2023-01-22 ますます豊かに

2023年 1月 22日 礼拝 聖書:ピリピ1:1-11

 私は経験ありませんが、親しい人が無実の罪で牢に入れられたらどういう気持ちになるでしょうか。何を心配するでしょうか。

時々、知り合いの牧師たちが海外から仕事に来た方たちがビザの問題や困った事情で牢屋ではないけれど、入国管理局に閉じ込められてしまい、そうした人たちを支援しているという話しを聞きます。そこには日本の社会にある矛盾や制度上の不備、人権についての考え方の問題があるので、苦しんでいる人たちへの思いやりとともに正義感も働いているのかなと思います。

何かの容疑で囚われの身となったら、完全に無実を信じることができるか分かりませんが、少なくとも健康状態や精神状態は心配するでしょうし、十分な助けがあるか、何か助けになることはあるかと考えるのではないかと思います。

ユダヤ人の陰謀のため、ローマ帝国の獄中にあったパウロに対するピリピ教会の心配がこの手紙の背景になっています。ピリピ教会のクリスチャンたちは牢獄に捕らわれているパウロのために支援金や物資を集め、信者の一人、エパフロディトを派遣しました。それに対するお礼の手紙なのです。しかし、そこはパウロです。ただのお礼ではなく、自分の置かれた状況を用いてピリピ教会がもっと豊かになって欲しいと願い、彼らがより深く理解すべきことを伝えようとしたのです。

1.主イエスが願うこと

第一に、ますます豊かにされるためにイエス様の願いを自分たちの願いとし、イエス様がものの見方で見ることができるようにとパウロは願っています。

パウロが牢に捕らわれたことを聞いたとき、ピリピ教会のクリスチャンたちは当然心配し、身を案じ、足りないものはないかと考え、いろいろと贈り物を準備しました。

ところで、ピリピ教会の誕生もパウロの投獄と無縁ではありませんでした。ピリピで伝道したときにもパウロは不当な訴えで捕らえられたことがあります。その時看守をしていた人とその家族もピリピ教会の一員でしたから、獄中の生活の大変さはよく分かっていたと思います。こういうのがあったら助かるんじゃないかと的確な意見を言って、教会としてパウロへの支援物資やお金を集めることになったのではないかと想像するのです。

パウロはそれを受け取り、届けてくれたエパフロディトからピリピ教会の様子を聞いて本当に嬉しくなりました。そんなパウロの感謝と喜びの気持ちが1:1~11の挨拶文によく現れています。

パウロが感謝していることは、贈り物のこと以上に、ピリピ教会がどんな場合でも福音宣教の働きをともに担っているということ、そして愛と思いやりに溢れていることでした。それは6節にあるようにイエス様によって始められた良い働きの現れであり、主が再び来られるまでに完成されるものです。福音宣教という使命に生き、神と隣人を愛するというイエス様のお姿に倣う生き方です。そしてパウロの何よりの願いは、その点でもっと豊かになって欲しいということです。9節以下の祈りの中にその強い願いが現れています。

クリスチャン一人一人と教会とが「いよいよ豊かに」「ますます豊かに」なるためにパウロが大事なこととして最初に教えているのが、「イエス様の願いを願いとし、イエス様が見ていることを同じように見ること」です。

そのポイントを理解させるためにパウロは自分の経験を話しています。獄中にいることは不当なことであり、とてつもなく不便なことです。しかし、パウロは自分のこの状況がかえって福音を前進させることにつながっていることを感謝しています。パウロに競争意識を持っている人たちが今のうちに自分の勢力を拡げようと不純な動機で福音を宣べ伝えていました。でも、それは見方によれば結果的に福音が宣べ伝えられているのですから、そのことは彼にとって喜ばしいことでした。また、1:21にあるように、もし裁判の結果自分が処刑されることになっても、この世を去ってキリストとともにいられることになるからOKだし、釈放されることになったらさらに福音を宣べ伝え他の人たちの益となる働きが出来るのだからそれもまたOKだ、というのです。もちろん、パウロは自分の使命がまだ終わっていないと分かっているので、このまま獄中で果てるわけではないだろうと思っていました。しかし、ピリピのクリスチャンたちに、ただ自分の身を案じてくれるだけでなく、自分と同じようにイエス様が願っていることを自分たちの願いとし、イエス様が見るようにものごとを見る目を持って欲しいと訴えているのです。多くの人々が福音によって新しくされ、人々がますます愛においても豊かにされることを自分たちの願いとし、その視点でものごとを見られるようになって欲しいと願っているのです。

2.主イエスに倣って生きる

第二に、ますます豊かにされるために、私たちはイエス様に倣って生きることが必要です。

ピリピ教会のために感謝と願いの祈りをささげたパウロは1:27で「ただキリストの福音にふさわしく生活をしなさい」と勧めます。それが、信仰においてしっかりと堅くたち、福音の確かさを証明することになるのだと説明を加えています。

