存在に気づく

みなさん、おはようございます。
春の花が次々と咲いていますが、我が家の庭にもいくつかの種類が順番に咲いているらしいです。「らしいです」というのは、ちゃんと見ていなかったからです(ワイルドベリーの花の付き方には気をつけているんですが)。昨日の夜、家内に「テッセン咲いているの見た?」と言われました。すみません、まったく気づいていませんでした。
誰が見ていなくても綺麗に咲くのが花の素晴らしさですが、せっかく神様が素晴らしく装ってくださったのですから、ちゃんと気づいて目を向け、愛でたいですね。一人一人の存在も尊く美しいもので、誰が気づかなくても神様の目には素晴らしく映っているのですが、やっぱりお互いに存在を認め合い、愛し合い、造り主をほめたたえたいですね。

“わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。…” イザヤ 43:4

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

親切なことば

みなさん、おはようございます。
昨日の夜、教会の駐車場から車を出そうとしたところ、目の前に一台の車が停まり、運転主が何やら携帯をいじっています。何の嫌がらせか?と思いましたが、どうやらこちらに気づいていないようです。車のドアを開け閉めし、エンジンをかけ、2〜3メートルしか離れていない相手ドライバーに「車出したいんですが」と目で合図しました。でも携帯に夢中になっているのか、なかなか気づいてくれません。降りて声をかけるのはなんだか喧嘩を売っているようにも見えるような気がして、控え目にクラクションを鳴らしたらようやくこちらに顔を向けてくれました。それで分かってくれたかと思いきや、その顔には何の表情もなく再び携帯に目を落とします。ちょっとイラッとしました。少ししてようやく車を出してくれましたが、手には相変わらず携帯を持ったままでした。
夜になって思い返すと、何かを探して一生懸命だったのかもしれないなと思いました。「何かお困りですか」と親切に訊ねたほうがスマートだったかもしれませんね。実際のところは分かりません。ひょっとしたら本当に無神経で、人の迷惑を考えない自己中な人だったかも知れません。それでも、イライラするより、ちょっとした思いやりを行動にしてしまったほうが気分も良かったかな、なんて思っています。

“あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。” コロサイ 4:6

今日は朝9時から「いいあんべFM」でリレーフォーライフのラジオ番組があります。その中で家内が出演するコーナーもあります。北上市内の方限定ですが、是非お聞きください(再放送は金曜夜9時)。

佐々木真輝

もって生まれた性質

みなさん、おはようございます。
最近読んだ本の中で、世の中には生まれ持った性質として、他の人より様々なことに敏感な人がいるということが書かれていました。人の気持ちや空気を察知しやすいというだけでなく、音やにおい光の強さのような物理的なことにも敏感すぎるため、人間関係や生活にさまざまな支障が出やすいのだそうです(敏感な人が悪いのではなく、世の中はそれほど敏感でない人たちのほうが多く、そういう人たちに便利なように社会が出来ているからですね)。ふんふん。それで突然思い出したのが、娘が小さい頃に花火をものすごく怖がっていたなあということです。迫力のある花火を近くで見たらきっと驚き、感動するんじゃないかと期待しましたが、遠く離れた駐車場の車の中で震えながら綿飴を握りしめてたなあと。あれは他の子より怖がりだったというのとは違ったのかもしれませんね。
私たちが生まれて来る時に神様から与えられるいのちには、神のかたちとともに、親から受け継いだ性質とか、親とはまた異なった性質とか、いろいろな特徴を伴っています。それはどれも「悪いもの」ではなく、ただの特徴です。ただ、生まれた環境や時代が、ある特徴を持った人に有利だったり、逆に不利だったりするのです。そういう意味でも、私たちが互いを知り、受け入れ、助け合うことが大事です。

“ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。” ローマ 15:7

今日は朝から全キ災の世話人会です。

佐々木真輝

復活劇

みなさん、おはようございます。
バンドの再結成とか、スポーツ選手の復帰とか、「復活劇」のストーリーが大好きで、すぐ涙腺が崩壊します。そして、それまで一度も聞いたことのないバンドやミュージシャンでも、ただそれだけのことで好きになってしまいます。たぶん、これまで自分の人生の中で失ってきたものを取り戻したいという思いがありながらも果たせない、そんなもどかしさや憧れがあるんだろうと思っています。
教会の今年度のテーマは「回復」ですが、主がもたらしてくれる回復の中には、そのように果たし得なかった願いや憧れもきっと含まれているのだろうと、期待しています。今日は主の日。一週間のそれぞれの歩みを終えて新たな週を始めるために、私たちは主の前で再会し、心を一つにして礼拝を捧げ、また歩み出していきます。これもまたささやかですが、確かな回復のワンステップです。

“主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。” 2コリント 4:14

今日は夜、愛餐礼拝(夕拝)があります。

佐々木真輝

2022-05-08 憂国の祈り

2022年 5月 8日 礼拝 聖書:ハバクク2:1-4

 皆さんはこの世を憂うことがあるでしょうか。最近、うちの近所でゴミの出し方でいらっとすることがありました。たぶん引っ越し関連のゴミだと思うのですが、テレビとか回収されないゴミが出され、放置されています。地域の決まりではそういうのはゴミ当番の人が処理をすることになっていますが、なんだか酷い話しだなと思います。それはまあ大したことではないけれど、世の中にはもっとひどいことがあります。もちろん被害者になることもあり得ます。

そのような世のひどさを目にしたときの反応の仕方として、反対運動をしたり、きちんと調べた上で意見を表明する、わりと健全な意思表示をする人がいます。一方であまり調べず、偏った情報を鵜呑みにして誰かをこき下ろし、ただ非難する人もいます。健全とは言えませんが、怒りの表現の一つです。続きを読む →

強風

みなさん、おはようございます。
昨日はとても天気がよく暖かかったので(というか暑かったですね)、外でご飯を食べよう、あわよくば芝生の上でちょっと昼寝でもしようと思いました。ですが、かなりの強風。周りで家族連れや若者グループがバーベキューをやっている中、楽しげな声を聞きながらお昼ご飯は何とか食べましたが、どんどん風が強くなり、とても昼寝をするような状況ではなくそそくさと退散してきました。
何かをしようとするときに逆風が吹くことはよくあることです。それでも風に逆らってやり抜くか、無理せず退散するか。しようとしていることの重大さ、価値によって判断は変わってきます。どちらの選択も勇気ある(そして信仰の伴う)選択です。

“舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。” マタイ 14:24

今日は****さんの誕生日です。祝福を祈ります。

佐々木真輝

心のリフレッシュ

みなさん、おはようございます。
今日でゴールデンウィークも終わりますね。十分リフレッシュできたでしょうか。あまり普段と変わらず仕事をしていた方もおられるでしょうし、休日だからということで家の仕事に汗を流したという方もおられるかもしれませんね。リフレッシュといえば、世の中には見聞きするのも辛いニュースにあふれているので、(直接自分や家族に関わるものでなければ)自分の心を守るために、時にはそういう情報から距離を置くのも大事です。とくにお休みの日にはそうしたほうがいいです。
私たちの心は底の深い入れ物のようで、思いのほかたくさん入るし、底がのぞけないこともあるのですが、間違いなく有限です。ギリギリになれば自分でも分かるほどに余裕がなくなるし、容量をオーバーすればどんなに押さえ込もうとしてもあふれてしまいます。神様は私たちの心をそのようなものとして造られ、その弱さをカバーするために祈ること、人と分かち合うこと、忘れる能力などを与えてくださいました。

“私が呼ぶとき 答えてください。
私の義なる神。
追いつめられたとき
あなたは私を解き放ってくださいました。
私をあわれみ 私の祈りを聞いてください。” 詩篇 4:1

