神ともにいまして

みなさん、おはようございます。
つい一時間程前に、南のほうに旅立つ**先生をお見送りして来ました(駅に入ること自体、一年以上ぶりでなんだか新鮮でした)。天気もよく、市内でもだいぶ早めに桜が咲く駅近くの公園では何輪かの桜の花が咲いていました。「いい日、旅立ち」です(古いですね)。昔は駅のホームで大勢集まって「神共にいまして」と歌って見送った、なんて場面があったことを思い出しもしました。そういうこともはばかられる時代になり、寂しいなあと思いつつ、ホームに飾られた展勝地の写真の前で記念写真を撮るのがせめてもの記念。
この春新しい歩みが始まった方々、子どもたちを覚えて、その歩みが祝福されるようにと祈ります。不安も緊張もあるかと思いますが、やがて慣れたり、親しい人が出来たりして解消していくことでしょう。神様は、備えてくださったその道のりを、共に歩んでもくださいます。大変な時もあるかもしれません。辛いときは逃げたり休んだりしても良いと思いますが、それ以上に神様は良いことを備え、思っているより素晴らしい事が待っていると信じて祈ります。

“あなたは私が歩くのも伏すのも見守り
私の道のすべてを知り抜いておられます。” 詩篇 139:3

佐々木真輝

2021-04-04 扉を開く時

2021年 4月 4日 イースター礼拝 聖書:ヨハネ20:19-21

「イースターの朝にはしらゆりを飾りましょう」と歌いましたが、イエス・キリストが死を打ち破ってよみがえられたことを象徴する、イースターらしい飾り、花があります。有名なところではしら百合以外に玉子に色を塗ったり模様を描いたりするイースターエッグがありますし、なぜかウサギも登場します。

といっても、それはかつて異教世界だったヨーロッパに福音が伝えられ、もともとあった様々な文化的なしるしを用いて、キリストの復活を表すものとして使い続けたものです。イースターのたまごも、うさぎも、しら百合も、聖書の中では復活と関わる意味で用いられることはありません。そういうのはイエス様の復活を想い起こし、喜ぶための楽しいしかけ、風習として受け取ればいいのです。ですから、帰りに卵形のクッキーと、今年は特別に「かもめの玉子」もお持ちいただきますが、ただ楽しんでくださればと思います。続きを読む →

復活祭

みなさん、おはようございます。
我が家の庭にも春の花が次々と花を咲かせ、雪解けの後は何もなかった地面が実にカラフルになりました。雑草も生き生きと拡がりつつあります(笑)。もちろん死んでいたわけではなく、冬の寒さの中、あるいは土の中で時を待ちいのちの力を蓄えていたわけです。それでも、長い冬があけ色味の少ない景色が一気に華やぐ春は、イエス様の死の中からの復活を思わせる季節の巡りです。
今日はそんなイエス様の復活をお祝いするイースターです。イースターエッグ探しのようなイベントはありませんが、イースター礼拝を通して喜びを分かち合いましょう。いつものようにイースターのクッキーも用意しています。

“キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。” コリント第二 13:4

佐々木真輝

人にも自分にもご無理なく

みなさん、おはようございます。
コロナ禍となってから大人数での会食を控えるようにと言われ、飲食店には営業時間の短縮などが要請されるようになってだいぶ経ちます。教会でも食事の交わりやカフェなどが1年以上出来ていませんね。そんななか、最近目に付くのが国や地方の旗振り役であるはずの方々がこっそり宴会やってましたって話し(「会食」とやわらかく表現されてはいますけど)。人とふれあう、食事を一緒にする、仲間と大声で笑い合う、肩を寄せ合って泣く。人間が何千年も当たり前にして来たことを「ダメ」と言われているのですから、相当無理なことではあるんですよね。
こっちが頑張ってるという気持ち(実際の行動も)が強いほど、ちゃんとしてなさそうな人に腹が立つかもしれませんが、こういうことは厳しさだけでなく、愛と寛容さも合わせてやっていかないと身も心も持ちません。人に厳しく求めすぎると、それは自分も負いきれない重荷として自分に返ってきます。人にも自分にもご無理なく。

“そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。” コロサイ 3:14

佐々木真輝

眼のかゆみとともに

みなさん、おはようございます。
黄砂のためにうっすらとそらが黄色がかって、折からの花粉とのダブルパンチで昨日は一日中眼がかゆくてしかたがありませんでした。今年になって花粉症になったという友人もおり「いらっしゃいませ〜」と仲間が増えたことを喜んでます。悪いですね。この辛さを共有できる人が身の回り増えるくらいしか楽しいことがないのが花粉症の辛さです笑。
私たちがこの世界に生きている限り、この世界の様々な動きに影響されます。大陸の砂漠が生み出す黄砂は周辺の土地を豊かにするような効果もあるのだそうですが、遠く離れた日本ではちょっとした公害にならざるを得ません。人間が良かれと思って山ほど植えた杉の木がこんなにたくさんの花粉をまき散らしてアレルギーを引き起こすなんて、たぶん誰も想像しなかったことでしょう。この世界は人間が思うように扱えるほど小さくはないし、人間に良いものを与えるだけでなく厳しさもあるのです。このあたりも、やがてイエス様の救いの完成とともに回復されるはずです。罪によって傷ついた人間が赦され救われるだけでなく、罪のために傷ついたこの世界もいやされるのです。

