2023-07-02 落ち穂拾い

2023年 7月 2日 礼拝 聖書:ルツ記2:1-13

 月に一度、年間主題に関連した箇所を開いていくシリーズですが、今日は有名なルツの落ち穂拾いの物語を取り上げます。

ルツ記は士師記とともに、出エジプトの時代と王国時代の間をつなぐ、とても大切な役割を担っています。モーセやヨシュアという偉大な指導者を失ったイスラエルは、王国時代に入るまで非常に混乱した時代の中にありました。人々は自分が良いと思うように勝手に生きていました。それは自由であるようで実のところ心に住み着く罪に囚われた生活になってしまい、宗教も道徳も社会も大混乱でした。神様は度々イスラエルの民を懲らしめるために他の国々がイスラエルを責め、奪うことを許しました。その度にイスラエルの民は神に赦しを乞い、助けを求めます。すると、神様は士師と呼ばれる指導者を起こし、苦境から救うのですが、しばらくするとまた元に戻ってしまう。そんなことを繰り返していました。

しかしそんな時代でも、アブラハムの子孫を通して世界に祝福をもたらすという神様の約束は反故にされることなく、目立たない存在でああっても、神に信頼し、希望を置く人々を通して守られていたことを示すのが、このルツ記です。

今日は、このルツとナオミが希望を見出し難い時代の中でどのように希望を保ち、結果として神様の救いのご計画が実現に向けて前進することになったかを見ていきましょう。

1.失意の中で

第一に、ルツとナオミは大きな失意の中で希望を探さなければなりませんでした。

希望は常夜灯のようにいつでも煌々と照らしてくれているわけではなく、時には深く暗い森の中に隠れていてなかなか見つけられないこともあるものです。

ルツ記の最初の舞台はイスラエルの領地から離れた、モアブ人の土地です。エリメレクと妻ナオミ、そして二人の息子は、飢饉の苦しさから逃れモアブ人の土地に生きる道を求めました。混乱し、しかも飢饉で生活の糧を得ることが難しくなったところから何とかモアブ人の土地を借りてようやく落ち着いて暮らせると思った矢先のことです。夫のエリメレクに先立たれてしまいます。

残された息子たちはモアブ人の娘たちをそれぞれ妻に迎えます。ルツは長男マフロンと結婚した、ナオミにとっての義理の娘にあたります。そうやって何とか10年、モアブの地で生き延びました。ところが息子たちは子どもができる前に相次いで死んでしまい、残されたのはナオミと二人の義理の娘たちです。

これからどうしようか、というときに、故郷のイスラエルで飢饉が終わり、再び作物が収穫できるようになったという知らせを聞きました。そこで、ナオミは故郷に戻ることにします。

ここまでのところ、夫に先立たれたルツ以上に、ナオミが大きな失意の中にあったことは容易に想像できます。飢饉のために故郷を離れなければならなかったこと、異国の地で夫に先立たれ、息子たちまで先に死んでしまったのです。

もちろんその都度、歩みを前に進めるための希望らしきものはあったのです。飢饉で畑が荒れたときはモアブという異国の地に希望がありました。夫が死んだ後は息子たちがそれぞれ結婚し、新しい家庭を築きはじめました。しかし、それらはことごとく打ち砕かれたのです。

故郷で作物が取れるようになったと聞いて、帰るつもりになったナオミですが、それは希望に胸膨らませるような旅立ちではありませんでした。だから、まだ若い義理の娘たちにはもう義理はないのだから実家に帰って再婚するよう勧めました。故郷のベツレヘムに帰った時も1:21でこう言っています。「私は出て行くときには満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目に合わせられたというのに」

もしかしたら、これで状況が良くなるかもと期待を寄せたのに、かえって悪くなるということを何度か繰り返したら大抵の人の心は折れてしまいます。そうなってしまうと、以前だったら希望のしるしだと飛びついたようなことも、疑ってかかるようになり、再び傷付かないよう自分を守るために最初から期待しない、というようなことになりがちです。

ナオミにとって故郷ベツレヘムで再び作物が取れるようになったという知らせは良い知らせだったはずですが、帰ってからの生活の大変さを考えると皮肉の一つや二つも出てくるというものです。

しかし、まだ気付いていませんが、ナオミにとって幸いだったのはルツの存在です。モアブ人という、イスラエル人が忌み嫌った民族の娘がナオミに示す優しさと誠実さこそ彼女の助けでした。

2.それでも主の手の中に

第二に、希望が見いだせない状況にあっても、それでもすべては主の手の中にあるという感覚があったことはとても大事です。

飢饉や社会の混乱、夫の死と相次ぐ不幸に見舞われたナオミとルツですが、そんな彼女たちの神様に対する感覚には現代人が見るべきものがあります。

1:6からナオミが故郷に帰ることを決め、今後のことについて義理の娘たちと話し合う場面になっています。弟嫁のオルパは実家に帰ることに同意し、涙ながらに別れて行きます。ところが長男の嫁、ルツはなかなか去ろうとはしません。早く行きなさいと促しますが、16~17節でルツは、一緒に着いて行くと言い張ります。その中で注目すべき信仰のことばを見ることができます。「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。…私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように」

