昔の出来事

みなさん、おはようございます。
石巻におられる知り合いの牧師が、キリシタンの足跡を訪ねて北上に来ていたとのことでした。お会いすることはかないませんでしたが、その後、訪問の様子を聞かせてもらいました。今回は特に、後藤寿庵の最期の地と言われる岩崎のあたりを訪問したようです。これまでも東北の各地を訪ね歩いて、キリシタン時代の学びを続けておられ、いろいろと貴重な資料も送ってくださいました。
中学や高校の頃は歴史が苦手でした(とにかく年号が覚えられなかった)。それが変わったのは神学生の時代にキリスト教の歴史を勉強するようになってからでした。単に歴史上の出来事を知るということではなく、それぞれの時代に生きた人たちが直面した困難や悩み、神様が彼らのためになさった御わざを知ることです。それはとりもなおさず、今の私たちの生きている時代、世界で神様がなさろうとすることを知り、また希望を持てることをも教えてくれるわけです。

“私は 主のみわざを思い起こします。
昔からの あなたの奇しいみわざを思い起こします。” 詩篇 77:11

佐々木真輝

勝利を祝う

みなさん、おはようございます。
昨日の甲子園決勝戦で仙台育英が勝利し、高校野球が始まって以来(104年だそうです)ようやく東北地方のチームが優勝しました。堂々たる試合運びで、こういうチーム作りや戦い方がこれからの高校野球の一つのモデルになるんじゃないかとさえ思いました。監督や選手たちの勝敗を超えたがんばりやコメントにも感動しましたが、東北の人間として素直に勝利を喜びました(テレビの前で涙ぐんでしまいました)。
長い間「やっぱり東北のチームに優勝は無理かも」と言われながらも長年待ち望んだ勝利がこんなにも嬉しく、感動を巻き起こすものだとしたら、私たちが天の御国に行ったときに味わう勝利の喜びはいったいどれほどのものなのでしょうか。いろんなことが報われ、がんばりをたたえ合い、勝利してくださったイエス様をみんなで祝う日を待ち望んでいます。

“しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。” ローマ 8:37

佐々木真輝

食欲不振

みなさん、おはようございます。
私のことではなく、わがやのワンコのことです。昨日の朝、いつものように朝ご飯をあげたのですが、なんだか食べるスピードがふだんの10倍くらいゆっくりです。ちょっと口に入れてはしばらく噛んでから飲み込み(いつもならよく噛みもしないでガツガツいくのです)、ちょっとためらってから次の一口。そうやってずいぶん時間をかけて三分の二くらい食べたところで食べるのを止めてしまったのです。こんなことまずないので本当に心配しました。とりあえず様子を見ることにしました。日中もとくに異常なところはなく、夕方のご飯の時には普段通り食べていたそうなので、一時的なものだったようです。
誰でも原因が良く分からないけれど元気のないとき、調子の悪いときがあります。すぐに病院にいったほうが良い場合はもちろんありますが、様子を見ていい時もあります。ただ、様子を見るのは放置することではないので、とにかく小さな変化を見逃さないことも大事です。失敗も含めたさまざまな経験を通して知恵も身につきますし、他人のアドヴァイスが役立つこともあります。

“知恵のある者は聞いて洞察を深め、
分別のある者は導きを得る。” 箴言 1:5

佐々木真輝

願いと練習

みなさん、おはようございます。
高校野球の全国大会もいよいよベストフォーが出そろいました。準決勝でははじめて東北勢同士の戦いになるということで、明日の試合が楽しみな反面、別々に勝ち上がって決勝でぶつかって欲しかったとも思います。まあ、それは欲張りすぎな展開かも知れません。「白河の関」を越えるのはいつか、ということはずうっと前から言われていました。少なくとも私が高校生の頃と比べると確実に現実味を帯びて来ています。なにしろ40年前は「一回戦突破」が目標だったりしましたからね。それが今ではプロ野球選手はもちろんのこと、二人もメジャーリーガーを輩出する「注目県」になっています。勝負優先の部活動のあり方には賛否両論がありますが、少なくとも勝ちたい、成長したいという願いと練習なしには何の結果も生まれませんね。
信仰の歩みも(誤解を恐れずに言えば)成長が全てではありません。立ち止まることや、休息すべき時もあるからです。それでも、全体としての歩みはキリストに似た者とされたい、神様のご愛に応えたい、隣人を愛せるようになりたいという願いや訓練がなければ、ずるずると後退していくことになるかもしれませんね。

“イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」” ヨハネ5:6

佐々木真輝

より良くあるために

みなさん、おはようございます。
休暇を終えて昨日から日常にもどりました。休みの間はほとんど雨でしたし、奥さんの4回目ワクチン副反応もあって家でのんびりする時間が多かったです。それはそれで特に不満はなく、むしろ日頃の疲れが出たのか昼寝が楽しみでした。まとまった休みの時にしようと思っていたことや読もうとしていた本にもいくつか取り組むことができました。全部思い通りではないけれど、十分休養し、リフレッシュもできて感謝です。
皆さんはいくらか休みをとれたでしょうか。普段から忙しく、休日も思うように取れていない若い方々が多いことがとても気がかりでいます。身体的にも、精神的にも、そして霊的にも健やかでいられることが、より良くあり続けるために必要です。守られますよう、お祈りしています。

“するとイエスは彼らに言われた。「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。” マルコ 6:31

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

足を運べなかった理由

みなさん、おはようございます。
広島の平和公園にはまだ行ったことがないのですが、長崎の平和公園には数年前に長崎出張の折に立ち寄らせていただきました。今日は77年前、広島からわずか三日後、長崎に原爆が投下された日です。長崎には有名な平和祈念像や泉がある公園だけでなく、爆心地公園など、足を運ぶべき場所がたくさんありました。でも、実は「原爆資料館」には行きませんでした。あまりにも重くて足を運ぶことが出来なかったのです。広島に行く機会があったらちゃんと向き合いたいと思っています。
悲惨な戦争の記憶だけでなく、自分の中の闇や目を背けたくなるような世の中の闇に向き合うことは勇気のいることですし、そこで何かを知ることは、知識を得るのに留まらず責任を負うことを意味します(だからこそ怖い)。けれど、それなしには救いも前進もありません。

“主は彼らを闇と死の陰から導き出し
彼らのかせを打ち砕かれた。” 詩篇 107:14

明日から夏休みをいただきます。皆様もどうぞお元気でお過ごしください。

佐々木真輝

愛と平和

みなさん、おはようございます。
昨日は77年前、広島に原爆が落とされ、多くの市民が亡くなったことを忘れないための「原爆の日」でした。記念式典での広島県知事のスピーチを観ましたが、思わず拍手が出るほど、気迫のこもった、そしてかなり踏み込んだメッセージでした。力に対して力を持つという現実主義がどれほど危ういか。誰も本当には核のボタンを押したりはしないだろうという前提を「ファンタジーだ」と言い切ったのは、政治家の発言としては勇気のあることだったと思います。
月報にも書きましたが、真の平和は力によってもたらされるものではありません。悪しき者の悪しき行いを留めるために力が必要な時はあります。しかしその力が平和をもたらすのではなく、愛が平和を作るのです。そして平和をもたらすような愛は、神の愛に根ざすのでなければ生まれないのです。

“キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。” コロサイ 3:15

今日が8月最初の礼拝です。主の晩餐とコイノニアの時間がもたれます。

2022-08-07 いのちを得るために

2022年 8月 7日 礼拝 聖書:ヨハネ20:24-31

 長い間クリスチャンとして教会に集い、聖書を学んでいても、分かったようでよく分かっていないことがいくつかあります。もちろん、聖書の真理ですから、私たちに理解できることには限りがありますし、人生を重ねていかないと解らないこともあります。

