2022-07-31 いのちを与えるために

2022年 7月 31日 礼拝 聖書:ヨハネ12:12-26

 岩橋姉のご主人が突然亡くなられて、未だに驚きに包まれています。このようなタイミングで、私たちにいのちを与えるために来られたキリストを思い巡らす時が与えられたのは、とても意味のあることだと感じています。

今日取り上げるヨハネの福音書は好みの分かれる書物かも知れません。好みで聖書を読んだり読まなかったりするのは問題かもしれませんが、実際この独特な雰囲気のある福音書が読みにくいと感じる人もいますし、味わい深いと感じる人もいます。

順番からいうとマルコの次はルカの福音書なのですが、ルカは福音書と使徒の働きをセットで書いていますので、連続して取り上げたいと思います。それで今日は四つある福音書の最後のひとつ、ヨハネの福音書を先に見ていきたいと思います。今回も前半と後半の二回に分けます。

前半、後半を通してヨハネが福音書で伝えるもっとも大切なポイントはイエス様がいのちを与えるために来られた方だということです。肉体的に死に行く者である私たち。それだけでなく、神との関係が壊れているという意味で霊的に死んでいる私たち人間にいのちを与えるために来られたイエス様とはどういう方なのか。イエス様が与えるいのちとは何なのか、ヨハネの福音書を通して学んでいきましょう。

1.神の小羊

第一にヨハネの福音書ではイエス様が「神の小羊」として紹介されます。神の小羊であることが示されるのは福音書全体の導入部分である1章の中です。まずこの導入部分を見ていきます。

ヨハネの福音書の出だし1:1~18は、創世記の天地創造を思わせる導入で始まります。

「初めにことばがあった」は明らかに創世記1:1の「はじめに神が天と地を創造された」を意識しています。他の福音書と違って、イエス様が人としてお生まれになる出来事よりもずっと前の、永遠の昔から存在される神としての性質にヨハネは注目します。

私たちの言葉が頭の中にあっても目に見えない思いを他の人が聞き、知る事ができるようにするものが言葉であるように、ヨハネがイエス様を「ことば」と呼ぶのは、イエス様が隠された神の思いを具体的に人に届く形で表された方だからです。

そしてヨハネは、この方のうちに「いのち」があり、この方を信じる者は「神によって生まれた」者であると記して、イエス様がいのちを与える方であることを明らかにします。この事がヨハネの福音書全体のテーマになります。永遠の神なるイエス様はご自身のうちにあるいのちを私たちに与えるために来られたのです。

1:19からはバプテスマのヨハネと人々の対話が取り上げられます。神の国が近づいたから悔い改めよと神のメッセージを語り、悔い改めた人々にバプテスマを授けていたヨハネについて、彼はいったい何者かということで人々の間で話題になっていました。マラキが預言したエリヤの再来とか、モーセが預言したモーセのような預言者、ということを人々は考えましたが、ヨハネ自身は、自分はイザヤが預言した「荒野で叫ぶ者の声」だと言いました。そして、自分の後に来る方こそが待ち望むべき方なのだと証言します。その翌日、29節でヨハネのもとにイエス様が近づいて来るのを見たヨハネは、こう言いました。「見よ。世の罪を取り除く神の子羊。」つまり、天地が創造される前から神として存在された方が世の罪を取り除くために神の小羊として来られたのがイエス様なのだと、ヨハネの福音書は語るわけです。

「神の小羊」とは、旧約時代の律法で定められた罪の贖いのための献げ物です。イエス様が私たちの罪が赦されるために犠牲の小羊としてささげられるのです。それは同時に、私たちを「死んだ者」としているのは、肉体の衰えや寿命や病気などではなく、罪なのだということを言っています。たとえ肉体的には何の問題がなかったとしても、神の前に罪があるなら死んだ者であるというのが聖書の告げる人間の真理です。神との関係が上手くいっていないうえに、やがて罪の報いである永遠の死から逃れられないからです。

しかしそんな私たちを救うため、罪を赦し取り除くために、いのちそのものである神が、いのちを捨て死に従うことで犠牲の小羊となるために人となって生まれてくださいました。それがナザレのイエスだ。ヨハネの福音書の導入部分である1章ではそのようにまずは宣言しているのです。

このことは私たちに大きな希望です。この世にあっては肉体的に、心理的に、あるいは社会的に死んだ者、望みのない者とみなされるような状況になったとしても、キリストにあってなお私たちは生きた者であることができるからです。

2.7つのしるし

第二に、イエス様が神の小羊であることは7つの象徴的な奇跡によって証しされました。

ヨハネの福音書の前半、2章から12章には、イエス様がメシヤであり、神の小羊であることを様々なかたちで説明しているのですが、特に印象深いのが7つの奇跡です。ヨハネの福音書ではこれらの7つの奇跡を「しるし」と呼んでいます。

