警報

みなさん、おはようございます。
なかなか梅雨が明けず、ぱっとしない天気が続いていますが、日本の各地では災害級の大雨になっているようです。しかし、警報があっても実際に避難しなかったり、十分な備えをしないことってありますね。正常化バイアスという「自分は大丈夫じゃないか」と勝手に思い込む心理が働きます。何事もなければラッキーですが、紙一重の危険があったり、実際に危険にのみ込まれつつあることに気づかないまま、気づいたらもう遅いということはあるので甘くみてはいけないですね。
聖書の中でも、預言者たちが様々な時代に警告を発していますが、同じようなことが起こっています。それは私たちに対する戒めであり、学ぶべきことがあります。自然災害以上に、神様からの警告には反応がにぶいのは、神様のあわれみと忍耐への甘えかもしれませんね。

“神は再び、ある日を「今日」と定め、長い年月の後、前に言われたのと同じように、ダビデを通して、
 「今日、もし御声を聞くなら、
 あなたがたの心を頑なにしてはならない」
と語られたのです。” ヘブル 4:7

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

偽物にまどわさるな

みなさん、おはようございます。
先週の事件の後、にわかに注目を集めているのが統一協会です。今は統一協会(教会ではありません)という名前ではなく、「世界平和統一家庭連合」というよりソフトで平和的な名前で活動していますが、実態は変わっていないと言われます。かつて合同結婚式や高額な壺を売りつける霊感商法で社会問題になりました。皆さんもニュースで「キリスト教系の」という言葉を聞いて居心地の悪さを感じたり、誰かに「あなたのところは大丈夫なの」と聞かれた人がいたかもしれません。「キリスト教系の新興宗教」と言われますが、キリストの名を利用した異端(正当な教えを逸脱した信仰)であり、人間を神のようにあがめ、信者を精神的に縛るカルトです。
もちろんこの日本では今の所、法的ににはどんな信仰であれ、誰にでもなんでも好きに信じる自由があります。けれども異端やカルトは真理から人を遠ざけ、人のうちにある寂しさや闇を巧みに利用してからめとっていきます。聖書から信ずべき内容をはっきりと知るとともに、支配ではなく本当の愛の交わりの中にいることが本当に大切です。

“…神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことです。” テモテ第一 3:15

佐々木真輝

2022-07-10 ともにおられる神

2022年 7月 10日 礼拝 聖書:マタイ1:18-25

 付き合いの長い友だちや、長年連れ添った夫婦でも、あるとき、全然気づかなかった一面があることを発見して驚くことがあります。家内がこんなにフラにはまるとは思いもしませんでしたし、子どものことは何でも分かっているつもりでも、予想外の趣味や興味を持っていたり、こんなことが得意だったんだ、これは苦手だったんだと気づいて驚いたり、済まないことをしたなあと申し訳ない気持ちになることもあります。

私たちにとって、主イエス様は知っているはずの方ですが、実は知らずにいることは多いかも知れません。長い間信仰生活を送って、長く聖書を学んで来ても、私は未だに発見があり、まだまだ知らないことが多いなあ、そのみこころの深さはどこまで深いのだろうかと思うことがあります。続きを読む →

あえて野の花を見る

みなさん、おはようございます。
昨日はほんとうに驚きのニュースに心がざわついていました。夜家に帰ってテレビをつければそのニュースばかり。銃撃される場面や犯人が取り押さえられる場面が何度も繰り返され、一般市民から各界の要人たちまでの悲痛な表情でのコメントが何度も流れます。確かに痛ましい事件です。でも関心を持つことと、刺激を受け続けることは別問題です。災害や犯罪などの刺激的な映像を繰り返し見ていると、たとえ「ながら見」であっても知らず知らずのうちに相当なストレスを受けることになります。どうぞお気を付けください。
ローマの支配や社会的な不平等の中で苦しみ、明日のことを心配している人々にイエス様は「野の花を見なさい」「空の鳥を見なさい」と言われました。悲惨な世界に生きる私たちに、あえて草花や小さな生き物に眼を向けさせ、そこに表されている神の恵みに希望と慰めを得るようにと教えてくださったのだと思います。

“草花がどのようにして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした。” ルカ 12:27

佐々木真輝

川の流れ

みなさん、おはようございます。
川の流れを眺めるのが好きです。眺めていなくても川の流れの音を聞いているだけでも気持ちが落ち着きます。ところで、どんな大きな川にも小さな源流がありますが、源流の水だけで大きな川になるわけではありません。大きな流れを支える「支流」があるから大きな流れになることができます。はじめから大河である川はありませんし、最初から最後まで一筋の流れだけという川もありません(これは多分、ですが)。
どんなことでも一人だけで出来るものではないし、最初から完成しているわけでもありません。たくさんの人の協力があって一人では成し得ないことがなせるのですし、大きな力にもなります。

“ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。” 1テサ 5:11

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

アクの正体

みなさん、おはようございます。
昨日、家内が生の筍をいただいてきたということで、家に帰ったらアク抜きをしていました。筍のアクの正体は成長に欠かすことのできない成分が時間の経過とともに変化してえぐみの成分になってしまったものだそうです。ぐんぐん伸びて竹に成長していくための源が筍の穂先にたくさん集まっているのですから、あのえぐみは元々筍のいのちの力そのものだったということができます。そしてなぜかアク抜きの必要な野菜や山菜は、ほんとに美味しくばけますね。
よく「アクの強い人」という言い方をすることがあります。あまりいい意味では使われません。でも、もしかしたらその背後にはすごい力や良い個性が秘められているのかもしれません。強すぎる個性や一見弱さに見えることの裏側にある別の強さが、イエス様の恵みによって活かされるなら本当に素晴らしいことです。

“彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています。” ピレモン 1:11

佐々木真輝

2022-07-03 守る翼から迷い出た者を

2022年 7月 3日 礼拝 聖書:申命記32:10-12

 子どもの頃、大自然の中の動物の生態を追いかけるドキュメンタリー番組があり、好きで良く見ていました。

生まれたばかりのライオンの赤ちゃんなんかが、親の保護のもとですくすく育って行くのですが、大抵ひやっとする場面が出て来ます。百獣の王ライオンの子であっても、小さいうちは無力です。親が目を離したり、エサを獲りに行っている間に子どもたちが安全な巣を這い出してジャッカルに見つかり追いかけられます。

自然の営みですから、そのまま天敵の餌食になってしまう場合もありますし、運良く逃げられたり、親が危険を察知して立ち向かい守られるなんて場面もあり、はらはらしながら見ていました。

聖書は、大自然の中での野生動物の厳しい命のやり取りの中で子どもを守ろうとする姿を「生存本能」とか「種の保存」なんてつまらない言い方で終わらせないで、神が私たち人間を守り導こうとする愛のたとえとして用います。続きを読む →

変わらぬ愛とは

みなさん、おはようございます。
暑い中、子どもを置き去りにして死なせてしまうというショッキングなニュースがありました。残念ながら、ケースは違っても毎年繰り返されています。というか季節を問わず、度々耳にし心が痛みます。そこに至るまでの様々な過程はあったのでしょうけれど、小さないのちがそんな形で終わらせられて良いわけはありません。
イエス様は私たちを愛し、共にいてくださり、決して見捨てることも見離すこともないと言われました。この言葉の背後には、人の愛の変わりやすさや脆さがあるようにも思えます。人間にイエス様ほどの愛を期待するのはちょっと無理がありますが、人間の変わりやすく忍耐力に乏しい愛とイエス様の愛を似たようなものだと思うのも間違いです。私たちはただ、変わらぬ愛で愛してくださっているイエス様の愛を思い、倣って歩むことを願い目指すだけです。

“わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。” ヨハネ福 14:18

今日は****さんの誕生日です。祝福を祈ります。
明日は召天者記念礼拝ですがかなりの暑さが予想されます。水分補給を小まめにし、体調に不安のある方もない方も無理をしないようにしましょう。

佐々木真輝

帰り道

みなさん、おはようございます。
先日、大船渡でキャンプをした夜のことです。キャンプ場のどこからか小径があって、そこを歩いて下りて行くと小さな入江に出られることを聞いていました。夜、入江から見上げる星空の写真を撮りたくて、日が落ちて星がだいぶ見える時間になってから小径を下りてみました。月明かりもなく、ヘッドランプの明かり以外は光はありませんが、木製の階段も整備されていてまあまあ歩き易かったです。ただ、最後はちょっとした岩場をおりていくようになっています。まあまあ思い通りの写真が撮れたので帰ろうと崖の方を振り返りましたが、どこを下りて来たか分からなくなってしまいました。2mくらい上がれば小径が見えるはずなのですが、下からだと光の関係ではっきり見えません。ちょっと焦りましたが、落ち着いて下りて来た時の状況を思い出すと、「ここに違いない」というところが分かり、無事に帰り道に辿りつくことができました。
「帰り道」が分からなくなると困るのは散歩の時だけではありません。人生において、信仰の旅路においても、ちょっと寄り道をしたつもりが帰れなくなってしまう、なんてことが起こらないわけではありません。でも帰り道が消えてしまったわけではありません。帰りたいと願うなら、それまで神様が示してくださった愛や日々の暮らしの中で表してくださった恵みの跡が、ちゃんと足を踏み出すべき場所を教えてくれます。

“立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。” ルカ 15:18

佐々木真輝

太陽のように

みなさん、おはようございます。
「暑いですね」と言ったからといって涼しくはならないと分かっていても、言ってしまう。そんな毎日です。東北南部はすでに梅雨明けという異例の事態に(毎日何かしら「異例」とか「異常」とか聞いてる気がします)。岩手の梅雨明けも早いのでしょうか。しかし気になるのは日曜日の召天者記念礼拝の時の天気。いくつかの予報サイトを見ると、いずれも天気は良さそうですが、かなり高い気温の予測になっています。熱中症には要注意です。体調の優れない方や高齢の方は特にお気を付けください。私も真っ黒い式服を着ることを想像してすでに汗をかいてます。
詩篇19篇の「太陽の熱から誰も逃れられない」という言葉がとてもリアルに迫って来ます。ただし、これは神のことばのことです。その熱に打ちのめされることもありますが、すべてを照らし、すべてを温め、すべてを明るみに出すからこそ、みことばは私たちの助けとなり、力となるものです。

“天の果てから それは昇り
天の果てまで それは巡る。
その熱から 隠れ得るものは何もない。” 詩篇 19:6

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