2022-12-18 仕える者となったお方

2022年 12月 18日 礼拝 聖書:マルコ1:9-15

 先週は私が新型コロナに感染してしまって、ご心配をおかけしました。辻先生の協力や役員の皆さんを中心に礼拝がしっかりと献げられたことに本当に感謝しています。お祈りに支えられて順調に回復できました。医学的には軽症という分類になるそうですが、まあまあ苦しみました。入院の必要な方がどれほど大変な症状かとほんの少しでも苦しみを身近に感じることができました。

さて話しは変わりますが、最近の流行の音楽には「イントロ」がないか、すごく短いものが増えているそうです。いきなり歌から始まるのです。前のものは確かに割と長いイントロがありました。レコードやCDでの販売ではなく、サブスクやティックトックなんかで宣伝するのが普通なので、悠長にイントロを流しているとすぐ聴いてもらえなくなるということのようです。

導入部分にどれくらいの分量を割くか、またそこにどんな内容を盛り込むかで、作者の表現したい世界観やこれから入っていく本文への期待感が変わって来ます。

今日私たちが開いているマルコは、いわばイントロなしで、いきなり本編に入るタイプの構成になっています。マルコの福音書にはイエス様誕生の物語も、系図も、少年時代のエピソードもありません。マルコには神の子が人となることについて大事な意味合いを見事に簡潔に私たちに示しているのです。見ていきましょう。

1.へりくだった方

第一に、私たちのためにお生まれくださった救い主は徹底して「へりくだった方」です。

その象徴的な出来事が9節に記されているようにバプテスマのヨハネからヨルダン川でバプテスマを受けたという出来事でした。

当時の多くのユダヤ人、特に宗教指導者たちやパリサイ人と呼ばれる宗教熱心な人々は、律法や伝統を厳格に守り神に正しい者と認められることで救い主の救いをいただくことができると信じ込んでいました。ですから、いかに自分が正しく生きているかを証明することにやっきになっていました。

ところが、神様がヨハネを通して告げた救い主への備えは、自分が罪人であることをカミングアウトしなさい、ということだったのです。バプテスマのヨハネから洗礼を授けられるということは、自分が罪人であることを公衆の面前で告白することになります。

ヨルダン川で大勢の人々にバプテスマを授けているとき、順番待ちの列の中にイエス様がおられるのをヨハネが見つけました。

マルコの福音書には記されていませんが、この時ヨハネはイエス様にバプテスマを授けることをためらいました。イエス様に悔い改めるべき罪がないどころか、イエス様が特別な権威と聖さを備えておられることに気づいたからです。むしろ、自分のほうがイエス様にバプテスマを受けるべきではないかと思いました。

しかしイエス様は「今はそうさせてほしい。これがふさわしいことだから」とバプテスマを願ったのです。

イエス様がバプテスマを受け、水から上がって来られると天から聖霊がくだり、父なる神の声が聞こえました。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」

イエス様が神の御子であり、旧約の預言者たちが告げて来た救い主であることを父なる神ご自身が証言したと言って良いのですが、そのタイミングが罪の告白を意味するバプテスマを受けた時であったというのがとても大事です。

私たちの救いのためにこの地上に来られた神の御子は、神の栄光と御姿を捨てて人間の赤ん坊としてお生まれになりました。そして罪のないお方であったにもかかわらず、ヨハネからバプテスマを受けることで罪ある者と見なされることをためらいませんでした。そこをためらったり避けたりしていては人類を代表して罪を背負うなんてできないのです。

悔い改めのバプテスマを受けずに救い主として世に現れることは、高級なスーツを着たまま靴の汚れを気にしながら被災地での救援活動をするようなもので、そこには捨てきれないプライドやステータス意識があります。人が大勢集まる場所で視察だけやって、誰にも見えないところでがんばっているボランティアなんかに目もくれずにそそくさと帰っていくのですから、誰の助けにもならず、そんなだったら来ないでくれたほうがましという感じです。

イエス様はバプテスマを受け、そして父なる神様もそこまでへりくだった方を愛する子としてお認めになりました。自分の罪を認めへりくだる者を神様は赦しご自分の子としてくださる、私たちのバプテスマのひなにもなっているわけです。そして自分の正しさを示すことにやっきになっている人たちに、へりくだることこそ神に受け入れられる道であることを指し示してもいるのです。