今日の婦人会と祈祷会はお休みです。

佐々木真輝

みどりの日

みなさん、おはようございます。
今日は「みどりの日」です。新緑の美しさと自然を造られた神様ご自身の素晴らしさを存分に味わえる季節ですね。桜が終わった展勝地では菜の花が盛んに黄色い花を咲かせているそうです(このまえ行った時にはまだ蕾でした)。その後はツツジが見頃を迎えることになるのでしょう。桜の規模ほどではないし、わざわざ遠くから観光に来るほどではないのかもしれません。人気でいったら、それは桜に軍配が上がりますが、それぞれに素晴らしさ、美しさがあります。
ものの価値の価値は人気や売上、シェアなどで図られがちですが、人の価値についても似たようなことをしてしまいがちですね。人気、人脈の豊富さ、生産性などなど。けれども、そういうものは生まれた時には誰も持っていなかったものです。人の価値は神様からいのちをいただき、この世に生まれて来てくれたことにこそあるのだと思います。

“あなたこそ 私の内臓を造り
母の胎の内で私を組み立てられた方です。
私は感謝します。
あなたは私に奇しいことをなさって
恐ろしいほどです。
私のたましいは それをよく知っています。” 詩篇 139:13-14

佐々木真輝

悪いことは重なるのか

みなさん、おはようございます。
オーストリアに宣教師として派遣された直後、乳がんが見つかり闘病を続けているSさんとそのご家族がコロナに感染したため、祈って欲しいとの知らせがありました(特にこの感染症の状況では簡単には他の人に助けを求めることができないですから)。もちろん相当気をつけてはいたとのことです。予定されていた放射線治療は終わっているとのことですが、体力も免疫力もかなり落ちているはずで、通常よりも合併症が心配なところです。
人生経験の一つの知恵というか、観察なのか「悪い時には悪いことが重なる」と良く言います。連鎖反応のように次々と悪いことが起こって、どうしてよいか分からなかったり、「なぜこんなに立て続けに」と誰に文句を言っていいか分からない苛立ちが起こってきたりします。Sさん家族から届くニュースレターには「悪いこと」の中にたくさんの感謝や励まし、慰めがあることを一生懸命伝えているように感じました。たぶん私たちは「悪いこと」のパワーに圧倒されて、良いことが見えにくくなるのでしょうね。それを見る目を与えてくれるのが信仰なのだと思います。

“私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。” 2コリント 5:7

佐々木真輝

2022-05-01 いのちの木

2022年 5月 1日 礼拝 聖書:黙示録22:1-7

 部屋や物置を片付けていると、すっかりその存在を忘れていた大事なものを見つけることがあります。それは思い出の品であったり、とても便利な道具だったりします。また街中で、あるいは何かの集まりで、思いがけない人と再会することがあります。何十年ぶりかで会って、その人と過ごした日々や一緒に経験したことがとても素晴らしかったことを急に思い出します。

よく出来た物語には、そういう忘れられていたちょっとした出来事や登場人物が後になって現れ、実はとても重要な役回りを果たすということがあるものです。

今日開いている黙示録には、聖書の中で長い間見失われていたあるものが突然姿を現し、「あ、ここにあったのか!」と思わされます。それが「いのちの木」です。最初に登場するのは天地創造の場面で、エデンの園の中央に、食べることを禁じられた善悪の知識の木の隣りに生えていました。人が罪を犯してエデンの園を追われてからは、いのちの木に至る道は閉ざされ、聖書の表舞台からは消えます。そのいのちの木が天国を描く場面で再登場するのです。

今年度の主題は「主の回復の年」ですが、ここ数年に失ったものを元に戻したいということだけでなく、主が聖書全体を通して回復させようとしていることは何か、月に一度くらいのペースで見ていきたいと思います。いのちの木の再登場はその回復の象徴です。

1.人が失っているもの

第一に、天地創造のアダムとエバの時以来、私たち人類は失っているものがあります。その象徴が聖書の最初の書である創世記に登場したいのちの木に至る道が閉ざされた出来事です。そして、聖書の一番最後の書である黙示録の中で、最後の最後に再び登場することで、神様は人類が失ったものを取り戻させ、回復しようとしておられることを描き出しています。

