すべての王となられた方

2022年 7月 17日 礼拝 聖書:マタイ28:16-20

 メシヤ、キリストとは誰であるかが、今も大きな問いであることがつい最近の出来事を通して突き付けられました。

歴代最長の政権を担った元首相を恨んで銃撃した事件がありました。犯人の母親がある宗教団体にのめり込み家庭が崩壊したことを恨んでのことだったようです。

この団体は、現在では名前を変えていますが、これは社会的なイメージが悪くなったのを回避するためのものでした。中身は何もかわっていません。

それはともかく、なぜこの団体が問題かというと、キリスト教の一派であるかのように振る舞っていますが、創始者が再臨のキリストであると主張し、正統的なキリスト教から大きく逸脱した異端であるからです。その上、この団体は信者を心理的にも経済的にも支配し、指導者を神格化するカルトです。

キリストってほんとうはどんな方なのか、私たちは誰を信じるべきか、なぜ信じるべきか。そこのところが曖昧だと、カルトに捕まってしまいかねないだけでなく、福音の本当の意味も喜びも知らない、かたちだけのクリスチャンになってしまいます。

今日はマタイの福音書の後半、14章から終わりの内容を見ていきます。主イエスとはどんな方か、正しく知りたいと思います。

1.わたしを誰だと言うか

第一にマタイの後半では、「イエス様は誰か」ということについての大事な質問が弟子たちに向けられます。

前回、マタイの福音にはイエス様の教えや働きを集めた5つのまとまりがあるというお話をしました。少し振り返ります。

1章から3章までの導入部分でイエス様が世界に祝福をもたらすメシヤ=キリストであり、人として生まれた私たちとともにおられる神、インマヌエルであることが示されました。誕生の物語に続くエジプト逃避行、ヨルダン川でのバプテスマ、荒野での40日の試みという経験は、出エジプトを導いたモーセの預言した「新しいモーセ」がイエス様であることを示しています。

その後に続く5つのまとまりの最初は4~7章までの山上の説教を中心とする教えでした。その中でイエス様は神の国が到来したことを宣言なさり、新しい神の国ので生き方を教えていました。

二つ目のまとまりは8~10章で、神の国が到来したことを具体的な病人の癒しや危機的な状況にある人たちを救うことで表していました。このまとまりの終わりにはイエス様が弟子たちを遣わす場面があります。その中で福音を喜んで受け入れる人たちだけでなく、拒絶する人たちがいることを告げています。

3つめのまとまりは11~13章で、そこではイエス様に対する人々の反応が描かれていました。イエス様をメシヤに違いないと信じ始めた民衆、信じ切れず迷っている人たち。その代表はバプテスマのヨハネでした。そしてパリサイ人を中心とするイエス様に否定的な人たち。イエス様は彼らの態度をたとえ話を用いて説明なさいました。神の国が訪れた時に、その祝福を刈り取るのは信仰を持って受け入れた人たちだということを明らかにされました。

そして、今日私たちが見ているマタイの後半、14章以降では、重要な問いかけがあります。「あなたは私を誰だと言うか」というイエス様の問いかけです。

4つめのまとまりになる14~20章では、イエス様が大勢の人たちにパンを与えるという奇跡を二度おこなわれました。一度目は14章でユダヤ人の群衆に、二度目は15章で異邦人の群衆に対してパンの奇跡が行われます。そうやってイエス様がユダヤ人だけでなく、異邦人にまで救いをもたらすメシヤであることをお示しになりました。その上で、イエス様はもっとも身近な弟子たちに、重要な質問をされます。それがマタイ16:15節です。

他の人はイエス様についてあれこれ言っていますが、あなたがたはわたしを誰だと言いますか?と問いかけます。これに対して、ペテロが代表して、「あなたは生ける神の子キリストです」と告白します。マタイが描いて来た、約束のメシヤ・キリストであり、この世に人として来られ、私たちとともにいてくださる神である、ということを見事に表す告白です。インマヌエルという言葉そのものは出てきませんが、ペテロと弟子たちはイエス様がインマヌエルなる方であることをちゃんと理解したとマタイは描いているのです。

ここ数週間の間に、またしても宗教に対する世間の目が冷たくなりました。いくらあれは異端だ、カルトだ、私たちは関係ないと言っても、宗教的なことばや証しに過敏に反応します。しかし、世間がどうであろと私たちはイエス様が私たちとともにおられる神、救い主キリストであると告白し続けましょう。

2.衝突

第二に、ペテロの告白に続いて、イエス様と、イエス様に敵対する者たちとの衝突が始まります。

ペテロの告白を受けてイエス様は、どのように新しい国を打ち立て、全世界を治め祝福するかを話し始めます。イエス様はご自分の命を差し出し、捨てられ、十字架につけられることで栄光をお受けになります。パリサイ人ら宗教的な人々が期待していた、罪と悪を討ち滅ぼし、異邦人に復讐するのではなく、愛し、赦すことによって、ユダヤ人だけでなく全ての人を救い、祝福することで王となるのです。