七番目のしるしだけは福音書後半のイエス様ご自身の復活なのですが、6つ目までが2~11章に記されます。そしてヨハネが注目するのは、イエス様がこれらのしるしを行うと、イエス様への信仰を呼び起こしたり、逆にユダヤ人の間に議論や論争を巻き起こしてある人たちを怒らせてしまったりするというパターンがあります。

最初のしるしは2章に書かれている有名なカナの婚礼での奇跡です。大量の水を上等なワインに変えるという奇跡を「最初のしるし」だとヨハネは書いています。7つの象徴的な奇跡の、最初のものという意味です。

この時、この奇跡を目撃したのは宴会場で楽しく飲み食いしていた人たちではなく、裏方の人たちだけです。しかし、この奇跡を目撃した弟子たちはイエス様を「信じた」とあります。

第二のしるしは4:46以下に出てくる、死にかけた王室の役人の息子をいやす奇跡でした。イエス様はその場に行くことすらせずにこの男の子をいやされました。このときは王室の役人と家族がイエス様を信じたとされています。

第三のしるしは5章のベテスダの池でのいやしです。三八年もの間、奇跡の瞬間を待っているのに誰も助けてくれないとひがみ、恨み節をイエス様にぶつける病人をいやされました。しかし、これが論争を引き起こします。というのもこの日が働いてはいけないとされていた安息日だったからです。文句を言うユダヤ人たちにイエス様は「父なる神は安息日でも働いているから自分も働いている。そしていのちを与える権威と判断をわたしに委ねたのだ」と驚くべき言葉で応じるのでした。

第四のしるしはイエス様の奇跡をみた人たちがイエス様に特別な期待を抱いて追いかける状況の中で行われました。6章の有名な5つのパンと二匹の魚で5000人以上の人たちの空腹を満たすという奇跡です。人々はこの奇跡にさらに期待を膨らませますが、その後に「わたしがいのちのパンです。」と言われたことで多くのユダヤ人が躓き、文句を言いはじめます。

第五のしるしは9章の、こちらも有名な「シロアムの池」での盲人のいやしです。弟子たちはこの人の目が見えなくなったのは誰かの罪の報いかと考えますが、イエス様はそうではなく神の栄光が表れるためだとおっしゃって、泥をこねてまぶたの上に塗りつけると池の水で洗ってくるようにと言われました。彼が言われたとおりにすると見えるようになりました。この時も安息日だったためにパリサイ人たちはいやされた男を問い詰め、論争になり、ついにパリサイ人たちはこの人をユダヤ人コミュニティから追い出すことを決めてしまいます。しかしイエス様はこの人をもう一度見つけ出し、彼はイエス様を信じます。そしてイエス様は39節でこう言われました。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」

3.ラザロのよみがえり

イエス様のなさったしるしとしての奇跡により、ある人たちは真理に目が開かれますが、自分たちは分かっていると思っていた人達は真理に目が塞がれてしまうというのです。

第三に、ヨハネの福音書前半のしめくくりとして6つ目の奇跡が行われます。11章で描かれるイエス様の友人ラザロの復活です。この出来事はその後の出来事にも影響していることが12章を見れば明らかで、イエス様が死んだ人をよみがえらせたという奇跡は、イエス様を信じる人たちにとっても、イエス様に反対する人たちにとっても衝撃的な出来事でした。

もともとイエス様はエルサレムに向かって旅をしていましたが、その先にある栄光は人々が考えていたような華々しい王宮での生活や権力ではなく、神の小羊として十字架で死ぬことを意味しました。そんな旅の途中にあったイエス様のもとに友人であるラザロが死にそうだという知らせが入ります。

もちろんその知らせはイエス様の心を激しく揺さぶったはずです。後でイエス様はラザロの墓の前で涙を流すほどでした。しかし、なぜかイエス様はすぐに動こうとしませんでした。

11:6~7で知らせがあってから二日経ってイエス様は弟子たちに「もう一度(ラザロが待っている)ユダヤに行こう」と呼びかけます。しかし弟子たちもユダヤに行けば危険が待ち受けていることは予測できました。それでもイエス様は「眠ってしまった」ラザを起こしに行くのだと言われます。もちろんそれは死んだことを意味しています。それは弟子たちが信じるためだとおっしゃっています。つまり、イエス様がいのちを与えるために来られた方であり、そのためにはご自分のいのちが危険にさらされても構わないことを弟子たちが理解するためでした。

