2023-02-26 偽りなき信仰と愛

2023年 2月 26日 礼拝 聖書:テモテ第一 1:1-17

 私たちの信じていることが私たちの生き方を決める、ということはこれまで何度もお伝えして来ました。健全な信仰は健全な生き方を目指します。逆に、その人の振るまい、生き方を見ればその人が何を信じているかは明らかです。

まったく逆のこともあり得ます。言っていることは信仰深そうで、聖書の教えを自在に用いているし、人々から尊敬を集めているように見えるけれど、全体としてはちぐはぐで、深く関わった人を傷つける人がいます。また、とても謙遜そうで自分の弱さを正直に語り、自分は足りないと言いますが、どうもそういう状態に留まり続けることで注目を集め、同情を買い、世話を焼いてもらうことで自分が愛されていることを確認しようとする人もいます。

テモテへの手紙第一と第二、そしてテトスへの手紙を合わせて「牧会書簡」と呼びます。いずれもパウロの晩年近く、ローマの獄中で記されました。教会指導者のために書かれた手紙ですが、これを広く誰もが読むべきものとして新約聖書に含まれています。

教会の健全さとは何か、健全な信仰はクリスチャンの生活や教会の交わり、社会との関わりにどんな変化をもたらすのか。パウロが教会指導者たちに何を目指して指導するよう教えたかを知ることは、私たち一人一人が健全なクリスチャン生活とはどんなものかを知る近道です。

1.福音が目指す目標

第一に、福音が目指す目標は1:5にあるように「きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれた愛」です。

当時のエペソ教会には1:20にあるようにヒメナイとアレクサンドロという偽教師がいて、クリスチャンたちを混乱させていました。もし、今こうして礼拝を捧げ牧師が講壇から語っている時に、隣りの分級室で誰かが違った教えを教えるためのクラスを開いていたら、それはもう異常事態だと誰の目にも明らかです。しかし、初代教会は会堂を持たず、全員が一堂に会することはありません。いくつかの家庭を中心とした交わりが教会の本体です。通常は牧師や監督といった人たちによって教えられ、訓練された人々がそうした小さな群を導くのですが、そんな家庭集会に潜り込んでうまいこと人々を引き込んでしまうのです。彼らの目的は単に自説を売り込むことではなく、そうやって支持を得て教師として認められ、経済的な見返りを求めることでした。きよい心と偽りのない信仰から生まれた愛とは真逆の、下心ありありの、偽りの愛は歪んだ教えによって教会に果てしない議論と分裂を生み出し、福音宣教の働きを停滞させ、人々の健全な成長を邪魔していました。

ヒメナイとアレクサンドロを始めとする偽教師たちは、4節にあるような「果てしない作り話と系図」を元に自説を主張していたのですが、それは恐らく創世記をはじめとする律法に記された事柄や系図を独自に解釈して、本来聖書が語ってもいないことを教えたのです。具体的には結婚することを禁じたり、肉を食べることを禁じたようです。歪んだ信仰が歪んだ生き方を生み出したのです。

しかし律法そのものは8節にあるように適切な使い方をすれば、もともとは有益なものです。

9~10節にいくつかの例が挙げ、旧約の律法や物語が何のために記されたかが書かれています。そして10節の最後に「また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです」とあります。罪深い「行為のためにある」と書かれているとどういう意味か一瞬迷いますが、これらはいずれも旧約聖書の律法やアブラハム一族の物語、イスラエルの歴史を通して浮き彫りにされた人間の心の状態と、それらがもたらす罪深い現実です。つまり言わんとするところは、そのような罪の中に捕らわれている人々に救いが必要だということを強烈に指し示し、そんな私たち人間を救うためにキリストが来られたことを知るために用いられるということです。

パウロは、旧約律法を学び、厳格に守るパリサイ派の律法の専門家でしたが、それでも12~17で感動的な詩とともに、自分が罪ある者であったことを告白しています。聖書の教えを罪を自覚させ神の前にへりくだるためのものとして用いず、守るべき規則とし、守ることによって自らを正しい者と証明するために用いました。その結果、神様の救いのご計画も意図も誤解して、神が遣わされたキリストを否定し、迫害し、キリストに従う教会に暴力を振るうまでになったのです。しかし、彼は恵みによってあわれみをいただきました。パウロはそこに溢れるばかりの愛を感じ取ったのです。

そんな素晴らしい恵みと愛を示してくださった神様のみこころを無視するかのようにして、旧約律法をクリスチャンの結婚を禁じたり、特定の食べ物や飲み物を制限するために利用してはいけないのです。目指すべきは「偽りのない信仰から生まれた愛」なのです。

2.社会、教会、家庭

第二に、間違った教えによって混乱していた教会に具体的な指示が与えられています。2~3章では、社会や教会、家庭における健全な関係性を取り戻すように教えられています。

