2024年 3月 17日 礼拝 聖書:創世記22:1-17
先日、家内が文庫本を読んでいました。何を読んでいたかというと、わりと最近読み終わった推理小説を読み直しているということでした。なぜ読み返しているかというと、結末が分かった上で読み直すと、この場面にはこういう意味があったかとか、こうつながっていたのか、といったことが分かるので面白いらしいのです。最近、漫画や映画、ドラマなどで盛んに聞かれるようになった「伏線回収」を発見する楽しみ方かもしれません。
伏線回収ということであれば、聖書全体が壮大な伏線回収が仕込まれた書物と言えます。しかもこれが架空の物語ではなく、人類の歴史をまるごと含む大きな流れの中で、散りばめられた様々な出来事が見事につながって一つの大きな絵を描いているのです。
今日開いているアブラハムの試練と呼ばれる箇所は、およそ二千年後のイエス様の十字架で回収される伏線の最たるものと言えます。受難節第五週目となった今日は、アブラハムの試練にはいったいどういう意味があったのでしょうか。イエス様の十字架や独り子を与える神様の愛などが読み取れるのはもちろんなのですが、伏線回収の楽しみはちょっと脇に置いて、アブラハム自身にとって、この試練がどういう意味を持ち、この試練を通して何を得たのか、改めて学んでみましょう。その上で、私たちに何が教えられているか考えてみたいと思います。
1.「これらの出来事」
1節の出だしに注目しましょう。「これらの出来事の後」と書かれています。「これら」とはどれのことでしょうか。
実は同じ言い方が15:1に出て来ます。「わたしが示す地へ行け」との召しを受けて旅に出たアブラハムが、祝福の約束を受け継ぐのはアブラハム自身の子であることをはっきりと示され、自分がすでに年老いて子どもをもうける能力がなくなっているにもかかわらず、それを信じたことで義と認められたアブラハムに神様が契約を交わすところです。そこから、ここに至るまで、イサクの誕生を含め、様々な出来事がありましたが、それらをひっくるめて「これらの出来事の後」と書いていると思われます。
この間に起こった出来事で最も重要なことは、息子イサクの誕生とソドムとゴモラの町が滅ぼされるという出来事でしょう。またアブラハムが二度にわたって妻を妹だと絶妙な嘘をつくという話しが記されてもいます。
すでに高齢になっていて、若い頃には不妊症で子どもができなかった二人、特にサラは、自分たちに子どもが生まれることを現実のこととして信じることができなかったのですが、様々な経験を通して神様が本当にそうなさろうとしていることを示し、18章では「来年のいまごろサラは赤ん坊を抱いている」と言われるのです。
しかし、その後に有名なソドムとゴモラの話しが続きます。18:17~19にはソドムを滅ぼそうとしていた主が、アブラハムに黙っておくべきではないと判断した理由が記されています。
「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。わたしがアブラハムを選び出したのは、彼がその子どもたちと後の家族に命じて、彼らが主の道を守り、正義と公正を行うようになるためであり、それによって、主がアブラハムについて約束したことを彼の上に成就するためだ。」
アブラハムとその子孫の使命ゆえにソドムの町の罪深さゆえに滅ぼそうとしていることを知らせる必要があると神様はお考えになりました。アブラハムとその子孫を通して祝福しようとしているこの世界には、ソドムのような破滅に向かっている罪深い町、人々がいるということをはっきり示すためです。この祝福の契約は、アブラハムと子孫が繁栄するだけのものではなく、このような現実世界の救いのため、彼らにも神の祝福が及ぶための使命と責任の大きさを学ぶ機会になったはずです。
結果的にはソドムの町は破滅を免れることはできませんでしたが、アブラハムはソドムの町のために執り成しの祈りを捧げ、何とか滅びから免れさせようとします。破滅に向かう人々のためにとりなすアブラハムの姿は、罪のために最終的な裁きに向かっている全世界に、むしろ祝福をもたらす使命を与えられたことの意味を理解しはじめていたことを表しています。
そしてエジプトとペリシテの地で、自分の身を守るために妻を妹だと嘘をついてしまい、妻をエジプトやペリシテの王宮に取られそうになり、結果、それらの国々に災いを招くということがありました。それは、世界に祝福をもたらすべき者が間違ったことをしたときに、どれほどの影響を与えてしまうか思い知らせるものでした。
2.アブラハムの試練
そのような経験を経て、一年後に約束の子どもであるイサクが誕生しました。
では、これまでの出来事の後でアブラハムが受けなければならなかった試練はどのようなものだったでしょうか。
2節で神様はアブラハムこう言います「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサク」。