11:17でエルサレム近くのベタニヤという村に着いたときにはラザロが死んですで4日経っていました。姉のマルタはどうしてもっと早く来てくださらなかったのか、という気持ちで一杯でした。しかし、イエス様は「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と言われ、妹のマリヤも連れてラザロの墓の前に行きます。そして福音書の中でただ一度涙を流された様子を描きながら、それは悲しみであるだけでなく人間を縛っている死に対する憤りであり、人々の間にいのちを与える神への信仰がないことへの憤りであったことが分かります。

イエス様は墓の前に立って祈りを捧げます。イエス様の祈りはこの奇跡が何のために行われるかをはっきり示していました。イエス様が父なる神に遣わされたメシヤであり、いのちを与える方であることを信じるようになるためです。そして大声でラザロを呼ぶと、包帯でぐるぐる巻きにされたラザロが墓から出て来ました。みんな驚きましたが、ラザロが一番ビックリしていたかもしれません。

この奇跡によって多くの人々がイエス様を信じるようになりましたが、同時にイエス様に反対する祭司長やパリサイ人たちはますます焦り「われわれは何をしているのか。このままではみんながあいつに着いていくようになる。そうなったらわれわれはお終いだ」と言い合い、イエス様を殺害する計画が立てられていくことになりました。弟子たちが心配していた通りになるのです。しかしそれこそが、イエス様が栄光を受けるということの意味する事でした。

適用:いのちを与えるために

これら6つのしるしとしての奇跡は、いのちを与えるために来られたイエス様が、確かに神の御子であり、救い主であることを示しました。そしてイエス様が与えようとしているいのちがどういうものであるかを指し示してもいます。イエス様は嘆きと失望を喜びに変え、希望のない者に希望を与え、助ける者のない者を助け、飢え渇く者を満たし、見えていない者を見えるようにし、死に定められた者に新しい命を与え、復活の望みを与えてくださいます。

ヨハネ前半のまとめになる12章でイエス様がそのようないのちを与えるのは愛の故であることをお示しになりました。ラザロのために涙を流し、いのちの危険を承知で訊ねたのは愛ゆえです。

ベタニヤのラザロの家でお祝いの食事会があり、その中でマリアがイエス様に高価な香油を塗り、イエス様はそれを埋葬のための備えと受け取ってくださいました。そこにも麗しい愛がみてとれます。翌日、エルサレムに入場し、大歓迎を受けます。この場面はマタイやマルコでも観て来たとおりですが、群衆の大歓迎にはラザロ復活という奇跡が大きな要因になっていたことは明らかです。一方で祭司長たちはイライラが頂点に達していました。

人々のイエス様に対する期待は、ユダヤ人だけでなくギリシャ人と言われる人々にも及び、イエス様にお会いしたいと訊ねてくる人人たちがいました。そのことによって神が遣わした救い主が人種を問わず誰にとっても希望となっていることを知ったイエス様は、23節で「人の子が栄光を受ける時が来ました」と弟子たちに告げます。しかしそれは弟子たちが期待し、人々が期待したように王座について力で敵を滅ぼすのではなく、一粒の種が地に落ちて死ぬようなことでした。ユダヤ人だけでなくギリシャ人も、全ての人にいのちを与えるためにご自分は地に落ちることを選んだのです。

バプテスマのヨハネが「世の罪を取り除く、神の小羊」と言ったように、人類を死んだ者としているのは私たちのうちにある罪であり、その罪を赦し取り除くためにイエス様が犠牲の小羊となってくださったのです。

あまりに有名なこの聖句は、様々な絵画や詩、文学の題材となりましたが、イエス様は豊かな実りを得るために、世界中の人々がいのちをえるために、ご自分のいのちを献げようとしていたのです。

自分たちが偉くなることや栄誉を受けることばかり考えていた弟子たちにも、そんなものを求めるのではなく、そういうのは放って置いて、イエス様についていくことを求めました。自分のいのちを憎んで、というのはそんな意味です。自分たちが求めて来た名誉や栄光はむしろ永遠のいのちの邪魔になるものだと思い定めることを弟子たちに求めたのです。

私が中学生の頃、イエス様が私の罪の赦しのために死なれたということの意味がいくらかはっきりと解ったと思えた時のことを思い出します。些細なことで妹と喧嘩し、怒りが収まらずにいました。弟子たちはまた違った形で、自分が求めるものに拘っていました。自分の怒りが納得できる形で満たされることを求め続けていたら、いつまでたっても平安も喜びも得られなかったでしょう。それを手放して、こういう自分のためにイエス様は十字架にかかってくださったのだなあと思い起こして見た時に、イエス様の愛が分かったような気がしました。子供っぽい出来事でしたし、子供っぽい理解の仕方だったかも知れませんが、それは確かにいのちを得た経験でした。