そんな分かったようで、分かっていないかもしれないことの一つが「いのち」ということかもしれません。続きを読む →

ペイ・フォワード

みなさん、おはようございます。
先週、**さんのご主人が急逝され、なかなか朝メールも書けなくなっていました。久しぶりの朝メールです。
この間、家内がばっさり髪を切りました。長く伸ばしていたのは「ヘア・ドネーション」といって、がんの治療のために頭髪を失った方がつける医療用かつらに用いるための髪の毛を寄付するためでした。彼女自身、抗がん剤治療の時にたまたま応募した被災地のがん患者のためのプロジェクトに通って、看護学生がヘアドネーションして作られた医療用かつらを使わせてもらうことができました。人工のものとは違って、確かに質も良く、何より気持ちがこもっています。今度は自分が誰かのためにということですね。
ただ十分な長さになるまでは時間もかかるし、その間の手入れも大変です。誰かから恩を受けたら、誰かに恩を送る、「恩送り」とか「ペイ・フォワード」なんて言い方もありますが、小さなことでも実践できたら、世の中少しは明るくなりますね。イエス様によって多くの恵みを受けた私たちですから、喜んで与える者でありたいと思います。

“…あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。” マタイ 10:8

佐々木真輝

2022-07-31 いのちを与えるために

2022年 7月 31日 礼拝 聖書:ヨハネ12:12-26

 岩橋姉のご主人が突然亡くなられて、未だに驚きに包まれています。このようなタイミングで、私たちにいのちを与えるために来られたキリストを思い巡らす時が与えられたのは、とても意味のあることだと感じています。

今日取り上げるヨハネの福音書は好みの分かれる書物かも知れません。好みで聖書を読んだり読まなかったりするのは問題かもしれませんが、実際この独特な雰囲気のある福音書が読みにくいと感じる人もいますし、味わい深いと感じる人もいます。

順番からいうとマルコの次はルカの福音書なのですが、ルカは福音書と使徒の働きをセットで書いていますので、連続して取り上げたいと思います。それで今日は四つある福音書の最後のひとつ、ヨハネの福音書を先に見ていきたいと思います。今回も前半と後半の二回に分けます。

前半、後半を通してヨハネが福音書で伝えるもっとも大切なポイントはイエス様がいのちを与えるために来られた方だということです。肉体的に死に行く者である私たち。それだけでなく、神との関係が壊れているという意味で霊的に死んでいる私たち人間にいのちを与えるために来られたイエス様とはどういう方なのか。イエス様が与えるいのちとは何なのか、ヨハネの福音書を通して学んでいきましょう。

1.神の小羊

第一にヨハネの福音書ではイエス様が「神の小羊」として紹介されます。神の小羊であることが示されるのは福音書全体の導入部分である1章の中です。まずこの導入部分を見ていきます。

ヨハネの福音書の出だし1:1~18は、創世記の天地創造を思わせる導入で始まります。

「初めにことばがあった」は明らかに創世記1:1の「はじめに神が天と地を創造された」を意識しています。他の福音書と違って、イエス様が人としてお生まれになる出来事よりもずっと前の、永遠の昔から存在される神としての性質にヨハネは注目します。

私たちの言葉が頭の中にあっても目に見えない思いを他の人が聞き、知る事ができるようにするものが言葉であるように、ヨハネがイエス様を「ことば」と呼ぶのは、イエス様が隠された神の思いを具体的に人に届く形で表された方だからです。

そしてヨハネは、この方のうちに「いのち」があり、この方を信じる者は「神によって生まれた」者であると記して、イエス様がいのちを与える方であることを明らかにします。この事がヨハネの福音書全体のテーマになります。永遠の神なるイエス様はご自身のうちにあるいのちを私たちに与えるために来られたのです。

