キンモクセイの香り

みなさん、おはようございます。
今年も教会のキンモクセイが花をつけ、甘い香りが漂っています。明日いらした際にはぜひ楽しんでください。毎年のことなので、いつもこの時期にはキンモクセイについて朝メールで書いているような気がします。たまに香るので、はっとし気を引きますが、芳香剤のようにずっと香っていたらたぶん気にもならなくなるし、感動もしなくなるでしょうね。
神様の恵みはいつでも私たちに注がれていますが、特別な恵みの瞬間が時々あるので私たちは感動したり、感謝したりします。でも花が咲いていない時もキンモクセイの樹は存在し続けているように、神様の恵みも私たちが気づいていない時でも絶えず注がれていることを思い出しましょう。そして花の香りに気づいた時のように特別な恵みに気づいたら、神様の祝福として特別に喜び感謝しましょう。

“朝ごとに
あなたの恵みで私たちを満ち足らせてください。
私たちのすべての日に
喜び歌い 楽しむことができるように。” 詩篇 90:14

佐々木真輝

小さくて大きい証し

みなさん、おはようございます。
昨日のラジオ「世の光」放送で***さんのお便りが紹介されていたと危機、本編を聞き逃していたのでスマートフォンアプリのラジコで改めて番組を聞きました(他にも電話、ホームページ、Youtubeなど聞く方法はいくつかあります)。リスナーからのお便りを紹介したあとでフォローアップ担当の先生が聖書のことばと短いメッセージをするという構成になっていました。たまたま駐車場で会った本人にお聞きしたら「知らなかった」ということでした。でもこうやって放送伝道に用いられたのは良かったですね。
私たちがクリスチャンとして普通に暮らすなかで、小さなことや何気なくしたことが思いがけず福音の証しに用いられることがありますね。不思議なことですが、イエス様によって変えられたり、みことばに触れられた私たちの小さな行動や態度は、この世にあっては大きな証しとして用いられ得るものです。

“…いつも善良で信頼できることを示すように勧めなさい。それは、彼らがあらゆる点で、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。” テトス 2:10

佐々木真輝

お店を選ぶ権利

みなさん、おはようございます。
最近開店したスーパーマーケットに行ってみました。夜だったこともありますが、開店から数日経って、客足も少し落ち着いたのでしょうか。ずいぶん広い店舗で、どこに何があるか、どんな商品が並んでいるか、他のお店と比べてどんな感じか、いろいろ見て歩くだけでも楽しかったですね。
客には自分にとって良い店かどうか判断し、選ぶ権利があります。お店側にとってはとてもシビアなことですが、客のほうも暮らしの質や満足に関わってますから大事なことです。福音は価値あるものですが、そう分かるように伝える役割はイエス様を信じ、神様の家族とされた私たちにあります。

“互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」” ヨハネ福 13:35

今日は*****さんの誕生日です。祝福を祈ります。

佐々木真輝

流れ星

みなさん、おはようございます。
何日か前に、教会からの帰り道でのことです。家の近くの交差点で信号待ちをしているときに、南の空に流れ星が見えました。流れ星を見てすぐに頭をよぎるのは、「願いごとをすればなかう」という言い伝えです。同じ流れ星を見ても「誰かが亡くなった」と感じる人もいるようです。いずれにしても信じているわけではありませんが、刷り込みというのは簡単には消えないものです。この間の屋根の上で見つけたマスコットもそうですが、いつもとは違うちょっとした出来事には、人が勝手にいろいろな思いや願いや不安を乗せやすいということなのかもしれません。
ラッキーな出来事に心踊らせたり、心騒がすことも、暮らしに楽しみと彩りを与えてはくれますが、確かに私たちの思いを知り、不安を受け止めてくださるの神様がおられ、私たちが知るべきことを教えてくれる神のことばである聖書が与えられていることを何より感謝したいと思います。

“主よ 人とは何ものなのでしょう。
あなたがこれを知っておられるとは。
人の子とはいったい何ものなのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。” 詩篇 144:3

佐々木真輝

2022-09-25 『物語』の続き

2022年 9月 25日 礼拝 聖書:使徒1:1-8

 お気に入りだった映画の続編が作られると聞いて期待し、実際観に行ってみたら実につまらなかった、なんて話しはよくあります。特に最初の作品の熱狂的なファンになった人たちからは、世界観が台無しだとか、二番煎じだとか、散々言われることがあります。そういうケースは二匹目のドジョウを狙ったもので『物語』としての良さが失われていることが多いのです。

逆に最初から上下二巻とか、続き物として書かれた作品は、続けて読んでみて、はじめて作品の良さや、『物語』の全体像や良さが見えてくるものです。

今日は「使徒の働き」に入りたいと思います。読んでいただいた箇所は、導入部分ですが、前回ルカの福音書を読み始めた時の導入部分と良く似ていることが分かると思います。続きを読む →

交通整理

みなさん、おはようございます。
旧済生会病院の跡地に建設中だったスーパーが昨日開店したようです。普段、あそこの前を通って教会に通っているので「混雑するだろうなあ」と思っていました。なにしろ、前からちょっと不便な交差点でしたので。昨日は交通整理の警備員が立っていたのと、あらかじめ反対車線から行こうとする車は別のルートへと誘導されていたので、少なくとも私が通りかかった時には普段より交通量が多いなというくらいでした。これで警備員が立たなくなったらどうなるのかちょっと心配です。
道路には信号や交通整理の警備員がいますが、人間関係には信号も警備員もいません。たまに「仕切り役」をしたがる人もいますが、迷惑がられたり逆にややこしくしてしまう場合も多いです。けれども私たちには聖書のことばがあり、それが私たちの言葉と態度を自己吟味させ、良い方向へと正しく導いてくれます。どうしていいか分からない時ほどみことばに聞くという基本的なことを思い出しましょう。

