みどりの日

みなさん、おはようございます。
今日は「みどりの日」です。新緑の美しさと自然を造られた神様ご自身の素晴らしさを存分に味わえる季節ですね。桜が終わった展勝地では菜の花が盛んに黄色い花を咲かせているそうです(このまえ行った時にはまだ蕾でした)。その後はツツジが見頃を迎えることになるのでしょう。桜の規模ほどではないし、わざわざ遠くから観光に来るほどではないのかもしれません。人気でいったら、それは桜に軍配が上がりますが、それぞれに素晴らしさ、美しさがあります。
ものの価値の価値は人気や売上、シェアなどで図られがちですが、人の価値についても似たようなことをしてしまいがちですね。人気、人脈の豊富さ、生産性などなど。けれども、そういうものは生まれた時には誰も持っていなかったものです。人の価値は神様からいのちをいただき、この世に生まれて来てくれたことにこそあるのだと思います。

“あなたこそ 私の内臓を造り
母の胎の内で私を組み立てられた方です。
私は感謝します。
あなたは私に奇しいことをなさって
恐ろしいほどです。
私のたましいは それをよく知っています。” 詩篇 139:13-14

佐々木真輝

悪いことは重なるのか

みなさん、おはようございます。
オーストリアに宣教師として派遣された直後、乳がんが見つかり闘病を続けているSさんとそのご家族がコロナに感染したため、祈って欲しいとの知らせがありました(特にこの感染症の状況では簡単には他の人に助けを求めることができないですから)。もちろん相当気をつけてはいたとのことです。予定されていた放射線治療は終わっているとのことですが、体力も免疫力もかなり落ちているはずで、通常よりも合併症が心配なところです。
人生経験の一つの知恵というか、観察なのか「悪い時には悪いことが重なる」と良く言います。連鎖反応のように次々と悪いことが起こって、どうしてよいか分からなかったり、「なぜこんなに立て続けに」と誰に文句を言っていいか分からない苛立ちが起こってきたりします。Sさん家族から届くニュースレターには「悪いこと」の中にたくさんの感謝や励まし、慰めがあることを一生懸命伝えているように感じました。たぶん私たちは「悪いこと」のパワーに圧倒されて、良いことが見えにくくなるのでしょうね。それを見る目を与えてくれるのが信仰なのだと思います。

“私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。” 2コリント 5:7

佐々木真輝

2022-05-01 いのちの木

2022年 5月 1日 礼拝 聖書:黙示録22:1-7

 部屋や物置を片付けていると、すっかりその存在を忘れていた大事なものを見つけることがあります。それは思い出の品であったり、とても便利な道具だったりします。また街中で、あるいは何かの集まりで、思いがけない人と再会することがあります。何十年ぶりかで会って、その人と過ごした日々や一緒に経験したことがとても素晴らしかったことを急に思い出します。

よく出来た物語には、そういう忘れられていたちょっとした出来事や登場人物が後になって現れ、実はとても重要な役回りを果たすということがあるものです。

今日開いている黙示録には、聖書の中で長い間見失われていたあるものが突然姿を現し、「あ、ここにあったのか!」と思わされます。それが「いのちの木」です。最初に登場するのは天地創造の場面で、エデンの園の中央に、食べることを禁じられた善悪の知識の木の隣りに生えていました。人が罪を犯してエデンの園を追われてからは、いのちの木に至る道は閉ざされ、聖書の表舞台からは消えます。そのいのちの木が天国を描く場面で再登場するのです。

今年度の主題は「主の回復の年」ですが、ここ数年に失ったものを元に戻したいということだけでなく、主が聖書全体を通して回復させようとしていることは何か、月に一度くらいのペースで見ていきたいと思います。いのちの木の再登場はその回復の象徴です。

1.人が失っているもの

第一に、天地創造のアダムとエバの時以来、私たち人類は失っているものがあります。その象徴が聖書の最初の書である創世記に登場したいのちの木に至る道が閉ざされた出来事です。そして、聖書の一番最後の書である黙示録の中で、最後の最後に再び登場することで、神様は人類が失ったものを取り戻させ、回復しようとしておられることを描き出しています。

人類が失ったもの、失ってしまっているものが何かについて、人は必ずしもはっきり分かっているわけではありません。何を探していたか分からなくなっているのに、「何を探していたんだっけ」と焦りながら、家の中をあちこちひっくりかえしているようなことを人間はやり続けています。

人が失っているものは、本来の人間らしさ、神のかたちに造られた人間としてのいのちを形造る大事ないくつかの面です。

いったい何を失ってしまったのか、あらためて創世記に立ち戻って確認したいと思います。創世記3章が問題の場面ですが、その前に1章と2章で人間が創造された時のことを見ておきましょう。