1:19からはバプテスマのヨハネと人々の対話が取り上げられます。神の国が近づいたから悔い改めよと神のメッセージを語り、悔い改めた人々にバプテスマを授けていたヨハネについて、彼はいったい何者かということで人々の間で話題になっていました。マラキが預言したエリヤの再来とか、モーセが預言したモーセのような預言者、ということを人々は考えましたが、ヨハネ自身は、自分はイザヤが預言した「荒野で叫ぶ者の声」だと言いました。そして、自分の後に来る方こそが待ち望むべき方なのだと証言します。その翌日、29節でヨハネのもとにイエス様が近づいて来るのを見たヨハネは、こう言いました。「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。」つまり、天地が創造される前から神として存在された方が世の罪を取り除くために神の小羊として来られたのがイエス様なのだと、ヨハネの福音書は語るわけです。

「神の小羊」とは、旧約時代の律法で定められた罪の贖いのための献げ物です。イエス様が私たちの罪が赦されるために犠牲の小羊としてささげられるのです。それは同時に、私たちを「死んだ者」としているのは、肉体の衰えや寿命や病気などではなく、罪なのだということを言っています。たとえ肉体的には何の問題がなかったとしても、神の前に罪があるなら死んだ者であるというのが聖書の告げる人間の真理です。神との関係が上手くいっていないうえに、やがて罪の報いである永遠の死から逃れられないからです。

しかしそんな私たちを救うため、罪を赦し取り除くために、いのちそのものである神が、いのちを捨て死に従うことで犠牲の小羊となるために人となって生まれてくださいました。それがナザレのイエスだ。ヨハネの福音書の導入部分である1章ではそのようにまずは宣言しているのです。

このことは私たちに大きな希望です。この世にあっては肉体的に、心理的に、あるいは社会的に死んだ者、望みのない者とみなされるような状況になったとしても、キリストにあってなお私たちは生きた者であることができるからです。

2.7つのしるし

第二に、イエス様が神の小羊であることは7つの象徴的な奇跡によって証しされました。

ヨハネの福音書の前半、2章から12章には、イエス様がメシヤであり、神の小羊であることを様々なかたちで説明しているのですが、特に印象深いのが7つの奇跡です。ヨハネの福音書ではこれらの7つの奇跡を「しるし」と呼んでいます。

七番目のしるしだけは福音書後半のイエス様ご自身の復活なのですが、6つ目までが2~11章に記されます。そしてヨハネが注目するのは、イエス様がこれらのしるしを行うと、イエス様への信仰を呼び起こしたり、逆にユダヤ人の間に議論や論争を巻き起こしてある人たちを怒らせてしまったりするというパターンがあります。

最初のしるしは2章に書かれている有名なカナの婚礼での奇跡です。大量の水を上等なワインに変えるという奇跡を「最初のしるし」だとヨハネは書いています。7つの象徴的な奇跡の、最初のものという意味です。

この時、この奇跡を目撃したのは宴会場で楽しく飲み食いしていた人たちではなく、裏方の人たちだけです。しかし、この奇跡を目撃した弟子たちはイエス様を「信じた」とあります。

第二のしるしは4:46以下に出てくる、死にかけた王室の役人の息子をいやす奇跡でした。イエス様はその場に行くことすらせずにこの男の子をいやされました。このときは王室の役人と家族がイエス様を信じたとされています。

第三のしるしは5章のベテスダの池でのいやしです。三八年もの間、奇跡の瞬間を待っているのに誰も助けてくれないとひがみ、恨み節をイエス様にぶつける病人をいやされました。しかし、これが論争を引き起こします。というのもこの日が働いてはいけないとされていた安息日だったからです。文句を言うユダヤ人たちにイエス様は「父なる神は安息日でも働いているから自分も働いている。そしていのちを与える権威と判断をわたしに委ねたのだ」と驚くべき言葉で応じるのでした。

第四のしるしはイエス様の奇跡をみた人たちがイエス様に特別な期待を抱いて追いかける状況の中で行われました。6章の有名な5つのパンと二匹の魚で5000人以上の人たちの空腹を満たすという奇跡です。人々はこの奇跡にさらに期待を膨らませますが、その後に「わたしがいのちのパンです。」と言われたことで多くのユダヤ人が躓き、文句を言いはじめます。

