2022年 3月 20日 礼拝 聖書:ヘブル4:14-16
イエス様が私たちの罪のために死なれ、よみがえり、天に帰られたことは、皆さんよくご存じのことと思います。ではイエス様は今、天で何をしておられるのでしょうか。イエス様は再び地上に来られると約束していますから、出番を待っているのでしょうか。オリンピックの選手が自分の出番を待つ間、体を温め、動きを頭の中でシミュレーションし、自分のことに集中するように、この世界の終わりにご自分が果たす役割のことを考えているのでしょうか。
新約聖書を読んでいくと、地上での働きを終えて天に帰った後も、私たちのために働き続けておられる事が分かります。そのことをヘブル書では特に「大祭司」という言い方で表しています。
祭司というのは神と人との間に立ち、とりなしてくれる存在です。人間関係でぎくしゃくしたときに間に立ってくれる人がいるとかなり助かりますが、神と人との間にもとりなしてくださる存在が必要だということです。
しかし、普通に暮らしていて神様との間がギクシャクしていて、あるいはめっちゃ睨まれていて、間に立ってくれる方が必要だと実感しているかというと、必ずしもそうではないかも知れません。神様が愛してくださるとか、私たちの存在価値を認めてくださるとか、そういうことは有り難いなと思いますが、間に立ってくださる大祭司としてのイエス様の役割とは何なんでしょうか。
1.私たちの大祭司
ところで15節には「私たちの大祭司」という言葉が出て来ます。実はこの「私たちの」という言葉自体はもともとのギリシャ語には出て来ませんので、これは新改訳聖書独特の翻訳です。ただ間違いということではなく、この箇所の意図を上手く言い表した訳だなあと思います。
使徒の働き23章には使徒パウロがユダヤの最高法院で大祭司とやりとりする場面があります。そこでは「神の大祭司」という言い方が出てきます。おそらくそれが普通の感覚だったと思うのです。しかしイエス様は「私たちの」大祭司となってくださいました。このニュアンスの変化は、神である御子イエス様が、人としてお生まれになってくださったことと関係しています。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」
神様はアダムとエバの日以来、人間がいかに弱く、誘惑に負け易い者であるかを良く知っておられます。そのくせ頑なで簡単には過ちを認めず、神の前にへりくだることをしません。それは神の民とされた旧約時代のイスラエルの歴史を通して知っておられました。
神の民と共に歩む中で、人間が神の栄光を現すものとして造られたのに、罪にふけり、堕落し、互いに憎み合ったり、傷つけ合ったりする痛みと悲しみを神様は味わって来られました。神様を愛し、従いますと誓っても、その約束が忘れられ、やぶられ、背を向けられることの悲しさ、痛みを味わわれました。
しかし、神の御子が人としてお生まれになり、私たちと同じように成長しながら暮らし、人々の間で生きる中で初めて、弱さというものを経験し、誘惑にさらされることを味わいました。霊なる方が身体を持つことで人間の弱さ、痛みを経験的に知ったのです。
イエス様が実際に何を経験したのか、聖書に記されていることには限りがあります。もちろん、スマホがないと心配でたまらないとか、大学の卒論に悩むというような経験はしていません。けれども、時代と文化が違っても、人間が味わう痛みや悲しみ、悩むことや出会う誘惑の本質は変わりません。そういう意味で、私たちの弱さがよく分かるのです。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。」イエス様も「私たちと同じように試みにあわれたのです」ということばは私たちにとって大きな慰めです。
最近、海外にいる友人がステージ4のがんと分かり、余命1年あまりと告知されたと聞かされました。イエス様の時代、がんという病気がどういう形で知られていたか分かりませんが、治らない病気になることがその人の暮らしにどんな悲しみや痛みをもたらすかはよく分かってくださいます。信頼していた人に裏切られたり、悪意ある人の攻撃に晒されたりする辛さをイエス様も確かに味わっていますから、私たちがどんなに辛いか知っていてくださるのです。
ではなぜイエス様は、私たちの弱さを知る慰め手、いやし主であるだけでなく、神との間に立つ取りなし手、大祭司である必要があるのでしょうか。病人に必要なのは医者であって、弁護士ではないはずです。聖書が私たちに明らかにしているのは、私たち人間は、単にか弱く可哀想な存在であるだけでないということです。
2.神の前に立つ
この世界をお造りになり、私たちにいのちを与えた神様とともにあることが、私たちに平安と喜びをもたらします。ちょうど罪を犯す以前のアダムとエバが、エデンの園で味わっていたような幸いへと私たちを回復させるのが神様の願いです。何も恐れる必要のない、神と共にある安心感の中で、日々新たな発見と喜びを見出し、互いに愛し慈しみあう、そんな歩みへと回復させたいと願っておられます。悪さをしでかして親の目を恐れて逃げ隠れ、バレてしまうんじゃないかとビクビクしていた子どもが、すべてを知られた後でも赦され、また笑って過ごせるように、神様は私たちを癒したいと願っているのです。