わざわざ、アブラハム自身の子であること、愛している大事な息子であること、そしてたった一人の子どもであること。いかに、アブラハムがひとり子のイサクを大切にし、愛しているかがよく分かります。しかし、その子をモリヤの地にある山の上で「全焼のささげ物として献げなさい」と言われるのです。
イサクは約束の子でした。アブラハムの子孫が増えて大いなる国民となり、土地を受け継ぎ、世界を祝福する者となるという約束の初穂というべき存在です。それから25年経ってようやく与えられた息子であり、祝福の契約を受け継ぐ跡取りです。そのイサクを全焼のささげ物の羊のように屠って焼き尽くせと神は言われました。
モリヤの山に至るまでのアブラハムの行動は実に淡々と記されています。翌朝早くに旅支度を済ませ二人の従者を伴って4人で出かけます。淡々とした描き方ではありますが、時間の経過とともに描写が細かくなっていくことで、クライマックスに向かって緊張感が増していく感じがよく表れています。アブラハムだって何も感じずに機械的に従ったわけではありません。
3日目に従者二人を残し、イサクと二人で歩き始めます。イサクは全焼のささげ物をするための薪を背負いますが、その姿はあたかもイエス様が自分の磔にされる十字架を背負って悲しみの道を歩かれた様子を思い起こさせます。
しかし7節でイサクはついに口を開きます。これまで誰も触れて来なかったですが、おそらく3人とも心の中で抱いてきた疑問です。「薪はあるけれど、ささげ物にする羊はどうするのか」。
アブラハムはこう答えます。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ」。どういう意味でしょう。質問されたら何て答えようかと考えていたのでしょうか。それとも、急に確信を突かれたので誤魔化したのでしょうか。
新約聖書のヘブル11:17~19にはアブラハムの行動について解説しています。「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました」
「神が備えてくださる」という息子への言葉に誤魔化しはなかったのです。息子自身が献げるべき羊であるとしても、先の約束が覆されるはずはないから、神は死んだ息子を取り戻させることだってできると信じたということです。つまり、具体的に神様がどういうやり方で助けてくださるのかは分からないけれど、神様を信頼したということです。それはこのとき急にできたことではなく、これまでの25年の歩みの中で失敗を繰り返しながらも神の力と自分に与えられた祝福の約束だけでなく、それを引き受ける責任の大きさなんかも学びながら身につけた信仰です。
アブラハムとイサクは一緒に祭壇を築き礼拝の準備をしました。築かれた祭壇に薪が並べられ、イサクは縛られ祭壇の上に載せられましたが、イサクももう何も聞きませんでした。
3.祝福する者に
アブラハムが刃物を取り、思い切り振り上げたところで唐突に試練は終わりました。
アブラハムが刃物を振り下ろす直前で「アブラハム、アブラハム」と今度は二度名前を呼んで、「待った」をかけました。
またしても「はい、ここにおります」と1節の時とまったく同じ応答したアブラハムに、神様はもう十分だと語りかけます。
「今、わたしは、あなたが神を恐れているいことがよく分かった。自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」
この神様のことばを読むとき、子を持つ親としてどう受け止めていいか戸惑う面があります。
神を恐れるとは、怖がるということではなく、恐れ敬い、絶対的に信頼するということなのですが、愛する一人息子をささげよと言って試すというのはあまりに酷ではないかと思います。けれども、もちろん神様はアブラハムの息子を実際にいけにけとして望んだわけではありません。ですから、8節でアブラハムが「神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ」と言った通りに、13節にあるように一匹の野生の雄羊が備えられていたのです。
しかし15~18節の説明を見る時に、アブラハムがその子孫を通して地の全ての国々を祝福する者となるためにどうしても欠かせない試練であったということが分かります。内容としては、12章から何度か繰り返されて来た話しです。だんだん詳しくなるという特徴はありますが、基本的には同じことを神様は約束してこられました。
