2023-04-23 頼れるお方

2023年 4月 23日 礼拝 聖書:ヘブル1:1-3

 今日と来週の二回にわけてヘブル書を読んでいきたいと思います。このヘブル書は手紙の体裁を取っていますが、差出人についても宛先についてもはっきり書かれていません。パウロや名のある使徒の手紙だと考える人もいますが分かりません。宛先もローマ帝国内に散らされたユダヤ人クリスチャンに向けて書かれたと考える人もいますし、迫害が差し迫っているローマ在住のクリスチャンに宛てて書かれたと考える人もいます。

手紙の中の手がかりをまとめると、宛先になっているのは旧約聖書に精通したユダヤ人クリスチャンで、大変な苦難の中にあったらしいことが分かります。そのため信仰や心がくじけそうになっていました。そんな人々を励ますためにこの手紙は記されました。

聖書全体の四分の三を占める旧約聖書の知識なしに読むと全く話しについていけないくらい、律法や旧約の民の歴史を通してイエス様が私たちにとってどれほど頼りになるお方かを教えようとしています。状況も旧約の知識もだいぶ違いますが、それでもこの手紙は天の故郷を目指して信仰による旅を続ける私たちに、分厚い旧約聖書にふさわしい、重厚な裏付けに基づいた確かな希望と励ましを与えてくれるに違いありません。

ヘブル書は2章か3章ずつがひとまとまりとなって説明が続き、それぞれのまとまりの終わりに励ましや警告が記されています。

1.私たちの弱さを知る方

第一に、私たちの主イエス様は、私たちの人間としての弱さを良く知っておられます。

今日読んでいただいた箇所は、ヘブル書全体の導入になっています。神様が歴史の中でどのように人間に語りかけて来られたかが記されています。旧約時代の神様の語りかけには二つの特徴がありました。まず神様は、一度に全部を語るのではなく、多くの部分にわけて段階的に語りかけました。アブラハムから始まり、エジプト脱出の時代、王国時代や王国の崩壊と捕囚、そして帰還の時代というように、時代が進むにつれて神様のご計画を少しずつ明らかにしてこられました。

さらに多くの方法でとあるように、いろいろな仕方で神のことばは告げられてきました。確かに神のことばの記録である聖書には歴史、法律文書、物語、格言、詩などの文体があり、黙示文学という様々な幻が複雑にからみあった独特な文体もあります。

そんなふうにして旧約時代の語りかけが終わると、2節にあるように「御子にあって私たちに語られました」とあるように、イエス様が神のことばとなって来てくださいました。イエス様は目で見ることのできない神様を表す方であり、イエス様を知ることは神を知ることです。すべての創造者であり、神の本質と栄光を現す方であり、罪の聖めを完成する方です。

ところが4節で急に話が変わったようにイエス様が御使いより優れた方であるという話題に変わっています。この話が出てくるのは、ユダヤ人クリスチャンが大切に思っている律法をはじめとるす預言者たちへの神のことばは御使いを通して告げられたものだったからです。1:14で御使いが奉仕する霊であって、仕えるために遣わされたとありますが、イエス様はご自身が神のことばであり、御使いより優れた方です。2:1~4にあるように、御使いを通して伝えられた神のことばが、律法や預言として効力があったのなら、イエス様が直接語り、使徒たちを通して確かなものとして証ししてきた福音は間違いなく私たちを救うもの。だから2:1にあるように、聞いたことを、しっかりと心に留め、どんな人生の嵐、信仰の試練があっても押し流されないようにすべきだと諭します。

そして、この素晴らしい方であるイエス様は、なんと2:7にあるようにへりくだってくださり、すべての人のために死を味わってくださいました。イエス様は私たちと同じ血と肉を持つからだでお生まれになり、その肉体の苦しみを経て死なれ、そして死に打ち勝ってよみがえりました。死の恐怖に生涯閉じ込められていた私たちを解放するためです。

神の栄光そのものであり、神のことばである方が、へりくだって人となり、ご自分のいのちを死に明け渡し、その死に打ち勝ってよみがえったことが私たちにとって何を意味するかというと、2:18にあるように、イエス様が「自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」ということです。

イエス様は、私たちが味わう試練の苦しみ、人として味わう痛みを知っておられるので、私たちを助けることができます。能力があるからだけでなく、苦しみを知っているからこそ救い助けることができるのです。

2.私たちを安息に入れる方

第二に、イエス様は私たちを安息に入れてくださる方です。ヘブル書の著者はこのことを、3~4章で荒野を旅したイスラエルの民との比較の中で語っています。

荒野の旅といえばモーセが浮かんできます。モーセはエジプトの奴隷であった民を脱出させ、荒野の旅を導いた偉大な預言者であり、指導者でした。しかし3:3にあるようにイエス様はユダヤ人が敬愛するモーセよりも、大いなる栄光を受けるにふさわしい方です。ですから、モーセのもとで不忠実で、不従順を繰り返したかつての民のようであってはならない、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」と注意し、13節でも「「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい」と戒めています。