自己犠牲を賛美し、推奨しているのではなく、自分たちが追い求めているものにしがみつくことで永遠のいのちを失っていることに気づくようにとのイエス様の願いが込められた教えだと思います。

このような私たちにいのちを与えるために来られた神の小羊、イエス様の語りかけに静かに耳を傾け、心を探っていただきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

いのちの主なるイエス様を神の小羊としてこの世界に遣わしてくださりありがとうございます。イエス様が私たちを愛してくださり、そのいのちを献げてくださって、罪が赦され、いのちに生きる道を備えてくださいました。

どうかおひとりおひとりがいのちを与えるために来られたイエス様を信じ、また心の中でイエス様の愛より自分がしがみついているものがないかどうかを探って、永遠のいのちに至る道へと導いてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」

落とし蓋の味わい

みなさん、おはようございます。
夕べ、食後の食器を洗っていたら年季の入った「落とし蓋」に目が留まりました。シリコン製のものですが、かなり長く使っているのですっかり色が変わっていますし、毎回洗っているのに、様々な出汁や醤油の匂いがついています。決して嫌な匂いではないし新品のシリコン臭さもないのでので、使い続けています。壊れる様子もないのでまだまだ使い続けそうです。
何かに触れ続けていればその匂いが移ります。それは実際の匂いに限らず、雰囲気や特徴が似てくることも含まれます。私たちにはキリストの良い香りがちゃんと移っているでしょうか。キリストの香りは触れ続けていなければ香らないものの最たるものです。

“しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。” 2コリント 2:14

今日は****さんの誕生日です。祝福を祈ります。

佐々木真輝

夏のルーティン

みなさん、おはようございます。
一昨日、北東北もようやくというか、ついにというか、梅雨が明けて本格的な夏になりました。梅雨明け前から暑かったのですが、さらに増した感じですね。毎日、教会に来るとやっている「ルーティン」があります。夏のルーティンは、夜の間に玄関に蜘蛛の巣がはってしまうので、それをホウキで取り除き、玄関の花に水をあげ、会堂の軒下に蜂の巣が出来ていないか点検し(以前、スズメバチの巣が出来たので)、夏はとにかく窓を開けます(開けても暑い空気が入ってくるのですが)。そして水出しの麦茶を作って冷蔵庫に入れて置きます。どれも小さなことですし、習慣になっていることなので苦労もありませんが、これらをやらないでしまったら、玄関が蜘蛛の巣だらけになり、花は枯れ、いつのまにか大きな蜂の巣が出来て換気のために開けた窓からハチが入り込むなんてことがあるかもしれません。
私たちが日常的にしている良い習慣は想像以上に暮らしを安全に、豊かにしているものです。その良い習慣の中に聖書を読み、黙想し、祈ることがちゃんと加わっていたらどれほど良い影響をもたらすでしょうか。忙しい日々ですが、「ルーティン」になるほどまで身につけられたら幸いです。

“ダニエルは、その文書に署名されたことを知って自分の家に帰った。その屋上の部屋はエルサレムの方角に窓が開いていた。彼は以前からしていたように、日に三度ひざまずき、自分の神の前に祈って感謝をささげていた。” ダニエル 6:10

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

無理な時は無理

みなさん、おはようございます。なかなか朝メールを書けずにおりました。
先日、新型コロナの検査で陽性反応が出たという知らせがあり、誰に連絡しなければならないか、日曜日の説教奉仕はどうしようか、次から次へと対処しなければならないことが浮かんで来て、パニックになって目が覚めるといういやな夢を見ました。海外ではもうほとんどの人が気にもとめていないというのに、私たちの周りはまだまだこんな状況です。
同じ問題でも、状況によって受けたり与えたりする影響はずいぶん違うものですね。影響が大きいほど対処したり、考えなければならないことが増えます。前には簡単に乗り越えられたことが、今回は手一杯ということだってあります。無理な時は無理と言う、そんな自分に対する寛容さも大事ですね。

“弟子たちは近寄ってイエスを起こして、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。” マタイ 8:25

今日は****さんの誕生日です。祝福をお祈りします。

佐々木真輝

2022-07-24 仕えるために来られた王

2022年 7月 24日 礼拝 聖書:マルコ10:35-45

 福音書はイエス様の伝記だというふうに説明されることがあるのですが、いわゆる現代的な意味での伝記ではありません。

私の手元にも何冊か、伝記がありますが、そこには主人公となる人物の出生。両親のことや家庭環境、場合によっては何世代か前まで遡って書かれたりもします。子供時代のエピソードや青年時代の葛藤と挫折、大きな働きを成し遂げるまでの物語が感動的に描かれます。

けれどもマルコの福音書にはイエス様の誕生の物語も子供時代の話しもありません。物語を盛り上げようという工夫はあまり感じられず、イエス様がしたこと、語ったこと、出会った人々、出かけたところを淡々と紹介していくかのようです。続きを読む →

