2023-08-06 愛の良きわざ

2023年 8月 6日 礼拝 聖書:使徒の働き 9:36-43

 今日は、今年度の主題「いつまでも残るもの」にちなんで、信仰、希望、愛について聖書から学ぶ月一度のシリーズで、愛に焦点を当てます。

愛といっても、かなり幅広いテーマになりますので、私たちクリスチャンが隣人を愛するということについて聖書から学んでいきたいと思います。

クリスチャンの隣人愛に関しては様々なモデルとなるような人物や働きがあります。インドのカルカッタで貧しい人たちのために働いたマザー・テレサは一番有名かもしれませんが、歴史的に教会は様々な形で慈善活動を行ってきました。残念ながら福音を宣べ伝えることと慈善活動を別々のことと考えてしまって、どっちが大事かなんて激しく論争がなされた時代もありました。今もそのように別々の事として考える人は多いのですが、福音宣教を命じたイエス様は、確かに隣人を愛するようにとも命じているのです。

しかしなぜ私たちは隣人を愛すべきのでしょうか。それが神様の命令だからというのは正しい答えかもしれませんが、なぜそうすべきなのか、愛することが何をもたらすかについて、聖書はもっと詳しく教えていますので、今日はそのあたりのことを使徒の働きに登場するドルカスという女性のエピソードを通して学んでいきます。

1.ドルカスの行い

まず、ドルカスの行いがどのようなものであったかを見ていきましょう。

前後の文脈を見ていくと、9章の前半では非常に重要な出来事があったことが分かります。パウロ、当時はサウロというユダヤ名でしたが、彼がダマスコ途上でイエス様と出会い回心する話しが出てきます。そして9:31でエルサレムで始まった教会がユダヤ、ガリラヤ、サマリヤへと拡がっていき、前進し続けたというまとめの言葉で締めくくられています。

つまり、教会の歩みはパウロの回心を経て新たな段階に入ったということです。それは、いよいよ教会が異邦人に福音を宣べ伝え始めるということなのですが、その伏線となるのが、二人のギリシャ名を持つ人たちにペテロが行った奇跡です。

イエス様が旅をしながら中風の人を癒やし、死んだ人をもよみがえらせたように、各地を巡回していたペテロがイエスの名によって病人を癒し、死者をよみがえらせたことは、イエス様の御力が確かであることを証しし、やがて使徒ペテロが異邦人であるコルネリオに出会う道ぞなえにもなったのです。

さて、ドルカスについてですが、ここで使徒の働きを書いたルカは、死者からのよみがえりという奇跡のなかでドルカスという女の弟子自身に注意を向けています。

ヤッファという町は旧約時代に敵国であり異邦人であるニネベに神のことばを告げるよう命じられた預言者ヨナが神に背いて真逆のタルシシュを目指して船に乗り込んだ港町です。やがて異邦人コルネリオに福音を語り、バプテスマを授けて異邦人伝道の扉が開かれた、その起点が、かつてヨナが逃げ出したヤッファであることは神様の意図的な配剤だと思われます。

そんな町にタビタというユダヤ人女性がいましたが、彼女にはドルカスというギリシャ名もありました。それは彼女がヘレニスト、つまりギリシャ語を話すユダヤ人と呼ばれ、生粋のユダヤ人からは疎まれていたグループに属していました。福音は地理的に拡がるだけでなく、生粋のユダヤ人から始まり、ギリシャ語を話すユダヤ人へと拡がり、さらに異邦人へと拡がっていきました。そんな福音の拡がりの中でイエス様を信じてクリスチャンとなったドルカスは36節にあるように、「多くの良いわざと施し」をしていました。

彼女が急病に倒れ、あっという間に息を引き取ってしまったとき、たくさんのやもめたちが集まり、ドルカスが貧しいやもめたちのために作ってくれた下着や上着の数々をペテロに代わる代わる見せたということです。ドルカスの愛の行いが、非常に具体的で、自分に出来ることを捧げることで、しかも人々の必要にしっかり応えるものであったことが分かります。イエス様が私たちに見せてくださった愛のお手本も、相手のために惜しみなく、自発的に、自分自身を与える姿でした。

私たちが愛に根ざした良いわざを行うとしたら、ドルカスがしたように、イエス様にならって自分に出来るものをもって、喜んで与えるものであることが大事です。きっかけは人に言われたり、気付かされてだとしても、自発的なもの、喜んで行うものであり、背伸びしたり、誰かと競争したりするのではなく自分に与えられものや出来ることで捧げたり、仕えたりするのです。

2.愛は人の心を動かす

第二に、愛の良きわざは人の心を動かすものです。

ドルカスが死んだとき、クリスチャンの仲間たちは遺体を洗ってどういうわけか屋上にある部屋に安置しました。どうやらリダという町に滞在中のペテロに来てもらえば、よみがえる可能性があると信じていたようです。人々は急いでリダに使いを送り、ペテロに助けを求めました。ペテロが到着すると屋上の部屋に案内されます。

