重い雪の下で

みなさん、おはようございます。
皆さん実感しておられるとおり、今年はここ数年の間ではかなり雪が多い年になっています。教会の周りの雪を置く場所もなくなりつつあり、お隣の病院との間にある細長い「庭」になんとか積み上げていますが、何度も積み上げられた雪の重みで、アジサイやカルミアのような低木がどんな状態になっているかけっこう気がかりです。昨日の夜、非常階段から目に入った裏のキンモクセイも雪の重みで変なふうに枝が思いっきりたわんでいました。でも恐らくそんなことで木々が死んでしまうことはありません。地面の下で春の日差しを待っている他の草花は、いつもより冬が長いと感じているかもしれませんが、きっと何事もなかったかのようにちゃんと花を咲かせるに違いありません。
いのちの力、しなやかさには驚かされます。毎日の雪かきで疲れた時も、コロナ禍で心が塞ぎがちなことも、自分の健康や家族の悩みで心が弱ることもあるでしょうが、いのちの源である主につながっている限り、なんとか生き延び、あるいは驚くほどの輝きを取り戻し、再び花を咲かせることもあるでしょう。

「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。」 マルコ4:26-27

佐々木真輝

また積もってしまったけれど

みなさん、おはようございます。
せっかく一生懸命雪かきをして、さらに気温が上がって教会の周りもきれいになったかと思いったら、一昨日の夜からの風雪でまた積もってしまいました。「せっかくもう!」という気持ちも湧いてきますが、でも決して努力が無駄になったわけではないはずです。がんばって雪を寄せれば教会の前の歩道を歩く人や、車で行き交う人にとっては少しでも歩き安くなったと思います。実際、ちゃんと除雪のされていない道路は歩きにくく、運転しにくいと感じますし、きれいに除雪されていると気持ち良いです。
私たちの努力、忍耐、戦いは何一つ無駄なことはありません。直接自分に良きこととして何もかえって来ないように思えても、誰かにとって良いものをもたらしていたり、思いがけない時に「ああ、このときのための経験だったのだな」と思えたりもします。ですから、今日も自分のすべきことに主にあって励みましょう。

“ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。” コリント第一 15:58

佐々木真輝

嵐の後で

みなさん、おはようございます。
夕べからすごい風の音でたびたび目覚め、ちょっと眠りの浅い夜になりました。何か飛ばされてないかなとか、木が倒れたりしないかなと、自分の身の回りのことも気がかりでしたが、大きな地震で被害を受けた地域の方々も大変だろうなと二重、三重の被害に見舞われないことを祈るばかりです。
嵐の日には、風の強さや音の激しさ、またその結果に心が奪われがちで、気もそぞろになります。そのために小さなことに気づけなかったり、手がつかなかったりします。それは気象現象としての嵐に限ったことじゃないです。疲れ切ったエリヤに神様が嵐や地震、火(火山の噴火?)の中をくぐらせ、その後でかすかな細い声で語りかけるという話しがあります。大きな経験、大変な経験をした後で、静かに語りかける神様のことばに心慰められ、また歩み出せるようにと願います。

“主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。”

今日は神学校のクラスがあります。どうぞお祈りください。

佐々木真輝

2021-02-14 揺るぎなき王座

2021年 2月 14日 礼拝 聖書:サムエル記第二7:8-17

 現代の私たちにとって国は、かっこうの非難のターゲットです。経済が悪くなれば、経済政策がなっていないと批判し、新型コロナの感染拡大がやまないと国の動きはいちいち遅い。どこそこの県知事のほうが総理大臣に相応しいんじゃないかとまで言われたりします。うまくやれていることも結構あると思うのですが、それが誉められることは滅多にありません。

普通の人々が国に求めるのは、様々な脅威から安全を保証され、いろいろな悩みや困難がひっきりなしにやってくる人生の中で安心して生活できるような様々な制度や仕組みをちゃんと作ってやってくれることです。

前回はサムエル記第一を見ました。まさにそのような国を目指し、しかも神を中心とする王国を願って、サウル王が立てられましたが、彼の傲慢さは破滅を招き、次の王としてダビデが選ばれました。サウルに命を狙われながらも誠実さを保ち続けたダビデはどんな王様になっていくのでしょうか。続きを読む →

まだ2月ですから

みなさん、おはようございます。
先週はわりと気温のあがる日が多く、堅くしまった雪もだいぶ溶けてくれました。教会前の歩道に固まった雪や、車道側に張り出した雪の塊を崩しながら、「このまま春になってくれたらなあ」と思い、実際、口にもしてしまいます。でも、まだ2月です。これからも寒さが戻り、雪が降る日もあるでしょう。冬というのはそういうものですから。
イエス様が私たちにもたらしてくれた救いは、春の希望のようです。私たちを閉じ込めていた冬のような罪と死はすでに破られました。私たちの人生は春を待ちのぞんでいる季節のように、時々春を思わせる小さな勝利や喜びを味わい、このまま、この喜びが続けばいいのにと思います。しかし、本当の春である救いの完成の日が来るまでは、寒さが時々戻るように、私たちを悩ます罪や死はくり返されるでしょう。でも、確かに春が近づいていることもまた事実で、そこに私たちの希望があるのです。

“ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。” ヤコブ 5:7

夕べは大きな地震でしたが大丈夫でしたか?
今日は第二週ですので、夕拝があります。

佐々木真輝

大事なことを忘れてませんか

みなさん、おはようございます。
昨日はいろいろなことを忘れていたり、思い出せなくて、困ったり慌てたりしました。特に、とてもお世話になった方なのに、名前がなかなか出て来ませんでした。親しく思っているはずの人の名前を忘れるというのはけっこうショックなことです。実際に会える回数が激減してしまったとはいえ、SNSなどでよく名前も見かけるし、その人の趣味の話しも楽しみに読んでいるのですが。
神様とはじかにお会いするということではありませんが、聖書を読んだり、祈ったり、礼拝を捧げたりといった習慣を通してその存在や心に触れることができますが、そうしたことから離れてしまうと忘れてしまいがちです。名前を忘れるというより、神様の思いや考えに心を寄せることを忘れてしまうのです。私たちにとって大事なことですから、忘れないようにしたいですね。

“ただ、あなたはよく気をつけ、十分に用心し、あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。そしてそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。” 申命記4:90

今日は朝から全キ災の世話人会があります(これも実は昨日の夜に資料が送られて来るまで、すっかり忘れていました)。

佐々木真輝

神を畏れ、王を敬う

みなさん、おはようございます。
今日は「建国記念”の”日」です。日本は、独立記念日とか、民族解放の記念日のようなものがないので、日本神話に登場する初代天皇が即位したと言われる日を元に、建国を記念し祝う日として定められました。歴史的な事実として確定した日付ではないので「の」がついています。
政治の体制や統治の考え方の土台になっているものは様々で、賛成できるものも賛成しかねるものもあります(独裁主義とか国家主義は勘弁です)。しかし、どんな統治であろうと、そこに生きる人々が願うのは安全に暮らせること、安心して暮らせることです。そうした役割が権力者には神様から委ねられています。同時に本当の意味で確かな守りと平安を与えるのは救い主であり、国家も権力も神様の代わり、救い主の代わりにはなりません。そのことを踏まえて、神を畏れつつ、私たちが生きる社会を尊重し、また権力者が正しく統治できるように祈りましょう。

“すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。” ペテロ第一 2:17

今日の婦人会と祈祷会はお休みです。

佐々木真輝

コロナ憎し

みなさん、おはようございます。
昨日、連絡網でお祈りくださいとお願いした、***さんのお姉さんはあのあと、残念ながら亡くなられたとのことです。まだ64歳だったそうです。とても仲の良い家族で、兄弟姉妹どうしが助け合って暮らしていたので、***さんの悲しみも悔しさも計り知れません。遠く離れた日本にいて何もできませんが、国に帰っていたとしても日本よりずっと厳しい制約がある中では、もっと辛い思いをしたのかも知れません。それでも側に居たかったという気持ちは痛いほど分かります。
昨日の午後、お家を訪ねてお祈りさせていただきましたが、その時、詩篇42篇を読みながら涙が出て来ました。「コロナ憎し」という言葉が始めて実感として感じられました。そして気持ちが塞ぎ、内にこもりそうな時に、自分自身に語りかけるようにして、それでも主に望みを置こうとする詩人の姿を通して祈る力を得た思いです。

“わがたましいよ
なぜ おまえはうなだれているのか。
私のうちで思い乱れているのか。
神を待ち望め。
私はなおも神をほめたたえる。
御顔の救いを。” 詩篇 42:5

佐々木真輝

嫌な気分

みなさん、おはようございます。
久しぶりに温泉につかって良い気分になっていたら、後から入って来た年配の方が、体も洗わず、いきなり湯船に入って来て、あろうことかお湯の中でジャブジャブと体をこすり、頭にお湯をかぶってジャバジャバやりはじめたのです。たぶん、温泉に入るときのその人のルーティンなんでしょう。でも、近くにいた私にとってはたまったものではありません。入り続ける気も失せ、さっさと上がることにしました。
お湯の量はたっぷりありますから、一人のおじさんがその程度のことをしたくらいで温泉の水質が悪化したりはしないはずです。それは分かります。でも、合理的説明によって「嫌だなあ」という気持ちがそう簡単に変わるものではありません。自分が誰かに嫌な思いをさせてしまったときも「説明」したとしても、それは自分に都合良く合理化するだけに思われます。シンプルに、心を込めて「嫌な思いをさせてごめんなさい」と言い、行動を変えることが大事ですね。

“それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。” マタイ 3:8

今日は市内牧師会があります。

佐々木真輝

2021-02-07 地に住み、誠実を養え

2021年 2月 7日 礼拝 聖書:詩篇37:1-6

 「いろはかるた」というのがあります。「いろはにほへと ちりぬるを」という「いろは歌」のそれぞれ一文字から始まる諺なんかでカルタ取りをするものです。「い・犬も歩けば棒に当たる」「ろ・論より証拠」「は・花より団子」といった感じですね。やったことのある人も多いと思いますが、あれの良さはゲームの楽しさもさることながら、言葉を覚えられるということですね。

この詩篇37篇も「いろはかるた」のように、ヘブル語のアルファベット順に始まる詩が順序よく並べられた形になっています。内容としては格言集である箴言にもよく似ていて、人生についての様々な知恵を覚えやすいように工夫したものです。続きを読む →