1:26~27で人間は「神のかたち」に造られたことが分かります。その意味についての説明はありませんが、他の動物と明らかに違うものとして、神の性質のある面を宿すものとして造られたのです。2:7では、大地のちりで形造られた人間が神様のいのちの息を吹き込まれることで生きる者となったことが記されています。神様との特別な交わりの中でこそ人は本当の意味で生きていると言えるのです。その直ぐあとでエデンの園に場面が移り、園の中央にあるいのちの木と善悪の知識の木にスポットが当てられます。

ご存じの通り、エデンの園でなる実は何でもとって食べて良かったのですが、善悪の知識の木の実だけは禁じられました。

そこに蛇が現れ、アダムとエバを惑わし、彼らはついに禁じられた木の実を食べてしまうことになります。

創世記3章を見ていくと、そこで神のかたちとして造られ、神のいぶきによって生きる者とされた人類の失ったものが何であるかが見えてきます。

最初に彼らが見失ってしまうのは、自分たちが神のかたちに似た存在であることです。蛇は巧みに誘惑します。木の実を食べれば目が開かれて神のようになるとささやきます。すでに神のかたちに似せて造られていうことをなかったことにして、この誘いに乗れば神のようになれるとたぶらかすのです。それ以来人間は、愛することや何かを生み出す創造性、一人一人の個性的な美しさを素晴らしいと感じながらも、それが神様のご性質に由来するものだという肝心なことを見失っているために、ちぐはぐなことや、あるべきではない姿へと陥ってしまうのです。

さらに、いのちの生吹を吹き込まれた人間は罪を犯すことによってその神との生きた関係を失ってしまいました。神様の目を避けるようになり、恐れ、逃げ、隠れます。

ことの次第を知った神様は人間が背負わなければならない呪いを告げます。生めよ増えよ、地を従えよという祝福のうちにまだいますが、同時にそれが苦しみを伴うものとなってしまう。生きることが祝福でありながら同時に呪いをはらんでいるという矛盾の中に私たちは置かれることになったのです。

2.天国にはいのちの木がある

しかし第二に、天国にはいのちの木があります。そういう未来に私たちは向かっています。

アダムとエバの罪の結果、3:22で神様は、二度と人がいのちの木から実を食べ、永遠に生きることがないようにしようと言われ、エデンの園から追放した上で、そこに戻る道を閉ざしてしまいます。

では黙示録に戻ってみましょう。21:1に「新しい天と新しい地」そして「新しいエルサレム」が登場します。そこでは、かつて失われた人間と神様との揺るがない交わりが回復し、もはや死もなく、涙も悲しみも過去のものとなることが告げられています。

それから新しいエルサレムの様子が描かれていきます。黙示録という書物の特徴は様々な象徴を組み合わせることでメッセージを託していくものなので、これらは実際の天の都の設計図というより、天の都が大きく、完全で素晴らしいものであることを表していると言えます。

そして今日開いた22章で天の都の中心部を流れるいのちの川とそのほとりにうわっているいのちの木が登場します。

いのちの木そのものが天の都にあることは実際そうなのだろうと思いますが、12の木が毎月一つの実を結ぶとか、葉っぱがすべての人を癒すというのも、何か象徴的な意味がありそうです。というのも、既に天の御国には死も苦しみもないわけですし、夜もなければ太陽もないのに季節や癒やしはあるという、実際的に考えるとちょっと矛盾した描写があります。これらは、神とキリストからもたらされるいのちによって潤され、回復させられ、豊かに、完全に祝福されている様子を象徴したものと読むほうが筋は通ります。

大事なことは、この世界の終わりに姿を現す新しい天の都に、かつて失われ、閉ざされたいのちの木が、再び登場し、しかも惜しげもなく、川の両岸に何本も育ち、豊かに実を結んで人々をいやしているというイメージです。

イエス様は弟子たちに、そして私たちに「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」と言われました。イエス様を信じて救いを頂いても、この不完全で罪と死がまだ力を振るっている世界では困難があります。この世にあってイエス様の復活のいのちの力を頂き、困難の中でも忍耐し、平安と喜びを握って生きることはできます。それでも、苦難は残るのです。私たちは癒され、慰められる経験をし、希望を持つことができますが、この世にある間は痛みと悲しみが完全にはなくなりません。

私たちがこの世界の歪みと不完全さ、罪深さゆえに味わう苦しみや、私たち人間の、人間としての弱さゆえに味わう病、痛み、老いがすっかり取り除かれる希望は、この世で生きている間ではなく、その先の天の御国にあるのです。

一昨日、日本の教会音楽に大きな影響を与え、リードしてきた小坂忠先生が召されたと知りました。数年前に最初にがんが見つかって、奇跡的に生還した後も全身にひろがったがんとの闘病生活の果てに召されました。どんなに素晴らしい働きをするような信仰の人でも、完全な癒やしと慰めは天に行くまで待たねばならないのです。しかしその希望があるから、今の時をがんばれるのです。