ナオミの家族が飢饉を逃れてモアブに行ったり、モアブ人の娘を息子たちの妻に迎えたように、イスラエル人とモアブ人は交流がありましたが、基本的には敵対関係にある民族です。モアブには邪悪な異教の神をあがめる習慣があり、たびたびイスラエルはそれに影響されて来ました。そんなモアブ人の娘がひとりでナオミに着いていったところで故郷の人たちに受け入れられるとは考えられません。まだ若かったのですから実家に帰れば再婚の機会もあったでしょう。ベツレヘムについて行ったら再婚はおろか、むしろいじめに合う可能性のほうが遙かに高いのは明らかでした。それでもルツは主である神様の名前を持ちだして、この主を自分の神とし、恐れる者としてナオミと共に歩むと言うのです。「あなたの信じてる神様は全然守ってくれないじゃないか」「あなたの神はあなたを不幸に合わせている」「やっぱり神なんかいないんだ。信じたってしょうがない」と非難するのではなく、主の御手の中にあることを信じ、受け入れているのです。

一方ナオミはどうでしょう。ベツレヘムに帰ったナオミを街中の人たちが「ナオミが帰ってきた」とちょっとした騒ぎになりました。しかし、「ナオミ」という名前は「快い」という意味があります。ぜんぜんそんな気分じゃなかったので「ナオミなんて呼ばないでマラと呼んでください」と言い放ちます。マラは苦しむという意味です。しかし、この皮肉一杯のナオミの言葉には、「全能者が私を大きな苦しみにあわせた」「主は私を素手で帰されました」「主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられた」と、すべてが神の手の中にあったという感覚を持っていたことが分かります。

これはナオミ自身の感じ方を言っているので、私たちが経験する不幸がすべて神ご自身の手でもたらされる不幸ということを教えているわけではありません。大事なのは、どんな不幸の時にも神の御手の下にあるという感覚です。聖書の中でもっとも大きな愚痴をこぼしたのはヨブだと思いますが、彼は自分の疑問や不満に神様が何も応えてくださらないという状況の中で、神はいないんだという結論に飛びついたりしないで、ひたすら神様に文句を言い続けます。

そんなことで神様が私たちを怒ったり言い返したりはしません。何も言わずに聞き、受け止めてくださいます。そして、神の御手の下にあることを信じるとき、やがて神様が無言のうちに静かに応えていてくださることに気付くのです。

3.一縷の希望

第三に、失意のうちに故郷に帰ったナオミとルツは小さな希望を見出します。

フランスの画家ミレーによって描かれた有名な「落ち穂拾い」という絵画があります。絵としては1800年代中頃のフランスの田園風景を描いたものですが、題材となっているのはルツ記の物語です。

当時ミレーは貧しさのどん底にあって一時は自殺さえ考えたほどだったと言われています。そんな時代に描かれた絵はとても美しいですが、この場面は刈り取りが終わった畑に落ちている麦の粒を一つ一つ拾い上げる作業で、最も貧しい農民が行う、非常につらい作業だったそうです。自ら貧しい中にあっても、この絵がこれほどまでに美しいのは、貧しさの中で落ち穂を拾う農民たちの労苦への共感と優しい眼差しの故であろうと思います。そして、聖書でよく知られた物語を作品のタイトルにしたところに、彼の信仰が現れて居るのかも知れません。ミレーの家は名家ではあったそうですが、決して裕福ではなく、両親ともに忙しく働き、彼を育ててくれたのはおばあちゃんだったそうです。敬虔なカトリックの家庭で、厳しくはあっても愛情豊かな家族で育まれたミレーの作品には、聖書の教えが息づいています。

ナオミとルツの見出した希望はまさにその落ち穂拾いの中にありました。旧約時代の落ち穂拾いだって貧しい人に許された権利ではあっても、その作業自体は辛いものです。朝から日暮れまでずっと腰をかがめて麦の穂を拾い集める労働の辛さとともに、貧しいからというだけで馬鹿にされたり意地悪されることもありました。

しかし、ルツが行った畑は有力な親戚ボアズが経営する麦畑で、ボアズはモアブ人の娘がすでに夫が死んで実家に帰っても良かったのに、姑ナオミと同じ神を信じ、誠実に仕えているという噂を聞いていました。実際、その働く姿を見たボアズは彼女に最大限の便宜を図ります。2:12でボアズの親切がルツの信仰と誠実さに感動したためであることを語っています。

