雪が降れば思い出す

みなさん、おはようございます。
ようやく本格的に雪になり、昨日の朝は久しぶりの雪かきにだいぶ時間を取られたのではないでしょうか。立ち往生や事故もあったようです。雪が降るとちょっと(日によってはかなり)大変ですが、やっぱり冬らしさを感じます。朝窓を開けた時、「きれいだなあ」と最初に思います(すぐ大変だなとも思いますが)。
白い雪によって庭に残っていた紅葉の落ち葉もすっかり覆われ、春までの間に雪の下で新しい命の芽ばえの準備がされています。そんなふうに雪がふると、聖書の中に出てくる数少ない雪にまつわる箇所を思い起こします。イエス様によって私たちの罪と闇が真っ白く覆われ、その間に古いものが過ぎ去り、新しいいのちが息づき力強く息づいくのです。

“「さあ、来たれ。論じ合おう。
──主は言われる──
たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、
雪のように白くなる。
たとえ、紅のように赤くても、
羊の毛のようになる。” イザヤ1:18

今日は小野邦子****さんの誕生日です。祝福を祈ります。

佐々木真輝

2020-12-13 主はあわれみを忘れず

2020年 12月 13日 礼拝 聖書:ルカ1:39-56

 アドベント3週目となりました。今日は、先週の続きの箇所です。マリアが、救い主を身籠もるという御使いの驚くようなお告げを、信仰をもって受け止めた後の話です。今日も二千年前の聖書の世界に思いを馳せましょう。

御使いが去ってほどなく、マリアは御使いの話しの中に出てきたエリサベツのもとを訪ねることにしました。たぶん、このときにはすでにヨセフにも天使が現れ、事の次第を説明し、恐れないでマリアを妻として迎えなさいという励ましがあり、二人でこの大事な務めを果たすために心を一つにしていたのではないかと思います。続きを読む →

蜜のように甘く

みなさん、おはようございます。
昨日はTさんとの週一度の聖書の学びがありました。個人的にでもグループでも、神学校のクラスとしてでも聖書を一緒に学べるのはとても楽しく、励まされ、そして今なお自分が教えられ続けるので、どんなに忙しくても楽しみです。
一対一の学びも何人かでの学びも、じっくり学ぶのも、短い時間で味わうのもそれぞれに良さがあります。そして、何か一つでも気づきがあって、教訓になったり、慰めになったり、励ましになったりすれば、大きな喜びです。そういう感動や発見があまり感じられないという時もありますので、あまり効率は良くない感じもしますが、人の心が養われ、変えられるのは時間をかけてなされる営みですからちょうど良いのです。

“あなたのみことばは
私の上あごになんと甘いことでしょう。
蜜よりも私の口に甘いのです。” 詩篇119:103

昨日は横山裕香さんの誕生日でした。遅ればせながら祝福を祈ります。
今日は第二週ですので夕拝があります。

佐々木真輝

師走感

みなさん、おはようございます。
昨日ラジオを流しながら車を運転していたら「師走感がない」という言葉が耳に入って来ました。教会ではクリスマスの飾り付けをし、アドベントのロウソクを毎週一本ずつ火をつけていますが、日本人としてもっと身近な歳末の感じをいまいち感じません。セールにもいかないし、忘年会のお呼びもかからないし、お正月に誰かが帰って来るという期待感もあまりないし、クリスマスのイベントが減ったためにその準備に追われるということもあまりありません(暇というわけではないのですが)。師走感がないというのはそういうことかも知れません。
それでも気付けばあと3週間で怒濤の2020年も終わり、この我慢の日々もそのままに新しい年を迎えることになります。ある意味で、これだけ切羽詰まった感じなしに年を締めくくれるのであれば、いつにもまして感謝して、クリスチャンらしく希望をかかげ、クリスマスにふさわしい温かい心と思いやりをもって年末の時期を過ごしましょう。