第五のしるしは9章の、こちらも有名な「シロアムの池」での盲人のいやしです。弟子たちはこの人の目が見えなくなったのは誰かの罪の報いかと考えますが、イエス様はそうではなく神の栄光が表れるためだとおっしゃって、泥をこねてまぶたの上に塗りつけると池の水で洗ってくるようにと言われました。彼が言われたとおりにすると見えるようになりました。この時も安息日だったためにパリサイ人たちはいやされた男を問い詰め、論争になり、ついにパリサイ人たちはこの人をユダヤ人コミュニティから追い出すことを決めてしまいます。しかしイエス様はこの人をもう一度見つけ出し、彼はイエス様を信じます。そしてイエス様は39節でこう言われました。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」

3.ラザロのよみがえり

イエス様のなさったしるしとしての奇跡により、ある人たちは真理に目が開かれますが、自分たちは分かっていると思っていた人達は真理に目が塞がれてしまうというのです。

第三に、ヨハネの福音書前半のしめくくりとして6つ目の奇跡が行われます。11章で描かれるイエス様の友人ラザロの復活です。この出来事はその後の出来事にも影響していることが12章を見れば明らかで、イエス様が死んだ人をよみがえらせたという奇跡は、イエス様を信じる人たちにとっても、イエス様に反対する人たちにとっても衝撃的な出来事でした。

もともとイエス様はエルサレムに向かって旅をしていましたが、その先にある栄光は人々が考えていたような華々しい王宮での生活や権力ではなく、神の小羊として十字架で死ぬことを意味しました。そんな旅の途中にあったイエス様のもとに友人であるラザロが死にそうだという知らせが入ります。

もちろんその知らせはイエス様の心を激しく揺さぶったはずです。後でイエス様はラザロの墓の前で涙を流すほどでした。しかし、なぜかイエス様はすぐに動こうとしませんでした。

11:6~7で知らせがあってから二日経ってイエス様は弟子たちに「もう一度(ラザロが待っている)ユダヤに行こう」と呼びかけます。しかし弟子たちもユダヤに行けば危険が待ち受けていることは予測できました。それでもイエス様は「眠ってしまった」ラザを起こしに行くのだと言われます。もちろんそれは死んだことを意味しています。それは弟子たちが信じるためだとおっしゃっています。つまり、イエス様がいのちを与えるために来られた方であり、そのためにはご自分のいのちが危険にさらされても構わないことを弟子たちが理解するためでした。

11:17でエルサレム近くのベタニヤという村に着いたときにはラザロが死んですで4日経っていました。姉のマルタはどうしてもっと早く来てくださらなかったのか、という気持ちで一杯でした。しかし、イエス様は「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と言われ、妹のマリヤも連れてラザロの墓の前に行きます。そして福音書の中でただ一度涙を流された様子を描きながら、それは悲しみであるだけでなく人間を縛っている死に対する憤りであり、人々の間にいのちを与える神への信仰がないことへの憤りであったことが分かります。

イエス様は墓の前に立って祈りを捧げます。イエス様の祈りはこの奇跡が何のために行われるかをはっきり示していました。イエス様が父なる神に遣わされたメシヤであり、いのちを与える方であることを信じるようになるためです。そして大声でラザロを呼ぶと、包帯でぐるぐる巻きにされたラザロが墓から出て来ました。みんな驚きましたが、ラザロが一番ビックリしていたかもしれません。

この奇跡によって多くの人々がイエス様を信じるようになりましたが、同時にイエス様に反対する祭司長やパリサイ人たちはますます焦り「われわれは何をしているのか。このままではみんながあいつに着いていくようになる。そうなったらわれわれはお終いだ」と言い合い、イエス様を殺害する計画が立てられていくことになりました。弟子たちが心配していた通りになるのです。しかしそれこそが、イエス様が栄光を受けるということの意味する事でした。