あきらめずに

みなさん、おはようございます。
最近スマホに乗り換えたHさんからメールが届きました。ここしばらく不便な生活だったと思いますが、とりあえず自分のスマホで連絡が取れるようになって良かったです。メールの文面は、おそらく携帯とは違った操作感で苦労したのだろうなという形跡がありましたが、こればっかりは慣れるしかありませんね。面倒だと放り出せばそこで終わりですが、苦労したり失敗したりしながらでも続けていれば少しずつでも身につきます(何歳になっても)。
物事によっては諦めが肝心なこともありますが、諦めなければ何か身についたり学びになったりすることもたくさんあります。イエス様に従う道も、難しいとか大変だとか思って諦めてしまえばそれまでですが、失敗したり躓いたりしても、続けていけば少しずつ板について来ます。

“正しい人は七度倒れても、また起き上がり、
悪しき者はわざわいでつまずくからだ。” 箴言 24:16

佐々木真輝

弱さを知っておく

みなさん、おはようございます。
昨日は頭痛で目が覚め、常備している頭痛薬を使ってもなかなか痛みが取れず夕方まで続きました。暑さのためか(よくあります)、寝不足のためか(よくあります)、疲れが出たのか(これもあります)、気圧のせいか(たまにあります)。どれも当てはまりそうな日ではあったので全部合わさったものかもしれません。午後、応接用の椅子を並べて30分ほど眠って少し良くなり、何とか持ち直した感じでした(夜にはほとんど収まりました)。
どういうタイミングで痛みが起こりやすいかをある程度知っていると対処できる可能性が高まります。身体的な痛みだけでなく、心の痛み、ショックを受けやすい状況、精神的に追い込まれやすい条件など。それは弱点というか感じやすい部分で、不便なこともありますが、自分に与えられた個性の一つなので、受け止め、やり過ごす知恵を学んでいくところかもしれませんね。それはまた他人の痛みを思いやる力にもなります。

“大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができます。” ヘブル 5:2

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

いつも新しい日々

みなさん、おはようございます。
昨日、フィギュアスケートの羽生選手が競技生活を退き、プロに転向するという発表がありました。新聞の号外が出るほどのニュースでしたね。記者会見やインタビューではリタイヤではなく、もっと上手くなるために新しい挑戦をするという気持ちを強く出していると思いました。ほんとうに羽生くんらしい考え方だなと思って見ていました。
みんながみんな、そういう前向きな気持ちで次のステージに向かえるわけではないでしょう。望んではいなかった道を歩むことになったり、加齢や病気などで生活が変わってしまう場合には失意や寂しさが先き立ちます。しかし、間違いなく私たちは常に新しい経験をし、新しい日々を迎えます。子供の時代や若いころの「フレッシュ」さとは違っても、これから待ち受ける日々ははじめて経験する日々です。キリストに似た者にされていくという人生の道筋さえ握っていれば、これからの日々も神様の恵みによって新しくされていく日々なのだと思っていられるのではないでしょうか、

“愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。” 1ヨハネ 3:2

佐々木真輝

すべての王となられた方

2022年 7月 17日 礼拝 聖書:マタイ28:16-20

 メシヤ、キリストとは誰であるかが、今も大きな問いであることがつい最近の出来事を通して突き付けられました。

歴代最長の政権を担った元首相を恨んで銃撃した事件がありました。犯人の母親がある宗教団体にのめり込み家庭が崩壊したことを恨んでのことだったようです。

この団体は、現在では名前を変えていますが、これは社会的なイメージが悪くなったのを回避するためのものでした。中身は何もかわっていません。

それはともかく、なぜこの団体が問題かというと、キリスト教の一派であるかのように振る舞っていますが、創始者が再臨のキリストであると主張し、正統的なキリスト教から大きく逸脱した異端であるからです。その上、この団体は信者を心理的にも経済的にも支配し、指導者を神格化するカルトです。

キリストってほんとうはどんな方なのか、私たちは誰を信じるべきか、なぜ信じるべきか。そこのところが曖昧だと、カルトに捕まってしまいかねないだけでなく、福音の本当の意味も喜びも知らない、かたちだけのクリスチャンになってしまいます。

今日はマタイの福音書の後半、14章から終わりの内容を見ていきます。主イエスとはどんな方か、正しく知りたいと思います。

1.わたしを誰だと言うか

第一にマタイの後半では、「イエス様は誰か」ということについての大事な質問が弟子たちに向けられます。

前回、マタイの福音にはイエス様の教えや働きを集めた5つのまとまりがあるというお話をしました。少し振り返ります。

1章から3章までの導入部分でイエス様が世界に祝福をもたらすメシヤ=キリストであり、人として生まれた私たちとともにおられる神、インマヌエルであることが示されました。誕生の物語に続くエジプト逃避行、ヨルダン川でのバプテスマ、荒野での40日の試みという経験は、出エジプトを導いたモーセの預言した「新しいモーセ」がイエス様であることを示しています。