“最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。” ペテロ第一 3:8

入院中だったMさん、無事に退院されました。感謝。

佐々木真輝

遅れを取り戻す

みなさん、おはようございます。
いろいろな仕事や約束が遅れたり、期限が差し迫って来たりして、一生懸命遅れを取り戻そうとしているところです。時間も体力も集中力も限られているので何かを優先させれば他の何かを捨てるか後回しにしなければなりません。某マンガの台詞じゃないですが「何かを得るためには同等の対価が必要になる」ものです。あれもこれもやり遂げようと休息や睡眠時間を削ると、翌日の仕事の能率を落とすことになり、結局はまた何かを犠牲にすることになります。
そういう見方からすれば、神様が私たちに赦しと祝福を与えるために、対価を私たちに要求するのではなくイエス様が代わりに払ってくださったということは本当にすごいことだと思います。私たちはいろいろと足りないように思えても、実はすでに大きな豊かさの中にあるこことを思い出して今日も励みたいと思います。

“しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。” ローマ 5:15

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

山路越えて

みなさん、おはようございます。
だいぶ久しぶりになってしまいました。このあいだからホームページの再構築にだいぶ時間を取られて朝メールを書くゆとりがありませんでした。まだ全部は終わっていないのですが、ちょっと大きな山を一つ越えたかなというところです。
実際の山上りもそうですが、人生においても山上りのような時があって、一山越えてちょっと一息ついても、道の先にはまた上りがある、なんてことは良くあることです。それでも、一つの峯を越えることは一つの節目だし、ちゃんと前に進んでいる証しですし、希望もありますね。またぼちぼちと朝メールも書き始めて行きたいと思います。

“主は私のたましいを生き返らせ
御名のゆえに 私を義の道に導かれます。”詩篇 23:3

佐々木真輝

2020-12-06 あなたのおことばどおり

2021年 12月 6日 礼拝 聖書:ルカ1:26-38

 先週からアドベントが始まりました。先週はクリスマスカードをお送りし、12月に入ったら急に寒くなって来て、いよいよクリスマスが近いなあという気分になってまいりました。

さて今月のみことばは、マリアの受胎告知の場面から取り上げました。マリアに告げられた、祝福の言葉がどのように現実のものとなっていったのか、おなじみの箇所ではありますが、今年も味わってみましょう。続きを読む →

お宝発見

みなさん、おはようございます。
昨日の夜、家に帰ってから残っているホームページの復旧にとりかかっている中で、失われたと思っていた「朝メール」の過去分のデータが残っていることに気づきました。ほかの人にとってはそれほど価値がなくても、日記を付ける習慣がついぞ身につかなかった私にとっては、様々な出来事を経験しながらみことばから教えられたり、意味を思い巡らしたり、気づかされたことの記録なので、埋もれていた資料の山から貴重な記録を見つけたような、お宝を発見したような気分です。ただ、それをどうすれば使えるように復元できるかがまだ分からず、中身があるのは分かっているけれど金庫を開けられずにいるようなもどかしさもあります。でも、なんとか取り出したいと思います。
イエス様の譬え話の中にも、畑に宝を発見した人の話しが出てきます。その人は宝を秘密にし、手に入れるために持っているものを全部売り払って畑ごと買い取るだろうと言われました。それが今まで持っていたものよりずっと価値があるからです。イエス様のくださった救いと恵みは、それほどに価値があるものです。

“天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。”
マタイ 13:44

今日は*****さんの誕生日です。祝福をお祈りします。

佐々木真輝

侵入

みなさん、おはようございます。
しばらく朝メールを出せずにいました。先週末、教会やネットワークのホームページを置いているサーバーに不正なアクセスがあり、一部まったく更新も修正もできない状態になりました。サーバー会社に問い合わせたところ、対処方法としては全部一旦削除して、作り直すというもの。どこかの誰かが何らかの良からぬ企みでばらまいたものに、たまたま引っかかってしまっただけなのかもしれませんが、こちらとしては大迷惑です。およそ10年分の朝メールのバックアップも飛んでしまいました(泣)
どういう形であっても他者の領域に勝手に入り込むことは悪です。侵入する方はそれほど悪いと思っていなかったり、ほんの少しだけのつもりだったりするかもしれません。しかし、相手が受ける傷や被害は、その本人でないと分からないものです。私たちの心に語りかけるイエス様でさえ、心のドアの外で叩いて、私たちのほうからドアを開けるのを待っていてくださるのです。私たちはなおさら、理由はどうあれ他者の領域、心に勝手に踏み込むことは良くありませんね。ただ素晴らしい喜びと親密さは、こちらからイエス様を心に迎え入れる時に与えられるということも忘れてはいけません。

