2020年 9月 20日 礼拝 聖書:マタイ28:1-15
2016年の暮れ頃から読み始めたマタイの福音書も、いよいよ残すところ、今日を含め2回となりました。今日の箇所は、普段なら春のイースターの頃に取り上げられる箇所です。
よく読んでみれば分かることですが、マタイの福音書には、イエス様の復活の様子そのものは何も描いていません。マタイだけでなく、マルコ、ルカ、ヨハネの三つの福音書も同様です。続きを読む →
2020年 9月 20日 礼拝 聖書:マタイ28:1-15
2016年の暮れ頃から読み始めたマタイの福音書も、いよいよ残すところ、今日を含め2回となりました。今日の箇所は、普段なら春のイースターの頃に取り上げられる箇所です。
よく読んでみれば分かることですが、マタイの福音書には、イエス様の復活の様子そのものは何も描いていません。マタイだけでなく、マルコ、ルカ、ヨハネの三つの福音書も同様です。続きを読む →
2020年 9月 13日 礼拝 聖書:マタイ27:57-66
皆さんの多くは葬儀や埋葬の場面に立ち会ったことがあるかと思います。牧師になってからは司式者として遺族に寄り添うことが多いので、遺族への気遣いや式そのものへの配慮といったことに気を回すことが多いので、自分の感情はわりと後回しになります。それでも、火葬の時にあの扉が閉じられる場面は何度経験しても胸が締め付けられます。
葬儀で十分に悲しみを注ぎ出すことができ、丁寧に弔うと、実際にお墓に埋葬する時には結構気持ちが整理されていることが多いように思います。悲しみもよみがえりますが、笑顔も見られます。
しかし、イエス様の埋葬の場面はまったく異なりました。続きを読む →
2020年 8月 23日 礼拝 聖書:マタイ27:51-56
「気付いた時にはもう遅い」ということがあります。しかし他方で、「気付くのに遅すぎることはない」とも言います。
起こってしまったことはもう元に戻せませんが、元に戻せないそんな所から、新しいことを始める道も必ずあるものです。
イエス様を十字架にかけてしまうということは、取り戻せないことです。神様のご計画のうちに起こったこととはいえ、当事者たちは、ねたみや怒りに駆られてイエス様を殺そうとし、総督ピラトは群衆の反応を恐れ、兵士たちはまるで余興でも楽しむかのような残酷さをもって処刑を実行しました。しかし、イエス様が息を引き取った後、ある人たちは我に返るように、イエス様が本当に神の子であったことに気付きます。果たしてそれは遅すぎることだったのでしょうか。それとも、遅すぎることはないのでしょうか。続きを読む →
2020年 8月 16日 礼拝 聖書:マタイ27:39-50
「死に際」という言葉があります。朝から重い言葉ですが、人は、誰かが亡くなった時に、その死に際がどうであったかにとても惹かれます。岩手には、義経伝説がありますので、弁慶が主を守るために何本も矢で射られても死ぬまで立ったままだったとか、義経は本当はその後も生きていたかもしれないなんて話しに興味が惹かれるだけではありません。
家族や友人、知人のいのちの火が消えようとするとき、どんな言葉を残したのか、苦しそうではなかったか、どんな表情だったか。そこにその人の気持ちや思い、あるいはその人の人生の意味や生き方まで重ね合わせ、その死を受け入れていくために、何かを求めて、「死に際」に心を向けるのかも知れません。
いよいよ今日はイエス様が十字架上で息を引き取られた場面となります。まさにイエス様の死に際です。続きを読む →
2020年 8月 9日 礼拝 聖書:マタイ27:27-38
イエス様の最後の一週間の出来事をたどり始めたのが昨年の11月半ばです。一週間の出来事をかれこれ9ヶ月かけてたどっています。最後の晩餐の日から翌朝の裁判のわずか一日の出来事も3ヶ月ほどかけて読んで来ました。途中、クリスマスがあったり、新年を迎えたり、月に一度は年間主題に合わせ「今月のみことば」を取り上げたりもして、抜けた週もありましたが、それにしても長くイエス様の十字架に向かう道のりをたどっています。続きを読む →
2020年 8月 2日 礼拝 聖書:ヨハネ13:34-35
皆さんが、クリスチャンらしさを発揮しようと思ったら、どういうことをするでしょうか。教会がこの世界にあって、教会らしくあるとはどういうことでしょうか。
イエス様を知らない人と私たちが違う生き方をするとしたら、その違いはどういうかたちで表れるべきでしょうか。子どもたちに、クリスチャンとしての生き方を伝えようとするなら、何を大切にするよう教えるでしょうか。
8月の「今月のみことば」として挙げさせていただいたのは、「新しい律法」とか「新しい戒め」と呼ばれているヨハネ13:34です。続きを読む →
2020年 7月 26日 礼拝 聖書:マタイ27:15-26
今日は礼拝の中で使徒信条をお読みしまたが、その中に「ポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられ」という一文があったことを覚えておられるでしょう。
その出来事が今日の箇所です。使徒信条にピラトの名前が入れられた経緯は分かっていません。しかし、その一文があることではっきり強調されていることが分かります。続きを読む →
2020年 7月 19日 礼拝 聖書:マタイ27:1-14
私たちにとって、どんな時でも神がともにおられるという信仰は、心と人生の大きな支えです。しかしそういう私たちにも、足元が揺らぎ、信仰がぐらつくような事があります。
マタイの福音書が書かれた時代は、そのような危機的な状況でした。教会には多くのユダヤ人がいましたが、彼らにとって、衝撃的な出来事が起こりました。ローマ軍によってエルサレムが壊滅させられ、神殿が完全に破壊されてしまったのです。ユダヤ人にとっては精神的な支柱が失われたとも言えます。旧約聖書で預言されてきた、約束の民の回復がどうなってしまうか心配な状況です。そういう人たちに向けて書かれたのがマタイの福音書でした。続きを読む →
戦国時代末期から江戸時代に、キリスト教、当時のキリシタンへの弾圧が厳しくなり、隠れキリシタンと呼ばれる人たちが表面上は普通の人として暮らしながら、密かにキリスト教信仰を保って来ました。普通の人として暮らす、ということは江戸時代に確立した檀家制度の中に身を置き、仏教徒として暮らしながら、秘密の礼拝の場所、祈りのための道具、祈りの言葉などをごくごく限られた者たちの間で守り、伝えて来たということです。
今の日本ではそこまでの弾圧はありませんから、キリスト教信仰を持ってるからといって牢屋に入れられたり、3世代にわたって警察に監視されるなんてこともありません。それでも、多くの人から、友だちや職場で、自分がクリスチャンであることや教会に行っていることを積極的には話さないという声を聞きます。続きを読む →