3.主はすぐに来られる

第三に、主イエス様はすぐに来られると言われます。

今日読んだ箇所の最後、7節にはこうあります。「見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。」

これは12節でも繰り返されています。「見よ、わたしはすぐに来る」。そして黙示録の最後もこの約束で終わっています。「これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。」

黙示録は教会に大きな迫害が迫っている緊迫した状況の中でクリスチャンたちを励ますために書かれました。特に今のトルコの西海岸沿いに点在する7つの教会とクリスチャンたちを意識して書かれています。彼らが間もなく経験するエルサレムの滅亡もローマ帝国による組織的な迫害も、その後何度も繰り返される苦難や迫害の一つです。出産の時にむかって痛みが何度も押し寄せるように、新しい天と新しい地、天の都が訪れるまでには産みの苦しみが何度も押し寄せて来ます。その都度、クリスチャンたちはイエス様が間もなく来られるという約束を希望に耐え忍んで来ました。

しかしここで一つの疑問が浮かんで来るかも知れません。「イエス様はすぐに来ると言われたのに、全然こないじゃないか」。

子どもの頃、親に「すぐやってあげるから」と言われても、なかなかやってくれなくて「いつ?すぐって言ったじゃん」と文句を言った事があるかも知れません。逆に「早くやりなさい」と言われ、「すぐやるから」と口答えしたのに、なかなかやらずに「すぐやりなさい」と言われ「分かってる」とまた口答えする、そんな経験があるかも知れません。イエス様の「すぐ」と私たちが考え期待する「すぐ」にはズレがあります。

神様にとって千年は一日のようであり、一日は千年のようです。神様の救いのご計画では、私が救われ、慰めと回復をいただけることだけでなく、まだ福音の届いていない人々、世界へと福音が届けられるまでは終わりにはしないということです。ですからそれまでは「もうちょっと待ちなさい」と言うことです。

黙示録でイエス様が「すぐに来る」というのは、時間的にあっという間にということではなく、その時が来れば速やかに、確実に来られるという意味といえます。それは、私たちがやりたくないことをぐずぐずと先延ばしにして「すぐ行くから」と言うのとは違います。その時が来るまで今なすべきことをしっかりやりながら準備万端整え、今がその時となったらすぐに来るのです。

17節に「御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」とあります。

今は困難があり、苦難があっても、必ずイエス様が来られ、すべてを新しくし、完全な回復を与えてくださる時が来ます。いのちの木の実がもう一度私たちをいやすものとして与えられる時が来ることを確かな希望として持っているようにと、聖書は私たちを励ましているのです。それまでの間もいのちの水は渇く者、求める者に与えられると約束されています。完全な回復までの間、いのちの水をいただきながら私たちは歩み続けるのです。

適用:待ち望め主を

迫害の時代に生きたクリスチャンたちは、「主よ来てください」という言葉、アラム語で「マラナ・タ」という言葉を合言葉に励まし合いながら生きたと伝えられています。私たちもまた主を待ち望んで、主よ来てくださいと告白し、祈りつつ歩みたいと思います。

時として聖書の物語は壮大すぎたり時代が違い過ぎて、私たちの歩みとどう関係するか見失ってしまいがちです。特に黙示録は様々な象徴が織りなすイメージに振り回されて、その意味は何だろうかと謎解きのようなことに走り、未来にはこんな出来事があるに違いないと想像たくましくしてしまいがちです。

いつかまた聖書を順番に開いていくシリーズの中で黙示録を取り上げることになりますので、その時には黙示録の読み方を見ていくことにします。

今日私たちが見てきたのは、創世記に登場し、失われたいのちの木が黙示録で再登場したことを通して、神様がなさろうとしていることです。神様に背を向けた人類が見失ってしまったもの、神のかたちとして造られた存在であること、そして神との生きた交わりを回復させることが、神様のもたらそうとしている回復の中心にあります。それがいのちの木の再登場に象徴される内容です。

つまり、私たちが今経験しているすべての苦しみ、悩みは、人類が見失ってしまったこと、罪の結果としてこの世にもたらされた苦しみに結びついています。そして神様は私たちがそうした苦しみによって痛み、悩み、嘆いていることを知っておられ、完全な回復をもたらそうとしておられます。

大事なことは、神様は単に将来、遠い将来に新しい天の都が到来した時に癒やしを与えるから、今はただ耐えなさいと言っているのではないということです。

黙示録が描く未来の回復は、完全な回復です。やがて主イエス様が王となって世界を治める時には、この世で報われることのなかった労苦や癒されることが叶わなかった痛みもすっかり拭い去られます。しかしながら私たちが生きているこの時にも助けは与えられるのです。ですから17節で「これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」と勧められています。イエス様ご自身、誰でも疲れている者は「わたしのところに来なさい。休ませてあげます」と言われました。「マラナ・タ」「主よ、はやく来てください」と願いながら今渇いている者にはいのちの水が与えられるのです。

