雪の重みで枝が折れても

みなさん、おはようございます。
教会の周りの雪がかなりとけて、だんだん埋もれていた植栽や地面が見えてきました。市内では福寿草が咲いたところもあるということで、それを聞いただけでずいぶん気分も明るくなります。ところで、雪解けとともに、今シーズンの積雪の重みを感じさせる様子が見えるようになりました。キンモクセイの枝が自然に降り積もった雪で折れ、アジサイやナンテン、ボケの枝が除雪のために積み上げた雪の重みで折れたり大きくたわんでいて、ちょっと痛々しいです。
でも、しっかり根を張って、幹が生きている限り、たとえ枝が折れても、ふたたび枝を伸ばし、葉を茂らせ、来シーズンまで待つことになるかもしれませんが、きっと花を咲かせて私たちを楽しませてくれることでしょう。私たちも傷ついたり、心が折れたり、しぼんでしまったりしますが、いのちの源である神様にしっかり根を張っていればきっと大丈夫です。

“万軍の神よ どうか帰って来てください。
天から目を注ぎ ご覧になってください。
このぶどうの木を顧みてください。
あなたの右の手が植えた苗と
ご自分のために強くされた枝とを。” 詩篇 80:14-15

佐々木真輝

思い出したくないこと

みなさん、おはようございます。
昨日は忘れてはならないことについて書きましたが、私たちの人生には思い出したくないこともありますね。心に深い傷をもたらしたような出来事は、できれば忘れたいし、思い出したくありません。それを思い出させるような人とも会いたくないし、場所にも行きたくないし、似たような場面に遭遇すればめちゃめちゃ心拍数が上がります。ただ、それを放っておいても自然に消えるわけではありません。
私の場合、その出来事と直接向き合うというより、様々なかたちで間接的にとか、さらっとかするように向き合わされました。そして、その出来事を通して味わったことが苦しみばかりではなかったことに気づかされたり、その時には見えていなかったことが見えるようになったりして、少しずつ「苦しみをもたらした物語」から「恵みもあった物語」に入れ替わっていきました。悲しい気持ちがすっかりなくなったわけではありませんが、忘れたいとか思い出したくないというほどではなくなりました。神様は悲しむ私たちをそのままにしないで、喜びを取り戻させてくださいます。

“シオンの嘆き悲しむ者たちに、
灰の代わりに頭の飾りを、
嘆きの代わりに喜びの油を、
憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。
彼らは、義の樫の木、
栄光を現す、主の植木と呼ばれる。” イザヤ 62:3

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

忘れてはならない

みなさん、おはようございます。
一昨日から昨日にかけてオンラインでのセミナー、会議、会合が立て続けにありました。特に、オンラインであったからこそ参加できたのが福島県の諸教会が主催した「3.11記念集会」でした。震災後に災害支援を通して知り合うことになった多くの方々にお会いしたい気持ちはありますが、岩手は岩手でありますし、足を運ぶことができずにいましたので、このような機会がありがたっかたです。とはいえ、誰彼捕まえてお喋りするようなことは出来ませんので、画面の向こうに姿を見ながら数々の発題を聞くことで我慢。
会が終わって、発題者の先生の一人とちょっとしたやりとりをする中で、コロナ禍で大きなイベントが出来なかったのはかえって良かったのかもしれないと思わされました。コロナがなかったら「10年目」という大きな節目となる年に、何か大きな企画をして、何となく区切りがついたような気持ちになって、あとはますます遠い出来事になっていたかも知れません。福島での働きの話しでしたので、今なお現在進行形の問題である原発のことと切り離せず、岩手とはまた違った息の長い歩みをしている方々に尊敬と、ただただ「お疲れさまです」という気持ちで一杯です。そして大切なことを様々思い出させられ、忘れてはいけないし、教えられたことをどう語り継いでいけるだろうかと祈らされました。

“知恵を得よ。悟りを得よ。忘れてはならない。
私の口のことばからそれてはならない。” 箴言 4:5

今日は****さんと****さんの誕生日です。祝福を祈ります。

佐々木真輝

2021-02-28 あなたがたのただ中に

2021年 2月 28日 礼拝 聖書:列王記第一 6:11-13

 人生も後半だなあ、終わりが近づいているなと感じるようになると、歩んで来た道のりを振り返り、自分の人生にどんな意味があったのだろうかと考えることが増えるかもしれません。寿命や高齢という場合だけでなく、若くても、人生の壁にぶつかって「今まで何やってきたのだろう」「これまで頑張って来たことに何の意味があったのだろう」と考えることはあると思います。

今日と一週おいて再来週の2回に分けて列王記を学んでいきます。ダビデによって確立した王国が、およそ400年の繁栄と衰退の後に滅びてしまった後、この列王記は記されました。先祖アブラハムへの神の約束に基づいて生まれ、世界に祝福をもたらすと言われた王国が滅亡してしまったときに、いったい自分たちは何をしてきたのか、いったいなぜこんなことになってしまったのかと振り返っている書物です。続きを読む →

