2022年2月6日 隔てるものを越えて

2022年 2月 6日 礼拝 聖書:ヘブル11:29-31

 月一度、こうして主題聖句に関連してヘブル11章を少しずつ読み進めて来ましたが、残すところ2回となりました。

私たちの人生や人間関係には、さまざまな形で立ちはだかるものが表れます。

一般的な意味で、何かを成し遂げるために乗り越えなければならない壁ももちろんあります。行きたい大学に入るためには受験の壁を乗り越えなければなりませんし、やりたい仕事があれば採用試験や面接を乗り越えなければなりません。

仕事でもスポーツでも目指す結果に到達するために様々な壁を越えていかなければなりません。

今日の箇所にも、ある意味でそうした壁に似たものに直面した人々のことが書かれていますが、大きな違いもあります。神のことばに従おうとした時に直面する壁、努力や熱意以上に信仰が求められる壁です。

今日は旧約聖書に登場する普通の人たちが主人公です。物語自体は有名ですが、その場面にいた多くの普通の人たちがいかに信仰を働かせ、壁を乗り越えて来たのかを学んでいきましょう。

1.向こう岸へ

最初のエピソードは、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民たちです。

モーセの信仰については前回、23~28節で取り上げました。エジプトを脱出するためにモーセの果たした役割は大きいのですが、このプロジェクトが実現するためにはリーダーだけでなくイスラエルの民全体の信仰が必要です。

エジプト脱出にあたって、モーセが神に対する信仰を求められたのは当然のことです。しかし、民も、モーセが神に遣わされたリーダーであることを信じ受け入れなければなりませんでしたし、そもそもヨセフの時代からすでに何百年も経ち、その間、何も語らず、姿も見せなかった神が本当にいることを信じる信仰も問われました。

エジプトに様々な災いがくだる間、イスラエルの民が守られるという奇跡を目の当たりにしながら、最後の10番目の災い、エジプト全土の最初に生まれた男の子が命を落とすという災いの時には、小羊の血を家の鴨居に塗るという、不思議な方法で災いを逃れるようにと言われました。それもまた神のことばに対する信仰が求められることです。

そうやってエジプト王に追い出されるような形でエジプトを脱出した民は「本当に神が約束した通り、奴隷から解放し、約束の地へ連れ戻してくれるんだ!」と感動したに違いないのですが、すぐに試練がやってきます。

イスラエルの民の行く手には海が拡がっています。エジプトとシナイ半島を隔てる紅海と呼ばれる細長く奥まった湾ですが、この海を越えなければ約束の地へは向かえません。そして後ろからは、イスラエル人を解放してしまったことを後悔したエジプト王が軍隊を率いて来ます。

絶体絶命の状況ですが、私たちの信仰の歩みにも少し似た状況が起こり得ます。イエス様を信じて歩み出したり、みことばに励まされて何かを決意して踏み出し、喜んで歩み始めたのに、すぐに心を折るように妨げるものが立ちはだかったり、身動きが取れなくなるような事があるのです。

実際、イスラエルの人々も目の前の海と後ろに迫るエジプト軍に怯えながら、モーセに文句を言い、神は俺たちを殺すために連れて来たのかと不届きなことを言い出すほど動揺しました。

しかし、モーセが杖を海に差し伸べると海が二つに分かれ、乾いたところを渡って向こう岸へ行くことができました。追いかけて来たエジプト軍は再び戻った海にのみ込まれてしまいます。

あんなに文句を言っていたイスラエルの民の行動について、ヘブル書の著者は、ブーブー不平を言う場面ではなく、信じて海を渡ったところを切り取って、「彼らは信仰によって向こう岸へ行ったのだ」と描いているのです。

私たちも、出だしで躓いたり、何か思いがけない妨げに恐れたり、苛立ったり、不平不満が出るかも知れませんが、それでも主の助けと導きを信じて踏み出すなら、神様は私たちの不平不満ではなく、私たちの信仰をご覧になり、お認めくださり、道を開き、向こう岸へ渡らせるように歩ませてくださいます。

2.壁を越えて

2つめのエピソードは、壁を打ち壊すこと自体が神様の命令でした。これもまた有名な物語です。

イスラエルの民は、エジプトを出て40年にわたる荒野の旅の後、ようやく約束の地にたどり着きました。

このとき指導者はモーセからヨシュアへと世代交代していました。イスラエルの民たちも世代交代し、エジプトでの暮らしにすっかり慣れて不平不満の多かった世代から、荒野で神と共に歩むことを学んだ新しい世代が中心になっていました。

最初に攻略すべき町として主が示したのはエリコでした。ヨルダン川を渡ってすぐのところにある城壁に囲まれた守りの堅い町です。その城壁を打ち破らないことにはどうしようもありません。