それは山上りの途中での休憩や、長旅の途中でのリフレッシュに似ています。山頂にいかないと得られない休息と絶景があるのですが、そこに到着するまでの間に、おりおりに挟む小休憩や、歩きながら口にする水のように、私たちをリフレッシュさせ、歩く力を与え、疲れを癒すものです。

たとえ今与えられるものが完全な回復でなくても、赦され愛されている事実、主が共にいてくださる安心感や、休息や逃れの場がどれほど私たちを回復させてくれるでしょうか。報われると分かっている希望、人を通して、またみことばを通して折々に与えられる助けや励ましがどれほど力と勇気を与えてくれるでしょうか。

今月の歩みも、それぞれに負わねばならない労苦がありますが、主を待ち望み、慰めと希望をいただきながら歩みましょう。

祈り

「天の父なる神様。

主を待ち望む者に備えてくださる回復をありがとうございます。

やがて天の御国がおとずれる時に完全ないやしと回復が与えられる希望があり、それだけでなく、今この時も私たちの祈り、必要に応えて、助けを与え、いのちの水を与えてくださることを心から感謝します。

特に、今困難の中にあるお一人お一人に、癒やしや慰め、具体的な助けと導きを必要としているお一人お一人に、あなたの確かな助けがあり、いのちの水が湧き出るように渇きをいやしてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

最期まで主の愛に留まって

みなさん、おはようございます。
昨日、小坂忠さんの訃報が届きました。「誰?」という方もおられると思いますが、日本のロックの草分け的存在であり、多くのミュージシャンに影響を与え、尊敬されてきました。その彼がクリスチャンになり、まだ「ギターは悪魔の楽器だ」なんて言われた時代に、日本の教会音楽に新しい息吹を吹き込んで来ました。今日私たちが礼拝の中で賛美しているような新しめの音楽が用いられるようになったのも、忠さんの果たした役割は大きかったです。後に牧師となり音楽活動をしながら教会の牧師として奉仕しておられました。個人的には何度かコンサートの企画に加えていただいたり、一緒に演奏する機会を与えていただいたりと、懐かしい思い出もあります。5年前にがんが見つかり、それ以来闘病生活を送りながらも牧会と音楽活動を続けていました。
神様から与えられたものを一生懸命用いたら素晴らしいことが起こります。実を結ぶとも言いますね。もちろん簡単なことばかりではありません。やり始めることも、やり続けることも、次の人や世代にバトンタッチしていくことも、それぞれに難しさがあります。けれども、イエス様によって救いをいただいたこと、伝えるべき愛を与えられたことがいつでも真ん中にあるなら、自分には自分らしい実が結ばれていくことでしょう。

“わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。” ヨハネ福 15:5

佐々木真輝

出会いと別れ

みなさん、おはようございます。
昨年1月から教会にいらっしゃって求道していたKさんが明日、岩手を離れ息子さん家族が暮らしている地へと引っ越します。昨日が最後の機会でしたので少しだけ交わりと祈りの時を持ちました。毎週、真剣に説教を聞き、一生懸命何かをつかみ取ろうとメモをとり、疑問に思ったことや感じた事を率直にぶつけて来られるのは私にとっても励みになるだけでなく、学びにもなりました。はっきりした信仰の告白に至ることはできませんでしたが、教会での交わりに安心と幸いを感じていただけたことは、それまでの労苦を考えればそれ自体が神様の大きな恵みでした。新しい地で導かれることを切に願います。
出会いと別れなんていうと安っぽい歌の歌詞みたいですが、実際私たちの人生には出会いと別れがつきものです。そうした出会いは神様からいただいた贈り物であり、与えられた時には限りがあるがゆえに大きな価値のあるものです。許された時を感謝をもって過ごせたら本当に幸せなことです。

“私は再び、日の下を見た。
競走は足の速い人のものではなく、
戦いは勇士のものではない。
パンは知恵のある人のものではなく、
富は悟りのある人のものではなく、
愛顧は知識のある人のものではない。
すべての人が時と機会に出会うからだ。” 伝道者の書9:11

