2020-01-12 喜びと祝福に招かれたら

2020年 1月 12日 礼拝 聖書:マタイ22:1-14

様々な機会に招待状をいただきます。また逆に招待状をお送りすることもあります。何かの記念会とか、お祝い事。招待状を送るまでもなく、家で催すお茶会とか、教会のイベントにお誘いすることもあります。

そのような時に、「この人はきっと来てくれるのではないか。」「これまでの関係を考えたら、当然来てくれるだろう」と思うような人が何人か顔を思い浮かべます。

ところが、そのような人たちから「欠席」の返事が届いたりすると、当然のことですが、がっかりします。

私が結婚する時、友人たちに来てもらいたいと招待状を出したのですが、一人のとても親しいと思っていた友人から欠席の返事が来ました。当然のように来てくれると思っていたので、すごく残念だったことを覚えています。

さて、イエス様は今日の箇所で一つの喩え話をなさっています。まさに結婚式の招待状を送ったのに断った人たちがいたというお話です。イエス様は何を私たちに語っておられるのでしょうか。

このこのたとえ話は、少し複雑で、王様の行動が極端すぎて話の意図が伝わりにくい面がありますので、じっくり読んで、何が語られているか学んで行きましょう。

1.婚礼の招待状

このたとえはもともと、誰に向けて語られたものだったでしょうか。22:1に「イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された」とあります。ということは、21:15からここまで、イエス様のなさること、語ることに文句をいって来た、祭司長や長老たち、律法学者たちといった、民の指導者たちに向けて語られた来た続きだということがわかります。

今まで、イエス様はぶどう園の二人の息子の話や、わるい農夫たちの話を使って、彼らの不忠実さ、不誠実さ、不信仰、傲慢さをするどく突いて来ました。そして、ここでもう一度たとえをもって、彼らの信仰の問題を描き出そうとしているのです。

このたとえの登場人物は王様とその息子、招待された人々、しもべたち、そして後から登場する町の人々です。

王は息子の結婚披露宴のためにあらかじめ何人かの客を招待していました。「なんとか見る会」とは違って、ちゃんと招待リストはあります。結婚披露宴があることはあらかじめ知られていて、招かれていたゲストたちは、その日をカレンダーに書き込み、スーツやドレスのサイズをチェックしておくこともできたし、新調することもできたはずです。他に用事が被りそうになったとしても、王子様の結婚式に招かれた名誉を考えたら、「その日はぜったいだめです」と断ることもできたはずです。

披露宴の用意が整い、王はしもべたちを遣わしてゲストを迎えようとしました。この辺のやり方は文化的な違いがあり、当時は結婚式の準備が整ってからゲストを呼ぶということだったようです。

こうした状況が何をたとえているかといえば、神様があらかじめ約束し、招いていた救い主の到来がいよいよ実現したときに、「神の国が来た」と呼びかけ、ご自分のもとに招いたことを表しています。

神様は、救い主の到来、そして御子イエス様によって新しく建て上げる御国を、結婚披露宴として、喜ばしく、祝福に満ち、愛のあるものとして用意してくださいました。

祭司長や長老たち、律法学者たちはアブラハムの子孫を代表する人たちです。彼らの目の前で、ようやく準備が整い、実際にイエス様が人の子としてお生まれになりました。この方が約束された方であることは、イエス様誕生の場面の様々な登場人物の経験を通して示されました。両親となったマリヤとヨセフにも、お祝いに駆けつけた羊飼いたちや東方の博士たち、親戚で神殿で仕えていたゼカリヤとその妻にも、敬虔に神の約束を待ち望んでいたシメオン、アンナといった人たちに御使いや聖霊によって告げられていました。

さらに、バプテスマのヨハネが神のしもべとして遣わされ、この方こそ待ち望んでいた神の小羊だと証言しました。

イエス様ご自身も約束された救い主であることを、数々の奇跡のわざや、教えの確かさ、権威を通して示して来られました。

水をぶどう酒に変え、目の見えない人々を見えるようにし、耳の聞こえない人たちを聞こえるようにし、手足の不自由な人々を癒し、病気のために障害が残っていた人たちを癒し、悪霊に捕らわれた人々を解放しました。嵐を沈め、パンを与え、死んだ人をも蘇らせました。

そのどれもが、披露宴の準備が整ったことを示していました。

2.欠席の返事

たとえ話の続きを見ましょう。

しもべを遣わし、ゲストが到着するのをいまかいまかと待っていた王のもとに残念な知らせが届きました。

すごいご馳走の準備ができたからどうぞいらしてくださいと、王の言葉を伝えたしもべたちに、招かれていた人たちの態度はじつにすげないものでした。ある人は「今日中にやりたい作業があるから」と自分の畑に出かけて行き、ある人は「まとめたい商談があるから」と商売に出かけて行きました。ひどいことに、王のしもべたちを捕まえて侮辱した上、殺してしまう者までいました。