キリストの福音にふさわしいとは2:1~4にあるように、愛と慰め、憐れみ深さ、一致、へりくだり、自分から仕える者になること、いつも他の人のことを気に掛ける眼差しといったことです。

そして、この福音へのふさわしさこそが、イエス・キリストのうちに見られる特徴でもあるのです。そのことを明確に描いているがピリピ書のクライマックスともいえるのが、2:6~11の賛美の詩です。

この賛美にはイエス様の永遠の神としての性質、人となられたこと、へりくだり仕える者となり自分のいのちさえ十字架の上で差し出した犠牲、復活、召天、再びおいでになる時に表される権威と栄光、そしてすべてが父なる神の栄光となることが荘厳な詩で表されています。この詩自体が福音の重要な内容をもれなく表してもいるのです。

最初の人アダムは、禁じられた実を食べれば神のようになれるというサタンの誘惑にそそのかされて手を伸ばし食べてしまいますが、永遠の神であるイエス様は神としてのあり方を捨てて人となり、へりくだって仕える者になりました。

あらゆる屈辱と痛ましい暴力、圧倒的な偏見と人間の妬みや怒り、うらみ、あらゆる否定的な感情を甘んじて受け入れ、その果てに十字架の死にまで従いました。それが私たち人間の罪の贖いのために必要だと知っておられたので、イザヤが預言した苦難のしもべ、黙ってひかれていく小羊のようになられたのです。

世界中の人がいつの日かイエス様の前に膝をかがめて跪くのは、イエス様の力や権威に恐怖してではなく、すべての人のためにご自分のいのちを献げるまで徹底してへりくだり、従ったイエス様の愛と謙遜、犠牲を知るからなのです。

パウロはこのイエス様のお姿を、互いに愛し合い、へりくだって仕え合うための模範として示しています。ですから12節にあるように「自分の救いを達成するよう努めなさい」というのは、がんばれば救われるという意味ではなく、すでに救われた者として、イエス様にならう生き方を生涯かけて全うしなさいという意味です。

そのように生きようとするとき、私たちの心には13節にあるように、何をすべきかという志が与えられます。イエス様の模範に倣って歩もうとする中で与えられる志を疑わずに喜んでやるなら、この時代の中で「傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝く」ことができるのです。イエス様は弟子たちに「あなたがたは地の塩、世の光となりなさい」と言われましたが、それはイエス様の生き方にならうことで可能になるものなのです。

そんなにうまくいくものなのか、現実はなかなか難しいんじゃないかという声も聞こえそうですが、モデルとなる人々は意外と身近なところいるものです。

3.モデルとなる人々

第三に、イエス様にならって歩むことのモデルとなる身近な人たちを見るようにとパウロは教えます。

2:19~30にはテモテとエパフロディトという二人の例を挙げています。どちらも、ピリピ教会を励ますためにパウロが送り出そうとしているクリスチャンであり、パウロの仲間です。

エパフロディトはピリピ教会からの援助を運んでくれたので、当然送り返さなければならないという事情もありましたし、テモテはパウロの様子を伝える役割を担ってもらいたいということもありました。しかし、パウロは彼らを単なる運び屋、伝令として見てはいませんでした。彼らがピリピ教会に与える良い影響という意義にこそ注目していたのです。テモテは、パウロと同じ心でピリピ教会の人々を気に掛けていました。自分勝手に振る舞う人たちが多い中で、彼は真実にイエス・キリストに倣うことを求める人であり、彼がパウロの代理として完全に相応しいことをピリピ教会の人たちも知っていました。

もう一人のエパフロディトはピリピ教会からの贈り物をパウロに届ける道中で大きな病気にかかってしまいました。一時期はかなり危険な状態になりましたが、神様が憐れんで彼を解放させてくださいました。それは少なからずパウロを慰めるものでもありました。そこまでして教会のために、またパウロのために仕えようとするエパフロディトを喜んで迎え、尊敬しなさいと勧めています。

私も、他の人のことを考え、それを誰かに言いふらすでもなく、人知れず自分から手を差し伸べる人たちが、身近な教会の交わりの中にいることを知っています。その人たちはもしかしたら自分がイエス様を模範にして振る舞っているとは言葉にして言わないかも知れませんが、たぶん、テモテもエパフロディトもそんなふうに自分のことを言ったりはしなかったんじゃないかと思います。それは勝手な想像ではあるのですが、しかし、パウロがわざわざ名前を挙げて彼らを教会に送り出す意味を伝えようとしたということは、気づいて欲しかったのかも知れません。とにかく、彼らはピリピ教会によって良いモデルでした。

