野良犬は自由か

みなさん、おはようございます。
昨日は野良犬に会いました。というより、家のすぐ近くにいてじっとこちらを見ている視線に気づき、目をやると一瞬「キツネ?」と思う程痩せた野良犬でした。最近、滅多に見かけることはないのでちょっと驚きました。すぐに逃げていきましたが、いかにも十分食べていないような痩せ方で可哀想であるとともに、近所には小さい子どももいるので少し心配でもありました。
野良犬は飼い主はおらず、そういう意味では誰にも支配はされていませんが、決して自由ではありません。いつも食べ物を自力で探し、自分で身を守り、一緒に遊ぶ仲間もいません。もちろん神様は私たちの「飼い主」ではありませんが、人間は神から離れて生きるときに自らの必要、安心、つながりを得るために必死にならざるをえません。それは誰にも縛られないように思えるかもしれませんが、実際のところ常に恐れに縛られ自由がありません。人間は私たちを愛し慈しんでくださる神様とともにいることで本当に人間らしく、自由でいられるのです。

“キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。” ガラテヤ 5:1

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

減速

みなさん、おはようございます。
昨日の帰り道、もうすぐ交差点ということで減速しはじめたときに、左側から走り出す小動物。タヌキ?と思いましたが、急ブレーキをかけた車の下をけっこうな速さで慌てて走り去って行ったので、ムジナ(アナグマ)だったかなと思います。動物を轢いても事故扱いにはならず、むしろ急ブレーキで後続車に追突させたりでもしたら、そちらの方が問題になります。そうはいっても目の前の生きた動物を轢いてしまうのは心が痛みます(誰かの畑を荒らして来た帰りだとしても)。それにしても危機一髪でしたが、急ブレーキとはいえ減速していたので無事だったのでしょう。
私たちの人生には誰かとぶつかってしまうこと、ぶつかりそうになることがあります。そんなときブレーキもかけずに突っ込んでいったら大惨事です(若い時とか、性格によってはやってしまいがちという人もいますね)。人とぶつかるときは傷付くこともありますが、そこに何かしらの学びや成長もありますが、関係を破壊してしまわないためにも「減速」することは大事ですね。

“怒りを遅くする者には豊かな英知がある。
気の短い者は愚かさを増す。” 箴言 14:29

佐々木真輝

死の陰の谷を歩むとしても

みなさん、おはようございます。
昨日は午後から4回目のワクチン接種に行って来ました。一定の効果はあるらしいのですが気持ちの上では「念のため」という程度です。それはともかく、注射のあと、少し時間があったので『大災害の神学』という本を開きました。しばらく前に買っておいたのですが、なかなか読む時間がなかったので、一気に読みました。以前行われたシンポジウムの講演がそのまま本になったので、すでに知っている内容ではありますが、改めて読むことでいろいろ考えさせられます。
一番心に残ったことは、古代のクリスチャンたちは自然災害や疫病に直面したときに、被害を受け悲しんだり嘆くことがあるからといって、それが神の愛や救いを疑う理由とは考えもしなかったということです。そんな考え方をするようになったのは自然はコントロールできると非現実的な期待を抱くようになった近代以降のことだそうです。なるほどなと思います。案外私たちは勝手に思い描いた神様像、自然像に振り回されているのかもしれません。

“たとえ 死の陰の谷を歩むとしても
私はわざわいを恐れません。
あなたが ともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖
それが私の慰めです。” 詩篇 23:4

佐々木真輝

喜びの来訪

みなさん、おはようございます。
今日は学生時代にお世話になった教会の牧師夫妻が休暇を利用して礼拝に出席してくださるということで、とても嬉しく思っています(県外に出かけた方々が自主的にオンライン出席にすることが多い中、県外から来られた方々は体調に異常がなければ受け入れるというちぐはぐな状況になっていることは何とも悩ましい)。
お世話になった方や懐かしい人を訪ねたり、来訪することは私たちの心を励まし、喜びを満たしてくれます。年数に伴う変化に小さな心の痛みを感じることはあっても、主にある喜びのほうが大きいし、励まされます。早く、何の心配も心に咎めを感じることも人目を気にする必要もなく、訪ねたい方を訪ねられるようにと願うばかりです。

“私はあなたの涙を覚えているので、あなたに会って喜びに満たされたいと切望しています。” 2テモテ 1:4

佐々木真輝

2022-10-16 全ての人への良い知らせ

2022年 10月 16日 礼拝 聖書:ローマ1:8-17

 以前もお話したことがありますが、我が家で飼っていた二匹目のワンコがジストという特殊ながんにかかったとき、手術や治療がなかなか難しいと言われました。ただし、人間用に開発された分子標的薬なら、犬に使ったケースはほとんどないけれど効果があるかもしれないと教えてもらいました。保険が利かないし、国内で手に入れようとするとかなり高額になりますが、海外から個人輸入という形ならだいぶ安くなるという情報も教えてもらいました。実際、それを用いたら腫瘍が小さくなっていき、最後はほとんど見当たらないまでになったので、ジストの話しや犬の薬の話しになると、ついつい聞かれてもいないのにしゃべるようになりました。良い知らせとはそういうものです。