王の息子、つまり王子の結婚披露宴に招待され、行きます、楽しみにお待ちしておりますと返事をしておきながら、いざその日が来たらすげない返事。自分の仕事を優先し、王から遣わされたしもべたち、王の代理として王の言葉を伝えに来たしもべたちを殺してしまうようなことは、あり得ないほどにひどいことです。

たとえ王様のことをあまり好きではないとしても、そこまで無礼な態度をとるとか、殺してしまうというのは異常なことです。

しかし神様から救いへと招かれていた人たちは実際にそうしたのです。羊飼いや博士たちの証言を黙殺し、バプテスマのヨハネの悔い改めの招きに応じず、人々が約束の救い主だと信じていることを無視し、自分たちが守って来た立場を守るためにイエス様を拒絶し、ついには十字架に引き渡し、殺してしまうのです。

たとえ話の中では、王様はその町に軍隊を送って人殺しどもを滅ぼし、町を焼き払ってしまいましたが、それほどに王様を怒らせることだし、王への反逆として処刑されるのが当然とも言える所業だったということです。

王はしもべたちに別な命令を出します。招いていた人たちはふさわしくなかったから、町に出て行って、出会った人たちを手当たり次第に披露宴に招くように、ということです。その結果、10節にあるように、良い人も悪い人も関係なく、披露宴に参加するようになり、会場はいっぱいになりました。

それは普通はあり得ないです。「なんとかを見る会」で、誰が招待されたかわからない、なんて答弁をしている政府に対して説明を求める声が大きく、反社会的な組織の人物が総理の名前で招待されていたなら大問題だ、と騒がれるくらいです。良い人も悪い人も招かれるなんてあり得ません。王様が考える「ふさわしさ」って一体何だったんでしょうか。

神様が考えておられる「天の御国にふさわしい人」というのは、単に最初から約束されていた人だから、という特権や血筋ではなく、招きに応える人、という一点につきます。

アブラハムの子孫であるユダヤ人は、自分たちに神の国が約束されていると信じていました。その約束の外にいる人々を異邦人と呼び、自分たちは選ばれた民だとプライドを持っていました。そして、その招待リストから弾かれないために律法を厳密に守ろうとしました。ちょっとでも違反があれば入り口で「ふさわしくありません」と言われるのが怖かったのです。ところが、いざイエス様が来た時に、彼らは招きには応えず、代わりに他の人が招かれたのです。彼らが罪人や蔑んでいた人たちも、最初から招かれていなかった異邦人も、誰もが救いに招かれ、応じた人は救いを得ました。

3.婚礼の衣装

しかし、このたとえには、最後の段落があります。披露宴の招きに応じた人たちの中でも、実際には追い出されてしまった人たちがいたということです。

11節「王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。」

結婚披露宴ですから、皆さん場にふさわしい服装をしていたに違いありません。そこに、普段着でいたらかなり目立ちます。友達の結婚式ならまだしも、仮にも王子の結婚披露宴です。今だって、もし皇室や王族の披露宴に招かれたら、無理してでもタキシードとかモーニングを新調するんじゃないでしょうか。最悪レンタルという手もありますが、やはり、その場にふさわしい礼服で行くことを考えるはずです。

王様は彼い尋ねました。責めるためではなく、あくまで優しく訳を聞きました。もしかしたら貧しくて用意できなかったのかもしれません。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』

ところが、彼は黙り込んでいます。当時、裕福な家の披露宴では、来客者に礼服を貸し出すようなことがあったという説もあります。もしかしたら、彼が貧しいために用意できなかったのなら、礼服を準備してあげようと思ったのかもしれません。しかし、彼は答えません。それで王は外に放り出すよう召使いたちに命じます。

そしてたとえは「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」というイエス様のまとめの言葉で終わります。

一体、これは何を表しているのでしょうか。

披露宴に招かれた人が礼服を着るというのは、単に決まりを守るとか、周りに合わせるというようなことではなく、主催者や結婚した本人たちへの敬意の表れです。もしかしたら、普通の結婚式では、ほかの異性の参加者へのさりげないアピールが含まれているかもしれませんが、王の息子の披露宴となったら、最大限の敬意を表すために礼服を着るものでしょう。そんな場面で、普段着で出席したら、礼を欠いている、マナー違反だということではなく、王や王子を軽く扱っていることになるわけです。だからこそ、このたとえの中でも、礼服を来ていない人が放り出されたのです。

ということは、私たちが神様に招かれ、その招きを喜んで受け入れたなら、それにふさわしい応答が表れて当然だということです。

王の前に出る時はそれにふさわしい姿があるように、クリスチャンになったなら、王である神様の前に生きる者、イエス様によって神様の子供としていただいたことにふさわしい生き方があります。それを身につけるよう心を砕き、努力します。神様が本当に敬うべき方であり、イエス様が私の罪のために死んでいのちを捧げてくださったことを真面目に信じるなら、そんなの関係ないかのような行動はできません。それを目指す生き方をするようになります。

これまでのイエス様の教え、たとえば種まきの喩えの中でも、岩地に落ちた種やいばらの中に落ちた種は芽を出したけれど、枯れたり塞がれてしまったものがありました。神様の招きに応答はするけれど、うわべだけだったり、本気でなかったら、それは礼服を着ない出席者のようにすぐに明らかになってしまうのです。

適用 信仰によって

イエス様がくださる救いには、良い人でも悪い人で招かれたように、誰もが招かれています。まえから教会に来ているとか、最近来始めたというような区別はありませんし、家がキリスト教だったかどうかも関係ありません。人間として立派かダメな人かも関係ありません。

しかし、救いを受け取り、神様の愛と喜び、祝福のうたげに実際にあずかれるのは、本気で神の招きを受け入れた人に限られるということが、このたとえの中心的なメッセージです。その本気具合が劇的に生活を変え、まるで別人のようになる人もいれば、他人と比べてなかなか形にならない、というような、そういう個人差はあるかもしれません。しかし、イエス様のところに行くのだからちゃんと服を着替えよう、というふうに自分が誰の前で生きようとしているかをちゃんと自覚して信じる人には、結婚披露宴の喜びと祝福のような、愛と慈しみに満ちた神様からの祝福を受け取ることができます。

「信仰によってのみ」救われるというのは、私たちの罪が赦されるために、イエス様がやってくださったことに私たちが何か付け足す必要がないということです。しかし信仰を心の中、内面の問題であるというふうにしてしまうのは大きな間違いです。

愛する人、大切な人には、愛や大切さに見合った行動が当然伴うように、神様を本当に信じ、イエス様を受け入れる信仰には、それに見合った態度なり行動の変化が伴うべきです。いままで着ていた服を脱ぎ捨て、新しい服を着るように。

それは外面だけをよくするということではなく、神の子供とされたという新しい自覚をもって、新しい生き方を身につけて行くということです。

そうやって私たちは、新しい生き方を身につけて来たし、そうしつつあるのではないでしょうか。

日曜日に共に集まって神様を礼拝する習慣を身につけ、祈ることを学び、賛美することを覚え、少しずつでも聖書を読み、収入の中から献金を、五円玉とかではなく神様への感謝をもってふさわしい金額を捧げるようになりました。

誰かのために仕えること、与えられた能力や技術、賜物を用いて奉仕することを覚え、兄弟姉妹と一緒に賛美し、祈ることに力を得る道を見出します。

夫や妻、子供、親兄弟との関わり方を見つめ直し、他人を隣人と見なして関わるようになり、真面目に働き、得たものを自分のためだけでなく困っている人のためにも使おうとします。

悪い事が起こったり、人の悪意に直面して動揺し、恐れ、時には怒りがこみ上げてくることもあります。でも悪い思いに支配されないよう祈り、平安を取り戻そうと必死になり、愛を持って、忍耐をもって接しようとします。

こうしたことは、初めは着慣れない真新しい礼服のようにぴったりこないかもしれませんが、段々と着こなすように、クリスチャンとしての新しい生き方が身についていくものです。

うまくできないことが多いからといって、本当に神様に選ばれ、天国にはいる資格があるだろうか、こんな生活の仕方で大丈夫だろうかと怖がる必要はありません。

しかし、見た目はクリスチャンっぽく生活していたとしても、本気で神様を恐れ、敬う心、イエス様が大事にしていることを大事にしようという気持ちがないなら、自分自身の信仰を見つめ直し、本気でイエス様に応答しましょう。

神様は、形だけ従う者ではなく、喜びと祝福と愛情に満ちた救い、新しい御国を受け取る人を求めています。そのために私たちを招いておられるのです。

祈り

「天の父なる神様。

私たちを救いへと招き、神の子供、天の御国の子にしようと招いてくださりありがとうございます。

神の招きを知りながら、自分の都合やプライドや欲のために断ってしまった人たちのようではなく、喜んで招きに応じた人たちのようであらせてください。

神様の前に生きるよう招かれていることをはっきり自覚して、クリスチャンとして、神様の子供として、ふさわしい歩み方、態度、習慣を身につけられるように、私たちを変え続けてください。

そして、神様の前に心を探られている人がいるなら、イエス様を信じ受け入れる明確な決心ができるように励まし、助けてください。

主イエス様のお名前によって祈ります。」