2022年2月6日 隔てるものを越えて

2022年 2月 6日 礼拝 聖書:ヘブル11:29-31

 月一度、こうして主題聖句に関連してヘブル11章を少しずつ読み進めて来ましたが、残すところ2回となりました。

私たちの人生や人間関係には、さまざまな形で立ちはだかるものが表れます。

一般的な意味で、何かを成し遂げるために乗り越えなければならない壁ももちろんあります。行きたい大学に入るためには受験の壁を乗り越えなければなりませんし、やりたい仕事があれば採用試験や面接を乗り越えなければなりません。

仕事でもスポーツでも目指す結果に到達するために様々な壁を越えていかなければなりません。

今日の箇所にも、ある意味でそうした壁に似たものに直面した人々のことが書かれていますが、大きな違いもあります。神のことばに従おうとした時に直面する壁、努力や熱意以上に信仰が求められる壁です。続きを読む →

イエス様を知る

みなさん、おはようございます。
3月に開催予定のキリスト者学生会の春期学校に講師として招かれていて、3回のメッセージと一つの分科会を担当することになっています(コロナがある程度収まっていることを期待しています)。まだ原稿を書くまでには届いていないのですが、ずっとテーマについて思い巡らしています。イエス様とはどういう方なのか、イエス様を知るとはどういうことなのか。なかなか幅広く深いテーマですが、学生時代ならではの悩み方もあるのだろうなと、はるか昔の気持ちや葛藤を思い出し、今だから考えることも練り込みながら、まるでマーブルパンを作るみたいに(いや、作ったことはないですが)心の中で捏ね捏ねしているところです。
イエス様を誰だと告白するかはキリスト教信仰の核心と言えるテーマですから、とても重いのですが、実に楽しい思索です。今回も学生たちに分かち合うことを少し手を加えて礼拝の中でお話しようと計画していますので、ぜひよい導きがあるようにお祈りください。そして何とかリアル開催ができるように。

“イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」” マタイ 16:15

今日は****さんの誕生日です。祝福を祈ります。

佐々木真輝

念のためでした

みなさん、おはようございます。
昨日は少し喉の痛みがあり、念のため婦人会と祈祷会をお休みさせていただき、家で仕事をしていました。熱はなかったし、咳もありません。多分疲れが出たんだろうなとは思いましたが、念のためです。昨日のうちに痛みは取れ、他に体調も悪くはないので、様子を見ながらですが、今日からまた教会に行くことにします。
大丈夫とは思いつつ、やはり教会の皆さんにご迷惑になっては申し訳けないですし、何かあったときの教会の評判はどうなるかという考えが頭をよぎったりもします。何を恐れているのか分からなくなります。そういう曖昧で時に自分本位な恐れ方になる私たちですが、そんな私たちを包み込むように愛してくださる神様の愛と、こんな自分でも気遣ってくれる人たちがいることに慰められています。

“愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。” 1ヨハネ 4:18

佐々木真輝

きょう一日を

みなさん、おはようございます。
日曜日の午後は****さんの、そして昨日は**さんのお父さんの葬儀がありました。家族や親しい方を失うこと、お別れしなければならないのはやはり寂しさと悲しみがあります。葬儀のためであっても久しぶりにお会いする方々の顔を見、声を聞いていると、確かに亡くなってしまった方々を通して与えられたつながりがあり、私の心の一部が、どんな形であれ、その人たちによって形造られていると感じます。
私たちの人生はとても限られていて、永遠に比べたらほんの一瞬の時ですから、一日一日を価値ある日として大切にしていかなければならないなあと改めて思わされます。

“「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。” ヘブル 3:13

佐々木真輝

いつかその日が

みなさん、おはようございます。
昨日、大船渡に向かう前にFさんの弔問に向かおうとしていたところ、2年ぶりくらいに高校生のSさんが教会を訪ねて来られました。教会に来たいと思いつつ、コロナのこともあり、なかなか来られなかったとのことです。でも就職が決まったので、お世話になった方々に挨拶をしてまわっていたそうです。気に掛かっていたので、こうやって訪ねて来てくれたことがとても嬉しく、また就職先に行ってからはまた教会に行って聖書を学びたいと言ってくれたこともとても嬉しかったでした。
久しぶりにおしゃべりをしながら、1月のみことばに選んで毎週、唱和を重ねて来た詩篇のことばを思い出しました。人が神様に心を向け、開き、信じ受け入れるプロセスは私たちが願うほど早くないことが多いですが、土の中で種がゆっくり根を伸ばし、芽を吹いていくように、確かにいのちの営みが続いていることだってあるのです。いつかその日が来ることを期待して、祈り、待ち続けたいと思います。