イスラエルの民は安息の地を目指しましたが、約束された安息を得ることはありませんでした。4:2にあるように聞いたみことばが信仰によって心と生活に結びつけられなかったからです。

しかし、信仰によって聞くなら、その人のうちには新しい創造が始まります。ヘブル書の著者はイエス様を信じた人たちが約束された安息に入ることを、4:4以下で天地創造の時の7日目の安息と結びつけて説明しています。少しわかりにくい箇所ですが、天地創造の6日間のあと、7日目に神様が御わざを終えて休まれた、その安息に入ることですべては完成するということです。10節「神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです」。単に休息を得るのではなく、新しい創造が完成するということです。苦難の多い地上での歩みの果てに、私たちのうちに始まった創造のわざは完了するのです。ですから11節にあるように、イスラエルの民が信仰によって聞いたみことばを心と生活に結びつけなかった悪い例に倣わないよう警告します。

12節にあるように「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣より鋭く」、私たちの心の奥深くまで探り、明らかにします。実際、イスラエルの民は、そういう鋭い神のことばを聞きたくありませんでした。しかし、神様が私たちの心に鋭く問いかけるのは、私たちの罪深さを暴いて責めるためではありません。自分たちの罪深さと弱さを知り、神の前にへりくだって、神様に拠り頼む者になって欲しかったのです。自分の罪深さを認めるのに信仰はいりません。事実を受け入れるだけのことなのですから。しかし、そのように罪深い者であっても神の慈しみの中にある、ということは信仰によらなければ得られない確信です。

では、イスラエルの民と同じ人間としての弱さをもった私たちはいかにして、この神のことばの前に立ち、なお信じて安息に至ることができるでしょうか。そこで私たちの祭司としてのイエス様の助けが必要となるのです。人として私たちの弱さを知るイエス様が私たちのためにとりなしてくださるので、私たちは自分の罪深さや弱さを事実として認めつつも、なお信仰を告白して歩めるのです。

私たちは今も弱く罪ある者ですが、イエス様が大丈夫だと言ってくださるので、聖書を通して私たちはまず心が変えられ、言葉と態度が変えられることで人間関係に変化があらわれ、時には社会を変えるほどにもなります。それが新しい創造であり、やがて私たちは完全な安息へと導き入れられるのです。

3.私たちを恵みに導く方

第三に、イエス様は私たちを恵みに導く方です。イエス様はそのために私たちの永遠の大祭司となってくださいました。

4:14~16で、イエス様が私たちの弱さをご存じで、私たちを助け、折りにかなった助けを得られるようにと大祭司の役割を果たしてくださることが約束されています。だから、大胆に信仰を告白し、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんかと励ましていました。

さて、ユダヤ人クリスチャンにとって大祭司というのは、日本人にとってのお寺の住職のように馴染み深く、生活に深く根ざした存在でした。福音書に登場する大祭司はイエス様を敵対視し十字架に追いやったユダヤ人指導者たちの頭目みたいな存在ですが、イスラエルの長い歴史の中では、モーセの兄アロンに始まり、神と人との間にたち、とりなし、神の赦しと恵みを人にもたらす大事な役割を果たす人たちでした。

5~7章では、イエス様が大祭司であるとはどういうことか、人間の大祭司と何がどう違うのかが説明されています。これもまた、現代の私たちにはなかなか馴染みのないことですが、イエス様が大祭司だということの意味を理解するために大切なことなので、頑張ってみていくことにしましょう。

まず5:1~4で人間の大祭司の特徴が記されています。人の中から神によって選ばれた大祭司は、他の人々の罪の赦しのためにささげものを献げ、神様と人との間に立って仕えます。ところが大祭司自身も人間ですから罪があり、弱さがあります。だからこそ、人の弱さに寄り添うことが出来るのですが、同時に自分の罪のためにも献げ物を献げて赦し得る必要がありました。

一方イエス様も父なる神によって選ばれ大祭司の地位を与えられました。イエス様は神でありながら、私たちと同じ人間として生き、私たちと同じように弱さや苦しみを受け、死から救い出すことのできる神に向かって十字架の上で叫びました。だからイエス様は私たちの大祭司となることができたのです。

この一連の説明の中で「メルキゼデク」という名前が出てきます。特に7章では詳しい説明がありますが、はっきりいって分かりにくいと思います。要点は、アロンの子孫が代々受け継いできた人間の大祭司とは違う、特別な、唯一無二の大祭司なのだということです。