しかし、このようなイエス様の話しは、パリサイ人をはじめとする宗教的な人々を激怒させました。

5つめのまとまり、21~25章では、イエス様に対抗する人々がどんどんその行動をエスカレートさせ、ついにイエス様を殺す決意をしていく場面が描かれています。

21:1~17ではイエス様がロバの子どもの背中に乗ってエルサレムに入場する有名な場面で始まります。イスラエルの王として入場しますが、その姿は力で復讐する王ではなく、柔和で平和な王の姿でした。そしてすぐに礼拝の場である神殿に行きます。祈りの家であるべき神殿を金儲けの場にしているのを怒りを込めて非難します。一方で神殿の中で病人たちを癒されました。

祭司長や宗教指導者たちが神殿で商売をすることを認めているのは、彼らにとって利益になるからです。一方で目の見えない人や足の不自由な人など、本当に救いが必要な人たちは神殿の外に追いやられ、神に呪われた者という扱いを受けていました。イエス様はそんな人々を招き入れいやしたのです。イエス様は本来神の御前でどうあるべきなのかを示したのです。神を礼拝する場所は金儲けの場所ではなく、弱い者、貧しい者が顧みられ、彼らの口を通してこそ神の御名が賛美されるべき場所なのです。しかし宗教指導者たちは自分たちへの当てつけと見なしたようです。彼らは、イエス様に腹を立てるのではなく、悔い改めるべきでした。

この衝突は単にイエス様個人への当時の人たちの反発ということでは済まずに、旧約時代から続いて来たイスラエルの民の神への反抗と不信仰とみなされました。21:23以下で、葡萄畑を任された農夫たちのたとえ話が語られます。主人の遣わしたしもべたちを次々と殺し、はずかしめ、最後には一人息子も殺してしまうという話しを通して預言者とキリストへの反抗を描きます。そして、イエス様は、神の国は「あなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます」と、信仰によって福音を受け入れる新しい神の民に与えられると宣告します。その後は宗教指導者たちに対する容赦の無い批判が続き、ついには葉っぱは盛大に茂っていても実のなっていない無花果のように、うわべだけで中身のないエルサレムは滅びる運命にあることを弟子たちに告げます。しかし、イエス様の救いとご支配は必ず成就すると約束され、忍耐して、信仰をもって待ち望み、それまでの間、忠実な良いしもべのように任されたことに忠実であるようにと、いくつものたとえ話を用いて教えます。

しかしイエス様の最後の時は近づいていました。26:1には「イエスはこれらのことばをすべて語り終えると」とあります。なすべき準備は終わり、いよいよ十字架へのドアが開くのです。

3.苦難のしもべ

第三にイエス様は「苦難のしもべ」であることが明らかにされます。マタイの福音書はイエス様の十字架と復活で終わります。26章から28章はマタイの福音書の結論部分です。ここまで、周りの様々な意見や衝突があってもイエス様に従って来た弟子たちが、最後の最後で裏切り、ちりぢりになってしまうという衝撃的な展開とともに、イエス様はただおひとりで十字架の苦しみを担われます。

ちょうどモーセと共に歩んだイスラエルの十二部族が、従いつつもたえず道を間違え、時に反発し、王をいただく国となって、結局は神に背を向けてしまったのと重なります。

十二弟子たちは、イスラエルの先祖たちとは違ってイエス様を信じ、メシヤとして受け入れ、イエス様のなさったこと、教えたことを学びました。しかしです。彼らも土壇場で逃げ出します。

イエス様の弟子訓練は失敗だったのでしょうか。イエス様は十字架の意味をもっとちゃんと教えておくべきだったのでしょうか。なぜイスカリオテのユダが裏切る前にカウンセリングをして、盗みグセや彼の不信仰を取り扱わなかったのでしょうか。実際、イエス様は彼の裏切りを事前に知っておられましたが、何も手を打っていません。他の弟子たちも逃げ出すことを知っていましたが、見守るだけです。26:31でゼカリヤ書を引用して、弟子たちが逃げ出すのは聖書に書かれていたことが実現することなのだとさえ言っています。預言の成就のために弟子たちを放置したのですか。

イエス様と出会い、それまでの人生が一変したように思えた弟子たちでさえ、イエス様に従い通すことが出来ませんでした。

十二弟子たちは、過去のイスラエルの民が成し得なかった従順さをもって神に従う歩みをやり直しているようでした。しかしどんなにイエス様と共に歩もうとしても、人の心の内にある高慢さ、自己中心、恐れ、不従順を無くすことはできませんでした。その中に福音書の著者であるマタイもいました。仲間である他の使徒たちもいます。彼らは、自分たちがイエス様のことをさっぱり分かっておらず、皆から笑われるような弟子たち同士の競争や妬み、イエス様への卑怯な裏切りを隠す事なく記しました。それが私たち人間の姿なのだと示すためです。