偽りの教えに惑わされていることが問題になっている教会で、問題を引き起こしている人物をどうするかではなく、家庭や社会における健全さを教えることにどんな意味があるのでしょうか。

よくある対処の仕方としては、おそらく間違った教えを持ち込んだ人を批判したり、議論したり、追い出したりすることかも知れません。その際に起こりがちなことは、互いへの不信感や苛立ち、正義感を振り回して裁き合うといったことです。

しかしパウロは、神の平和と福音をこの世界に証しする教会がどういう姿を保っているかということを大事にすべきだと言っているのです。表面的な平和を演じるのではなく、その町に生きるクリスチャンたちが、社会とも健全さを築き、教会の交わりにも家庭生活にも秩序や良い人間関係を築き上げていることが、地域に対してキリストの福音を証しする教会にとって何より重要なのです。

なぜならば、3:15にあるように、教会が真理の柱であり土台だからです。福音が真理であることを私たちは信じていますが、それが確かであることを確証するのは教会の姿なのです。建物の立派さではなく、教会に連なる一人一人とその交わり、家庭、社会との関わりに現れる敬虔さ、謙虚さ、誠実さが、やっぱり福音は間違いないと証明するのです。その目指すところは、キリストの恵みと栄光が世界中に宣べ伝えられ、信じられるようになることです。

ですから、偽りの教えをする人たちと真理について議論することも必要ですが、そんなことを延々と繰り広げても、外にいる人たちからは、内輪揉めにしか見えないのです。それよりは、惑わす人たちがいても、教会がしっかりと真理に立ち、交わりを保ち、家庭や教会を建て上げていることがよっぽど大事なのです。

そういうわけで、2:1~7は社会、特に権力者たちとの関わり方をまず取り上げています。

2:8~15で教会の中での男女それぞれの振る舞いについて注意を与えています。偽りの教えがもたらした混乱は、口角泡を飛ばして論争を繰り返す男性や、着飾ることに熱心な女性や指導者の立場を乗っ取るような女性を生み出しました。

争うのではなく祈りなさい、外見を飾るのではなく良い行いで自分を飾りなさいというのは意味が分かると思います。しかし女性が教えることに関する戒めの部分は解釈が難しい箇所で少し説明が必要です。教会指導者による聖書の教えと指導によって訓練されないまま女性が指導者のように振る舞っていたことを戒めていると思われます。

さらに3章で監督の職や執事の職など、教会の様々なタイプのリーダーになりたい人たちについてちゃんと審査するよう教えています。いずれの場合も高い倫理性とともに、健全な結婚関係、礼儀正しさや柔和、家庭をよく治めていることなど、家族や社会との健全な関係性が重視されています。

偽りの教えによって混乱していたエペソ教会にこれらの注意を与えているのは、福音を宣べ伝える教会にとって家庭、教会、社会における健全な関係性がいかに重要かを表しているのです。

3.具体的な変化

第三に、4章以降の残りの箇所で具体的な変化を求めています。

まずはあらためて偽りの教えがいかに馬鹿げているかを強調し、健全な教えに留まるようテモテを励ましています。

彼らは律法を歪めて解釈し、結婚を禁じたり、特定の食べ物や飲み物を禁じたりしましたが、それらは神が造られたものであって、どんなものも感謝して受け取る時に捨てるべきものなどありません。そんなくだらない議論に巻き込まれないで、聖書を教え、また言葉と態度、愛、信仰、純潔において皆の模範になることを目指すよう、あえて「鍛錬」という言葉を使って励ましています。それが自分自身と他の人々の救いとなるからです。

5章もなかなか興味深い箇所です。年配の男女は、教会にとって祝福ですが、時に悩みの種にもなります。そうしたときに、「父親に対するように」とか「母親に対するように」関わるよう教えています。ここでも、家族関係が健全に回復され、建て上げられていることが非常に重要だということが前提としてあります。年老いた親に無関心だったり、暴力的だったり、関係が悪かったりすると、教会の他の高齢の方々に問題が見られた時に相応しく関わることができません。

ただ、私たちはこの点で必ずしもうまく出来ているとは限りません。場合によっては、和解や理解ができないまま親が召されてしまったということもあり、わだかまりが解消されていないかもしれません。また、肉親間の問題は他人との問題よりもややこしくなり、闇が深くなりがちです。今自分が父親や母親に対してしているように、ということではなく、神の前でふさわしい親への態度を思い描いて、教会の年輩の方々に関わるということが精一杯かも知れません。

やもめの問題は、現代社会とはずいぶん状況が違っています。ここで教えられる重要な原則は、本当に助けが必要な人に十分な助けを与え、可能な人はきちんと自分自身の生活を築き上げるべきだということです。