そしてもう一人のモデルは3章に記しているパウロ自身です。

ピリピ教会にも律法に従って生きることを自慢げに語るユダヤ人クリスチャンがいくらかいたようですが、パウロだって、そんなことが自慢になるなら彼ら以上に自慢できると言って、自分の血筋や律法に対する忠実さ、神への熱心さなどを挙げています。しかし、7節と8節で、彼にとってかつては自慢できることだったものも、キリストを知った今は「ちりあくた」だと考えていると言い切っています。「ちりあくた」って日本語はほとんど使う機会がありませんが「ごみカス」というニュアンスです。自尊心を高めるものや人から称賛されることではなく、ただひたすらキリストにならって生きること、イエス様に似た者にされていくことを願い、その一心で歩んでいました。

そして17節にあるように、クリスチャンたちにもそのように歩んで欲しいと願っています。それは自分たちの救いの完成のためというより、福音の前進につながるからです。キリストに背を向けて滅びに向かっている人たちが、イエス様に従う人たちを通して神の救いの恵み、福音の素晴らしさを知ることができるからなのです。

適用:私たちの国籍は天にある

最後に、手紙の終わりでこれまで述べて来たことをピリピ教会の具体的な状況に当てはめて勧めていることを見ていきましょう。

私たちの日常生活や教会の交わりの中でイエス様にならって歩む上で大事な人生観は、3:20にあるように、私たちの国籍は天にあり、そこからイエス様が再びおいでになるのを待ち望むのがクリスチャン生活だということです。イエス様にならって歩む人生は、イエス様が再びおいでになるときに完了し、いろいろと失敗や足りないところがあったとしても私たちを造り変え、「良くやった」と誉めてくださいます。

そんな人生に召されているクリスチャンにパウロは「主にあって」ということばを繰り返しながら具体的に勧めます。主にあってとは、主にならう者として、主に結び合わされた者として、と考えたら良いと思います。

まずは4:1「主にあって堅く立ってください。」

主が私たちに示し、またテモテやエパフロディトのような身近なモデルにならって、主イエスを模範として歩むことが、ますます豊かにされる道であり、それがまた世の光として輝かせることであり、福音の確かさを周りの人々に示すことになるのだ、という確信に立ちなさいということです。私たちは本質的にこの世に属する者ではなく、天の御国に属する者なのです。

次に4:2「主にあって同じ思いになってください」。これはユウオディアとシンティケという二人の女性クリスチャンの名前を挙げての勧めです。

彼女たちは福音宣教のために一緒にパウロに協力したのですが、何かの理由で反発しあっていました。そんな二人に「主にあって同じ思いになってください」というのは、同じ考え方、同じ感じ方になれということではなく、互いにへりくだり仕える者となるべきだというイエスに倣うという点で一致するようにということです。これが出来ればほとんどの問題は問題ですらなくなります。

そして4:4「主にあって喜びなさい」です。不満や思い煩いの種に溢れているのが人生です。しかし不満ばかりに気持ちが捕らわれていると喜びなど失われますし、他人に対して寛容さや親切を示すゆとりが失われます。しかし、神様にすべての思いと願いを感謝と共に祈ることで神の平安をいただくなら、喜びを見出すことができます。8~9節にあるように真実なこと、尊いこと、正しい事、聖いこと、愛すべきこと、称賛すべきことに心を留めるなら、私たちは難しいことの多い人生の中でも平安と喜びを得られるのです。

手紙の最後は改めてピリピ教会への感謝の言葉で終わっています。どれほど彼らの好意に感謝しているかがよく伝わります。

しかし、私たちがイエス様に倣って歩もうとするとき、あるいはテモテやエパフロディトのような良いモデルを見つけたとしても、そこに「自分にはとても」という諦めの気持ちが起こって来るかも知れません。私も今までの歩みの中で、本当に尊敬できる人、ある種憧れに近いような、あんなふうになれたらと思う人と出会ってきましたが、とてもじゃないけれどそんなふうにはなれない、と自覚させられます。しかし、神様はパウロを通してこう語りかけています。3:16「私たちは到達したところを基準にして進むべきです」。誰でも、今自分が達成できていること、身につけていることはなにかを知り、次に神様は何を得させようとしているか静かに聞き、人と比べたり、頂点との差ばかりに気を取られずに、少しずつ進んで行きましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今日はピリピ書をとおして、イエス様にならって歩むことを学びました。様々な困難が押し寄せる私たちの歩み、教会の歩みですが、イエス様が願っていることを私たちの願いとし、イエス様の歩み方を私たちの模範として歩むことができるように助けてください。

私たちが感謝とともにあらゆる願いと思いを祈り、神様の平安を頂くことができますように。

そのようにして、私たちがますますあなたの恵みよってますます豊かな者となり、世の光となることができますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA