がんばりが報われるように

みなさん、おはようございます。
日曜日の午後、娘のアパートに向かいました。もろもろの事情で冬タイヤのままだった車のタイヤ交換をしてあげるという口実?で様子を見に行って来たところです。こんな暑い日にタイヤ交換なんてしたことないぞと思う日でしたが、作業の後でダラダラと過ごしていましたら、陸上短距離の選手が100メートルの日本新記録を出したというニュースに家族で興奮していました。その後、体操のベテラン選手がオリンピック出場権を獲得したということで、こちらもかなりのハンデがあったはずなのに凄いなあと感心しました。ああいう姿を見ると、やっぱり舞台に立たせてあげたい気持ちいなるねという話題になりました(基本的にはやっぱり開催には賛成できないんですが)。
簡単には正解を決められない中で、いろんな人が、いろんな立場で、いろんな思いを抱えて、「今日できること」をやっています(頑張り具合は人それぞれですけど)。意見や立場の違いはあれ、そのことは認め、尊重しなければならないなと思います。そして誰かが「無念」な思いをすることになるのだろうけれど、その忍耐と努力が良い形で報われることを願いますし、誰もが相応しく報われるような世の中であって欲しいとほんとに思いました。

“ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。” コリント第一15:58

昨日は****さんの誕生日でした。遅ればせながら、祝福を祈ります。

佐々木真輝

2021-06-06 喜ばれている人

2021年 6月 6日 礼拝 聖書:ヘブル11:5-6

 自分の存在が誰かに受け入れられ、愛され、喜ばれているというのは、私たちにとってとても大切な感覚です。正面切って、言葉として、あなたを受け入れていますとか、愛してます、あなたの存在を喜んでますと言われるとちょっと気恥ずかしい感じもありますが、言葉でなくても、相手の態度や表情、仕草の中に、その想いが表れていると安心します。

月一度の信仰によって生きた人々から学ぶシリーズですが、今日はエノクを取り上げます。エノクが信仰の人の例としてヘブル書で取り上げられているのは、彼がその信仰のゆえに死を見ることがなかったという点にあります。それ自体がなかなか想像のつかないことなのですが、それとともに、理由として「彼が神に喜ばれていたこと」が挙げられている点に興味が惹かれます。死を見ることなく神のもとに移されるほどの信仰とか、神に喜ばれるっていったい何だろうか。それはあまりにも特殊すぎて自分にどう関係するか、よく分からないと感じるかも知れません。続きを読む →

幼虫が成長すると

みなさん、おはようございます。
先日、奥さんが抜いて集めて置いた雑草を処分するためにゴミ袋に入れていたら、いろんな虫が出て来ました。日陰のジメジメしたところによくいるダンゴムシはもちろんのこと、ゴミ虫や子ども指ほどの太さはあろうかという立派なミミズ。そんな中に「カブトムシの幼虫か?」と見間違うような幼虫がいました。ふつうこういうところにところにカブトムシの幼虫はいないので違うだろうとは思いましたが、夜になってネットで調べてみると、同じような経験している人はいるんですね。カブトムシになると思って育てたら、違う成虫になったというのです。その正体はコガネムシでした、
コガネムシは花壇や畑にとっては害虫ですが、あの綺麗に輝く羽は、子供時代の心をときめかせました。チョウの幼虫もそうですが、あんな不格好な幼虫が成長すると美しい生き物になるのはほんとに不思議です。私たちもいろいろ不格好で足りない所ばかりですが、成長すれば神様の子どもとしてイエス様に似た者に変わることができます。

“愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。” ヨハネ第一 3:2

今日は*****さんの誕生日です。祝福を祈ります。そして第一日曜日ですので、主の晩餐と礼拝後のコイノニアもあります。

佐々木真輝

嵐の中から

みなさん、おはようございます。
昨日はだいぶ雨風が強い一日でした。もちろん教会の窓は締め切っているのですが、最近の建物のように気密性を重視した時代に建てられたものではないので、窓を閉めているのに、あちらこちらの窓のカーテンが一日中揺れていました(換気は十分?)。
私たちの心に働きかける神様の恵みや語りかける言葉は時折、強い風のようです。私たちが心を閉ざして見ないようにし、聞かないようにしても、カーテンが揺れるように、私たちの心の中に吹き込むようです。その力強さに、一度心に迎え入れたらかき乱されるように思え少し恐れをなしてしまい、ますます扉を固く閉ざしたくなるかもしれません。雨風なら窓をあけたら大変なことになりますが、実のところ神様のそうした働きかけは私たちを混乱させるためではありません。私たちの心の中には恵みの雨と聖霊の風が、しかも結構強めのが、必要なのです。

“主は嵐の中からヨブに答えられた。” ヨブ 38:1

佐々木真輝

円熟

みなさん、おはようございます。
久しぶりの朝メールです。何となく動画サイトを見ていたら、マルタ・アルゲリッチというピアニストのコンサートの動画が出て来ました。でも私の知っている顔じゃない!それもそのはず、私の持っているCDに印刷された顔は20代のころのもの。彼女は今週の誕生日で80歳になるんだそうです(そりゃ変わりますね)。演奏されていた曲はオーケストラとの共演で、自分の子どもや孫のような年代の演奏家たちと美しく、楽しく演奏しているのに驚かされました(決して簡単な曲ではないです)。
だれもがその年齢になっても若い頃に身につけた技に磨きを掛け円熟した仕事をできるわけではありません。むしろ多くの人は、肉体の衰えゆえに難しくなりってしまうものです。自分はまだそこまでの年齢ではないですが、疲れ方や回復の遅さは身に染みるようになっているので、思いがけず励まされました。自分もそこまで元気でいられる保証はどこにもないですが、彼女もきっと日々のトレーニングや健康維持、人間としての深みを得る経験を重ねて来たから今があるのでしょうから、今を大事にしなきゃなと思った次第です。