聖書を創世記から順番に見ていくシリーズは今日からいよいよ書巻に入ります。続きを読む →

手付かずだった剪定

みなさん、おはようございます。
昨日、家に戻ると留守の間にお願いしていた木の剪定が終わっていました。乱雑に伸びた枝を払ったり、隣地との境界に植えた後で大きくなりすぎた木を思いっきり詰めてもらったりしました。前々からやらねばと思いつつまとまった時間がとれず、切った枝の処分にも手を焼きそうでなかなか手がつけられませんでした。そんなわけで自力ではやらず助けを求めたというわけです。
Mさんと学んでいる本の中に、私たちは軽いリュックは自分で背負うべきだけれど、重すぎる岩を自分で背負おうとしてはいけない。そういうときは助けを求めるべきだ、というたとえが載っていたのが印象に残っています。負いきれない重荷を私たちの代わりに負ってくれた最大の存在はもちろんイエス様です。イエス様をはじめとする多くの人たちに助けられながら私たちは生きていますね。

“すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。” マタイ 11:28

佐々木真輝

痛みを担う

みなさん、おはようございます。お久しぶりです。
錦秋湖で神学校理事、教師、スタッフのリトリートが行われ、深い交わりと話し会いが出来、これからの働きのために良い時間となりました。それは良かったのですが、半月程前から足の親指の爪が皮膚に食い込む、巻き爪の状態になっていてかなり痛くなって来ていました。炎症も起きていたので、これ以上悪化する前にと昨日クリニックへ行き処置をしてもらいました。食い込んだ爪を浮かせてそこに保護のためのチューブを入れるのですが、まあこれが痛い事。我慢はできましたけど、それでも処置を受けている間に、小説や映画で何度か見聞きした拷問の場面が脳裏をよぎり「きっと痛みに耐えかねてペラペラしゃべっちゃいそうだな」なんてことを考えていました。
痛みは感覚を狂わせ、心をくじき、判断力を鈍らせ、痛みから逃れるためならば時として信念や道徳的な規範さえも放り出したくなるものです。ご自分が負う必要のなかった大きな痛みを、ただすべての人の罪の赦しと回復のためにイエス様が担ってくださったということの愛の大きさ、意志、謙遜、忍耐の限り、その苦しみの先にある希望を望み見る信仰、それらすべてがあらためてすごいことだなあと思わされます。そして「痛みを担い合う」ということが言葉は美しいけれど、本気でなかったら使えない言葉だなとも。

“まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。” イザヤ 53:4

佐々木真輝

2022-10-09 希望の光は地の果てまで

2022年 10月 9日 礼拝 聖書:使徒の働き28:17-31

 私は楽しみのために、たまに一人でテントを張ってキャンプをするのですが、その時に欠かせないのが灯りです。だいたいキャンプをする場所は外灯などはありませんから、手元を照らすためにも、雰囲気作りにも灯りは必要です。安物でも小さく炎がゆらめくランタンなんかがあると満足度が高くなります。

何であれ、灯りをともしたら当然適当な高さの所に吊したり、テーブルの片隅に置いたりして、必要なところに灯りが届くようにします。これは必ずそうします。ライトをつけてそのままリュックの中にしまうなんてことは絶対にしません。

イエス様は灯りをつけたら誰もそれを隠す人はいないというたとえをお話しになりました。ルカの福音書には、神の国について教えている箇所とエルサレムへの旅の途中での2回、イエス様がその話しをなさったことが記されています。続きを読む →

同業者

みなさん、おはようございます。
昨日は全国の神学校の代表者の方々との交わりの時がありました。いつもはどこかでリアル開催されるのだそうですが、昨年はコロナで中止、今年はオンラインでの開催ということでした。はじめて参加したのですが、知っている先生方もおおく、緊張はしませんでしたが、会の雰囲気が分からずどう振る舞ってよいかちょっと困りました(どこまで冗談が通じるかとか…)。短い時間ではありましたが、同じ働きをしている方々、いわゆる同業者との情報交換や交わりは共感するところや教えられる事が多く、ためになりますね。
教会の中にも同じ業界で働いている方々がおられると思います。仕事に限らず、同じ趣味の方々、似たような境遇の方々など「わかり合える」間柄の人たちは大切な存在です。特に信仰を同じくする人たちは神様が備えてくださった素晴らしい賜りものですね。

“…パウロは二人のところに行き、自分も同業者であったので、その家に住んで一緒に仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。…” 使徒 18:2-3

佐々木真輝

すべてをイエスの名において

みなさん、おはようございます。
昨日の夕方、医療的ケア児とそのご家族を取り上げた特集がテレビのローカルニュース内で放送されていました(録画しておいたものを夜になってから見ました)。住田町で訪問看護ステーションをしている****さんが親身に寄り添っている姿がしっかり捉えられていました。プロフェッショナルな仕事の姿だけでなく彼女らしい誕生日のお祝いの場面や家族との会話の場面から、医療を越えた支えになっているなあと感心し、誇らしくも思って見ていました。
仕事での関わりですから、そこに宗教的な言葉は出さない(出せない)とは思いますが、それでもキリスト者らしい思いやりや価値観を仕事の仕方に表すことができるのだなあと思わされました。そして、そのような振る舞いが、この世界にいくらかでも神様の恵みと愛を届けるものとなりますし、きっと周りで働く人たちに伝わるものがあるはずです。

“ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。” コロサイ 3:17

今日は****君の誕生日です。祝福を祈ります。

佐々木真輝