アブラハムに約束された祝福の約束は、彼とその子孫を通して全世界を祝福するという務めを含むものです。そのためにはソドムのように滅びに向かう人々のためにとりなすような憐れみの心と、ひとり子をさえ惜しまずにささげるような神への全面的な信頼がなければなりません。アブラハムがそのような信仰の姿を見せてくれたので、私たちは、神様がその愛するひとり子イエス様を十字架の死に渡されたことの意味をリアルに感じることができます。アブラハムの場合は「その子に手を下してはならない」と止めてくださいましたが、イエス様が私たちのために十字架で死なれるとき「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた時も沈黙を守り、世界は暗闇に包まれました。それは恐らくソドムより堕落し、酷い状態になっているこの世界とその中に生きる私たちを救うためにどうしても通らなければならない道でした。アブラハムに課した試練を神様ご自身がキリストの十字架を通してやり遂げてくださったのです。そこに私たちは神様の愛とあわれみ、アブラハムの子孫であるイエス様を通して全世界に祝福をもたらそうとする強い決意を見るのです。
アブラハムはこの試練を通して、神の祝福を受け取った自分が、地の全ての民に祝福をもたらしていく者になるために、神から与えられた祝福のしるしを手放す信仰を学びました。たとえ失っても神様が取り戻させてくださる。そして神様を良いお方として信頼する者には、ちゃんと良きものを備えてくださると。その思いを込めて、アブラハムはこの山を「アドナイ・イルエ」と呼びました。今この場所をそう呼ぶことはほとんどありませんが、「主の山には備えがある」という言葉はいつの時代も信じる者の希望です。
適用:手放さねばならなくとも
この祝福の契約はイエス様によって更新され、イエス様を信じる全てのクリスチャンと教会が「アブラハムの子孫」として受け継いでいます。私たちは神様の祝福をいただき、その祝福を周りの人たち、世界の果てまで届ける者とされました。
私たちの人生にはアブラハムが受けた試練ほどのことはないかもしれません。何らかの試練があるとしても、それは私たちが神様の祝福を受け継ぐための条件ではないし、たとえ失敗したからといって、キリストによる新しい契約から外されるなんてことはありません。
それでも、アブラハムが試練の中で信仰を示したことはなおも私たちのモデルです。そして、恐らく私たちの人生の中で、神様からいただいた祝福のしるしを手放さなければならないような時があります。約束を待ち臨む信仰が試される時があるなら、祝福のしるしを手放す信仰が試されることもあるのです。
私たちは神様から様々な祝福をいただいています。イサクが神の祝福の約束の中にあることの力強いしるしであったように、私たちが神に愛され、赦され、神の民、神の家族とされ、新しい人として歩むことができるようにされているしるしは様々な形で与えられています。家族、愛着のわくような家、通いなれた教会、やりがいのある仕事、心許せる友人、食べるに困らない経済、ちょっとのゆとり、他の人に役に立てるような技術、特技、健康。
そうした神様の祝福のしるしが突然失われたり、手放さざるを得ないことがあります。それは大変な痛みであり喪失感です。自分の存在価値がなくなってしまったような気にもなります。私も、やりがいを感じていた仕事を突然取り上げられて、その喪失感、怒り、悲しみをどこにぶつけていいか分からなくなったことがあります。アブラハムのように「はい、わかりました」とはなかなか言えませんでした。
けれども、時間がかかってでも「ああこれは神様を信頼して受け入れるしかないなあ」と心を定めたあとで、「主の山に備えあり」という言葉が真実であることが分かるように、ちゃんと助けがありました。
これから先も祝福を待ち望む信仰だけでなく、すでに与えられた祝福のしるしを手放す信仰が試されることがあるでしょう。宝もののように大切にしていた何かを失うことがあるかもしれません。病気や老いのために今までできていたことを諦めなければなならない。もう運転しちゃいけないとか、もうそろそろ仕事はやめるべきとか、生きがいを失うんじゃないかと恐れるようなことがあるかもしれません。
そのようなときに、よくよく祈り、考えて「ああ、これは神様が手放しなさい」と言っておられるんだなと分かったなら、神様を信頼し、思い切って手放してみましょう。主は「アドナイ・イルエ」なる方です。主に信頼する者には良いものを備えてくださいます。どのような形でかは分かりませんが、私たちはもっと周りを祝福する者となることができるでしょう。
祈り
「天の父なる神様。
アブラハムの試練を通して、私たちには待ち望む信仰だけでなく、手放す信仰を学ぶべきことを教えられました。
アブラハムが愛する独り子イサクをささげたように、神様はご自身の愛する独り子イエス様を私たちの身代わりに十字架の死に渡されました。それほどに私たちを愛し、約束された祝福を果たそうとしてくださったことを感謝します。そしてこの祝福を他の誰かに与える者として私たちを召してくださいましたから、もし、何かを手放さなければならないのでしたら、あなたの愛と真実を信頼して手放すことができますように。主の山に備えがあることを経験させてください。それほどに恵みは豊かであることを喜んで証しする者であらせてください。
イエス様のお名前によってお祈りします。」