17~25節は、教会の指導にあたる人たちを評価し、みことばの教えのために労苦している人たちには二倍の尊敬、心で尊敬するとともに、経済的に支えるということをしなさいと教えていますが、問題の中心はその後に出て来ます。どうも、教会で長老と呼ばれている年輩の指導者たちの中には、何かしら問題があって教会の中から不満が出ていたようです。軽はずみに批判に晒すべきではないけれど、罪を犯しているなら公の場で厳しく問うべきだというのです。人を教えたり導くことには大きな責任を伴うのです。ですから、3章に出て来た基準で審査することなく、安易に指導者に立ててはいけないよというわけです。テモテには健康のために少量のお酒を飲んだほうがいいと勧めていますが、もしかしたらこれらの長老たちには飲酒に絡んだ悪い評判があったのかもしれません。

さらに6章ではクリスチャンの奴隷たちに対する勧めが記されています。キリストにあって自由とされた人たちが、あらゆる差別から自由になることは神様の願いではありますが、賢くなければなりません。たとえ主人がクリスチャンだとしても敬うことをやめたりしないで、ますます忠実に仕えることで、クリスチャンが家庭や社会に良いものをもたらす存在であることを証しすべきなのです。

適用:追い求め、守るべきもの

テモテへの手紙は、福音が目指すところが偽りのない愛である、ということを教えるために、教会のあり方、家族や社会でのあり方について教え、具体的な教会の問題に注意を与えてきました。かなり重要なテーマがいくつもあり、次々とパウロからテモテへの指示が記されているので、とても一回で全部を理解することは出来ませんし、全体が見えにくくなるのですが、根底にある原則はシンプルです。イエス様を信じ、唯一の王であるイエス様に仕える私たちは、偽りのない信仰が生み出す愛に生きる者を目指すのが当たり前だということです。

それが権力者たちのための祈りや、教会の交わりや家庭生活での健全な人間関係を生み出し、助けが必要な人を助け、心から仕える者とさせます。

偽りの教えや福音以外の考え方を土台にすると争いや無意味な論争を生み出したり、家族や教会の交わりに自分勝手で思い上がった振る舞いをさせてしまいます。そうした偽りの教えを説く偽教師たちの動機にはお金に対する強欲があったことを最後の部分で指摘します。昔から「足るを知る」と言われていますが、主が与えてくださっているもので満足することを学び、富を得るより、むしろ分け与え、喜んで捧げるという豊かさ求めるべきだと語ります。偽りのない信仰と愛を追い求めるということです。

現代の日本の教会にこういう偽教師がお金を得たいという動機で入ってくるでしょうか。テモテへの手紙に書かれているような問題は大げさで、私たちにはあまり関わりのないことでしょうか。

異端の教えは昨年話題になった事件から明るみに出たようにお金の問題が絡んできますし、ここ数年は非常に巧妙に既存の教会に異端グループの伝道者が潜り込んで、気付いた時には乗っ取られていたという例がしばしば聞かれます。正統的なキリスト教の教会でもカルト化してしまうことがあり、牧師が独裁的になった教会もあります。そういうところでは指導者とお金の問題が起こるということをしばしば耳にします。お金の問題でないかもしれません。また牧師などの指導者だけでなく、エペソ教会の間違った教えに毒された人たちがそうだったように、普通のクリスチャンが支配欲や自尊心を満足させたくて、人の前に出たがったり、自己主張する人は出て来ることはあり得ます。支配欲はパワハラや性的な逸脱に結びつきやすいと言われます。残念ながら現代の教会でもエペソ教会に起こった問題は起こり得るのです。決して皆さんを怖がらせたり、危機感を煽るつもりはありませんが、聖書の時代も、その後の教会の歴史を見ても、現代に至るまで教会が絶えず直面して来た現実なのです。

当然教会を導く牧師や信徒リーダーがそうした過ちに陥らないようにテモテ書が書かれ、戒められているのですが、これは指導者だけの問題ではありません。クリスチャンがそうした人々を見分け、惑わされたり無益な争いに巻き込まれないためにはどうしたら良いでしょうか。パウロがテモテに「このように指導しなさい」と教えた内容が、私たちの指針になります。教会の指導者だけでなく、クリスチャン一人一人が、聖書をよく学び、偽りのない信仰と愛を目指して生活を整え、自分が関わる人との関係性を健全に築き上げていく必要があるのです。

そうしてみると3章で監督や執事の職に就きたい者に求められていた基準は、良く読めば特殊なものではなく、すべてのクリスチャンに求められている健全さであることが分かります。

聖書に学び、正しい信仰に立ち、健全な人間関係を築き、愛によって仕える教会と家庭を目指して歩んでいきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

昔も今も、教会には偽りの教えや福音に根ざしていない考え方が入り込み、混乱させられることがあります。そのような中で私たちが惑わされることがないために、聖書をよく学び、教えられている生き方を目指し、家族や教会、社会での人間関係を健全なものに保つことができますように。それは私たちが平安でいるためだけでなく、私たちの信じているキリストの福音が真理であることを証しするものだからです。

どうか、偽りなき信仰と愛にしっかりと立ち続けることができますように助け守ってください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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