今日は老林聖幸さんと佐々木宏美さんの誕生日です。祝福をお祈りします。

佐々木真輝

逆走

みなさん、おはようございます。
昨日はじめて自動車の逆走というのを目撃しました。詳しい状況説明をすると長くなるので省きますが、信号待ちしているわずか数十秒の間のことです。ドライバーの姿も表情も見えたのですが、その逆走が間違いだったのか、ちょっと行った先にある交差点に入るためにわざと行ったのかは判別できませんでした。でも、するするっと逆走しはじめるとすぐに直進してきた大型のトレーラーが急ブレーキと急ハンドルで衝突を避け、後続の車も状況判断して事故を回避していました。何事もなかったので良かったですが一歩間違えば大事故だなと実感しました。
世の中の流れに逆らって生きるのがかっこいいとされたロックな世代を通って来た身としては反骨的な精神への憧れはいつになっても完全には消えません。それが「この世と調子を合わせてはいけません」というみことばを妙な具合に解釈させてしまうと、いろいろと衝突を生み出します。逆走が目的ではなく、神様に喜ばれる生き方のために心を新たにし、自分の生き方を変えて行くことが目的だということを忘れないようにしたいと思います。

“この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。” ローマ 12:2

今日は佐々木誠さんの誕生日です。祝福を祈ります。
今日は婦人会と祈祷会もあります。

佐々木真輝

春の味覚

みなさん、おはようございます。
いただきものの春の味。タラの芽やコシアブラの芽をいただき、夕べ家内が天ぷらにしてくれました。春の代表的な味は「苦み」と言われます。フキノトウやウドなど春に採れる山菜の類はだいたい苦みがあります。あの苦みはポリフェノールやアルカロイドという抗酸化作用や新陳代謝を促す成分から来ているのだそうです。春先にこれらの食品を適切にとれば冬から春へと季節が変わる時の体調の変化に良い具合に作用するらしいです。
苦みのある食べ物は主食にはならないでしょうが必要なものではあります。人生における苦みも、毎日味わうのに適したものではないと思いますが、必要なものではあります。苦い経験から学ぶ事、身につけることは実に豊かで私たちに知恵と力をもたらします。

“苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。
それにより 私はあなたのおきてを学びました。” 詩篇 119:71

佐々木真輝

ことばにして祈ること

みなさん、おはようございます。
以前、我が家にいたワンコは水がなくなると器を加えて「なくなったよ〜」とアピールして来ていました(懐かしい)。でも、今いる二匹はそうしません。一匹はあきらめてとぼとぼ戻って来ますし、もう一匹はせわしく訴えて来ます(ただし、いつもせわしないので何を訴えているか分からない)。賢さの違いだけでなく、性格的な違いがあるのかもしれませんね。
人に対しても、神様に対しても、自分の願いや思いを積極的に伝えることができる人と、慎ましく訴える人、言いたくても言えない人など、様々な性格や行動パターンがあります。もちろん神様は私たちが祈る前から分かっていてはくださるのですが、それでも言葉にして祈ることを願っています。神様が求めているのは、私たちの願いをかなえること以上に交わりそのものだからです。

“祈りを聞かれる方よ
みもとにすべての肉なる者が参ります。” 詩篇 65:2

今日は午前中は牧師会、午後は3.11いわて教会ネットワークのコアミーティングです。

佐々木真輝

2022-04-24 身を避ける者を知っておられる主

2022年 4月 24日 礼拝 聖書:ナホム1:1-11

 ある日突然、聖書のことばが、今までとはまったく違った景色や意味合いに見えてくる事があります。創世記から順番に旧約聖書各巻を観て来ました。天地創造の時の祝福から、罪と死の呪いに捕らわれてしまった人間を神様がいかに回復させようとしておられるか。そのようなことを見通していくことができるのではないかと期待していました。それは確かにそうだなということが分かって来ましたが、長い戦争の時代でもあった王国時代と捕囚の時代に神様が遣わした預言者たちのことばは、ただ未来の救い主、キリストの希望や内面的な問題、神様との関係だけを指し示すものではありませんでした。イスラエルを滅ぼそうとする強大な敵や、国内での争い、不正、暴力が現実のものとしてあった時代に、預言者達の言葉はそうした罪に対して厳しい非難と警告を与えてきたのです。

そして今、私たちは戦争の残虐さ無意味さというものをほとんどリアルタイムで見せつけられています。今日開いているナホム書はそれほど有名な箇所ではないかもしれませんが、どのページを開いても飛び出してくる戦争の残酷な姿がこの状況で、突然リアルなものとなり、神様は単に私たちの内面的な罪や個人的な罪に関心を持っているだけでなく、社会や国家の大きな罪に対しても目を向けておられ、その中で苦しみ、神に救いを求める者に目を注いでおられるのだということに気づかされます。

1.傲慢な国は滅びる

第一に、ナホム書が描いている一番大きな内容は、傲慢な国は滅びるということです。1:1に「ニネベについての宣告」とあります。かつてヨナが預言をし、悔い改めた世代はとうの昔のことになります。預言者ナホムの時代はニネベを首都とするアッシリヤ帝国によって北イスラエル王国が滅ぼされた後です。

アッシリヤは力を誇り、領土を次々と拡大し、打ち破った国の人々を捕囚として連れていき、そこから帝国内のあちこちに散らし、混血を進めることで、各民族が反逆できないようにしました。まるでゲームの駒のように侵略し、占領した国や民族、人々の人生をもてあそび、好きなように動かしていたのです。そしてアッシリヤは南のユダ王国にも手を伸ばそうとしていました。