よく歴史ドラマなんかで攻城戦の話が出てきますが、普通は大軍で囲んで外部との接点を断ち食料や水が尽きるのを待つか、特殊な兵器で出入り口を破壊したり城壁を登ったりして強行突破するか、密かに内部に入り込んで内側から破壊工作をしたり、嘘の情報を流して敵内部の対立や寝返りを誘ったりするような情報戦が採られます。強行突破する場合でも、兵糧攻めをする場合でも相手の何倍もの兵力が必要ですし、場合によっては何ヶ月もの長期戦にもなります。

しかしここはカナンの地占領の緒戦です。頭の良い指揮官なら、ここで流れを掴みたいと思うはずです。

神様がヨシュアに示した方法は、そうした通常の戦い方ではありませんでした。一週間の間、一日1回、祭司たちを先頭に立て、その後に契約の箱を担いだレビ人が続き、さらにイスラエルの兵士たちが続いて後進します。行列の前後には角笛を持った人たちがいて角笛を吹き鳴らします。ただし兵士たちはその間ひと言も口をきいてはいけませんでした。城壁の周りをぐるっと一周したら、何もせずに帰って来るように、といのことでした。6日間これを続け、7日目になって朝早くから、この日だけは七周します。そして7周目にヨシュアの合図とともに兵士たちはときの声を挙げます。その時、エリコの城壁は崩れ落ちてしまいます。それを見た兵士たちはすぐに攻め上ってあっという間に町を征圧してしまうのです。

なぜこんなことで堅固な城壁が崩れ去ったのか、様々な説明が試みられて来ました。ぐるぐる回って歩く時の低周波がじわじわ効いたんだとか、兵士たちがぐるぐる回るのは陽動作戦で、実はこっそり破壊工作が進んでいたのだとか。

しかしそういう科学的な問いや戦術的な問いは全く意味がありません。はじめからこのやり方は、神のなさることはこの現実世界を越えたものだということを示す意味がありました。ですから、ここで問われているのは、城壁を落とすという現実的な問題においても神が不思議なことをもって成し遂げることができる方だと信じるかどうかです。イスラエルの民はエリコの周りを7日間周り続けることで神への信仰を示しました。

神様はときどき私たちに、最初から壁が見えている道へと導きます。私たちには力も時間もないかもしれません。しかし、本当にそれが神様の導いた道ならば、目の前に揺るぎなくそびえ立つように見える壁も、主が打ち砕いてくださいます。大事なのはそのために今日しなさいといわれることを信じてやり続けることです。

3.友として受け入れる

3つめのエピソードは、エリコ陥落の前にあった一人の遊女の物語です。

最近は遊女なんて言葉を使いません。遊んでる女性、イケイケなパリピの彼女ではなくて、売春を生業としている女性です。多くの場合はやむにやまれぬ事情で、体を売って生活しなければならない女性たちでした。男たちに良いように使われながら、軽蔑のまなざしで見られ、社会からは脇に追いやられるような立場でした。

彼女たちの住まいは、その社会的な立場を象徴するように、城壁の中という、町のもっとも外れの地区、敵が攻撃してくれば真っ先に危険地帯になる場所にありました。

そんな遊女の一人でラハブという女性がいました。町外れに住んでいることや、いろんな人を相手にする商売のためか、彼女は結構外の様子に詳しく、最新情報を手に入れることができたようです。

エジプトを脱出したイスラエルの民が40年の荒野の旅の果てにいよいよエリコの町に近づいていることを知りました。しかもその際に、ヨルダン川の川向こうで起こった戦闘でイスラエル兵が見せた戦いの強さが周りの小さな集落がすっかり震え上がった様子まで伝え聞いていました。

ヨシュア記には、その知らせを聞いた多くの町の人たちの中で、彼女はイスラエルの神、主が天と地を治める方であることを知り、イスラエルの民に味方することを決心したことが書かれています。

ヨシュアが派遣した二人の偵察兵がエリコの町に潜り込んだ時に、ラハブが彼らをかくまい、捕まえようと街中を探索しているエリコの王の手から守ったのです。夜になって彼らを逃がす時、城壁の外側に開けた窓からロープを垂らして彼らを逃がそうとしたのですが、その時、二人の兵のうち一人が言いました。「エリコの町を攻略するときに、この窓の格子に赤い紐を結びつけておくなら、それを目印にしてラハブとラハブの家族や一族郎党全員を救い出すから」と約束するのです。

ヨシュア記でのラハブの物語は、イスラエル兵によるカナン侵略、エリコ攻略が邪悪なカナン人への裁きとして用いられた時に、まことの神を怖れ信じる者に救いの道が備えられていたことを示す意図があります。そしてラハブはその神を信じ、助けを求めたのです。

その信仰は、偵察兵を受け入れるという行為に表れました。エリコの住民であるラハブにとってイスラエルの偵察兵は敵であったはずです。実際、彼女もカナン人の他の王たちを滅ぼし、じわじわと近づいてくるイスラエルの民を恐れてもいました、本来、そこには敵か味方かという厳しい壁があったはずなのです。しかし、一連の動きの中で、そこにまことの神の力と働きを感じ取ったラハブは、その壁を乗り越えて恐れる敵としてではなく、同じ神を信じる友として迎え入れたのです。

