いのちを与える羊飼い

みなさん、おはようございます。
昨日、たまたま観ていたテレビ番組の中で、どこかの国からの投稿動画が紹介されていました。食肉加工場から牛が脱走し、道路の真ん中を走っていたのです。そこにたまたま車で通りかかったカウボーイがその腕前を発揮して牛を捕獲したのです。その牛はどうなったか。どういうやりとりがあったのかは分かりませんが、その牛は食肉加工場には戻されず、動物保護センターに移されたのです。肉屋さんにとっては損害だったかもしれませんが、牛にとっては命を得たことになりますね。
私たちもまた罪と死の支配から逃げ出し、イエス様に捕らえていただいた者です。牛はカウボーイのことを忘れてしまうかもしれませんが、私たちは、私たちを救い出し、再び罪と死の支配の中に連れ戻すのではなく、赦しと新しいいのちを与えてくださったイエス様をいつでも思いましょう。

“わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。” ヨハネ 10:28

昨日は*****さんの誕生日でした。遅ればせながら祝福を祈ります。
今日は今学期最後の神学校のクラスがあります。どうぞお祈りください。

佐々木真輝

皆さんは大丈夫でしたか

みなさん、おはようございます。
昨日の夕方、また少し大きな揺れが来ました。ちゃんと片付けておけばいいのに、乱雑に積み上げていたものがちょっと落ちた程度で被害はありませんでした。何人かの方々から無事との連絡がありましたが皆さんいかがだったでしょうか。この間の地震の時より揺れは短く小さかったので大丈夫だろうと思いましたが、津波注意報も出ていましたね。内陸で感じる揺れの大きさだけでなく、震源の深さ(浅さ)が大きく影響しますからね。
この間も感じましたが、地震やその直前の「地震が来ます」という例のアラームにけっこう体が反応します。揺れの状態と部屋の様子を見て「これは大丈夫だろう」と判断できても、心臓の方は急激に心拍数が上がり、強い不安もやって来ます。バアルと戦った後の預言者エリヤが自分の死を願うほどのうつ状態になったことを思い出します。どんなに信仰が強かったり合理的に判断する力あるとしても、人間の心身には限界があります。それは弱さというより、神様が与えてくださった心と身体を守るための安全装置みたいなものです。そういうときは無理をしなくていいのです。神様もそのような時は休息と回復を与えてくださいます。

“主の使いがもう一度戻って来て彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。” 列王記第一 19:7

今日はペルーから帰国した川崎淳宣教師が報告を兼ねてオンラインでご奉仕してくださいます。

佐々木真輝

春を告げるもの

みなさん、おはようございます。
私にとって春を実感できるのは教会の庭にフクジュソウが咲いた時です(花粉で目がかゆくなるのも春先のしるしですが、これはあまり嬉しいものではない)。昨日はだいぶ暖かくて、お昼頃、駐車場に車を入れる時、朝には見えなかった黄色い花がポツポツと目に入りました。あんなに重い雪の下にあったのに、よくぞまた咲いてくれました!という気分です。皆さんにとって春を感じる瞬間、きっかけって何でしょう。
人によって春を感じるしるしに違いがあるように、神様の恵み、祝福が注がれていることに気づくきっかけは様々です。神様はいろいろな仕方で私たちにささやき、語りかけてくださいます。フクジュソウを見かけたら、たとえまた一時雪が降ったり寒さが戻ってくることがあっても、確かに春が来ていることを疑う必要がないように、そんな神様のささやきに気づいたら、もう疑う必要がありません。

“見よ 主を恐れる人は
確かに このように祝福を受ける。” 詩篇 128:4

佐々木真輝

親切

みなさん、おはようございます。
昨日、先日の3.11集会をニュース映像にまとめてくださった方から連絡があり、さっそく拝見しましたが、本当によくまとめられていました。けれども驚いたのはその後です。以前から知っている方なのではありますが、録画した2時間分の素材からすべての発題者のお話を文字に書き起こし(それだけでもすごいのに)、それを自由にお使いくださいと提供して下さったのです。どれほどの労力が要るか分かるだけに、親切という言葉では足りないご厚意にただただ感謝です。有効に活用したいと思っています。
親切は誰でも知っていることではありますが、愛の表れの一つであり、聖霊が結ばせる実としてあげられているとおり、気分や都合で使い分けられるものではなく、神の愛に触れられた私たちの内側から出て来る行動の特質にまで高められるべきものです。そしてそのような親切に出会う時、私たちの心は元気になりますね。

“親切なことばは蜂蜜。
たましいに甘く、骨を健やかにする。” 箴言16:24

佐々木真輝

記念日

みなさん、おはようございます。
今日は私たちにとっては31回目の結婚記念日です。今日の夜は別な用事があるので、昨日のうちにちょっとお祝いをしました。いろいろな個人的な「記念日」があると思いますが、だんだんと何年が経つとウキウキするものでもはなくなるかもしれませんね。子どもの頃は誕生日を心待ちにしていた人も多いでしょう。結婚記念日も最初の数年は特別なお祝いをしていたかもしれません。クリスチャンになった日やバプテスマを受けた日をしっかり覚えていて何か特別なことをする人もいるかも知れません。しかし、歳を重ねると誕生日はさほど楽しいものでなくなります。結婚記念日も夫婦関係が良くないと「忘れたい日」になるかもしれません。バプテスマを受けた日も、最近の信仰の状態に後ろめたさや気が引ける何かがあると、あまり思い出したくないかもしれせん。
それでも、そうした記念日は私たちの存在に深い意味を与えた日であることに変わりありません。私たちが神の力によってこの世に生を受け、主が導いてくださった人と共に歩むことを始め、キリストにあって新しく生まれた日です。他にもいろいろ意義深い記念日があるでしょう。それらは今の状態が理想的でなかったとしても、私たちがどのように愛され、導かれ、保たれているかを思い起こすようにと記憶し、感謝し、主のゆえにささやかでも祝うべき日です。