預言者ナホムはそのニネベとアッシリヤ帝国に対して宣告を告げるために遣わされました。「幻の記録」とあるように、神様はナホムに対して言葉以上に視覚に訴える幻を通して語るべきことを伝えました。2章と3章には戦争の場面や残酷な様子が非常にリアルに描かれています。まるでテレビやネットでウクライナの戦場や、破壊された町、道端に放置された遺体、避難した人々の過酷な生活、取り残された人々のもっと過酷な状況を見ているように、ナホムは戦争によって滅ぼされる町の光景を幻を通して見せられたのです。

傲慢なニネベとニネベを首都とするアッシリヤ帝国に向かって、神様が怒りを持って姿を現す様子がまず描かれます。2節から6節です。「主はねたんで復讐する神」とか「憤る方」「怒る方」ということばが並び、ちょっと怖さ、恐ろしさを感じさせます。しかしこれらは、神様の基本的な性質を表すものではありません。神様はいつも怒り狂い、近づく者を寄せ付けないような恐ろしさをまとっている方なのではありません。あくまでも残虐非道なアッシリヤの罪深さに対する、義なる神様としての立ち向かい方を表しています。ふだんは穏やかで優しい人でも、自分が大切にしている家族や仲間が傷つけられたり、侮辱されたときに、いつもは見せない激しい怒りを表すことがあります。そのように、神様は基本的にいつくしみ深く、恵み深い方です。しかし、あくまで神様に反抗し残酷な支配を続けるニネベとアッシリアに対しては怒りをもって立ち向かうのです。神様の怒りの前では誰も立っていられる者がいません。

2章と3章は首都ニネベとアッシリヤ帝国にもたらされる裁きが描かれています。心が健やかな状態でなければ読むのが辛くなるような、暴力的で、容赦の無い残酷なさばきが待ち受けています。しかし実は、この残酷さと暴力性はアッシリヤ帝国が侵略し占領していった国々で彼ら自身がやってきたこと、示してきたことです。

アッシリヤ帝国は大軍で押し寄せ、侵略し、兵士たちの盾は敵の血で赤く染まり、人々を戦車で追い回し、身分の高い人たちを連れ去り、町には火を放ち、金目のものはすべて奪い去ります。兵士も一般人も区別なく攻撃します。周辺の国々はアッシリヤに攻撃された町や国がどうなるか、恐る恐る固唾を飲んで見守るしかありません。今まさにヨーロッパで起こっている戦争と、それをとりまく世界の有様とそっくりです。しかし、歴史を振り返れば同じように傲慢に世界を支配しようとしたどんな帝国も、自分がやってきたことをそっくりそのままされて滅んできたのです。神様は国家や権力者の傲慢で残酷なふるまいをそのままにはしておかないのです。

2.高ぶる者とへりくだる者

第二に、高ぶる民とへりくだる民ではまったく異なる運命が待ち受けています。

怒りに満ちた神の登場で始まったナホム書は7節で急にトーンが変わります。「主はいつくしみ深く、/苦難の日の砦。/ご自分に身を避ける者を知っていてくださる。」

残酷で暴力的なニネベとアッシリアに対しては怒る神ですが、苦難のときに身を避け、より頼む者にはいつくしみ深い方なのです。

戦争で追い回され、逃げ場を失った人たちを救出に来た屈強な兵士のように、敵対し続ける者には恐ろしい存在になりますが、助けを待ち望んでいた人にとっては大きな慰めとなります。

今ここにいる私たちのほとんどは戦争を直接経験していません。11年前の震災の直後、山田町の津波と火災で破壊された町に向かった時、避難した方から戦時中の艦砲射撃と空爆を思い出したという高齢の方々に何度か出会いました。それも十分恐ろしいことだったはずですし、戦渦にも似た震災の風景は圧倒的に恐ろしかったです。それでも津波自体には悪意も憎しみもありません。しかしアッシリヤがイスラエルを侵略するために、あるいは他の民族を飲み込むために大軍を送り込むとき、その兵士たちの顔には憎しみと暴力性があふれています。

戦争を知らない私たちには、しばしば聖書の描写が暴力的過ぎるように見え、神様の裁きにも、ひいてしまうほどに残酷に見えることがあります。

しかし、ナホム書もそうですが、長い戦争の時代を生きていた人たちにとっては、それが実際に差し迫った恐怖であり、助け出して欲しい悪夢であり、何の意味もなく命が失われていく容赦のない現実でした。そのように圧倒的な暴力で他者を侵略し、支配しようとする国は傲慢の極みです。神の造られた人間の尊厳も、美しさも、自分以外には認めず、他人が生きるも死ぬも自分に決定権があると思い込んでいる、とんでもない傲慢さです。そのような者たちに対して、神様はいつの時代でも、いつまでも許しておくことはなさらず、必ず終焉を迎えさせました。