7:23~25で人間の祭司はいつか死によって務めを果たせなくなりますが、死に打ち勝ったイエス様は永遠に変わることなく祭司の務めを果たすことができます。このことが意味するのは、イエス様は神に近づこうとする人々を完全に救うことができるということです。

だから、4:14に記されていたように、このイエス様がおられるから、私たちはどんなことがあっても大丈夫なんです。試練や困難といった人生の浮き沈みだけでなく、私たちの中にある人間としての弱さや、罪深さがあったとしても、私たちの弱さを知っていて、その上でいつまでも私たちのために大祭司となってくださっているイエス様が「大丈夫だから」と言ってくださるので、私たちは自分がダメな者だと知っていても、恐れることなく、神様に大きな恵みをもとめ、大胆に祈り、近づくことができるのです。

適用:頼れるお方

さて、週報の報告にも書きましたが、昨日の午後は大船渡グレイスハウス教会の献堂式に行ってきました。あの震災以来続いてきた被災地支援の流れから生み出された教会が、ようやう自前の会堂を持つことができたことを皆で祝い、神様に感謝の礼拝を捧げました。その献堂式に工藤さんという声楽家の方がゲストで来られました。彼女さんは、震災以来ずっと被災地に通い続け、慰問コンサートをしてくださった方ですが、私はその方に、いつかお礼の言葉を伝えたいと思っていました。

昨日の献堂式で歌われた曲の中に「よき力に守られ」という讃美歌がありました。私たちの教会でも時々歌いますのでご存じでしょう。その曲を最初に聴いたのは、彼女が盛岡教会のイベントで歌ってくださった時のことでした。当時、災害支援の忙しさもありましたが、ちょうどのその頃は家内が抗がん剤での治療の真っ最中の時でした。被災者の方々の辛さも分かるのだけれど、我が家もなかなか大変だなあという時期です。少し気晴らしに行って来たら、という事だったかも知れませんし、半分、教会同士のお付き合いというような気持ちもあったかもしれません。ともかく、そんなタイミングで聴いた曲に心がわしづかみにされました。

ナチスの迫害の中でもう間もなく処刑されるだろうと覚悟を決めていた若い牧師が婚約者に贈ったクリスマスカードに記された歌詞には、この人生にどんなことがあっても、たとえ死が待ち受けているとしても、神様の特別な良い力に守られているから、来るべき朝を待とうと歌いかけています。イエス様がともにいてくださるから大丈夫なんだと、心から思えたのです。

昨日の献堂式のあと、その時のお話させていただき「あの時はありがとうございました」と、ようやくお伝えできました。

人生の中では私たちが味わう弱さや辛さに共感してくれたり、手助けしてくれる友人の存在は実にありがたいものです。

また具体的な助けを専門家からもらうこともあります。肉体や心の病気なら医者や看護師が助けてくれるでしょう。年齢とともに介護や福祉の専門家のお世話になることもあるでしょう。家の修理が必要になったら大工やリフォームの専門家、庭の植木に問題があれば植木屋さんや庭師などなど。しかし私たちのもっと深い魂の問題については、本当に救う力がある救い主イエス・キリストが必要です。私たちを捕らえて放さない罪と死の力は人の力ではなんともしようがないのです。

ヘブル書の著者は繰り返し、心を頑なにせず、みことばに聞き、このイエス・キリストに信頼しなさいと励まします。

この手紙を受け取った最初の人たちと私たちとでは置かれた状況は違うでしょう。それでもイスラエルの民が神のことばを聞きながら安息を目指して旅したように、私たちも神のことばを聞きながら、旅する者です。この旅の果てには完全な平和と休息が待っていますが、その道のりには様々な困難が待ち受けています。

しかし、いつも神様は聖書を通して語りかけ、イエス様ご自身を通して語りかけてくださいます。私たちがそのみことばにへりくだって聞くなら迷うことはありません。

私たちには弱さがありますが、イエス様が大丈夫と言ってくださいます。言葉だけでなく、ご自身の犠牲を通して、復活を通して本当に頼れる方であることを示してくださいました。この頼れるお方に信頼し、夜明けを待ち、どんな日でも歩んでいきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今日はヘブル書を通してイエス様が私たちの頼るべき方であり、どんな試練の時も、弱さの中にあるときにも、私たちを助け出し、豊かな恵みへと招いてくださり、やがて安息へと至らせてくださることを学びました。

私たちの弱さを知っていてくださるイエス様が、いつも私たちの味方となってくださり、慰め、受け入れてくださることを感謝します。どうぞ、この大きな恵みに背を向けることなく、みことばに耳を傾け、信頼し続けさせてください。

私たちの主イエス様の御名によってお祈りいたします。」

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