時が良くても悪くても

みなさん、おはようございます。
昨日、ネットワークのミーティングがあって各地の先生方の近況や祈りの課題を聞き合い、祈りの時を持ちました。それぞれ岩手に来られたタイミングは違いますが、数年の間に、そしてここ2年直接お会いする機会がほとんどない事もあって、お互いに変化もありました。自分自身の年齢の変化かから来ることもありますし、子どもたちの成長や、離れた地で暮らしている親兄弟の健康状態などもずいぶん変わります。香港のように政治的に激変したところもあります。コロナ禍のために虚しさを感じる方もおられました。
そうした中でも、家族のことをはじめ個人的な課題を抱え、取り組みながらも岩手に来た目的である働きを継続している姿に、ああ同じだなあと共感したり、もっと力が欲しいなと思ったりしました。そして牧師や宣教師に限らず、誰でもそれぞれに困難に立ち向かいながら人生を生きているのだなと、尊敬の気持ちを新たにしました。

“みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。” 2テモテ 4:2

佐々木真輝

ピアノは弾けないけど

みなさん、おはようございます。
およそ一週間ぶりになってしまいました。先週は世の中でも、個人的にも様々なことがありましたが、とても関心をもって見守っていたのはショパンコンクールです。以前、さくらホールで演奏を聞いたこともある日本人ピアニストが最終選考に残り、結果2位という快挙を成し遂げました。クラシック音楽をすごく良く知っているというわけではありませんが、ジャズやロックと共に好きで良く聞きます。そんなかじった程度ですし、自分では弾けませんが(習い続ければよかったと今でも後悔してます)、音色の素晴らしさや演奏の素晴らしさはわかりますし、それを楽しむこともでき、癒やされたりもします。
みことばについても、完全には理解できなかったり、すっかりそのまま実行できないこともありますが、その素晴らしさはわかりますし、やはり励まされたり、癒やされたり、教えられたりもするものですね。

“あなたのみことばは
私の上あごになんと甘いことでしょう。
蜜よりも私の口に甘いのです。” 詩篇 119:103

佐々木真輝

2021-10-24 良い羊飼い

2021年 10月 24日 礼拝 聖書:エゼキエル34:11-16

 「羊飼い」はクリスチャンにとってはとても馴染み深い象徴です。実際に羊飼いに会う機会はほとんどありませんし、彼らの生活や仕事について詳しいことは知りませんが、それでも馴染み深い感じのする不思議な存在です。

聖書の中には多くの羊飼いが登場します。アダムとエバの二人の息子のうち、弟は羊を飼う者でした。アブラハム、イサク、ヤコブの生活にも羊は必需品で彼らの信仰の物語にもよく登場します。イスラエルをエジプトから救い出したモーセも、王となったダビデも羊飼いでした。預言者たちは国の指導者たちを羊飼いになぞらえ、ダビデは主こそ私の羊飼いと詩篇の中で歌っています。もちろん、クリスマスの物語の登場人物として羊飼いは欠かせません。続きを読む →

2021-10-17 新しい心

2021年 10月 17日 礼拝 聖書:エゼキエル11:14-25

 私たちが神様に求める救いの中身と、神様が与えようとしている救いの中身には、時々ズレがあります。それは小さい子どもが熱や咳で苦しんでいる時に、とにかく楽になりたいのに、お医者さんが与えるのは苦かったり変な味のする薬や注射だったりするのに似ています。しかし、そのいっときの苦味がやがて熱や咳を取り除いて本当に楽にしてくれるように、神様が与えてくださる救いこそが、私たちが必要としている解決、回復を真にもたらしてくださることを、私たちは旧約の民の物語や、私たち自身の経験から悟るようになります。

主がアブラハムを召した時から長い間、彼の子孫は寄留者として過ごしました。その後出エジプトを経て、イスラエルの民は約束の地で王国を建設し、確かに神の国が築かれたと思いました。ところが、イスラエルの王たちと、イスラエルの民自身が契約をやぶり神に背を向け、国の中から公正もあわれみの失われ、神の栄光を表すどころかおとしめるものになってしまいました。

そうしてイスラエルの王国はアッシリヤ、それからバビロンによって滅ぼされ、人々は国を失い、自分たちの土地ではないところへ連れていかれ、またしても寄留者となりました。

そんな時代に預言者として立てられたエゼキエルの書を今日と次回と2回に分けて取り上げます。今日は前半、33章までです。

1.ケバル川のほとりで

まず、1:1~3を開いて見ましょう。エゼキエルの置かれた状況がどのようなものだったかが読み取れます。

いきなりケバル川という聞き慣れない川の名前が出て来ます。カルデヤ人というのはバビロン帝国を築いた民族の名前です。

エゼキエルは祭司です。父の名はブジで、祭司の家系に生まれた者としてエゼキエルも祭司になるはずだったというべきかもしれません。奉仕の場である神殿も風前の灯火でした。1節に「第三十年の第四の月の五日」と日付が出て来ます。これはエゼキエルが30歳の時という意味だと多くの学者たちが考えています。だとすると25歳という若さで捕囚の民となり、そして30歳になったこの年、本来なら正式に祭司職に就くことになるはずだったのです。