その後に続く5つのまとまりの最初は4~7章までの山上の説教を中心とする教えでした。その中でイエス様は神の国が到来したことを宣言なさり、新しい神の国ので生き方を教えていました。

二つ目のまとまりは8~10章で、神の国が到来したことを具体的な病人の癒しや危機的な状況にある人たちを救うことで表していました。このまとまりの終わりにはイエス様が弟子たちを遣わす場面があります。その中で福音を喜んで受け入れる人たちだけでなく、拒絶する人たちがいることを告げています。

3つめのまとまりは11~13章で、そこではイエス様に対する人々の反応が描かれていました。イエス様をメシヤに違いないと信じ始めた民衆、信じ切れず迷っている人たち。その代表はバプテスマのヨハネでした。そしてパリサイ人を中心とするイエス様に否定的な人たち。イエス様は彼らの態度をたとえ話を用いて説明なさいました。神の国が訪れた時に、その祝福を刈り取るのは信仰を持って受け入れた人たちだということを明らかにされました。

そして、今日私たちが見ているマタイの後半、14章以降では、重要な問いかけがあります。「あなたは私を誰だと言うか」というイエス様の問いかけです。

4つめのまとまりになる14~20章では、イエス様が大勢の人たちにパンを与えるという奇跡を二度おこなわれました。一度目は14章でユダヤ人の群衆に、二度目は15章で異邦人の群衆に対してパンの奇跡が行われます。そうやってイエス様がユダヤ人だけでなく、異邦人にまで救いをもたらすメシヤであることをお示しになりました。その上で、イエス様はもっとも身近な弟子たちに、重要な質問をされます。それがマタイ16:15節です。

他の人はイエス様についてあれこれ言っていますが、あなたがたはわたしを誰だと言いますか?と問いかけます。これに対して、ペテロが代表して、「あなたは生ける神の子キリストです」と告白します。マタイが描いて来た、約束のメシヤ・キリストであり、この世に人として来られ、私たちとともにいてくださる神である、ということを見事に表す告白です。インマヌエルという言葉そのものは出てきませんが、ペテロと弟子たちはイエス様がインマヌエルなる方であることをちゃんと理解したとマタイは描いているのです。

ここ数週間の間に、またしても宗教に対する世間の目が冷たくなりました。いくらあれは異端だ、カルトだ、私たちは関係ないと言っても、宗教的なことばや証しに過敏に反応します。しかし、世間がどうであろと私たちはイエス様が私たちとともにおられる神、救い主キリストであると告白し続けましょう。

2.衝突

第二に、ペテロの告白に続いて、イエス様と、イエス様に敵対する者たちとの衝突が始まります。

ペテロの告白を受けてイエス様は、どのように新しい国を打ち立て、全世界を治め祝福するかを話し始めます。イエス様はご自分の命を差し出し、捨てられ、十字架につけられることで栄光をお受けになります。パリサイ人ら宗教的な人々が期待していた、罪と悪を討ち滅ぼし、異邦人に復讐するのではなく、愛し、赦すことによって、ユダヤ人だけでなく全ての人を救い、祝福することで王となるのです。

しかし、このようなイエス様の話しは、パリサイ人をはじめとする宗教的な人々を激怒させました。

5つめのまとまり、21~25章では、イエス様に対抗する人々がどんどんその行動をエスカレートさせ、ついにイエス様を殺す決意をしていく場面が描かれています。

21:1~17ではイエス様がロバの子どもの背中に乗ってエルサレムに入場する有名な場面で始まります。イスラエルの王として入場しますが、その姿は力で復讐する王ではなく、柔和で平和な王の姿でした。そしてすぐに礼拝の場である神殿に行きます。祈りの家であるべき神殿を金儲けの場にしているのを怒りを込めて非難します。一方で神殿の中で病人たちを癒されました。

祭司長や宗教指導者たちが神殿で商売をすることを認めているのは、彼らにとって利益になるからです。一方で目の見えない人や足の不自由な人など、本当に救いが必要な人たちは神殿の外に追いやられ、神に呪われた者という扱いを受けていました。イエス様はそんな人々を招き入れいやしたのです。イエス様は本来神の御前でどうあるべきなのかを示したのです。神を礼拝する場所は金儲けの場所ではなく、弱い者、貧しい者が顧みられ、彼らの口を通してこそ神の御名が賛美されるべき場所なのです。しかし宗教指導者たちは自分たちへの当てつけと見なしたようです。彼らは、イエス様に腹を立てるのではなく、悔い改めるべきでした。