しかし、愛である神様は聖いお方、義なるお方でもあります。
少し、前の節に遡ってみましょう。12~13節です。ここには神のことばの鋭利さと、すべてを見通す神様の目のことが記されています。神の前に行こうとすると、この剣が立ちはだかるのです。
アダムとエバが、誘惑に負けて背いてしまった後で、エデンの園から追い出されてしまいます。その場面にも実は剣が登場します。ちょっと開いてみましょうか。創世記3:24です。
神様がおられるエデンの園には「いのちの木」があります。しかしそこに至る道には燃える剣が置かれていて、近づく者を阻むというのです。
ここでヘブル書の著者は、私たちが神の前に立たなければならないし、その神の前に立つことはなかなか厳しいことだという現実を突き付けます。神様に近づきたいと願っても、燃える剣がエデンの園への道を塞いでいるように、みことばの剣が私たちの心を刺し貫き、隠されているものを顕わにします。
みことばの剣により、神の御前にあらわにされないものは何もなく、隠しおおせるものは何一つありません。その神の前で、私たちはそれぞれが申し開きをしなければならないと言われます。これは、いわゆる最後の審判で、それぞれが神の前に立つときのことを言っています。すべてをお見通しの方の前に立つのはどんな気分でしょうか。
しかしその怖さは最後の審判を待つまでもなく、神のことばとして今私たちに与えられている聖書に向き合う時に十分感じることができます。みことばは私たちを慰め、励まし、いやすものであると同時に、私たちの隠れた罪や誰にも知られていないはずの、あるいは自分でも気づかずにいる心の闇を明らかにします。
なぜ私たちは、聖書のあることばには強く反応し、またある時には避けるようにしたり、深く考えるのを止めてしまうのでしょうか。問題が論理的に難しいからというより、私たちの心が見透かされるのを恐れたり、心の奥底に潜んでいる暗闇に光が差すのを怖がっているからかも知れません。
私たちは神の前に立ち、みことばによって照らされる時に、この世界の悪の被害者として悲しみ、痛み、苦しんでいるだけでなく、この世界に悪をもたらす加害者でもあることを突き付けられます。
そのような私たちだから、神の前を歩み、やがてこの神の前に立つことになる私たちのための大祭司が必要なのです。そして私たちの弱さを知っていてくださるイエス様が、私たちの側に立ってとりなす弁護士のように取りなし手となってくださるのです。
3.道であるイエス様
私も皆さんも、祭司や大祭司に会ったことはありません。日本の文化の中で役割として似たような存在は神社の神主さんかもしれませんが、それだって普段の生活で関わることは少ないですね。
聖書の中に登場する祭司は、神と人との間に立つ者です。聖なる神様、鋭い剣のようなみことばを持って私たちの心をさぐる方の前に、おいそれと近づくことは出来ません。神の前に出るには、完全に聖い者でなければならないとされました。
そのため旧約時代の神の民は罪を自覚するごとに罪の身代わりとなる犠牲の動物を携えて祭司のもとに行き、自分の罪を告白し、犠牲となる動物の血を流さなければなりませんでした。
その上、民全体の罪や、知らずに犯した罪のために、年に一度、祭司たちのトップに立つ大祭司が代表して神の前に罪を告白し、犠牲を献げるということを繰り返さなければならなかったのです。年に一度、聖所のもっとも奥深くにある至聖所と呼ばれるところに、ただ一人進み出るのです。それは名誉である以上に、恐れ多く、ヒリヒリするような緊張を伴ったものだったはずです。
ヘブル4:14に大祭司であるイエス様が「もろもろの天を通られた」とあります。おそらくこれは、旧約時代の大祭司が至聖所に進むためにくぐらなければならなかった幾つもの門や幕をイメージしています。イエス様が私たちの大祭司となって、私たちのために神のもとに行ってくださいました。その時、罪のための犠牲として携えたのは、私たちの身代わりとなって十字架のうえでささげたイエス様ご自身のいのちであり、罪のための流された血です。
イエス様はヨハネ14:6で有名なことばを語っています。「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」
ヘブル書はこのイエス様のことばを説明していると言うことができます。
イエス様を知ることなしに、神様のほんとのことろは分からないし、神様のもとに近づくことも、そのいのちの力をいただくことも出来ません。
だから、クリスチャンになりたいという人はイエス・キリストを学び、信じなければならないし、神様に祈る時はイエス様のお名前によって祈るのだし、クリスチャンとして生きることはイエス様に似た者と変えられていく道のりとして描かれるのです。