大きめの新しい服

みなさん、おはようございます。
新しい服を買うときは、大抵自分のサイズに合わせて買うものですが、人生の中でかなり大きめな服を買う時があります。中学生になるときの制服はかなり大きめのものを買います。けっこう値段も張りますから3年間着てもらいたいと思う親としては、成長を見越して大きめのサイズを選びます。そんなわけで中学校の入学式にはかなり身の丈に合わないぶかぶかな制服を着たピカピカの一年生がたくさんいることになります。もうすぐ進級、進学の季節だなあと思い出したのでした。
先日、伊藤先生がエペソ書からお話してくださいましたが、その箇所に「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る」という言葉が出てきます。それはクリスチャンらしい新しい生き方のことを指しているのですが、そこで教えられている中身はだいぶハードルが高いように感じられます。でも、それは成長を見越して「大きめ」に用意された、クリスチャンの制服みたいなものです。真実さ、柔和、親切、寛容さといった新しい生き方がしっくり来るまで私たちは少しずつ成長できるのです。

“真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。” エペソ 4:24

佐々木真輝

良い知らせ

みなさん、おはようございます。
昨日はいくつか嬉しい出来事や知らせがあり、気持ちが明るくなりました。「こういうご時世だから」が毎日聞かれ、何かを計画するときもつい口にしてしまう言葉で、それはじわじわと心を暗く重くしていきます。そういうときに、嬉しい出来事があったり、希望の持てる話しや良い知らせがあると、心を明るくしてくれます。
悪いことが続くような時でも悪いことだけではないですし、物事には何かしら良い面があります。そして神様は私たちを励ますために、小さな良い知らせを届けてくださいます。耳では聞けない声ですが、小さな神様の声を聴き取って、心のバランスを取り戻しましょう。

“目の光は心を喜ばせ、
良い知らせは人を健やかにする。” 箴言 15:30

佐々木真輝

舌禍

みなさん、おはようございます。
栃木県での山火事のニュースがとても心配です。人的な被害はまだ出ていないと思いますが、民家のあるあたりにも近づいているとのことですので、これ以上広がらないことを祈ります。空気が乾燥している季節なので、よそ事ではないですね。どんな大きな火事も最初は小さな火だったわけですから、火の元には注意しましょう。
聖書の中で、小さな火から山をも燃やしてしまう炎の様子が口の災いのたとえとして用いられています。小さな噂話があっという間に広がったり、何気ないひと言が人を大きく傷つけたり、ちょっとした自慢話が信頼を貶めたり…。冗談のつもりで言ったことが躓きを与えてしまったんじゃないかとヒヤヒヤしたり、リップサービスが過ぎて「やばっ」と焦ったりしたことがあります。決して要職を辞任したばかりの政治家だけの話ではありません。

“同じように、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。見なさい。あのように小さな火が、あのように大きな森を燃やします。” ヤコブ 3:5

今日は****さんの誕生日です。祝福を祈ります。
婦人会と祈祷会もあります。

佐々木真輝

油断禁物

みなさん、おはようございます。
今日はお休みを利用してちょっと用事をと思っていたら、夜になって「そういえば牧師会があるんだった」と思い出しました。予定変更…というより本来の予定に修正ということですね。油断しました。
「油断」って油を断つって書きます。語源を調べたことはないですが、うっかりして油を切らしてしまい、大ごとになってしまった様が思い浮かびます。常に緊張しているのも無理がありますが、大丈夫だろうとたかをくくったり、普段やっていることをおろそかにしないというのは大事ですね。イエス様も油派を絶やさなかった賢い娘と油を切らした愚かな娘の譬えを思い出します。

“賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。” マタイ25:4
今日は岩手同労者会です。
佐々木真輝

重荷を下ろして

みなさん、おはようございます。
先日、車を走らせているときに隣の車線の車を見て驚き、そして思わず笑ってしまいました。その車は軽トラックだったのですが、荷台にたくさんの雪が積もっていたのです。それは雪を捨てに行くために積んだ雪ではなく、明らかに自然にたまったもの。その証拠に運転席の屋根の上には数十センチの雪がそのまま残っていました。積もった雪をそのまま捨てに行くって算段かもしれませんが、それにしても重そうでした。
重荷を負ったままの人生はかなり辛いです。「なすべき務め」「責任」としての重荷なら、それはがんばる動機付けにもなりますが、心の痛手や後悔、解決されていない罪、人から不本意に背負わされたものなどの重荷は、大きさにかかわらず私たちの歩みから喜びと快活さを削り取ります。そのような重荷は早めに下ろすことです。

“すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。” マタイ 11:28

佐々木真輝

重い雪の下で

みなさん、おはようございます。
皆さん実感しておられるとおり、今年はここ数年の間ではかなり雪が多い年になっています。教会の周りの雪を置く場所もなくなりつつあり、お隣の病院との間にある細長い「庭」になんとか積み上げていますが、何度も積み上げられた雪の重みで、アジサイやカルミアのような低木がどんな状態になっているかけっこう気がかりです。昨日の夜、非常階段から目に入った裏のキンモクセイも雪の重みで変なふうに枝が思いっきりたわんでいました。でも恐らくそんなことで木々が死んでしまうことはありません。地面の下で春の日差しを待っている他の草花は、いつもより冬が長いと感じているかもしれませんが、きっと何事もなかったかのようにちゃんと花を咲かせるに違いありません。
いのちの力、しなやかさには驚かされます。毎日の雪かきで疲れた時も、コロナ禍で心が塞ぎがちなことも、自分の健康や家族の悩みで心が弱ることもあるでしょうが、いのちの源である主につながっている限り、なんとか生き延び、あるいは驚くほどの輝きを取り戻し、再び花を咲かせることもあるでしょう。

「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。」 マルコ4:26-27

佐々木真輝