“被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。” ローマ 8:21

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

ていねいに生きる

みなさん、おはようございます。
昨日の夜、サッカー日本代表のワールドカップ予選をテレビで観戦しました。相手はモンゴル。実力差があるのは分かっていましたが、それでも14対0という一方的な試合でした。そんな大差でつまらない試合だったかというとそうでもありませんでした。かといってコテンパンにやっつけてやろうとか、力でねじ伏せようというような嫌な感じもありません(主観的かもしれませんが)。日本代表も最後の最後まで一切手を抜かず、余裕をこくこともありませんでした。だから相手チームも負けたとはいえ、最後まで全力で挑戦し続けていました。
実力差があっても甘く見ない。余裕で出来ることでも手を抜かない。こういう姿勢は相手や仕事に対する敬意、誠実さとして大切なことだなあと思わされました。やり慣れたこととか、それなりにベテランの域に入っているなら、なおさら忘れてはいけない事ですね。今日も丁寧に生きて生きたいと思います。

“主は正直な人のために、すぐれた知性を蓄え、
誠実に歩む人たちの盾となり、
公正の道筋を保ち、
主にある敬虔な人たちの道を守られる。” 箴言 2:7-8

佐々木真輝

言いたいことがたくさんあると

みなさん、おはようございます。
昨日はおどろくほどの温かさでしたね。さて、昨日は以前収録されたラジオ番組が市内のコミュニティFMで放送されました。実際には20分以上話したので、それを半分以下に収めるには編集作業が必要です。そこはお任せだったので、どういう放送になるかどきどきしながら聞いていました。「あそこは使われなかったんだ」とか「これを拾ってくれたのね」と感じることはありましたが、番組の方向性とうまくバランスを取りながらまとめてくれたと思います。それより自分のしゃべり方がとても気になりました。
言いたいことがたくさんあっても、どんなふうに理解され、受け止められるかは相手次第というところがあります。思ってもみなかった受け止められ方をして、誤解やすれ違いに困ることもあります。ですから、お互いによく聞くこと、できるだけ相手の立場にたって言葉を尽くすことが大事ですが、言いたいことがいっぱいあればあるほど、どちらもおろそかになりがちです。

“私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。” ヤコブ 1:19

今日は****さんの誕生日です。祝福を祈ります。
昨日の放送はYouTubeで聞くことができます。

佐々木真輝

ほんとうに出来るか

みなさん、おはようございます。
昨日から受難週が始まりました。土曜日に受難週に向けた説教の準備をしている最中にMさんの母国のお兄さんが召されたとの知らせがあり、翌日語ろうとしている内容について改めて考えさせられ、祈らされました。結局、内容を変えることなく、そのまま昨日の礼拝でお話させていただきました(午後の大船渡礼拝でも同じ内容)。イエス様が十字架の苦難の向こう側にあるものを見据えて待ち受けるものをすべて受け止めたように、私もイエス様の愛に信頼し、約束に望みを置いて、たとえ苦難があっても、これからの人生を受け止めて生きて行きたいとお話したのですが、それを語りながら、Mさんが経験したような大きな悲しみ、理不尽とも言える苦しみを本当に受け止めて行けるのか?と問われていました。
イエス様はむやみに誓うことを戒め、「『はい』は『はい』、『いいえ』は「いいえ」としなさい」と教えました。だからこれから待ち受けるすべてのことを今想像しているようにちゃんと受け止めると決意はするけれど、誓うことはできないなあ、その時になれば逃げ出したり、めちゃくちゃ混乱したりするのかもしれません。人生はわりとそんなふうにみっともない面が多かったりするのだとは思いますが、それでも支えてくださる神様の愛と哀れみを信じます。

“あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。” マタイ 5:37

今日は牧師会があります。まだオンライン開催が続きます。

佐々木真輝

2021-03-28 十字架の向こうに

今週は受難週となります。イエス・キリストが十字架につけられるためにエルサレムに入場した、「棕櫚の日曜日」から始まり、木曜の最後の晩餐、金曜の十字架、そして復活を待つ沈黙の土曜日まで、イエス様が私たちの救いのために苦しみを受けてくださったことを思い起こす一週間となっています。

イエス様が私たちのためにご自身を捧げてくださったことを思い巡らし、味わうために受難週に断食をしたり、断食とまではいかなくても、いつも楽しみにしているものや好きなことを一週間我慢する、ということを実践する人たちもいます。どのような過ごし方でも良いので、ぜひイエス様の十字架に至る道のりを覚えて過ごしましょう。なぜならば、この受難週こそは、何のためにイエス様がこの世においでくださったかをはっきりと指し示すものだからです。続きを読む →

道半ばなはずだから

みなさん、おはようございます。
昨日からオリンピックに向けての聖火ランナーのリレーが始まったそうです。世界的にコロナ禍の終息が見えない現状では個人的には開催に賛成できません。ただ、オリンピックに情熱を傾け、全てを賭けるくらいの決意で取り組んでいる人たちもいるのですから、大声で反対を叫ぶ気持ちにもなりきれません。最終的に開催されるかどうかもなんだか良く分からない感じですが、やるならやるで、本当に頑張っている人たちのためにも、心から応援する形にしてほしいところです。オリンピックを招致する時は「震災から復興したこと」を世界に示すということだったと思いますが、いつのまにか「コロナに打ち勝った証し」が追加されて、震災復興も道半ばで、原発事故の解決に至ってはまるで先が見えない上に、コロナまでしょいこんで果たして大丈夫なのかと、余計なお世話かもしれませんが心配しています。
出来ていない事を出来ているかのように強がってみせたり、出来もしないことを出来ると言い張るより、道半ばだから応援してください、力を貸してください、という方が正直なうえに本当の解決につながり、自分自身の助けや成長にもつながります。そして、私たちは誰もが道半ばなはずですね。

“私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。” ピリピ 3:12

佐々木真輝