適用:いのちを与えるために

これら6つのしるしとしての奇跡は、いのちを与えるために来られたイエス様が、確かに神の御子であり、救い主であることを示しました。そしてイエス様が与えようとしているいのちがどういうものであるかを指し示してもいます。イエス様は嘆きと失望を喜びに変え、希望のない者に希望を与え、助ける者のない者を助け、飢え渇く者を満たし、見えていない者を見えるようにし、死に定められた者に新しい命を与え、復活の望みを与えてくださいます。

ヨハネ前半のまとめになる12章でイエス様がそのようないのちを与えるのは愛の故であることをお示しになりました。ラザロのために涙を流し、いのちの危険を承知で訊ねたのは愛ゆえです。

ベタニヤのラザロの家でお祝いの食事会があり、その中でマリアがイエス様に高価な香油を塗り、イエス様はそれを埋葬のための備えと受け取ってくださいました。そこにも麗しい愛がみてとれます。翌日、エルサレムに入場し、大歓迎を受けます。この場面はマタイやマルコでも観て来たとおりですが、群衆の大歓迎にはラザロ復活という奇跡が大きな要因になっていたことは明らかです。一方で祭司長たちはイライラが頂点に達していました。

人々のイエス様に対する期待は、ユダヤ人だけでなくギリシャ人と言われる人々にも及び、イエス様にお会いしたいと訊ねてくる人人たちがいました。そのことによって神が遣わした救い主が人種を問わず誰にとっても希望となっていることを知ったイエス様は、23節で「人の子が栄光を受ける時が来ました」と弟子たちに告げます。しかしそれは弟子たちが期待し、人々が期待したように王座について力で敵を滅ぼすのではなく、一粒の種が地に落ちて死ぬようなことでした。ユダヤ人だけでなくギリシャ人も、全ての人にいのちを与えるためにご自分は地に落ちることを選んだのです。

バプテスマのヨハネが「世の罪を取り除く、神の小羊」と言ったように、人類を死んだ者としているのは私たちのうちにある罪であり、その罪を赦し取り除くためにイエス様が犠牲の小羊となってくださったのです。

あまりに有名なこの聖句は、様々な絵画や詩、文学の題材となりましたが、イエス様は豊かな実りを得るために、世界中の人々がいのちをえるために、ご自分のいのちを献げようとしていたのです。

自分たちが偉くなることや栄誉を受けることばかり考えていた弟子たちにも、そんなものを求めるのではなく、そういうのは放って置いて、イエス様についていくことを求めました。自分のいのちを憎んで、というのはそんな意味です。自分たちが求めて来た名誉や栄光はむしろ永遠のいのちの邪魔になるものだと思い定めることを弟子たちに求めたのです。

私が中学生の頃、イエス様が私の罪の赦しのために死なれたということの意味がいくらかはっきりと解ったと思えた時のことを思い出します。些細なことで妹と喧嘩し、怒りが収まらずにいました。弟子たちはまた違った形で、自分が求めるものに拘っていました。自分の怒りが納得できる形で満たされることを求め続けていたら、いつまでたっても平安も喜びも得られなかったでしょう。それを手放して、こういう自分のためにイエス様は十字架にかかってくださったのだなあと思い起こして見た時に、イエス様の愛が分かったような気がしました。子供っぽい出来事でしたし、子供っぽい理解の仕方だったかも知れませんが、それは確かにいのちを得た経験でした。

自己犠牲を賛美し、推奨しているのではなく、自分たちが追い求めているものにしがみつくことで永遠のいのちを失っていることに気づくようにとのイエス様の願いが込められた教えだと思います。

このような私たちにいのちを与えるために来られた神の小羊、イエス様の語りかけに静かに耳を傾け、心を探っていただきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

いのちの主なるイエス様を神の小羊としてこの世界に遣わしてくださりありがとうございます。イエス様が私たちを愛してくださり、そのいのちを献げてくださって、罪が赦され、いのちに生きる道を備えてくださいました。

どうかおひとりおひとりがいのちを与えるために来られたイエス様を信じ、また心の中でイエス様の愛より自分がしがみついているものがないかどうかを探って、永遠のいのちに至る道へと導いてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」