そこでやもめたちがドルカスからもらったものを代わる代わる見せるわけですが、ペテロは彼女たちを部屋から出して跪いて祈り、そして遺体に向かって言いました「タビタ、起きなさい」。

実はこの言葉、この状況はマルコの福音書に記されているイエス様の奇跡にそっくりなのです。会堂管理者ヤイロの娘が死にかけている時にイエス様を呼んだのですが、途中で別の女を癒やしている間に死んでしまい、着いた時には皆が泣いていたのです。その時、死んでいる娘に語りかけた言葉が「少女よ、あなたに言う、起きなさい」でした。ヘブル語では「タリタ・クミ」です。そしてペテロが言った言葉は「タビタ・クミ」でした。

つまり、イエス様がなさったみわざはペテロを通して継続しているということを表しています。

さて、このことがきっかけでヤッファにいる多くの人々がイエス様を信じたのですが、使徒の働きを記したルカは、単にペテロの奇跡に注目しているのではなく、その前のドルカスの愛の良きわざと、人々の反応に注目しています。というのも、ルカが使徒の働きを書いたのは、イエス様の教えと働きが教会を通して続いていった様子を描き、主の御国がユダヤ人から異邦人へ、エルサレムから地の果てまで、世代から世代へと拡大していく鍵は何かを示すためです。ユダヤ人からギリシャ語を話すユダヤ人に福音が拡がり、そこからさらに異邦人へと福音が拡がって行くタイミングで起こった出来事には意味があります。

死者のよみがえりの奇跡は教会の働きとイエス様のみわざのつながりを表してはいますが、何度も繰り返されるものではありませんでした。ここで見出される特徴がドルカスの愛のわざです。

ルカはドルカスが良い人だったから死者からよみがえる資格があったということを言いたいのではなく、ドルカスの愛のわざがクリスチャンだけでなく、貧しいやもめたちの心を動かしていたということです。ペテロがヤッファに来たのはドルカスの死を悲しみ、まだ可能性が残っていると信じてペテロを呼びにいかせたやもめたちの涙と熱心です。泣きながらこんなに良くしてもらったんだと口々に訴える光景は、ドルカスの愛の良きわざがどれほど真実で、本当に人々の心を動かしていたかをよく表しています。

たとえば箴言12:25には「心の不安は人を落ち込ませ、

親切なことばは人を喜ばせる。」とあります。使徒の働きの最初のほうでも、教会の信仰や礼拝の姿だけでなく愛の良きわざによって「民全体から好意を持たれていた」と記しています。

大切なポイントは、好きとか愛しいといった感情ではなく、寛容や親切といった具体的な行動です。好きや恋しさといった気持ち、感情は受け取れる相手はそうとう限られます。それは特別な人に向けるためにとっておけばいいのです。しかし、寛容や親切といった愛の行いは心を開き、人間関係を結んでいく力があります。

3.愛は神のみわざの鍵

第三に、愛の良きわざというのは、イエス様の福音が世界に拡がり、神様の約束された祝福と平和が地に満ちるための鍵です。

ドルカスの愛に心動かされた人々がペテロを招き、死者からのよみがえりという奇跡をもたらしました。そしてヤッファでイエス様を信じる人たちが増えたというだけではなく、その後も信じた人々を教えるためにペテロはヤッファに留まり続けました。革なめしのシモンの家は今でもヤッファの観光名所の一つになっているそうですが、そこに滞在したことが、こんどは10章でのコルネリオという異邦人への伝道と救いの物語へとつながっていきます。

もっともドルカス自身はそのようなことになろうとは少しも思わずに、ただ周りにいる貧しいやもめたちのために何かできないだろうかと考え、そうだ自分には裁縫の技術があるし、彼女たちよりはいくらかでも余裕があるからこれを捧げようと考えて、無償で下着や上着を作ってはあげていたのでしょう。もしかしたら服と一緒に、今日の夕飯の足しにと幾らかお金をあげたのかも知れません。

そうしたドルカスの愛の良きわざが神様のより大きな福音の戦略の中で用いられる重要な鍵になりました。もちろん、神様はいろいろな状況をご自身の働きのため、福音を拡げるために用いることができます。人の悪意が生み出した迫害や、クリスチャンの間にあった競争意識まで用いました。しかし、普通のクリスチャンたちが自分たちの生活している世界で福音を拡げるために最も重要な鍵は愛です。愛に基づいた良きわざが周囲の心を動かし、福音の前進につながるのです。

東日本大震災の災害支援で私たちは被災者の方々に伝道するより寄り添い、支援することに徹しました。もちろん、会話の中で証しすることはありましたが、愛することを大事にしたのです。結果として、全国で教会数が減っている中で岩手は逆に増えています。その多くが沿岸の被災地での開拓教会の誕生によるものです。

