2023-07-23 生き方こそが

2023年 7月 23日 礼拝 聖書:ユダ 1-25

 私たちは様々なものと戦って生きています。できればそんなに無理をしたくないとも思いますが、病気と戦わなければならないことがあったり、仕事においてノルマやスケジュールと戦っているような時もあります。今はカビが生えやすい季節ですから、湿気と戦っている人もいるでしょう。

もう少し視野を拡げれば、たとえば人権のために戦っている人もいますし、社会の不公平や不正と戦う人もいます。さらには、祖国の解放のために戦っている人たちもいます。

どの戦いにも「こうあるべき」「こうあってほしい」と思い描く姿や理想のため、あるいはそのように生きられる権利があるはずだという確信があるからとか、何か理由があって戦います。時として会社のノルマや戦争のように強いられた戦いもありますが、それでも家族のためといった何か戦う理由を見つけてがんばります。

では信仰の戦いの場合はどうでしょうか。ユダの手紙が書かれた目的は3節にあるよう「信仰のために戦う」よう勧めるためでしたが、果たして信仰のための戦いとはどのようなものでしょうか。

今日は残り二つとなった聖書66巻の中で、最後の手紙となる短いユダの手紙です。短い割に分かりにくいところもある手紙ですし、私もここから語るのは始めてですが、信仰の戦いとは何なのか、何をもたらすのか、ご一緒に学びましょう。

1.信仰の戦いとは

第一に信仰の戦いとは、福音を土台とした生き方を守るための戦いです。

この手紙を書いたのはユダですが、もちろんイエス様を裏切ったイスカリオテのユダではありません。ヤコブの兄弟ユダと1節にありますが、イエス様の弟にあたります。

兄ヤコブもユダも、イエス様が十字架にかけられるまではイエス様を信じておらず、遠巻きに見ているだけでしたが、十字架の死から三日目によみがえったイエス様に会って、それからイエス様を信じ弟子となりました。開かなくて結構ですが、第一コリント9:5にはパウロが他の使徒たちやペテロと並んで「主の兄弟たち」が妻を伴って福音の働きに従事していたことを記しています。

ヤコブもユダも、ユダヤ人を中心とする教会の指導者でした。そしてこの手紙も、ユダヤ人の割合が多い教会に宛てて書かれたようです。もともとは3節にあるように「私たちがともにあずかっている救いについて」手紙を書こうとしていたのですが、ユダヤ人クリスチャンたちが信仰の戦いに直面していることを聞いたユダは別のテーマで手紙を書くよう計画を変更しました。

いったい、どういう信仰の戦いがあったのでしょうか。4節には「ある者たちが、忍び込んできた」とあります。ここ最近の聖書箇所で度々登場してきた「惑わす者」、「偽教師」たちがここでも登場したというわけです。

4節によれば、偽りを教える者たちは「不敬虔な者たち」つまり神を敬う心とふるまいがない人たちでした。彼らはまた「神の恵みを放縦に変え」つまりキリストにあって自由とされたことを好き勝手に生き、罪を犯しても構わないとねじ曲げて解釈していました。その上、唯一の支配者である主イエス・キリストを否定している者たち、つまり主の教えや命令を軽んじる人たちです。

こういう人たちとの戦いをユダは「信仰の戦い」と言っているのです。しかし戦いといっても、彼らと論争し、論破することで打ち負かすとか、勢力争いを繰り広げて仲間を増やすことで立ち向かうとか、そういうやり方を示してはいません。

神様がユダを通して示している信仰の戦いは、そのような歪んだ教えで惑わす者たちに惑わされずに、神様の豊かな恵みに支えられて福音に根ざして生活していくための戦いです。それは誰か個人と対決するということよりむしろ、惑わされやすい自分自身を自覚し、自分が何に立って生きるべきかを思い定めるという戦いです。

当時すでに多くの教会、クリスチャンたちが偽教師たちの攻撃に晒されていただけでなく、迫害の中にもありましたが、その場合も信仰の戦いは基本的に同じです。迫害するものを打ち倒すとか、キリスト教を認めない社会や国家をひっくり返す運動や活動をするというよりは、そうした誘惑や圧力に負けずに福音に生きるための、自分自身のうちなる信仰の戦いなのです。

ちょうど畑の雑草との戦いのようです。確かに作物や花にとって雑草は生長を妨げ、美観を損ねます。でも雑草との戦いばかりに気を取られず、作物を丈夫に育て、花を美しく育てるための戦い、水や栄養が十分行き渡るようにとか、他の害虫や病気から守るといったことにも注意を払わなければなりません。目標は敵を倒すことではなく、信仰によって建て上げられることです。

2.思い起こすこと

では、信仰の戦いはどのようにして戦っていくのでしょうか。

まずユダが繰り返し述べていることは「思い起こしなさい」ということです。信仰の戦いは、神様が様々な方法で教えてくださっている大切なことを思い起こすことから始まります。