“見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。”
今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

2020-11-29 按手式奨励

2021年 11月 29日 礼拝 聖書:コリント第二 4:1-10

 あらためまして、デイビッド先生、そして宮古と盛岡の兄弟姉妹の皆様、おめでとうございます。岩手教会連合を代表して、心からお祝いを申し上げたいと思います。

今回、牧会従事者というあまり聞いたことのないタイトルの働きに立てられるということで、その意義についてしばらく前から考えていました。

宣教師という身分で、盛岡聖書バプテスト教会が主体となってなされている開拓伝道の働きのために派遣された現地責任者である方に、牧会の役割も担っていただく。しかし、牧師ではないという、不思議な立ち位置です。

けれども、これはあくまでこの地上での教会制度上の話しであって、神様がある人たちを教会の指導者として選ぶ場合に求めることは基本的に同じです。牧会の責任を担うというのは、単にバプテスマを授けたり、主の晩餐を授けることができる資格の話しではありません。

牧会従事者という肩書きであっても、福音を宣べ伝え、聖徒たちを整えるにあたって、牧師と同じ心で仕えていく必要があります。

牧会の働きを担って行くということは、3つの真理を発見をし続けることであると思います。

第一に、牧会の務めをする者は、人間の罪の闇の深さを知り続けることになります。

教会にいらっしゃる方々の多くは決してひどい悪人ではないかもしれません。それにも関わらず、その悩みや思い煩いの背後にある罪、家族の中に長く隠されていた深い闇に気づかされることがあります。また、深い悲しみや攻撃的な態度の中に、かつて誰かから受けた悪意やそのために残った傷の深さに気づかされることがあります。脅かすわけではないですが、意地悪な批判や悪意しか感じられないような言葉や態度を、兄弟姉妹であるはずのクリスチャンから受けることもあります。けれども牧会者はまるで素手で刀を受け止めるようにして向き合い、忍耐強く関わることが求められたりするのです。

しかし第二に、牧会の務めをする者は、救いの恵みの素晴らしさを発見し続けることになります。

人がイエス様を信じてクリスチャンになる時はもちろんですが、クリスチャンがみことばによって成長したり、人知れず忠実に歩んでいる姿を見ることができます。深い傷や悩みから回復したり、悔い改め、和解し、他の人のために汗や涙を流すようになるのを見る事ができます。牧会をすることで、救いというものが罪赦され天国行きの切符をもらうだけのことではない、生涯続く恵みの連続であることを知ることができます。

第三に、牧会の務めをする者は、その救いの素晴らしい恵みの器である自分が「土の器にすぎない」というみことばの意味をより深く知り続けることになります。

説教の準備をするとき、人と関わる時、自分の欠点や弱さに気付く時、可愛かった子どもたちが手に負えなくなったとき、肉体的な衰えにちょっと気づき始めた時…様々なときに、宝物ののようなキリストを入れる器である自分が高価な金銀の器ではなく、割れやすく、あまりふさわしくない土の器であることを気づかされます。しかも、それが年々より深く自覚するようになります。けれどもそのような経験こそが、神様の恵みの深さ豊かさを味わう素晴らしい機会になります。それはイエス様の恵みの豊かさが表されるためであり、私たちがますます謙遜になるためでもあります。

そうやって牧会の務めにあたる人は、へりくだり仕える、キリストに似た者とはどういう者かを指し示すモデルにもなるのです。牧師じゃなく、牧会従事者だから、と言うわけにはいきません。しかし、名前に関わらず、この素晴らしい恵みを味わう特権が与えられています。

牧会の働きはそのように、重い務めであり、そこに真実に取り組もうとしているのですから、デイビッド先生はよく祈り、みことばに学び、人々の魂によりそいながら、忍耐強くご奉仕していただきたいと思います。そして教会は神様が立てた者として敬い、支えていく責任があります。

宮古めぐみキリスト教会の祝福のために、今日はこの場においでになれない岩手教会連合の諸教会の兄弟姉妹、先生がたと共にお祈りしています。