ですから、イエス様は弟子たちに、他の人たちがイエス様の事を誰だと言っているか聞いてから、「あなたががたはわたしを誰だと言いますか」と問われたのです。いくら聖書を学んで、知識を蓄え、天地創造の神がおられることを信じたとしても(それはそれで素晴らしいことなんだけれども)、人となられた神の御子、私たちの大祭司となってくださったイエス様を「私の神、キリストです」と信じ、告白することなしに救いはありません。
そしてこの告白に至る道のりで、私たちは必ず神のことばという剣の前で真剣に自分と向き合う事が必要になります。それがなければ、イエス様が身代わりとなってくださったことも、取りなし手として大祭司になってくださったことの意味合いも、本当の意味で分かりはしないのです。
適用:恐れるな
さて、今日の箇所のまとめの節、16節でヘブル書の著者はこう私たちを励ましています。「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折りにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」
今でも神の聖さと正義は変わりません。心の隠されたものまで刺し貫き明らかにする神のことばの鋭さも変わりません。しかし、キリストにあって、神の御前は恐怖と緊張をもたらす場所ではなく恵みの御座となりました。私たちの罪がきれいさっぱり無くなったからではありません。イエス様の十字架のゆえに私たちを赦すあわれみと恵みのゆえにです。
みことばの鋭さは相変わらずですが、私たちの罪をさらけ出し、責め立て、へこませるためではなく、私たちを赦し、慰め、回復への道へと励まし、力を与えるためです。その鋭さがあるから、私たちを本当に助けることができるのです。
病院で手術を受けるときに、もし外科医の持つメスが切れ味の悪いものだったら、余計な傷を付けてしまいます。その鋭さがあるからこそ、素早く、悪いところだけを取り除くことができます。
私は毎週、礼拝で説教したり、自分のための学びをしたり、誰かと聖書の学びの時を持ったりしますが、そうやって聖書を読んでいると、いろいろなことに気づかされます。まさに、みことばが鋭い剣のように自分のうちにあるものを見せるのです。
ちょうど一ヶ月前、礼拝でヨナ書を開きました。ヨナが神様の命令に背いたのは、神様が愛と恵みに満ちた神で、敵をも赦す方だから、それに腹を立てたためでした。しかも、神様が敵であるニネベの民を赦したと分かっているのに、それでも、敵であるニネベに良くないことが起こることを期待して待つヨナの姿があり、それが急に自分のうちにある冷たい心や小さな憎しみ、復讐心を映し出す鏡のように思えて来たのです。赦せていない人、普段は何も感じていないのに、仲直りさえしたいと思わない小さいけれど冷たく重い固まりがあることに気づかされのです。
しかし同時に、私はイエス様による赦しの恵みが、このように薄っぺらな愛しか持ち合わせておらず、小さなことでも赦せずにいてしまう私にも及んでいることを思い出しました。イエス様が最期の夜に捕らえられた時、逃げ出した弟子たちを赦し、ご自分のもとに迎え入れただけでなく、呪いを掛けてまで誓ってイエス様を知らないと3度も言ってしまったペテロをも赦し、愛し、信頼して遣わしてくださいました。
私たちは、神様から怒りや裁きではなく、折りにかなった助けを受け取ることができます。
皆さんは、みことばに触れて、何を感じるでしょうか。自分の中にある悲しみや怒りでしょうか。あるいは何を示され、何を恐れるでしょうか。傷つけられた記憶や、傷つけた記憶でしょうか。私のように誰かを赦せないでいるでしょうか。ヨナのように神様に腹を立てたり、ペテロのようにイエス様を裏切ってしまったでしょうか。イエス様が見ぬいた宗教指導者の偽善と高慢が自分の心の中にもあるでしょうか。聖書のいくつもの罪のリストが、自分の生活や習慣、人間関係にバツ印を付けるでしょうか。
神様は聖なるお方で、そうした罪や欺瞞を憎みます。それらが私たちを不幸にし、神様の造られた世界を汚し、悪しきもので満たすからです。けれども、そうした罪があってもなお、私たちを愛し、受け入れ、恵みを与え、助けを与えてくださいます。イエス様が私たちの味方になり、とりなしてくださるからです。口先だけで見方になるのではなく、ご自分の血の代価、いのちの犠牲によって全ての責めを負ってくださったからです。
だから恐れることはありません。「大胆に恵みの御座に近づこう」と呼びかけていますから、イエス様を信頼して、神様の前に出ましょう。
祈り
「天の父なる神様。
今日、私たちは、あなたの御前に立ちます。私たちは罪ある者、弱い者ですけれども、私たちのためにいのちを差し出し、とりなす方となってくださったイエス様を信頼して、恐れることなく、あなたの御前に出ています。
私たちを赦し、いやしてください。このような私たちをまるごと受け入れてくださり、感謝します。
イエス様の御名によって祈ります。」