「思い起こしてほしい」というユダの言葉が5節と17節に出てきます。実際、5~19節は旧約聖書の様々な例を挙げながら偽教師たちのような生き方がどういう結末をもたらしたかを思い起こして、そのような生き方に惑わされないように、という警告になっています。

さて、この5~19節はユダの手紙の中でもややこしい箇所の一つと言われています。一見すると分かり難いかも知れませんが、よく読んで見ると、旧約の出来事とはいっても、旧約聖書から直接引用している部分と、聖書以外のユダヤ人の文書からの引用とが入り交じっているからです。これはユダヤ人以外の人たちには簡単にはピンとこない所なので、この手紙がユダヤ人クリスチャンに向けて書かれた、といわれる理由の一つになっています。

当然のことですが、ユダヤ人は聖書以外の書物も書いていますし、よく読んでいました。現代のクリスチャンにも、信仰の理解や励ましに役立つような書物を読むよう薦めることがありますが、ユダヤ人たちもそうやって聖書ではないけど、これも読んだほうがいいよ、というような書物があったのです。具体的には「エノク書」とか「モーセの遺訓」といった書物から引用されています。

さて、そうしたものを用いながらもユダは旧約の幾つかの実例を思い出させます。

5~10節には神に反逆した人々の反抗と、それに対する神の裁きの例が挙げられています。荒野で反逆したイスラエルの民、神に反逆した御使いたち、神の御使いに暴力を振るおうとしたソドムの男たち。彼らは神様の権威に逆らい、性的な不道徳に陥り、彼らに警告を与えるために訪れた神の使いを拒絶しました。

また11~13節には人々を惑わし堕落させた実例が挙げられています。

彼らはいずれも、厳しい神の裁きがくだされ、後生の人々への警告とされました。そして12~16節にあるように、教会を惑わす人々は、こうした反逆し、人々を堕落させた者たちと何も変わらないのです。一緒に食事をしているけれど、その交わりを汚す人であり、自分を養うことにしか関心がなく、雨を降らせない雲のようにただ流されるだけで役にたたないもの。枯れて根っこも抜かれたき付けや薪として燃やされるのを待つだけの木のように何の実もむすばないもの。これらの厳しい言葉は旧約の預言者たちがそれぞれの時代の反抗的な民や指導者に向けて語った言葉でした。またやはりここにも聖書以外のユダヤ文学からの引用もあります。

その上で、17~19節で使徒たちが語った警告を「思い起こすように」とここでも語っています。人を惑わす者が現れることはパウロやペテロ、ヨハネなどの手紙を通しても繰り返し警告されていたことが思い出されます。福音をねじ曲げ、クリスチャンが福音に根ざして生きることや教会が建て上げられるのを邪魔する者たちです。どれほど信仰深そうに聞こえる言葉を語っているとしても教会に分裂を引き起こすようなことは聖霊によるものではありません。

3.自分自身を築き上げる

信仰の戦いのもう一つの面は20節以下の最後の勧めに書かれているように、「最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げ」ることです。

「最も聖なる信仰」というのは、惑わす者たちの、聖霊によらず神への敬いもなく、キリストの権威も認めず、自己中心な考え方に対して、聖霊が指し示してくださる信仰のことを言っています。つまり、私たちが聞いて信じた福音のことです。この福音の上に自分自身を築き上げることが私たちの信仰の戦いなのです。

イエス様を罪からの救い主として、私たちが加えられた御国の王として信じ、敬い、イエス様が神を愛し隣人を愛しなさい、互いに愛し合いなさいと命じ、使徒たちを通して示された新しい人としての生き方を自分の生き方としていくことです。

そしてこれは個人のことではなく、兄弟姉妹とともに、まるで神殿建設のように教会を建て上げていくことを示しています。

この勧めからも、クリスチャン生活や教会の交わりを惑わす者との戦いは、誰かをやっつけたり戦うことではなく、信仰に根ざした愛の交わり、祈りとみことばによって私たちの歩み、教会の交わりと働きをしっかりと建て上げる戦いだということが分かります。戦うべき相手がいるとしたら、それは惑わされやすい私たち自身だと言えるかも知れません。

偽教師の考え方や自分勝手で欲望にまみれた生活を変えてやろうと努力することは徒労に終わる場合が多いです。可能ならば間違った道から救い出してあげるべきですが、私たちのなすべき分は自分自身を建て上げることです。

私たちは様々な問題に直面したとき、ついつい他人を変えようと躍起になって疲れ切ってしまいます。他人の問題のほうが見えやすいということもありますし、自分の問題には気付いても「正当な」あるいは「やむを得ない」理由や事情があると思いたがります。それにも関わらず、相手の問題についいては「やむを得ない」と思いやることが難しかったりするのです。