人類が失ったもの、失ってしまっているものが何かについて、人は必ずしもはっきり分かっているわけではありません。何を探していたか分からなくなっているのに、「何を探していたんだっけ」と焦りながら、家の中をあちこちひっくりかえしているようなことを人間はやり続けています。

人が失っているものは、本来の人間らしさ、神のかたちに造られた人間としてのいのちを形造る大事ないくつかの面です。

いったい何を失ってしまったのか、あらためて創世記に立ち戻って確認したいと思います。創世記3章が問題の場面ですが、その前に1章と2章で人間が創造された時のことを見ておきましょう。

1:26~27で人間は「神のかたち」に造られたことが分かります。その意味についての説明はありませんが、他の動物と明らかに違うものとして、神の性質のある面を宿すものとして造られたのです。2:7では、大地のちりで形造られた人間が神様のいのちの息を吹き込まれることで生きる者となったことが記されています。神様との特別な交わりの中でこそ人は本当の意味で生きていると言えるのです。その直ぐあとでエデンの園に場面が移り、園の中央にあるいのちの木と善悪の知識の木にスポットが当てられます。

ご存じの通り、エデンの園でなる実は何でもとって食べて良かったのですが、善悪の知識の木の実だけは禁じられました。

そこに蛇が現れ、アダムとエバを惑わし、彼らはついに禁じられた木の実を食べてしまうことになります。

創世記3章を見ていくと、そこで神のかたちとして造られ、神のいぶきによって生きる者とされた人類の失ったものが何であるかが見えてきます。

最初に彼らが見失ってしまうのは、自分たちが神のかたちに似た存在であることです。蛇は巧みに誘惑します。木の実を食べれば目が開かれて神のようになるとささやきます。すでに神のかたちに似せて造られていうことをなかったことにして、この誘いに乗れば神のようになれるとたぶらかすのです。それ以来人間は、愛することや何かを生み出す創造性、一人一人の個性的な美しさを素晴らしいと感じながらも、それが神様のご性質に由来するものだという肝心なことを見失っているために、ちぐはぐなことや、あるべきではない姿へと陥ってしまうのです。

さらに、いのちの生吹を吹き込まれた人間は罪を犯すことによってその神との生きた関係を失ってしまいました。神様の目を避けるようになり、恐れ、逃げ、隠れます。

ことの次第を知った神様は人間が背負わなければならない呪いを告げます。生めよ増えよ、地を従えよという祝福のうちにまだいますが、同時にそれが苦しみを伴うものとなってしまう。生きることが祝福でありながら同時に呪いをはらんでいるという矛盾の中に私たちは置かれることになったのです。

2.天国にはいのちの木がある

しかし第二に、天国にはいのちの木があります。そういう未来に私たちは向かっています。

アダムとエバの罪の結果、3:22で神様は、二度と人がいのちの木から実を食べ、永遠に生きることがないようにしようと言われ、エデンの園から追放した上で、そこに戻る道を閉ざしてしまいます。

では黙示録に戻ってみましょう。21:1に「新しい天と新しい地」そして「新しいエルサレム」が登場します。そこでは、かつて失われた人間と神様との揺るがない交わりが回復し、もはや死もなく、涙も悲しみも過去のものとなることが告げられています。

それから新しいエルサレムの様子が描かれていきます。黙示録という書物の特徴は様々な象徴を組み合わせることでメッセージを託していくものなので、これらは実際の天の都の設計図というより、天の都が大きく、完全で素晴らしいものであることを表していると言えます。

そして今日開いた22章で天の都の中心部を流れるいのちの川とそのほとりにうわっているいのちの木が登場します。

いのちの木そのものが天の都にあることは実際そうなのだろうと思いますが、12の木が毎月一つの実を結ぶとか、葉っぱがすべての人を癒すというのも、何か象徴的な意味がありそうです。というのも、既に天の御国には死も苦しみもないわけですし、夜もなければ太陽もないのに季節や癒やしはあるという、実際的に考えるとちょっと矛盾した描写があります。これらは、神とキリストからもたらされるいのちによって潤され、回復させられ、豊かに、完全に祝福されている様子を象徴したものと読むほうが筋は通ります。