テトス3:8ではパウロがテトスにこう教えました。「このことばは真実です。私は、あなたがこれらのことを、確信をもって語るように願っています。神を信じるようになった人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであり、人々に有益です。」コリントやテサロニケにあてた手紙の中でも、クリスチャンたちが神の恵みに励まされて「すべての良いわざにあふれるように」と祈っています。

エペソへの手紙の中には「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」という有名なことばがあります。

ヤコブ書に至っては、信仰があっても愛の行いがないなら、そんな信仰は何の役にも立たないと厳しく断じています。

私たちがこれまで見て来た新約聖書の様々な箇所からも、愛が神のみわざの前進の大事な鍵であることは明らかです。そして、その大事さ、神様がどのように用いるかは、私たちが計算できることではなく、思いもよらない仕方で用います。「風が吹けば桶屋が儲かる」とか「バタフライ効果」なんて言い方がありますが、誰にも知られないような私たちの小さな愛の良きわざが、思いもしない仕方で福音の前進に用いられ得るのだということは大きな励ましです。

適用:愛と恵みを届ける

今日のテーマを振り返る時、私たちが隣人を愛すること、気持ちだけの話しではなく、具体的に愛による良きわざを行うことは、それ自体が神の愛と恵みを届けることなのだという重要なポイントを強調しなければならないと思います。

私たちが良い行いをすべきなのは、それが道徳的に正しいことだからとか、宗教的な義務だからではありません。愛された者は、誰かに受けた愛を向けるのが自然なことだからです。

旧約律法の中でも、地域に暮らしている外国人や障害のある人たちに親切にし、意地悪をしたり、不公平な扱いをしてはならないと言われましたが、その理由は、エジプトで奴隷だったときに神の哀れみによって、その苦しみから救い出されたからだと教えられていました。愛されたのだから、あなたがたも愛しなさいというわけです。

イエス様も、新しい戒めとして「互いに愛し合いなさい」と命じましたが、それもまた「わたしがあながたがを愛したように」と言われています。同じ愛し方で愛しなさいということですが、言い換えるなら、イエス様から愛されたから、私たちも愛し合うのが当然だということです。

私たちが愛に根ざした良い行いをするのは、私たちがまず神様から受けた愛、イエス様から受けた恵みを他の誰かに届けることです。

愛の表し方は様々です。有名なコリント第一13章では、まるで一個のダイヤモンドに様々な角度のカットがあるように、寛容、親切、嫉妬しない、自慢しない、高慢にならない、礼儀正しさ、自分の利益に走らず、苛立たない、人の悪をしつこく覚えていない、不正を喜ばない、真理を喜ぶ、忍耐し、信頼し、希望を捨てず、現状を受け入れるといった面があることを教えています。私たちはそれぞれの場面で、どのような表し方が適切か、知恵をもって判断し、表していく必要があります。

そしてこの良きわざには心を動かす力があり、世界中に神様の恵み、祝福を平和をもたらす大きな働きの大事な一部分を担っているのだという意味を思い出しましょう。そう考えると、時として良きわざが報われなかったり、何かの結果をもたらしたようには見えないとしても、神様がどういうかたちかは分かりませんが、用いてくださるに違いないと、神様の御手に委ねることができます。そうすればあまり気落ちしないで、また次へと向かうことができます。

もちろん、愛することには、拒絶されたり、伝わらないリスクがあります。勇気を出して優しく語りかけたのに「放っておいてくれ」と言われたら誰でも傷付くし、「余計なお世話だ」と言われたら自己満足だったのかと落ち込みます。しかし、私たちは神様がそうした反抗や頑なさを何度も味わいながら決して諦めず、イエス様はそのいのちさえ与えてくださったことを思い出しましょう。

私たちは神様からいただいた愛と恵みを思い出し、その愛と恵みをこの人に届けるのだということをはっきり意識してすることです。自分自身は愛の人だなんておこがましくて口にできないとしても、器として、受け取ったものを相手に渡すのだ、というイメージを持ちましょう。

使徒たちが初代教会のために祈ったように、今日の私たちも、神様のご愛と恵みに満たされて、愛の良きわざに豊かな者となることができますように。

祈り

「天の父なる神様。

ドルカスのエピソードから、彼女のしていた愛の行いが、ヤッファの町でどれほどの影響力を持っていたか見ながら、全世界に神様の祝福と平和を与えるという壮大なビジョンのために、私たちの愛の良きわざがどれほど大事な役割を持つか学びました。

どうか、あなたから受けた愛の大きさ、恵みの大きさを思い起こし、今日出会う人、いつも一緒にいる人たちに神様の愛と恵みを届けるつもりで振る舞うことができますよに。

私たちはイエス様が愛してくださったようには、とてもじゃないですが出来ませんが、それでも受け取ったものは手渡せる者としてください。そのようにして私たちの愛の行いが、福音の前進のために用いられますように。

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。」

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