街を見渡して

みなさん、おはようございます。
3.11以来の朝メールになってしまいました。昨日は久しぶりにゆっくり出来たので、天気も良かったし、花粉もあまり飛ばないという予報だったので、市内を見渡せるスポットに出かけて来ました。3箇所回ったのですが、どこから見てもまだ雪の残る奥羽山脈の山並み(岩手山も見えます)と北上川の流れに守られるように広がっている街並みがよく見えました。
前にも書いたかもしれませんが、こうやって時々、高いところから街の様子を眺めるのが好きです。景色そのものが気分転換にもなりますが、自分が暮らしている街、自分が働いている街、自分が仕えるようにと託されている人々が暮らす街を少し大きな視点で見つめ直すことは自分にとって大切な儀式です。

“主はアブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。” 創世記 13:14

佐々木真輝

2021-03-14 瓦礫に差し込む希望の光

2021年 3月 14日 礼拝 聖書:列王記第二 17:7-20

 つらい失敗の経験に向き合うことには痛みが伴います。特に、深い傷や取り返しのつかないような結果があったり、自尊心が大きく傷つけられたような失敗の場合はそうです。

もし、その失敗に正直に向き合い、そこから教訓や新しいものの見方、あるいは神様の深い導きや守りの御手の跡を見いだせるなら、人生の宝となります。

しかし失敗という辛い現実から目を背け、大したことじゃないと自分にうそをつき続けるなら、そうやって得られた安心も自尊心も見せかけだのものに過ぎず、次の試練に耐えることはできません。続きを読む →

忘れないように

みなさん、おはようございます。
東日本大震災から10年目を迎えました。どんなお気持ちでお過ごしでしょうか。
10年前は岩手にいなかった人もおられますし、受けた影響もそれぞれですから、人によってこの日の重みは違って当然です。皆が同じ感情にならなければならないということではないのだと思います。またあのときに受けた痛みをわざわざふたたび感じるようなことはしなくて良いはずです。それでも、一連の経験を通して神様が教えてくださったことについては共有し、次の世代へと引き継いでいかなければならないのだと思います。
特に、あんなつらい状況、ひどい状況の中でも神様は私たちに良いことをしてくださり、良いものを備えてくださり、信ずべき希望と神様の真実さを表してくださったことは、これからも変わらない真理として確信し、何度でも思い起こすべきことではないかと思わされています。今日の夜は10回目の「3.11集会」があります。かつて宣教師の子どもたちとして岩手にいてくだった方々からつい最近、岩手のために来られた方、また震災以降さまざまな機会に岩手で仕えてくださったり、ささげてくださった方々が、オンラインではありますが、一同に集います。その事自体に心が震えています。

“わがたましいよ 主をほめたたえよ。
主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。” 詩篇 103:2
今日は午前中は婦人会です。夜は祈祷会の代わりに3.11集会があります。
佐々木真輝

嘆く人のかたわらで

みなさん、おはようございます。
毎週月曜日に楽しみにしているテレビドラマがあり、シーズンも終わりに近づき、昨日は一つの山場を迎えました。10年前の津波で母親を亡くした主人公が、父親とともに毎月遺体を捜しに出かけながら法医学者としての仕事を通して生と死に向き合うドラマですが、ちょうど3.11直前というタイミングで行方不明だった母親の遺骨の一部がみつかるという話しでした。岩手の沿岸部でロケもされていて、昨日は陸前高田の奇跡の一本松や震災遺構として残された国道沿いの雇用促進住宅などが映し出され、ドラマの中のこととはいえ、ああやってまだ見つからない家族を追い求めている人たちがまだたくさんいるのだなあと胸がぎゅっとなりました。
喪失感というのは簡単にはいやされないものです。表面的には日常を取り戻したように見える日々であっても、仕方が無いという気持ちと、それでも諦めきれない気持ちが水面下深いところで静かにぶつかり合い、失われてしまった存在の空白をどう埋めてよいか分からないもどかしさが、私たちの心を揺さぶり、力を奪います。そこから立ち直るには長い時間が必要です。喪失に苦しんでいる人を焦らせてはいけないし、孤独にしてもいけないし、傍らに居続けるのにも辛さとエネルギーが必要なのですが、誰かがそれをしなければなりません。

“神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。” コリント第一 1:4

今日は****さんの誕生日です。祝福を祈ります。
午前中は市内牧師会があり、夜は例のラジオ収録があります。どうぞお祈りください。

佐々木真輝

2021-03-07 いつまでも残るもの

2021年 3月 7日 礼拝 聖書:コリント第一 1:1-13

 今週は、あの震災から一〇年目となります。3月にはいって様々な追悼行事が行われ、様々な形で振り返りが行われています。

「震災を忘れない」というふうに言われたりもしますが、一方で「早く忘れたい」という被災者もおられます。ボランティアがたくさん集って友だちが出来たり、世界が広がったように思えた時を懐かしく思う面もありますが、果たして私たちが覚えておくべきことは何だろうかと思わされます。続きを読む →

やってみて分かったこと

みなさん、おはようございます。
昨日、来週行われるオンライン集会のためのリハーサルを行いました。海外からの参加者も多いので同時通訳を付けるのですが、必要な人だけが英語音声を聞けるようにするための配信方法を考え、実際にやってみたというわけです。結果として、その方法ではうまく行かないことがわかりました。お金がかからず良い方法に思えたのですが、やってみて分かるいろいろな問題がありました。お金はかかるけれど確実にできる方法に変更することで対処することにしました。やってみなければ失敗もしない代わりに隠れている問題点や弱点にも気づきません。そしてもっと重要な場面でその弱点が大きな問題になってしまいます。だから練習やリハーサル、試験が必要です。
練習やリハーサルでの失敗は失敗ではなく学びです。そして神様の前での私たちの歩みは、人生そのものがキリストに似た者に変えられるための訓練でもあります。この人生での失敗は、人生をダメにしてしまうものではなく、豊かな実を結ぶための訓練の一環です。

“すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。” ヘブル 12:11

佐々木真輝

雪の重みで枝が折れても

みなさん、おはようございます。
教会の周りの雪がかなりとけて、だんだん埋もれていた植栽や地面が見えてきました。市内では福寿草が咲いたところもあるということで、それを聞いただけでずいぶん気分も明るくなります。ところで、雪解けとともに、今シーズンの積雪の重みを感じさせる様子が見えるようになりました。キンモクセイの枝が自然に降り積もった雪で折れ、アジサイやナンテン、ボケの枝が除雪のために積み上げた雪の重みで折れたり大きくたわんでいて、ちょっと痛々しいです。
でも、しっかり根を張って、幹が生きている限り、たとえ枝が折れても、ふたたび枝を伸ばし、葉を茂らせ、来シーズンまで待つことになるかもしれませんが、きっと花を咲かせて私たちを楽しませてくれることでしょう。私たちも傷ついたり、心が折れたり、しぼんでしまったりしますが、いのちの源である神様にしっかり根を張っていればきっと大丈夫です。

“万軍の神よ どうか帰って来てください。
天から目を注ぎ ご覧になってください。
このぶどうの木を顧みてください。
あなたの右の手が植えた苗と
ご自分のために強くされた枝とを。” 詩篇 80:14-15

佐々木真輝

思い出したくないこと

みなさん、おはようございます。
昨日は忘れてはならないことについて書きましたが、私たちの人生には思い出したくないこともありますね。心に深い傷をもたらしたような出来事は、できれば忘れたいし、思い出したくありません。それを思い出させるような人とも会いたくないし、場所にも行きたくないし、似たような場面に遭遇すればめちゃめちゃ心拍数が上がります。ただ、それを放っておいても自然に消えるわけではありません。
私の場合、その出来事と直接向き合うというより、様々なかたちで間接的にとか、さらっとかするように向き合わされました。そして、その出来事を通して味わったことが苦しみばかりではなかったことに気づかされたり、その時には見えていなかったことが見えるようになったりして、少しずつ「苦しみをもたらした物語」から「恵みもあった物語」に入れ替わっていきました。悲しい気持ちがすっかりなくなったわけではありませんが、忘れたいとか思い出したくないというほどではなくなりました。神様は悲しむ私たちをそのままにしないで、喜びを取り戻させてくださいます。

“シオンの嘆き悲しむ者たちに、
灰の代わりに頭の飾りを、
嘆きの代わりに喜びの油を、
憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。
彼らは、義の樫の木、
栄光を現す、主の植木と呼ばれる。” イザヤ 62:3

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

忘れてはならない

みなさん、おはようございます。
一昨日から昨日にかけてオンラインでのセミナー、会議、会合が立て続けにありました。特に、オンラインであったからこそ参加できたのが福島県の諸教会が主催した「3.11記念集会」でした。震災後に災害支援を通して知り合うことになった多くの方々にお会いしたい気持ちはありますが、岩手は岩手でありますし、足を運ぶことができずにいましたので、このような機会がありがたっかたです。とはいえ、誰彼捕まえてお喋りするようなことは出来ませんので、画面の向こうに姿を見ながら数々の発題を聞くことで我慢。
会が終わって、発題者の先生の一人とちょっとしたやりとりをする中で、コロナ禍で大きなイベントが出来なかったのはかえって良かったのかもしれないと思わされました。コロナがなかったら「10年目」という大きな節目となる年に、何か大きな企画をして、何となく区切りがついたような気持ちになって、あとはますます遠い出来事になっていたかも知れません。福島での働きの話しでしたので、今なお現在進行形の問題である原発のことと切り離せず、岩手とはまた違った息の長い歩みをしている方々に尊敬と、ただただ「お疲れさまです」という気持ちで一杯です。そして大切なことを様々思い出させられ、忘れてはいけないし、教えられたことをどう語り継いでいけるだろうかと祈らされました。

“知恵を得よ。悟りを得よ。忘れてはならない。
私の口のことばからそれてはならない。” 箴言 4:5

今日は****さんと****さんの誕生日です。祝福を祈ります。

佐々木真輝

2021-02-28 あなたがたのただ中に

2021年 2月 28日 礼拝 聖書:列王記第一 6:11-13

 人生も後半だなあ、終わりが近づいているなと感じるようになると、歩んで来た道のりを振り返り、自分の人生にどんな意味があったのだろうかと考えることが増えるかもしれません。寿命や高齢という場合だけでなく、若くても、人生の壁にぶつかって「今まで何やってきたのだろう」「これまで頑張って来たことに何の意味があったのだろう」と考えることはあると思います。

今日と一週おいて再来週の2回に分けて列王記を学んでいきます。ダビデによって確立した王国が、およそ400年の繁栄と衰退の後に滅びてしまった後、この列王記は記されました。先祖アブラハムへの神の約束に基づいて生まれ、世界に祝福をもたらすと言われた王国が滅亡してしまったときに、いったい自分たちは何をしてきたのか、いったいなぜこんなことになってしまったのかと振り返っている書物です。続きを読む →