“地の果てのすべての者が 思い起こし
主に帰って来ますように。
国々のあらゆる部族も
あなたの御前にひれ伏しますように。” 詩篇 22:27

佐々木真輝

2022-01-30 喜んで与える人は

3回にわたって献金についてまとまったお話をしていますが、今日はその最後の回になります。

これまでカインとアベルのささげ物の物語、アブラハムがメルキゼデクに十分の一を与えたことを中心に、ささげ物の大切な意味、十分の一の精神は何かということを見てきました。ささげ物は神様の恵みと祝福の中にあることへの感謝と、これからも主が支えてくださることへの信頼を表す礼拝そのものでした。また、すべて与えられたものの一部は神のものであり、そのささげ物を通して地上での神のみわざがなされることを見てきました。

十分の一という律法は新約時代は無効になったとはいえ、献金はしてもしなくても良いもの、余裕があればしたらいいようなものではありません。今もなお、私たちは神の恵みの中を生かされているのであり、私たちのささげ物をとおして主はご自身の御わざをなさろうとしているのですから、喜んでそのわざに加わっていきたいものです。続きを読む →

親切

みなさん、おはようございます。
ひいきのクリーニング屋さん閉店のことを書いて思い出したことがあります。神学生だった頃、寮の近くにたまに利用するクリーニング店がありました。学生の分際で、という気もしますが、当時アイロンを持っていなかったので、たまに着るワイシャツはクリーニングに出してたりしました。カーブした坂道の途中にあって、そこもチェーン店の取り次ぎだったわけですが、やはりお店の方が親切でちょっとまけてくれたりして。でも、ある時、久しぶりに行ったら「実はもう店をたたむことになって」と申し訳なさそうな顔をしています。そんなことは知らずに洗濯物を持っていった私を見て「でも特別に最後に預かります」と言ってくれたのでした。ちょっと寂しかったですね。
親切にしてくれた人のことって忘れないものです。親切は愛のしるしであり、御霊の実であり、この世にあって良き証しとなりうるものです。機会のあるごとに互いに、また他の人に親切であるようにしましょう。

“互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。” エペソ 4:32

菅原さんのお父様の容体が思わしくありません。どうぞお祈りください。

覚えられている

みなさん、おはようございます。
我が家ではそれほどひんぱんにクリーニング屋さんを使うわけではありませんが、それでもたまにクリーニングを頼む時には決まって「ここ」というところがありました。ですが残念ながらお店をたたんで、建物も解体されはじめました。チェーン店ですからどこで頼んでも違いはないのですが、そのお店の方がとっても良い人で、頼む時にはここという気持ちにさせてくれるのです。我が家のようにそう何度も使うわけではなくても、顔と名前を覚えていてくれて、「佐々木さんだよね」と言って、ささっとタグに書き込んでいきます。すべてのお客さんの名前を覚えているわけじゃないと何かのおりに聞いたことがあります。でも、覚えられているというのは嬉しいですね。
イエス様も私たち一人一人を覚えていてくださいます。それは本当に嬉しいことです。そして、誰かにお会いしたときに自分が覚えられていることも嬉しいですし、励まされます。自分もそのようにありたいと思いながらもどうも不得意で、名前と顔が一致しなかったり、せっかく向こうが覚えていてくれるのにこちらは「どこで会ったんだっけ?」と焦ったりすることが多い始末。クリーニング屋のおばちゃんを思い出しながらしんみりしてます。

“門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。” ヨハネ 10:3

今日は婦人会と祈祷会があります。午後は神学校の理事会にオンラインで出席します。

佐々木真輝

良い知らせ

みなさん、おはようございます。
ようやく良い知らせが届きました。心配していた利用者さんも陰性ということで、家内も放免ということになりました。そしてもう一つ、良い知らせ。先週末、高校入試を受験したIくん合格の報告がありました。ほんとに良かったです。
良い知らせは安心、喜びをもたらしてくれます。というか、喜びや安心を与える知らせだから良い知らせなんですね。イエス様の福音が良い知らせと呼ばれるのも、私たちに自由を与え、平安と喜びへと至らせてくれるからです。

“神である主の霊がわたしの上にある。
貧しい人に良い知らせを伝えるため、
心の傷ついた者を癒やすため、
主はわたしに油を注ぎ、
わたしを遣わされた。
捕らわれ人には解放を、
囚人には釈放を告げ、” イザヤ 61:1

佐々木真輝

聞く必要のある知らせ

みなさん、おはようございます。
先週後半に家内が「濃厚接触者の可能性がある人の接触者」となり、その後「濃厚接触者の接触者」と立場が変わり、昨日の夜には濃厚接触者の方の検査結果が伝えられるはずでした(ただし直接ではなく関節的に)。今か今かと電話を待っていましたが、結局来ませんでした。職場で検査もしていて異常はないので大丈夫ではないかと思いますが、それでもきちんとした結果が分からないと次の行動を決めにくいですし、どこまで影響が及ぶか計りにくくなります。どちらにしても聞いて嬉しい知らせではありませんが、聞く必要のある知らせです。
聞くべきことと言えば、イエス様のことばもそうです。そのみことばは希望と慰めですが、私たちに後ろめたさや頑なさがあるときには、厳しく、聞きたくないと思えることがあります。そのことば、その真理こそが私たちを自由にしてくれる、聞く必要のあることばです。

“…「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。
あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」” ヨハネ 8:31-32

佐々木真輝