一方、そのような暴力的で抑圧的な国家にために、命の危機にさらされる人々が常にいました。神様はそうした罪もないのにいとも簡単に奪われてしまう人々の苦しみと訴えに心を留めてくださいます。もちろん罪がないというのは、聖なる神様のまえで全き人だという意味ではありませんが、人に殺されても仕方がないような人たちではないはずでした。

私たちはこういう聖書箇所を読む時、信仰ゆえの戦いや迫害のようなことに当てはめたり、霊的な戦いに読み替えることがあります。それもまた有り得ることですが、ナホムの時代の人々にとっては、文字通りアッシリアに蹂躙される中で味わった苦しみであり、その中で神様に助けを求めたのでした。まるで砦の中で助けを待って身を潜めているような心持ちとも読めますが、実際に砦に籠もって主が助けてくださるのを待っていた人たちもいたことでしょう。

私たちはそこまでの脅威にはさらされていませんが、同じように私たちが直面する困難、苦難、病、痛みなども現実のものです。そして、そんな悩みの中で訴え、助けを求める私たちを知っていてくださるのだと預言者は語ります。

3.平和を告げ知らせる人

第三に、神の平和は必ず訪れるから、あなたがたは信仰に立ち続けなさいと預言者は励まします。15節「見よ。良い知らせを伝える人の足が、/平和を告げ知らせる人の足が山々の上にある。/ユダよ、あなたの祭りを祝い、/あなたの誓願を果たせ。/よこしまな者たちは、/もう二度とあなたの間を通り過ぎることがない。/彼らはみな、絶ち滅ぼされた。」

似たような言葉がイザヤ書の預言にも出てきます。そしてローマ書の中で使徒パウロがまことの神様を知らなかった人たちに福音を伝える人について語る時に引用しています。そのため、どうしても私たちはこの言葉が福音を宣べ伝える人について語っているかのように読んでしまいやすいところがあります。

ナホムが15節で言っている「良い知らせを伝える者」とは、イスラエルや多くの国々、民族に残忍な暴力で襲いかかり奪い、滅ぼそうとするアッシリヤを神様が退け、主に拠り頼む者たちに戦争の終わりと回復の時がやって来ることを知らせる人です。山の上の物見台から「主の助けが来たぞ」「もう戦いは終わりだ」「もう大丈夫だ」と告げる人のことです。つまり、イスラエルが直面していたアッシリヤによる暴虐は必ず終わりが来る。そして戦争によって荒廃した町と暮らしには回復が訪れると約束しているのです。

ですからナホムは、神がもたらす平和を信仰によって先取りし、「あなたの祭を祝い、あなたの誓願を果たせ」と呼びかけます。これは、律法に定められた過越の祭などの祭、そして誓願は和解のささげもののことで、神への祈りが届いた時に感謝をもって捧げるささげものです。つまり、神の約束を信じて、今はまだ戦いと苦難の最中にあるけれど、主に礼拝を捧げようと呼びかけているのです。

今、ヨーロッパの戦渦の中で、クリスチャンたちが礼拝を捧げ続けています。アジアのあちこちでも、もうニュースにならなくなったけれども続いている戦いや迫害の中でクリスチャンたちが礼拝を捧げ続けています。それは、神様が平和をもたらしてくださったから、戦いを勝利のうちに終わらせてくださったからではありません。やがてこの世界から争いを終わらせ、完全な平和を回復させると約束してくださった神様を信じるからです。

この約束は救い主キリストが遣わされることで確かなものとして、あらためて私たちに示されたました。イエス様は戦争によって敵を滅ぼすことで平和をもたらすのではなく、無力で、だまって引かれていく小羊のように十字架で処刑される道を辿りました。それは一見、約束と違うことのようにも見えます。実際、それが弟子たちのキリスト理解を混乱させてしまうことにもなります。

しかし、イエス様がナホムや他の預言者たちが約束した平和の回復の意味を明らかにしてくださいました。イエス様は単にイスラエルの敵を滅ぼして平和をもたらすというのではなく、神との間に平和をもたらし、ついで戦争を引き起こしたり、人に残酷で暴力的なことをさせてしまう罪から人間を解放することで、人と人との間の平和を少しずつ回復させようとしているのです。そうして良い知らせである福音が世界中に告げ知らされ、すべての人が神様の前にへりくだることでこの世界は救われていきます。それでもなお神に反抗し、罪の中に留まるなら、ナホムが告げているように、その傲慢さにふさわしい報いは避けられません。