しかし、ユダが手紙を書き送った教会で人々を惑わしていた偽教師たちのように、明らかに問題がある、それ以上に忌み嫌うべきやり方、教え方をしているとしても、それでも彼らをどうこうするよいも、彼らに倣わないよう注意し続け、自分自身が福音に根ざした生き方を確立することに注意を払いなさいというのです。

なぜ、ユダや他の使徒たちも、福音を信じているというだけでなく、信じている福音の上に自分の人生や教会を建て上げることを重視し、偽教師や惑わすものを見分ける基準にさえしているのかといえば、やはり生き方こそが、福音が真実であることをあかしするものだからです。

イエス・キリストが死からよみがえられた救い主で、信じる者の罪を赦し、新しいいのちに生きる者にしてくださるという福音が本物かどうかは、緻密な論理やこざかしい議論によってではなく、クリスチャンの生き方にしか現れないのです。

だからクリスチャンたちが偽教師や惑わす者に出会った時、彼らと論争したり、やっつけたりすることより、惑わされず自分自身の生活、教会の交わりを福音の上に建て上げること、愛のうちに築き上げられることに注意を向けるべきなのです。

適用:恵みに応えて

最後にユダの手紙のまとめにあたる箇所を読んで終わりましょう。24節と25節です。他の手紙にもあるように、読者のために祝福を祈る祈りですが、ここに私たちがイエス様を信じるだけでなく、信じて生きること、福音によって生きることの動機、また力の源があります。

特に24節はユダの手紙独特な強調点です。「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、」

私たちはイエス様から大きな恵みを与えられています。私たちはイエス様によって罪赦されただけでなく、長い人生の中で惑わされたり、誘惑されたり、自分自身でも確信が持てなくなるようなことがあったりしても、つまずかないよう守っていただくことができ、傷のない者として立たせていただけるよう造り変えることのできる唯一の方です。

私たちはこのお方に助けを求め、また惜しみなく助けてくださるその恵みに応えて、信仰による戦いを戦い、福音に根ざした生き方を確立していくべきです。それ以外の方法で戦おうとしても結局は力及ばず、疲れて終わってしまいます。

実は、近々我が家のワンコは内視鏡検査を受けることになっています。ペットのためにそこまでやるかと思うかもしれませんが、二日に一回はご飯を食べたがらなかったり吐いたりするのが何週間も続いて、かかりつけのクリニックでも「ここの設備では原因がはっきり見つけられない」と言われたら、やはり何とかしてあげたくなります。紹介された動物病院は専門の設備と技術があるということです。もちろん、お金がもったいないとか、きっと大したことはないだろうと勝手に決め込んだりすれば、その助力は得られません。そこに頼らないという選択肢は私たちにはありませんでした。

ところが、私たちは霊的な事柄について、つまり私たちの生活を福音に相応しいものに整え直していくという大切な努めについては、労力を惜しんだり、問題に向き合うことを避けたり、このままでも大丈夫だろうと勝手に自分に都合良く決め込んでイエス様の助けを得ようとしないでしまうことがあるのです。

ある時、ややこしい人間関係の問題にぶつかってしまい、私はその問題を「敵との戦い」のように捕らえてしまいました。手を尽くして相手に勝つことを求めましたが、それは何も生み出さないばかりか、消耗戦のようになってただただ疲れるだけでした。ずいぶん時間がかかりましたが、相手が正しかったか間違っていたかという見方を手放して、自分は今置かれた場所で福音に根ざして生きるとはどういうことか、ということを考え始めた時に、ようやく落ち着きを取り戻し、喜びを回復しました。

イエス様は24節にあるように、私たちを大きな喜びとともに立たせることのできる方です。イエス様の願いは福音に根ざした生き方を身につけ、大きな喜びを味わうことです。そのために十字架で死によみがえってくださったのであり、私たちを躓きから守り、傷のない者にしようと助けてもくださいます。

私たちが信仰の戦いに立つ時、私たちの戦いは福音に立って生きることを学びとる戦いであることを思い出しましょう。惑わす者や責める者と同じ土俵に立ってしまわないように注意し、自分自身を築き上げること、教会の交わりを建て上げることに力と知恵を尽くしましょう。そして私たちを躓きから守り、助けてくださるイエス様の大きな恵みに心から応答しましょう。

祈り

「天の父なる神様。

ユダの手紙を通して私たちの信仰の戦いというものがどういうものなのか教えてくださり感謝します。

私たちの戦いは敵や惑わす者と争ったり、打ち負かしたりすることではなく、私が福音に立って生きているかどうかにあります。いつもそのことを思い起こさせてくださり、私たちが躓かないよう手を差し伸べてくださるイエス様の恵みに頼り、助けを求めて歩ませてください。

惑わす者や敵対する者がいたとしても、そうしたものに惑わされたり確信を投げ捨てたりせず、信仰を持って歩み続けられるように約束の通りに私たちを支えてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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