“みことばを蔑む者は身を滅ぼし、
命令を尊ぶ者は報われる。” 箴言 13:13

今日は****さんの誕生日です。祝福を祈ります。

佐々木真輝

小さな出会い

みなさん、おはようございます。
台風が通り過ぎた日の夕方、仙台から戻って来た私は教会の窓の外が真っ赤になっているのを見て、ああ、きっと素晴らしい夕焼けが見られるに違いないと、屋根に上りました。危ないのでお勧めはしませんが、教会の屋根の上から見る眺めは素晴らしいです。とにかく、素晴らしい夕焼けを見ていたら、ふと足元の雪止めのところに小さなマスコット人形がこちらを見上げるように落ちているのを見つけました。とあるアニメーション映画に登場していたキャラクターです。投げ上げて届く高さではないし、ここで子どもが遊んだわけはありません。ひょっとしたら台風の風で飛ばされてどこからか飛んで来たのかも知れません。嵐の後にあり得ないところに残された小さなマスコットなんて、何かを暗示しているかのようにも思える、不思議な体験でした。せっかくの「出会い」なので洗って取っておくことにしました。
私たちが経験する小さな出会いには必ずしも大きな意味があるとは限りませんが、その出会いに至るまでの自分の知らない物語があるのは確かで、そこにも神様の恵みや導きがたくさんあったはずです。神様のなさることは私たちの想像を遙かに超え、たくさんの御わざにあふれているのでしょう。

“”主よ あなたのみわざはなんと多いことでしょう。
あなたは知恵をもってそれらをみな造られました。
地は あなたのもので満ちています。” 詩篇 104:24

今日は****+さんの誕生日です。祝福を祈ります。

佐々木真輝

2022-09-18 私たちの旅路

2022年 9月 18日 礼拝 聖書:ルカ24:44-53

 しばしば人生は旅に喩えられます。

最近あまり読まれなくなったような気がしますが、ジョン・バニヤンというイギリスの信徒説教者が獄中で書いた「天路歴程」という物語は信仰の歩みをまさに天を目指して歩む旅に喩えたもので、若い頃に読んだという人もいることでしょう。また、ある世代以上の方々にとって、「人生の海のあらし」という讃美歌はとても心に響くものです。

人生を喩えるものとしての旅は、私たちを惹き付けます。聖書の世界観を色濃く反映したトールキンの指輪物語では主人公たちが世界の危機に翻弄されながら旅を続けます。最近のものは分かりませんが、ドラゴンクエストやファイナルファンタジーといった人気のゲームシリーズも冒険の旅をしながら主人公たちが成長していく姿を楽しむことができます。続きを読む →

一度にひとつのこと

みなさん、おはようございます。
昨日、郵便局まで歩いていった帰り(たまには私も歩くのです笑)、横断歩道のある小さな交差点にさしかかりました。一台の車が横断歩道の上で停まりました。でも歩行者である私を見て止まったわけではなく、右折のために正面から来る車が通り過ぎるのを待っているようでした。いくら横断歩道とはいえこちらに気づいていない車の前を歩くのは怖いので後ろを通って横切ろうとしたとき、ドライバーがようやく気づいてこちらを振り返りました。そのドライバーはずっと携帯電話でしゃべりながら運転しているのです(ちなみに営業中のサラリーマンなどではなく、中年の女性ドライバーでした)。もちろん、道交法違反ですが、それはともかく、片手に携帯電話をもってしゃべりながらの運転は危険ですね。
かくいう私も10年以上前にスマホ運転で罰金を払ったことがあります。それ以来しないよう気をつけています。「ながら○○」は何であれ効率が悪いことが多いですが、場合によっては大変危険です。自分が危ないだけでなく、人に害を及ぼすこともあります。自分の集中力や判断力、経験の豊富さを過信せず、へりくだり知恵深く歩みたいものです。

“高ぶりが来れば、辱めも来る。
知恵はへりくだる者とともにある。” 箴言 11:2

佐々木真輝

ねたむほどの愛

みなさん、おはようございます。
我が家のワンコたちは、時々仲良くしてますが、時々争っています。争いの理由は「ねたみ」のようです。どちらかと遊んでいるともう一方が邪魔をしたり、構ってとばかりにアピールしてきます。どちらかを呼べば、もう一方もいそいそとやって来ます。そんなふうにして時々はげしい喧嘩になるので、どうしたら良いのかと困ってしまうこともしばしばですが、そこまで愛されていることに、ついつい頬も緩んでしまいます。
神様は私たちを「ねたむほどに」愛してくださっています。神様の「感情」と私たちの感情を同列で考えるべきではありませんが、その愛の強さは十分に想像できます。他の誰かを振り向いたりしてほしくない、二番ではだめ。私たちに求める愛も大きいですが、それ以上に神様が私たちに注ぐ愛は強く深く、揺らぐことがありません。

“主はご自分の地をねたむほど愛し、
ご自分の民を深くあわれまれた。” ヨエル 2:18

佐々木真輝