これまで聖書の神を知らなかった方がイエス様を神と信じ、クリスチャンと呼ばれる人たちを友や仲間として受け入れるには確かに信仰が要ります。そしてくクリスチャン同士であっても簡単には乗り越えられない考え方の違いに直面することや、なぜかうまくいかない人間関係というものがあります。そういうときにも、その壁を乗り越えさせるのはやはりまことの神様への信頼だけなのです。

適用 隔てるものを越えて

今日はヘブル書からイスラエルの人々と、異邦人であり本来は滅ぼされる運命にあった遊女ラハブが示した信仰を見て来ました。彼らはそれぞれの時代、それぞれの場所で立ちはだかるもの、隔てるものを信仰によって越えて来ました。

海を渡ることも、城壁を崩すことも、滅びから逃れることも自力ではなく神の救い、奇跡、恵みとして与えられたものであり、信仰はその奇跡を受け取るためのただ一つの道でした。

私たちの人生で、現実に海を渡らなければならないとか、城壁を壊さなければならないとか、敵の偵察兵を受け入れるか決めなければならないなんてことは、今のところありそうもありませんが、そうした出来事に喩えられる経験はあります。

イエス様を信じて歩み出し、きっとうまくいきそうな気がしていたのに、途端に難しい問題にぶちあたってしまう。聖書から教えられ、神様がこうすることを願っておられると分かっても、その壁があまりにも高く、とても乗り越えられそうにない。同じ神を信じているとは言え、立場も考え方も違ったり、これまでの関係の悪さを乗り越えられそうにもない人がいたりもします。

私自身は、これまでを振り返ってみると、海を分けたり、城壁を陥落させたりするような派手な勝利とは縁遠く、迷ったり、上手くいかなかったことの方が多いように感じています。もしかして、エリコの城壁の周りを一日一回歩きながら「まだ何も起こらないなあ」とちょっぴり不安を感じながらも、でも神様がこれをするようにと言われたのだから、きっと意味があると信じて歩き続けている、そんなふうに感じることもあります。

それでも振り返って見れば、その都度、その都度、神様の助けによって次の道が開かれたり、壁を乗り越えさせていただいたりもしました。神学校を卒業して最初に宣教師と一緒に奉仕したとき、彼らとは今でも親しくしていますが、働きそのものは難しく、結果もなかなか出ず、追い詰められていましたが、神様は次の道を備えてくださいました。

希望をもって向こう岸へ着いた後でもまた壁にぶち当たりはします。イスラエルの民が敵の前から逃げ帰ったことがあるように、失意と落胆と経済的な不安の中に落ち込んでしまいました。壁は外というより自分の中にあったように思えます。城壁の周りを回るように、日々なすべきことをこなす中で何とか乗り越えさせていただきました。

ラハブのように自分のいのちがかかっているわけではないので、信仰を持って敵を受け入れるようなことは一番難しいかも知れません。個人的に傷つけられたような場合は確かに難しい面はありますが、考え方の違いや立場の違いを超えて、主にあって兄弟として受け入れるということなら、例えば市内の牧師会では、信仰的な伝統の異なる先生方とこんなに親しくなれるとは思ってもみませんでした。そうした違いを超えて互いを信頼するということは、特に震災以降、自分でもびっくりするほどに経験してきました。

より個人的なさまざまなわだかまりの場合でも、相手の問題以上に自分の中にある壁を神様に信頼することで乗り越えないと、相手を受け入れることが難しいと感じます。正直、これは上手く出来た事も、出来ずにいることもあります。

ただ聖書が私たちに教えていることは、様々な壁や隔たりを越えさせるのはいつも神様の力と恵みであり、私たちは信仰によってその力と恵みを受け取ることが出来るということです。

壁を乗り越えるのは何もイエス様を信じてクリスチャンになる時だけではなく、人生の中に度々起こって来ることですから、私たちは信仰の人々に倣って、なんだかんだ言うことはあったとしても、それでも神に信頼する、という方を選んでいきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今日は旧約聖書に登場する霊的な指導者たちだけでなく、普通の人たちが信仰によって海を越え、壁を破り、隔てを乗り越えて友として受け入れる姿を見て来ました。

こうした出来事に喩えられるような経験が私たちの中にもあります。人生に立ちはだかるもの、道が閉ざされたように思えること、乗り越えるにはあまりに高い壁、乗り越えがたいわだかまり。そうしたことも、乗り越えさせてくださる神様に信頼することで、力が与えられ、道が開かれ、心も開かれていくことを教えてくださり感謝します。

どうか、私たちが困難のとき、行き詰まったとき、人間関係に苦しむ時、今一度あなたに信頼することを思い出させてください。そして私たちに勝利と救いをもたらしてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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