この衝突は単にイエス様個人への当時の人たちの反発ということでは済まずに、旧約時代から続いて来たイスラエルの民の神への反抗と不信仰とみなされました。21:23以下で、葡萄畑を任された農夫たちのたとえ話が語られます。主人の遣わしたしもべたちを次々と殺し、はずかしめ、最後には一人息子も殺してしまうという話しを通して預言者とキリストへの反抗を描きます。そして、イエス様は、神の国は「あなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます」と、信仰によって福音を受け入れる新しい神の民に与えられると宣告します。その後は宗教指導者たちに対する容赦の無い批判が続き、ついには葉っぱは盛大に茂っていても実のなっていない無花果のように、うわべだけで中身のないエルサレムは滅びる運命にあることを弟子たちに告げます。しかし、イエス様の救いとご支配は必ず成就すると約束され、忍耐して、信仰をもって待ち望み、それまでの間、忠実な良いしもべのように任されたことに忠実であるようにと、いくつものたとえ話を用いて教えます。

しかしイエス様の最後の時は近づいていました。26:1には「イエスはこれらのことばをすべて語り終えると」とあります。なすべき準備は終わり、いよいよ十字架へのドアが開くのです。

3.苦難のしもべ

第三にイエス様は「苦難のしもべ」であることが明らかにされます。マタイの福音書はイエス様の十字架と復活で終わります。26章から28章はマタイの福音書の結論部分です。ここまで、周りの様々な意見や衝突があってもイエス様に従って来た弟子たちが、最後の最後で裏切り、ちりぢりになってしまうという衝撃的な展開とともに、イエス様はただおひとりで十字架の苦しみを担われます。

ちょうどモーセと共に歩んだイスラエルの十二部族が、従いつつもたえず道を間違え、時に反発し、王をいただく国となって、結局は神に背を向けてしまったのと重なります。

十二弟子たちは、イスラエルの先祖たちとは違ってイエス様を信じ、メシヤとして受け入れ、イエス様のなさったこと、教えたことを学びました。しかしです。彼らも土壇場で逃げ出します。

イエス様の弟子訓練は失敗だったのでしょうか。イエス様は十字架の意味をもっとちゃんと教えておくべきだったのでしょうか。なぜイスカリオテのユダが裏切る前にカウンセリングをして、盗みグセや彼の不信仰を取り扱わなかったのでしょうか。実際、イエス様は彼の裏切りを事前に知っておられましたが、何も手を打っていません。他の弟子たちも逃げ出すことを知っていましたが、見守るだけです。26:31でゼカリヤ書を引用して、弟子たちが逃げ出すのは聖書に書かれていたことが実現することなのだとさえ言っています。預言の成就のために弟子たちを放置したのですか。

イエス様と出会い、それまでの人生が一変したように思えた弟子たちでさえ、イエス様に従い通すことが出来ませんでした。

十二弟子たちは、過去のイスラエルの民が成し得なかった従順さをもって神に従う歩みをやり直しているようでした。しかしどんなにイエス様と共に歩もうとしても、人の心の内にある高慢さ、自己中心、恐れ、不従順を無くすことはできませんでした。その中に福音書の著者であるマタイもいました。仲間である他の使徒たちもいます。彼らは、自分たちがイエス様のことをさっぱり分かっておらず、皆から笑われるような弟子たち同士の競争や妬み、イエス様への卑怯な裏切りを隠す事なく記しました。それが私たち人間の姿なのだと示すためです。

イエス様はモーセの律法を新しい律法に置き換えました。神のようにきよくあろうとするなら、表面的な行動だけでなく、心まで清くなければなりません。しかし、それが出来ないのが私たち人間の姿です。私たちはだれもが助けを必要としています。だから、イエス様はすべての罪を背負って十字架につく必要がありました。

マタイが描く十字架の場面は、明らかにイザヤ書53章の「苦難のしもべ」と呼ばれる預言を思い起こさせるように描かれています。マタイの脚色だということではなく、イザヤの預言がイエス様の十字架の場面で成就したということです。

それはイエス様の罪のためではなく、私たちすべてのためでした。善人であろうとし、善人であることを自負している宗教的な人々は神にさえ心を頑なにするほどの高慢なプライドに支配されていました。弟子たちのようにイエス様と共に歩もうと頑張っていた弟子たちでさえ、自分では心の中心にある罪の性質を克服できませんでした。それは彼らを絶望の淵に追いやりました。しかしそのためにこそ、イエス様は苦難のしもべである必要があったのです。