しかし、5年前にエホヤキン王が捕囚になったときに一緒にバビロンにつれて来られ、ケバル川という異国の地の川のほとりの居留地に留め置かれていました。エルサレムの町も神殿も、イスラエルの王国も、まだ完全には滅ぼされていませんでしたが、破滅の時は目前に迫っていました。同じ1回目の捕囚を逃れた預言者エレミヤはエルサレムに残って預言者として活動を続けていました。

まずこの状況を想像してみましょう。エゼキエルの目の前には川が流れていますが、それはイスラエルの人々にとって馴染み深く、また様々な物語の舞台となったヨルダン川ではありません。わりと大きなユーフラテス川の支流だったという説もありますが、水路のようなものだったという説もあります。いずれにしても目に見える景色が違うというのは心に大きな影響を及ぼします。遠く離れた祖国は今にも滅亡するかという瀬戸際に立っていましたが、ネットがあるわけでもない時代です。詳しい情報は入って来ません。

祭司の家系に生まれた者としてその役割をいよいよ果たせる年になったときに、祖国を追われ、見知らぬ景色の惨めな捕囚の民となっていたエゼキエルに、突然主のことばが臨み、驚くような幻が示されました。

1章全体を通してエゼキエルが最初に見た圧倒的な光景の前にエゼキエルはその場でひれ伏しました。神の栄光が表れたのです。その時、主がエゼキエルに語りかけました。2:1です。「人の子よ、自分の足で立て。わたしがあなたに語る。」

聖霊がエゼキエルのうちに入り、力を与えて立たせると、主のことばが告げられました。2:4あるように、エゼキエルは捕囚となってもなお頑なで厚かましい民、決してエゼキエルに耳を傾けない人々に向かって語ることを求められました。2:7「彼らは反逆の家だから、聞く聞かないに関わりなく、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。」

2章から今日司会者の方に読んでいただいた11章までの中で、エゼキエルは、バビロンによる二度目のエルサレム攻撃が迫っていて、今まさに破滅がすぐそこまで近づいていることを警告します。言葉で語るだけでなく、神様に命じられるままに、いろいろなパフォーマンスをしてみんなの印象に強烈に残るようにもしました。イスラエルの民は偶像に拠り頼み、社会には不正や暴力がまかり通っていて、癒しがたい程になっていました。ついに一回目の攻撃と捕囚があったのですが頑ななままです。エゼキエルは一生懸命警告しますが、それでも、誰も話を聞こうとしないのです。

2.異国の地でも

第二に、かつての栄光も祝福も閉ざされたところでも主はともにいてくださいます。主は異国の地にあっても、イスラエルの民と共にいてくださると約束してくださいました。11:16で、神殿と祖国が失われ捕囚となった民のために、主ご自身が彼らの聖所となるという不思議なことばが告げられています。

『神である主はこう言われる。わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた。』

聖所とは神殿の中心にある神がご臨を象徴する特別な場所のことです。この節は二つの意味で画期的なことを示しています。神様がご臨在する場所として定められたエルサレムから離れ、異教の地の真っ只中に神様がご臨在くださるということ。そしてエルサレム神殿の破壊が神様による裁きであるにも関わらず、民の間になおもご臨在くださるという恵みです。

2章からずっと、まるで耳を傾けないイスラエルの人々に、神様はエゼキエルを通して神様からの非難のことばを伝え続けて来ました。特に8章以降は、主の宮である神殿でいかにひどいことが行われていたかが示されています。神殿の東西南北のそれぞれの門の前で秘密裏に、あるいは公然と偶像礼拝が行われ、町には暴力があふれていました。8:17~18を見て見ましょう。「見たか、人の子よ。ユダの家にとって、彼らがここでしているような忌み嫌うべきことをするのは、些細なことだろうか。彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている。見よ、彼らはぶどうのつるを自分たちの鼻にさしているではないか。だから、わたしも激しい憤りをもって応じる。わたしはあわれみをかけない。わたしは彼らを惜しまない。彼らがわたしの耳に大声で叫んでも、わたしは彼らの言うことを聞かない。」

そのため、エルサレムに与えられていた主の栄光は取り去られてしまうのです。エゼキエルは11:22~23で主の栄光を表すケルビムと呼ばれる天使が都から上り、都のはるか東の山の上に去っていくまぼろしを見させられます。

それは間もなく、神殿も国も滅ぼされ、イスラエルから栄光が去ることを表していますが、同時に、主のご臨在と栄光が東の国に捕囚となった人々のところに移ったことをも表していたのです。それで11:16で「しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた。」と言われたのでした。

このことはいよいよ祭司として活躍するはずだった立場も場所も失われ、それどころか自分の暮らしていた家も町も失い、未来も見通せない中にあったエゼキエルにとって、そしてイスラエルの民にとってどういう意味があったでしょうか。