2.人の痛みと悩みを知る方

第二に、私たちのためにお生まれになった救い主は人の痛みと悩みを知る方です。

12~13節にこうあります。「それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。」

イエス様の40日荒野でサタンの試みを受けたことについては他の福音書に詳しく書かれていますが、ここでもマルコは非常に簡潔に、要点だけを書いています。

40日の荒野の試みは、旧約時代、エジプトを脱出したイスラエルの民が40年間荒野の旅をしたことと関連しています。40年の荒野の旅は、単に約束の地に行くための道のりであっただけでなく、イスラエルの民が神に対して従順であるか、神を信頼するか、ということを試し、また訓練するための期間でした。

エジプトを脱出した民はその試練を見事失敗してしまいます。神を信頼せず、約束を守らず、命令にも従わず、反抗を繰り返します。一時は神様ご自身がさじを投げ出すように、もうこの民の頑固さは手が着けられない。この民は滅ぼしてしまって、モーセから新たな民を起こすとまでおっしゃるほどでした。

それで頑固な最初の世代が入れ替わるまで40年かけたのです。

イエス様が受けた40日の荒野での試練は、イスラエルの民が失敗した荒野の試みをやり直す意味がありました。40日の断食が終わった後の有名なサタンの誘惑だけが試練だったのではなく、荒野で空腹や喉の渇き、野生動物の脅威、孤独などにさらされながら過ごす日々そのものが試練であったわけです。

もちろんイエス様の経験したことと私たちが経験している痛みや悩みが全く同じというわけではありません。けれども私たちもお互いに経験していることは違い、似たような苦難であっても置かれた状況や生活水準によって受ける痛みの大きさに違いがありします。飢餓で苦しんでいる世界の人々のために支援をしようというとき、私たちはその過酷さを本当には体験していないし、想像するとしても限度があります。それでも、お腹がすく辛さ、仕事がないこと、人の善意に頼るしか生きる道がない惨めさや辛さなどはいくらか想像できます。

経験することは違っても同じ人間として共感できる痛みや悩みがあることを私たちは知っています。同じようにイエス様もご自分の経験した人としての痛みと苦しみ、悩みを通して私たちが経験している様々な苦しみを理解することができるのです。

ヘブル4:15にはこうあります。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」

赤ん坊として生まれたイエス様はその初めから苦難と貧しさの中にありました。生涯を通してその歩みは十字架に向かっていました。私たちはいろいろ嫌なことがあってもその合間合間に楽しいイベントがあったり、無邪気に遊べる瞬間があったりしますが、イエス様はまるであらゆる苦しみと試みを味わうために歩んだかのようです。

3.使命に生きた方

第三に私たちのためにお生まれになったイエス様は使命に生きた方でした。

荒野の試練の後、マルコが記しているのはイエス様がすぐさま宣教の働きをはじめたことです。14~15節です。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」」

マルコの福音書は1:1~15節までが導入部分になっています。ここでマルコは、イエス様がお生まれになった経緯や状況ではなく、イエス様が何のために来られたのかということにいっさいの寄り道なく、必要なことだけを簡潔に、真っ直ぐ示しています。

イザヤによって預言された荒野で叫ぶ者の声の備えに続いて、人としてお生まれになったイエス様が悔い改めのバプテスマを受けることで罪ある者とされることを受け入れるほどにへりくだり、人が味わう痛みや苦しみを荒野の試練を通して味わい、それゆえに神の子と、神に愛されている者として神ご自身によって証しされたあと、すぐに福音を宣べ伝えるために立ちあがられました。

14節のヨハネとは、もちろんバプテスマのヨハネのころです。当時、ガリラヤの領主だったヘロデ王の不倫に関して忖度なしに非難したことで捕らわれの身となってしまいました。バプテスマのヨハネが公の場から退場したことが準備の時が終わり、主役であるイエス様登場の時を知らせる合図でした。