ナオミは、そこに何かが起こり始めていることを期待し、ルツもまたボアズの親切さに触れ、心を躍らせていきます。

2:20で事情を聞いたナオミがルツ記の中ではじめて神を賛美することばを口にします。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまない主が、その方を祝福されますように」。そこには今は亡き夫エリメレクとボアズの間にあった親戚関係という思いがけないつながり、そして常識では考えられないルツに対する親切さにやっと人生に前向きになれた安堵感と喜びが表れているようです。そして、自分に尽くしてくれたラッキーガールのようなルツの再婚のために何とかしてあげようと策を巡らすのでした。しかし、彼女は事を強引に進めたりはしません。3:18にあるように「娘よ。このことがどう収まるか分かるまで待っていなさい」とルツに語りかけます。慎重ではありますが、彼女自身も希望を持っていることが分かります。

結果は、ルツにとってもナオミにとっても、そしてボアズにとっても最善のかたちに落ち着きました。この結末はナオミとルツにとっては、労苦に対する報いとささやかな喜びでした。だれもが願うものです。しかしより大きなストーリーの中では、ダビデ王につながる家系が守られたという意義があります。

適用:希望を見つけるために

今日ぜひ覚えたいことは、ナオミとルツが苦難と失意の中でも神に信頼し希望を持ったことが神のご計画の前進に大きな役割を果たしたように、私たちが苦難や失意の中でも神に信頼し希望をもって生きることが、救いの完成に大きな役割を果たすということです。

先月ローマ書5章を開いて、神様への信頼と希望が苦難の中で忍耐や練られた品性、より確かな希望の確信へと成熟していくことを見ました。そのようにして私たちが信仰と希望を通して新しい人として整えられていくことが神の救いの完成への道のりなのです。

クリスチャンにとっての「希望」というと主の再臨と救いの完成という希望や、先に召された愛する方々と天の御国で再び会えるという、大きな希望を思いうかべるかも知れません。それら頭で理解し、心の片隅にあっても、今直面している困難や深い失意の中ではあまり現実的な響きを持たないことがあります。私たちは、もっと手近なところで前に進むためのささやかな希望を必要とします。受験や就職の合格の手応えがあるとか、暮らしが少しは良くなるとか、病から癒されるとか、悩ましい人間関係の難しさから解放されるとか。キリストの恵みと神の愛によって、良きものが与えられるはずだという希望や、この地上での歩みの中でイエス様に似た者に変えられていくのだという、キリストのいのちの希望が私たちの日々に力を与えます。そうした希望のサインが私たちの暮らしの中で見えるとき、ああそうだ、大丈夫だと思い起こすことができるものです。

しかし困難や悩みの中で、希望のサインのようなものが見つかっても、それが果たして本物なのかどうかは、先に進んでみなければ分かりません。さらに問題なのは、そうした希望らしきものさえなかなか見つけられないときです。

私たちは小さくても希望があれば忍耐したり、前に向けたりしますが、この苦しみがいつまでも終わらないように思え、何の解決もないかも知れないという恐れの中に閉じ込められると絶望の淵に立たされます。

ナオミとルツの物語から教えられることは、どこまでも希望の見えないような状況でも、それでも神の御手の中にあるのだという信仰、感覚がかなり私たちを助けてくれるということです。

詩篇の中に「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」という有名な詩篇があります。詩篇42篇ですが、この詩の中で何度も「うなだれている」という言葉が繰り返されます。この言葉は以前「絶望」と訳されていたのですが、言葉本来の意味と、絶望という日本語の意味合いが合わないということで変えられました。絶望というのは完全に望みが絶たれた状態ですが、鹿のように飢え渇く詩人の心は、希望は見つかっていないけれど、求めて神に訴えているのです。具体的な光は見えていないけれど、この先に光があるに違いない。なぜなら、この苦難の日も神の手の中にあるから、という根本的な信頼があるのです。失意の中にあるけれど、それでも神に求めているのです。それは、ナオミとルツが不幸続きで先が見えない時に感じていたものと通じます。

私たちも、なかなか希望のしるしが見えないような時でも、それでも神の御手の中にはあるのだということを思い出し、その事実に留まりましょう。それは小さな灯りに過ぎないかも知れませんが、それを手がかりに、日々の暮らしの中に静かに潜んでいる大きな希望のしるしを見出すことができます。

祈り

「天の父なる神様。

ナオミとルツの物語を通して、希望を見いだせない時にいかにして私たちは生きていけるか考えてみました。

どれほど苦難が続き、希望が見えないような深い失意の時でも、それでも私たちは神の御手の中にある、という深い確信に立ち続けることができるように助けてください。小さな光を持って、あなたが備えてくださっている希望のしるしを見つけられるように、そしてそれを頼りに、前に向かって歩んでいけるように信仰を増し加えてください。

主イエス様のお名前によって祈ります。」

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