適用:あらゆる国の人々を

十字架の苦しみと死は、イエス様がイザヤの預言した苦難のしもべであることを示していましたが、最後、28章の復活と天に挙げられる場面は、イエス様がすべての王となられたことを示します。

そしてイエス様はすべての上に立つ権威によって、弟子たちに「全世界に福音を宣べ伝えること」を託しました。弟子たちは王であるイエス様の代理として福音を宣べ伝えるのです。

私たちとともにおられる神であるキリストは、イスラエル民族の王であるだけではありません。

28:18でイエス様は「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています」と語っています。

イエス様がユダヤ人の王なら、その主権が及ぶ範囲はイスラエル民族に限られます。しかし、今やイエス様やイエス様はすべての王となられました。それはすべてを支配する唯一の独裁者になったという意味ではありません。全人類の世話をし、その救いと祝福の責任をイエス負われたということです。イエス様はその使命を弟子たちに託します。「大宣教命令」と呼ばれる最後の教えです。ちょうどたとえ話の中の主人が、しもべたちに留守の間、仕事を任せ忠実であることを期待したように、イエス様が全世界に対して負っておられる責任を、私たちクリスチャンが一緒に担うことを願っておられるのです。

そしてマタイの福音書は、そんな使命を託したすべてのクリスチャンに、この福音書の大きなテーマの一つであることばをイエス様ご自身の約束として記して閉じられます。

20節後半です。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

マタイの福音書が私たちに告げることは、イエス様が確かに約束されたキリストであり、私たちとともにいてくださる神であり、この世界に神の国をもたらしてくださったということ。そのためにイエス様が十字架の苦しみを背負い、死んでよみがえってくださいました。それは、私たちの誰もが、助けが必要な者であることを意味します。誰も自分は大丈夫とは言えないし、私は善人でまっとうに生きていると、神の前で言えるような者は誰もいないということです。しかしイエス様が私の罪のために十字架で死んでよみがえってくださったことを信じるときにはじめて私たちは「自分は大丈夫。それはイエス様が私とともにいてくださるから」と言えるようになるのです。

そのようにして到来した神の国に私たちは招かれ、生かされ、イエス様が全世界の人々に対して担っておられる責任を共に担うようにと招いてくださいました。

マタイの福音書が大宣教命令で終わっているのは、この世界に生きる全てのクリスチャンへのチャレンジです。しかし間違ってならないのは、私たちが宗教的な生活、道徳的に間違いのない生活をしているから良い証しになる、ということではありません。

マタイや他の使徒たちが福音書を通してしたように、私も助けが必要な人間だけれどもイエス様が私とともにいてくださるから大丈夫、という心をしっかり持って日々を大切に生きることです。そしてイエス様がそうしてくださったように、私たちの周りにいる、同じように弱さや痛みを持つ人たちを裁いたり、否定したりするのではなく、友だちになること、歩み寄ること、隣人になることから、大宣教命令への応答は始まっていきます。

祈り

「天の父なる神様。

先週と今週と、マタイの福音書を共に開いてきました。神様がマタイを通してイエス様の生涯と教え、働きを私たちに示してくださり、大切なことを教えてくださいました。

どうか、ともにいてくださる神であるイエス様を私の救い主キリストとして信じ、すべての王として、この世界にいるすべての人たちのことを気に掛け、救いたいと願っておられることを理解し、確信できますように。そして、その責任を共に担うようにと私たちに期待し、招いておられますから、周りにいる人たちの友となり、隣人となっていくことができますように助けてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

声を合わせて

みなさん、おはようございます。
私はいろいろなジャンルの音楽が好きで、その日の気分で様々なものを聞きます。ジャズやクラシックのような楽器が中心の音楽も好きですが、歌ものも結構好きです。中でもコーラスが効果的に用いられているものは心打たれます。人が声を合わせて歌うというのは私には特別なことのように感じられます。素敵なハーモニーのときも、同じメロディーを大勢で歌うのも味わいがあり、感動します。
しかし、毎週の礼拝で歌う賛美は、プロの歌手たちが歌うような音程の正確さや音楽的な表現の豊かさには及ばないかも知れませんが、一つ心で神様を賛美することはすごいことだなと、礼拝中に時々考えます。この2年以上のコロナ禍にあって、賛美を歌わないという選択をせざるを得なかった教会もあったと聞きます。どんなに私たちが置かれた状況が幸せだったのかと思わされます。明日の礼拝も、この特別な恵みを覚えて歌いましょう。

“ラッパを吹き鳴らす者たち、歌い手たちが、まるで一人のように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルと様々な楽器を奏でて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と主に向かって賛美した。そのとき、雲がその宮、すなわち主の宮に満ちた。” 歴代誌第二 5:13

佐々木真輝