そしてイエス様が宣べ伝える福音の中心が神の国が近づいたということと、その御国の民に加えられるための道が悔い改めることである、ということです。

神の国とは、神様との交わりが回復し、神様の守りと祝福の中に置かれた人々、世界のことです。そうした世界が少しずつ拡がり、神の豊かな祝福の中に一人でも多くの人たちが迎えられるように仕えることがイエス様の使命でした。それは同時に、イエス様を信じた人たちに与えられる新しい使命でもあります。私たちがこの世に新しく生きる目的は、私が受け取った神の恵みを他の人たちが受け取れるようなること。そのために、私たちは置かれた場でそれぞれの仕方で仕えていくときに、御国の福音の使命を共に果たすことができます。

そして、この後マルコが描くイエス様はこの宣教の働きを進め、完了させるために十字架につけられるまでを一気に走り抜ける姿です。マルコの福音書を読めば気づく、繰り返されるフレーズがあります。「すぐに」という言葉です。マルコの福音書を読めばイエス様が休む間もなく、次から次へと福音を伝え、人々を癒やし、教えている印象を受けます。

マルコ10:45には「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」とありますが、マルコの描くイエス様はまさに仕えるために来られた方なのです。

他者の救いのために、回復のために、益となるためにご自身を献げ、仕える者となり、最終的には自分のいのちを贖いの代価として与えることがイエス様の人生でした。他のことには脇目も振らず、短い生涯の中でやり遂げた姿に、イエス様の本気の愛を感じます。

適用:すべては私たちのため

さて、アドベントでは取り上げられることが少ないマルコの福音書でした。マタイにはヨセフが御使いの言葉を受けるシーンや東の博士たちが訪問する様子。ルカにはマリヤの受胎告知や、ベツレヘムでの出産の場面、羊飼いたちの訪問など、クリスマスらしいエピソードに満ちていますが、「クリスマスらしさ」とは後の時代の人々が作り上げたイメージでもあります。

現代はそれにクリスマスツリーとかアドベントの飾りとか、きれいなイルミネーションとか、聖書と関係ないものまでイメージを膨らませています。

しかしマルコの福音書にも、神の御子が人としてこの世界に来られたことの意味を何の飾り気もなくストレートに描いていることが分かりました。

神の栄光と御姿を捨ててへりくだり人となられた救い主は、罪ある者とされることを厭わず、人の味わう苦しみを知り、徹底して仕える者になってくださいました。

使徒パウロはピリピ2章で互いにへりくだることを勧める文脈で、私たちの見習うべきイエス様ご自身のへりくだりについて触れています。有名な箇所ですから覚えている方もおられるでしょう。

ピリピ2:6~6です。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」

今はアドベントですから、教会には様々なクリスマスのかざりが飾られています。その中には、降誕の場面を描いたものがいくつかあります。馬小屋で飼葉桶に寝かされている赤ちゃんのイエス様と見守るマリヤとヨセフ。何個か飾っていあるのでぜひ見つけてください。

もちろん、いかにもクリスマスらしい、ほのぼのとした場面でもあります。しかし、私たちが今日覚えたいことは、その飼葉桶のイエス様の姿には、仕えるためにへりくだって来られたイエス様の使命と生き方が現れているということ。私たちが思い出すべきは、そのことです。

イエス様のへりくだりは私たちの救いのためでした。そしてイエス様を知った私たちに、同じように生きて欲しいと願っておられます。すべての人の救いを願い、そのために仕え、互いにへりくだって相手を敬い、相手の徳を高めるために仕える。それが私たちの生涯を通じた一番大事な仕事になるまでに、イエス様に倣っていきたいと思います。

 

祈り

「天の父なる神様。

アドベントも3週目となりました。今日も福音書からイエス様がこの世界においでくださった意味を思い巡らしました。

降誕の場面ではありませんでしたが、確かにイエス様がへりくだって私たちと同じようになられ、罪ある者に数えられ、人の痛みを知り、このような私たちの救いのために仕える者となってくださいました。

イエス様によって与えられた大きな恵みと祝福を感謝します。そして私たちを神の民に加え、同じように御国の福音のために生き、人々に仕える生き方へと招いてくださいました。

どうぞ、私たちをイエス様に倣う者として導き、励ましてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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