イエス様はモーセの律法を新しい律法に置き換えました。神のようにきよくあろうとするなら、表面的な行動だけでなく、心まで清くなければなりません。しかし、それが出来ないのが私たち人間の姿です。私たちはだれもが助けを必要としています。だから、イエス様はすべての罪を背負って十字架につく必要がありました。

マタイが描く十字架の場面は、明らかにイザヤ書53章の「苦難のしもべ」と呼ばれる預言を思い起こさせるように描かれています。マタイの脚色だということではなく、イザヤの預言がイエス様の十字架の場面で成就したということです。

それはイエス様の罪のためではなく、私たちすべてのためでした。善人であろうとし、善人であることを自負している宗教的な人々は神にさえ心を頑なにするほどの高慢なプライドに支配されていました。弟子たちのようにイエス様と共に歩もうと頑張っていた弟子たちでさえ、自分では心の中心にある罪の性質を克服できませんでした。それは彼らを絶望の淵に追いやりました。しかしそのためにこそ、イエス様は苦難のしもべである必要があったのです。

適用:あらゆる国の人々を

十字架の苦しみと死は、イエス様がイザヤの預言した苦難のしもべであることを示していましたが、最後、28章の復活と天に挙げられる場面は、イエス様がすべての王となられたことを示します。

そしてイエス様はすべての上に立つ権威によって、弟子たちに「全世界に福音を宣べ伝えること」を託しました。弟子たちは王であるイエス様の代理として福音を宣べ伝えるのです。

私たちとともにおられる神であるキリストは、イスラエル民族の王であるだけではありません。

28:18でイエス様は「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています」と語っています。

イエス様がユダヤ人の王なら、その主権が及ぶ範囲はイスラエル民族に限られます。しかし、今やイエス様やイエス様はすべての王となられました。それはすべてを支配する唯一の独裁者になったという意味ではありません。全人類の世話をし、その救いと祝福の責任をイエス負われたということです。イエス様はその使命を弟子たちに託します。「大宣教命令」と呼ばれる最後の教えです。ちょうどたとえ話の中の主人が、しもべたちに留守の間、仕事を任せ忠実であることを期待したように、イエス様が全世界に対して負っておられる責任を、私たちクリスチャンが一緒に担うことを願っておられるのです。

そしてマタイの福音書は、そんな使命を託したすべてのクリスチャンに、この福音書の大きなテーマの一つであることばをイエス様ご自身の約束として記して閉じられます。

20節後半です。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

マタイの福音書が私たちに告げることは、イエス様が確かに約束されたキリストであり、私たちとともにいてくださる神であり、この世界に神の国をもたらしてくださったということ。そのためにイエス様が十字架の苦しみを背負い、死んでよみがえってくださいました。それは、私たちの誰もが、助けが必要な者であることを意味します。誰も自分は大丈夫とは言えないし、私は善人でまっとうに生きていると、神の前で言えるような者は誰もいないということです。しかしイエス様が私の罪のために十字架で死んでよみがえってくださったことを信じるときにはじめて私たちは「自分は大丈夫。それはイエス様が私とともにいてくださるから」と言えるようになるのです。

そのようにして到来した神の国に私たちは招かれ、生かされ、イエス様が全世界の人々に対して担っておられる責任を共に担うようにと招いてくださいました。

マタイの福音書が大宣教命令で終わっているのは、この世界に生きる全てのクリスチャンへのチャレンジです。しかし間違ってならないのは、私たちが宗教的な生活、道徳的に間違いのない生活をしているから良い証しになる、ということではありません。

マタイや他の使徒たちが福音書を通してしたように、私も助けが必要な人間だけれどもイエス様が私とともにいてくださるから大丈夫、という心をしっかり持って日々を大切に生きることです。そしてイエス様がそうしてくださったように、私たちの周りにいる、同じように弱さや痛みを持つ人たちを裁いたり、否定したりするのではなく、友だちになること、歩み寄ること、隣人になることから、大宣教命令への応答は始まっていきます。

祈り

「天の父なる神様。

先週と今週と、マタイの福音書を共に開いてきました。神様がマタイを通してイエス様の生涯と教え、働きを私たちに示してくださり、大切なことを教えてくださいました。

どうか、ともにいてくださる神であるイエス様を私の救い主キリストとして信じ、すべての王として、この世界にいるすべての人たちのことを気に掛け、救いたいと願っておられることを理解し、確信できますように。そして、その責任を共に担うようにと私たちに期待し、招いておられますから、周りにいる人たちの友となり、隣人となっていくことができますように助けてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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