“この日は、あなたがたにとって記念となる。あなたがたはその日を主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない。” 出エジプト12:14

佐々木真輝

街を見渡して

みなさん、おはようございます。
3.11以来の朝メールになってしまいました。昨日は久しぶりにゆっくり出来たので、天気も良かったし、花粉もあまり飛ばないという予報だったので、市内を見渡せるスポットに出かけて来ました。3箇所回ったのですが、どこから見てもまだ雪の残る奥羽山脈の山並み(岩手山も見えます)と北上川の流れに守られるように広がっている街並みがよく見えました。
前にも書いたかもしれませんが、こうやって時々、高いところから街の様子を眺めるのが好きです。景色そのものが気分転換にもなりますが、自分が暮らしている街、自分が働いている街、自分が仕えるようにと託されている人々が暮らす街を少し大きな視点で見つめ直すことは自分にとって大切な儀式です。

“主はアブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。” 創世記 13:14

佐々木真輝

2021-03-14 瓦礫に差し込む希望の光

2021年 3月 14日 礼拝 聖書:列王記第二 17:7-20

 つらい失敗の経験に向き合うことには痛みが伴います。特に、深い傷や取り返しのつかないような結果があったり、自尊心が大きく傷つけられたような失敗の場合はそうです。

もし、その失敗に正直に向き合い、そこから教訓や新しいものの見方、あるいは神様の深い導きや守りの御手の跡を見いだせるなら、人生の宝となります。

しかし失敗という辛い現実から目を背け、大したことじゃないと自分にうそをつき続けるなら、そうやって得られた安心も自尊心も見せかけだのものに過ぎず、次の試練に耐えることはできません。続きを読む →

忘れないように

みなさん、おはようございます。
東日本大震災から10年目を迎えました。どんなお気持ちでお過ごしでしょうか。
10年前は岩手にいなかった人もおられますし、受けた影響もそれぞれですから、人によってこの日の重みは違って当然です。皆が同じ感情にならなければならないということではないのだと思います。またあのときに受けた痛みをわざわざふたたび感じるようなことはしなくて良いはずです。それでも、一連の経験を通して神様が教えてくださったことについては共有し、次の世代へと引き継いでいかなければならないのだと思います。
特に、あんなつらい状況、ひどい状況の中でも神様は私たちに良いことをしてくださり、良いものを備えてくださり、信ずべき希望と神様の真実さを表してくださったことは、これからも変わらない真理として確信し、何度でも思い起こすべきことではないかと思わされています。今日の夜は10回目の「3.11集会」があります。かつて宣教師の子どもたちとして岩手にいてくだった方々からつい最近、岩手のために来られた方、また震災以降さまざまな機会に岩手で仕えてくださったり、ささげてくださった方々が、オンラインではありますが、一同に集います。その事自体に心が震えています。

“わがたましいよ 主をほめたたえよ。
主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。” 詩篇 103:2
今日は午前中は婦人会です。夜は祈祷会の代わりに3.11集会があります。
佐々木真輝

嘆く人のかたわらで

みなさん、おはようございます。
毎週月曜日に楽しみにしているテレビドラマがあり、シーズンも終わりに近づき、昨日は一つの山場を迎えました。10年前の津波で母親を亡くした主人公が、父親とともに毎月遺体を捜しに出かけながら法医学者としての仕事を通して生と死に向き合うドラマですが、ちょうど3.11直前というタイミングで行方不明だった母親の遺骨の一部がみつかるという話しでした。岩手の沿岸部でロケもされていて、昨日は陸前高田の奇跡の一本松や震災遺構として残された国道沿いの雇用促進住宅などが映し出され、ドラマの中のこととはいえ、ああやってまだ見つからない家族を追い求めている人たちがまだたくさんいるのだなあと胸がぎゅっとなりました。
喪失感というのは簡単にはいやされないものです。表面的には日常を取り戻したように見える日々であっても、仕方が無いという気持ちと、それでも諦めきれない気持ちが水面下深いところで静かにぶつかり合い、失われてしまった存在の空白をどう埋めてよいか分からないもどかしさが、私たちの心を揺さぶり、力を奪います。そこから立ち直るには長い時間が必要です。喪失に苦しんでいる人を焦らせてはいけないし、孤独にしてもいけないし、傍らに居続けるのにも辛さとエネルギーが必要なのですが、誰かがそれをしなければなりません。

“神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。” コリント第一 1:4

今日は****さんの誕生日です。祝福を祈ります。
午前中は市内牧師会があり、夜は例のラジオ収録があります。どうぞお祈りください。

佐々木真輝

2021-03-07 いつまでも残るもの

2021年 3月 7日 礼拝 聖書:コリント第一 1:1-13

 今週は、あの震災から一〇年目となります。3月にはいって様々な追悼行事が行われ、様々な形で振り返りが行われています。

「震災を忘れない」というふうに言われたりもしますが、一方で「早く忘れたい」という被災者もおられます。ボランティアがたくさん集って友だちが出来たり、世界が広がったように思えた時を懐かしく思う面もありますが、果たして私たちが覚えておくべきことは何だろうかと思わされます。続きを読む →