適用 重苦しさの中で

さて、今日はだいぶ重苦しい内容になってしまいました。預言書の時代背景がそもそも重苦しい時代ですし、扱われている内容も神に背いたイスラエルの民への非難だったり、暴力的で抑圧的な国々へのさばきの宣告だったりするので、重苦しさ、厳しさがあるのは当たり前のことです。

今私たちはヨーロッパの戦渦を目の当たりにし、その上、日本も周辺の国々との間の緊張感が高まって、もっと防衛予算を引き上げようとか、攻撃能力を増やすべきだというような空気感が濃くなって来ていますから、なおさら重苦しさを感じます。戦争とはこのようなものだったのだということをあらためて突き付けられます。

神様はナホム書を通して、義なる性質のゆえにアッシリアに限らず、暴力的で傲慢な国々を滅ぼし、そのいつくしみ深さゆえに、暴力によって苦しめられ、死ななければならなかった罪なき人々の訴え、嘆きに心を留めておられることを明らかにしています。そしてキリストによって平和を約束してくださいます。

神様のもたらす平和は、単に国同士の戦争がなくなることではないのは確かですが、しかしナホム書が中心的に語っているのは、傲慢で暴力的な国々に対する神の怒りと裁きであることも確かです。それを無視して個人的なことに適用しすぎるとちょっと無理があります。ナホム書のメッセージを個人的な罪の問題や、人間関係、内面的な問題に当てはめるような読み方をすると、敵対する個人、名前と顔が思い浮かぶ人に対して、赦すべきなのに、神による復讐を願っているのではないかという心のジレンマが生まれたりして、真面目に読む人ほど精神的に辛いことになり得ます。

ですからナホム書のメッセージをよりはっきりと、今日私たちが目にしている暴力と悪に対する神様の思いとして、そのために苦しんでいる人たちへの正義の回復と平和の希望として受け止めることが大事なのではないかと思わされています。

暴力によって国民を支配したり、異なる意見を押しつぶす国。他国を侵略する国。そうした国々で苦しむ兄弟姉妹がいます。クリスチャンであってもなくても受ける苦しみは同じです。私たちは神様がそのような状況に怒っておられることを知っているべきです。神様はいつまでも放っては置かれないことを信じ、思いを寄せ、義なる神様に助けを求めて祈り続けましょう。神様もご自身に身を避ける者を知っていてくださり、助けを与えようとしておられることを信じましょう。

悪は戦争だけではありません。もっと身近なところでは身勝手な犯罪、暴力、性暴力、差別といったかたちで襲いかかることがあります。自分が被害者になったことがなくても、身の回りには少なからずそのような事で嘆き、苦しんでおられる方々がいます。その悩みに簡単に立ち入ることはできませんが、やはり心を寄せ、救いを祈り、もし自分に出来ることがあるなら手を差し伸べましょう。

私たちがそのようなことに心を向けるべきなのは、主なる神様ご自身が正義を取り戻し、平和を回復しておられると信じており、希望を持っているからです。

この重苦しい時代に生きることになってしまった私たちにとって、今もなお主ご自身が私たちの救いであり希望であることを告白しながら歩んでいきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

あなたは今、この世界をどのようにご覧になっているでしょうか。預言者ナホムの時代と変わらない傲慢さと暴力が力を振るうこの時代を嘆くだけでなく、怒りをもってご覧になっておられるに違いありません。

主がやがて正義を取り戻してくださること、平和を回復してくださることを信じます。しかし、今この時に苦難の中にある人々にとっては、今が救いと助けが必要な時です。どうぞあなたの約束のゆえに、あなたのあわれみのゆえに、助けをお与えください。そして平和をつくる者、慰めを与える者として召されている私たちをあなたのご用のために用いてくださり、痛む人々に寄り添わせてください。

この重苦しい時代にあっても、希望を見失うことがないように、私たちの魂を守り、キリストにある平和を告げ知らさせてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

桜の下で

みなさん、おはようございます。
昨日、朝メールで展勝地に行きそびれているということを書きましたが、家内に誘われて夕方行って来ました。今年はさくらまつりの期間中でも夜のライトアップはありません。出店や屋台も早めに店じまい。鯉のぼりも遊覧船も渡し船もありません。ですので夕方の展勝地は散り始めてはいるものの、まだまだ花を楽しめますし、人も少なく、静かで、むしろ良かったです。ただただ桜の花を愛で、風に舞う花びらを目で追い、夕暮れ時に桜の下を歩いている家族連れやカップル、学生たちを眺め、たわいもないおしゃべりをする。そんな時間がただただ幸せでした。
いろいろなことが制約されたり、我慢を強いられたりしても、何かしら喜びを見つけ、感謝して受け取る時、神様が与えてくださる幸せを実感できます。

“朝ごとに
あなたの恵みで私たちを満ち足らせてください。
私たちのすべての日に
喜び歌い 楽しむことができるように。” 詩篇 90:14

佐々木真輝