大事なことは、この世界の終わりに姿を現す新しい天の都に、かつて失われ、閉ざされたいのちの木が、再び登場し、しかも惜しげもなく、川の両岸に何本も育ち、豊かに実を結んで人々をいやしているというイメージです。

イエス様は弟子たちに、そして私たちに「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」と言われました。イエス様を信じて救いを頂いても、この不完全で罪と死がまだ力を振るっている世界では困難があります。この世にあってイエス様の復活のいのちの力を頂き、困難の中でも忍耐し、平安と喜びを握って生きることはできます。それでも、苦難は残るのです。私たちは癒され、慰められる経験をし、希望を持つことができますが、この世にある間は痛みと悲しみが完全にはなくなりません。

私たちがこの世界の歪みと不完全さ、罪深さゆえに味わう苦しみや、私たち人間の、人間としての弱さゆえに味わう病、痛み、老いがすっかり取り除かれる希望は、この世で生きている間ではなく、その先の天の御国にあるのです。

一昨日、日本の教会音楽に大きな影響を与え、リードしてきた小坂忠先生が召されたと知りました。数年前に最初にがんが見つかって、奇跡的に生還した後も全身にひろがったがんとの闘病生活の果てに召されました。どんなに素晴らしい働きをするような信仰の人でも、完全な癒やしと慰めは天に行くまで待たねばならないのです。しかしその希望があるから、今の時をがんばれるのです。

3.主はすぐに来られる

第三に、主イエス様はすぐに来られると言われます。

今日読んだ箇所の最後、7節にはこうあります。「見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。」

これは12節でも繰り返されています。「見よ、わたしはすぐに来る」。そして黙示録の最後もこの約束で終わっています。「これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。」

黙示録は教会に大きな迫害が迫っている緊迫した状況の中でクリスチャンたちを励ますために書かれました。特に今のトルコの西海岸沿いに点在する7つの教会とクリスチャンたちを意識して書かれています。彼らが間もなく経験するエルサレムの滅亡もローマ帝国による組織的な迫害も、その後何度も繰り返される苦難や迫害の一つです。出産の時にむかって痛みが何度も押し寄せるように、新しい天と新しい地、天の都が訪れるまでには産みの苦しみが何度も押し寄せて来ます。その都度、クリスチャンたちはイエス様が間もなく来られるという約束を希望に耐え忍んで来ました。

しかしここで一つの疑問が浮かんで来るかも知れません。「イエス様はすぐに来ると言われたのに、全然こないじゃないか」。

子どもの頃、親に「すぐやってあげるから」と言われても、なかなかやってくれなくて「いつ?すぐって言ったじゃん」と文句を言った事があるかも知れません。逆に「早くやりなさい」と言われ、「すぐやるから」と口答えしたのに、なかなかやらずに「すぐやりなさい」と言われ「分かってる」とまた口答えする、そんな経験があるかも知れません。イエス様の「すぐ」と私たちが考え期待する「すぐ」にはズレがあります。

神様にとって千年は一日のようであり、一日は千年のようです。神様の救いのご計画では、私が救われ、慰めと回復をいただけることだけでなく、まだ福音の届いていない人々、世界へと福音が届けられるまでは終わりにはしないということです。ですからそれまでは「もうちょっと待ちなさい」と言うことです。

黙示録でイエス様が「すぐに来る」というのは、時間的にあっという間にということではなく、その時が来れば速やかに、確実に来られるという意味といえます。それは、私たちがやりたくないことをぐずぐずと先延ばしにして「すぐ行くから」と言うのとは違います。その時が来るまで今なすべきことをしっかりやりながら準備万端整え、今がその時となったらすぐに来るのです。