佐々木真輝

そしゃく

みなさん、おはようございます。
昨日はオンラインでの学びの時間を与えられました。コロナ禍になって起こった良い変化の一つは、地方にいてなかなか参加できなかった学びの機会が軒並みオンライン化されることで、かなり参加しやすくなったことです。コロナが終わってもこういうことは続いて欲しいものです。かなり本格的で中身の濃い学びの時間でしたが、一つ一つ実際の働きや直面している課題にビンビン響いて来るので最後まで集中力が切れることはありませんでした。
とはいっても、そうやって取り込んだ知識や視点を本当に活かして行くためには、自分自身の中でゆっくり咀嚼(そしゃく)する必要もあります。若い時は新しいアイディアとか聞くと直ぐに飛びついて、いろいろと失敗もしましたので、ちょっとは慎重にもなったのだと思います(成長したのなら良いのですが)。それはともかく、学んで感動して終わりじゃなく、よく考えて活かして行きたいと思います。

“私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに与えてくださいます。” テモテ第二 2:7

佐々木真輝

安息が与えられますように

みなさん、おはようございます。
何日かぶりの朝メールになってしまいました。ここのところちょっと体調の悪い日があったり、いろいろ重なって夜になると電池切れという状態でした。今後もしばらくはこんなペースが続く見通しなので、ちょっと心配ではあります。前にも書きましたが、安息日の戒めにあるように神様にお任せして仕事を手放す時間をちゃんと確保するのは大事ですね。
今日は5月最後の日曜日。皆さんにとって「安息」がもたらされる日でありますように(といいつつ、午後は墓園の草刈があるのですけれど)。教会で、あるいはリモートやそれぞれの祈りのうちに、心を合わせて礼拝を捧げましょう。

“心せよ。主があなたがたに安息を与えたのだ。そのため、六日目には二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、それぞれ自分のところにとどまれ。” 出エジプト 16:29

佐々木真輝

2021-05-30 苦しみの中で何ができるのか

2021年 5月 30日 礼拝 聖書:ヨブ記1:1-22

苦しみを経験すると、私たちの心には「なぜ」という問いが生まれることが多いかと思います。

先日『神とパンデミック』という小さな本を読みました。昨年来の新型コロナの世界的流行という状況を踏まえて、近年最も注目される神学者が書いたものです。その本の中で心を捉えた文章がありました。新型コロナをめぐってはキリスト教会や世界で様々な質問が出たけれど、著者は「私が聞いた答えの最良のものは「なぜですか?」という問いへの答えではなく、「何ですか? 私たちにできることは何ですか?」という問いへの答えです」と記していました。

新型コロナによる世界的なパニックだけでなく、10年前の震災の時も、そして、私たちが個人的に経験する様々な苦難の時に、クリスチャンたちが開く聖書の一つがこのヨブ記だと思います。続きを読む →

陰と影

みなさん、おはようございます。
夕べはスーパームーンと皆既月食が重なる特別な月が見られるということで、夕飯の後で川岸の舟付場に行ってみました。はじめは雲がかかっていましたが、次第に雲もとれ、少しずつ月に影が差し、やがてほぼ影に覆われました。その間、夢中になってカメラを覗き込みながら何度もシャッターを切って、あっという間に1時間くらい経ってしまいました。
月の満ち欠けは太陽の光が届かない月自身の陰ですが、月食は地球の影が月の表面に差しているという違いがあります。月の満ち欠けが、神様と自分の関わりで生まれる表情の変化だとすれば、月食は神様も自分と他の誰かとの関わりで生まれる表情の変化です。無理やりな感じもする分かりにくい喩えですが、私たちは神様を中心とする人との関わりの中に生きていますし、そうした人との関わりがあるから見えてくるものがあるものです。

“ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。” テサロニケ第一 5:11

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

ちょっといっぷく

みなさん、おはようございます。
ちょっと疲れが溜まったのか、ただの食べ過ぎだったのか分かりませんが、ちょっと体調を崩していました(仕事ができないほどではありませんでしたので大したことはありません)。スピードダウンしたほうが良いかなと思いつつも、迫って来るものもあって思うに任せないという時はありますね。とにかく忙しくしている方々や様々な責任を担っている方々はいったいどうやっているんだろうと思います。たぶん、コツを聞いたところで同じようには出来ないんでしょうけど。
安息日の教えの中心には「いっさいの労働から離れる」ということがあります。安息日は確かに神を礼拝するという信仰の面がありますが「休め」というのは、私たち人間が万能の神ではなく、心身共に限界のある被造物であることをわきまえよという戒めなのだなあと実感しています。一区切りついたらいっぷく。大事です。

“それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。” 出エジプト20:11

佐々木真輝