「弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。」という言葉で始まった今日の聖書箇所を改めて読む時、どうしても私はまだ記憶が新しい手術後のリハビリを思い出します。
すっかり筋肉が落ち、関節が強ばってしまったため、食事のためにスプーンを持ち上げる手もぷるぷる震えていました。それでもぼーっとした頭で元の生活を取り戻すためにこの手を動かさなければと考えて、すぐに箸に持ち替えて休みやすみでしたが食事をするようになりました。歯磨きをするにも髭を剃るにもいちいち時間がかかりますが、それでも手を伸ばし、やり続けているとだんだん楽にできるようになります。
最初はベッドの上で起き上がって座るにも支えが必要でしたが、ベッドの脇に立つ練習をし、少しずつ歩き出すと、今度は自力でトイレにいけるようになりました。おかけで大人用のオムツや紙パンツが大量に余りました。歩く距離はベッドと部屋の中の洗面所を往復するだけだったのですが、いくらか経って、初めて理学療法士の方につきそわれて病室を出て廊下を歩いたときは世界が拡がったという感覚に感動しました。病棟を移動するために看護師と一緒に院内を歩いたり、エレベーターに乗ったりする体験がいちいち感動的でした。スタッフの方々に「よかったねえ」と声をかけてもらうたびに本当に嬉しかったです。
そうしたことを思い出す時に、この「弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい」という励ましが、苦難で疲れたクリスチャンを無理やり立ちあがらせるような過酷な命令ではなく、健康でいきいきとしたクリスチャン生活へと導く励ましの言葉として読めます。
弱った手足を伸ばして、まっすぐな道を歩むことはいつかの未来に果たされる天の御国の完成へと続いているだけでなく、廊下に出て歩き出した時のように、今まさに新しい世界を歩き出しているのだという感動を味わうことでもあるのです。
私たちの日々の生活、この人生の道のりは待ち望んでいる天の御国へと通じている道であり、同時に今日という日のこの道もまた天の御国のうちを歩むものなのです。そしてヘブル書が言わんとすることは、たとえ今、試練の中で忍耐を強いられ、手足が弱っているような時でも、そのことは真実なのだということです。病気や老化で体や心、頭が弱り続けていくような状況でも、このみことばは真実であり続けます。
私たちの毎日の歩み、人生の道のりの一歩一歩は間違いなく、天の御国、天の故郷に続いており、同時にこの歩みは天の御国の中にあるのです。ですから、弱った手と衰えた足をのばし、御国に生きるもの、御国に近づく者、イエス様ご自身に近づく者として、私たちの道をまっすぐにしましょう。平和と聖さを追い求めましょう。家族や主にある兄弟姉妹、隣人との間に平和を願い、愛と真実に生きる者であろうと努力しましょう。難しいときがあるのを私も知っています。震える手で箸を持ち上げ、うまく口に運べないような、もどかしさを覚えることもあるでしょう。歩き出す一歩に痛みやきつさを感じることもあるでしょう。いつになったら楽になるのかと、気が遠くなるようなこともあります。それでも、この毎日が、私たちの毎日が、天の故郷に、イエス様のもとへとつながっています。この確信と期待と喜び、感動をもって歩みましょう。
祈り
「天の父なる神様。
私たちの日々の歩みがやがて迎え入れられる天の故郷、やがて顔と顔を合わせてお会いするイエス様へと近づく道であること、そしてこの歩みがすでにあなたの御国の中にあることを覚えて感謝します。
日々の忙しさや不安にさせるような出来事や体の衰えがあったり、思い煩いや試練に心や身体が弱ることもあります。また信仰がよわり、ふらふらした歩みになることもあります。そんな日々でも、この道が主のもとへと続いているから、弱った手足を伸ばし、道をまっすぐにしなさいと励ましてくださりありがとうございます。どうぞ、主のもとに近づく私たちをのびのびと、いきいきと、確信と喜びをもって歩ませてください。
主イエス・キリストのお名前によって祈ります。」