17節に「御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」とあります。

今は困難があり、苦難があっても、必ずイエス様が来られ、すべてを新しくし、完全な回復を与えてくださる時が来ます。いのちの木の実がもう一度私たちをいやすものとして与えられる時が来ることを確かな希望として持っているようにと、聖書は私たちを励ましているのです。それまでの間もいのちの水は渇く者、求める者に与えられると約束されています。完全な回復までの間、いのちの水をいただきながら私たちは歩み続けるのです。

適用:待ち望め主を

迫害の時代に生きたクリスチャンたちは、「主よ来てください」という言葉、アラム語で「マラナ・タ」という言葉を合言葉に励まし合いながら生きたと伝えられています。私たちもまた主を待ち望んで、主よ来てくださいと告白し、祈りつつ歩みたいと思います。

時として聖書の物語は壮大すぎたり時代が違い過ぎて、私たちの歩みとどう関係するか見失ってしまいがちです。特に黙示録は様々な象徴が織りなすイメージに振り回されて、その意味は何だろうかと謎解きのようなことに走り、未来にはこんな出来事があるに違いないと想像たくましくしてしまいがちです。

いつかまた聖書を順番に開いていくシリーズの中で黙示録を取り上げることになりますので、その時には黙示録の読み方を見ていくことにします。

今日私たちが見てきたのは、創世記に登場し、失われたいのちの木が黙示録で再登場したことを通して、神様がなさろうとしていることです。神様に背を向けた人類が見失ってしまったもの、神のかたちとして造られた存在であること、そして神との生きた交わりを回復させることが、神様のもたらそうとしている回復の中心にあります。それがいのちの木の再登場に象徴される内容です。

つまり、私たちが今経験しているすべての苦しみ、悩みは、人類が見失ってしまったこと、罪の結果としてこの世にもたらされた苦しみに結びついています。そして神様は私たちがそうした苦しみによって痛み、悩み、嘆いていることを知っておられ、完全な回復をもたらそうとしておられます。

大事なことは、神様は単に将来、遠い将来に新しい天の都が到来した時に癒やしを与えるから、今はただ耐えなさいと言っているのではないということです。

黙示録が描く未来の回復は、完全な回復です。やがて主イエス様が王となって世界を治める時には、この世で報われることのなかった労苦や癒されることが叶わなかった痛みもすっかり拭い去られます。しかしながら私たちが生きているこの時にも助けは与えられるのです。ですから17節で「これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」と勧められています。イエス様ご自身、誰でも疲れている者は「わたしのところに来なさい。休ませてあげます」と言われました。「マラナ・タ」「主よ、はやく来てください」と願いながら今渇いている者にはいのちの水が与えられるのです。

それは山上りの途中での休憩や、長旅の途中でのリフレッシュに似ています。山頂にいかないと得られない休息と絶景があるのですが、そこに到着するまでの間に、おりおりに挟む小休憩や、歩きながら口にする水のように、私たちをリフレッシュさせ、歩く力を与え、疲れを癒すものです。

たとえ今与えられるものが完全な回復でなくても、赦され愛されている事実、主が共にいてくださる安心感や、休息や逃れの場がどれほど私たちを回復させてくれるでしょうか。報われると分かっている希望、人を通して、またみことばを通して折々に与えられる助けや励ましがどれほど力と勇気を与えてくれるでしょうか。

今月の歩みも、それぞれに負わねばならない労苦がありますが、主を待ち望み、慰めと希望をいただきながら歩みましょう。

祈り

「天の父なる神様。

主を待ち望む者に備えてくださる回復をありがとうございます。

やがて天の御国がおとずれる時に完全ないやしと回復が与えられる希望があり、それだけでなく、今この時も私たちの祈り、必要に応えて、助けを与え、いのちの水を与えてくださることを心から感謝します。

特に、今困難の中にあるお一人お一人に、癒やしや慰め、具体的な助けと導きを必要としているお一人お一人に、あなたの確かな助けがあり、いのちの水が湧き出るように渇きをいやしてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」