エゼキエルの個人的な思いは記されていませんし、イスラエルの民は相変わらず神様に対しては反抗的なままでしたが、それでも、神様ご自身が彼らの聖所となり、彼らと共にいると宣言してくださったことが重要だったのかもしれません。

私たちも、以前のようなワクワクするようなことも、祝福されている実感もなく、がっかりや疲れが心にあふれているような時も、実は神様が共にいてくださって支えられていたのだと、ずっと後になってから気づくことがあります。

3.回復の約束

第三に、主はエゼキエルを通して回復を約束されました。

11:17をもう一度読んでみましょう。「それゆえ言え。『神である主はこう言われる。わたしはあなたがたを諸国の民の中から集め、あなたがたが散らされていた国々からあなたがたを呼び寄せ、あなたがたにイスラエルの地を与える。』

イスラエルの民の回復は、祖国の滅亡と捕囚から、再び約束の地へと連れ戻され、集められるという形で約束されました。聖書全体のストーリーでは、その意味が単に国家としてのイスラエルの再建ではなく、罪によって損なわれたすべての人の神との関係や、人間性、そして家族や様々な人とのつながりの回復として与えられることになります。しかしここではひとまず、捕囚からの帰還という、彼らに理解できる形で示されたました。

この回復の約束が単に国の再建ではないことが18~19節で明らかにされます。

「彼らがそこに来るとき、すべての忌まわしいもの、すべての忌み嫌うべきものをそこから取り除く。わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」

イスラエルの民の中に、まるで黒カビの根っこのように根強く染み付いていたあらゆる忌まわしいものを取り除き、彼らに新しい心を与えるというのです。

「石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える」というのは、人々の頑なでみことばを拒む心を作り変え、柔らかい心を、へりくだってみことばに聞く心を与えるということです。

イスラエルの問題は本質的には、弱者を支える国の制度や外国の軍事的脅威に対する安全保障の問題ではなく、何よりも王や人々の心が神を恐れ敬い、へりくだって聞き従う心がなかったことにあります。神を愛し、隣人を愛するという精神を失った社会は、霊的にも道徳的にもすさんでいきます。それはいくら表面的に制度を整えたり、仕組みを造っても別な形で新しい問題となっていきます。

捕囚は苦しい時になるかもしれませんが、彼らの心から忌まわしいものを取り除き、新しい心を与えるために必要な期間でした。そして、新たな国づくりを始める時に何より大切なのは新しい柔らかな心であることだったのです。それなしには、どんなに国が再建され、神殿や城壁が再建されても、結局は元の木阿弥です。

私たちはこの回復の約束、ご計画が、イエス様を信じる人々に聖霊が与えられることで人が新たにされることにつながることを知らされています。

もちろん、神様の救いは、ただいつの日か、何十年後かにやってくるだけのものでなく、異国の地で捕囚の民となった人々に、その地で、その場で与えられるものでもありました。捕囚時代のエステルの物語や、ネヘミヤ、後に取り上げるダニエルなどが、難しい状況の中で何度も神様に助けられ、導かれた様子を見る事ができます。神様も、たとえ見知らぬ土地で暮らすことになっても、そこに根付き、働き、たとえ異なる宗教や人種であっても隣人の祝福を祈り、町の繁栄を祈るよう励ましています。そうすることで、生き延び、助けを得、明日に希望をつないで行くことができるからです。しかし、回復そのものは、新しい心が与えられる事によるのです。

適用 まず心が新たにされる

エゼキエル書は、ちょっとびっくりするくらい奇抜とも言えるイメージに溢れた幻がたくさん出て来るので、面白いといえば面白いし、人によっては気持ち悪いとか、怖いと思う人もいるようです。

そうした幻や象徴的な表現は解釈が難しい面はありますが、それでもエゼキエル書の中心的なメッセージは非常にシンプルです。国が破れ、夢も希望も失われ、明日をも知れない身となった人々に、王国の滅亡は神の裁きではあるが、回復の希望もあり、それはイスラエルだけでなく全世界への希望でもあるということを伝えるために記されました。その希望の要は、神が人に新しい柔らかい心を与えるということです。

まず心が新たにされることに真の回復の道があります。しかし、このことは、神学的には正しいとしても、現実の苦しみや困難の中にある時には、何というか、理想的すぎるというか、今欲しいのはそれじゃないという感じがするかもしれません。

私たちはやはり目の前の今すぐ解決してほしいこと、助けてほしいことに注意が向きます。今必要な癒やし、今必要なお金、今必要な食べ物、今必要な慰め。もちろん、それらは本当に切実で、軽んじることはできません。雨にふられ傘もなくずぶ濡れになっているときに必要なのはまずは雨宿りする場所や傘、あるいは濡れた体を拭くタオルなのです。

だからイエス様も、ご自分の前に来る多くの病人や悪霊に憑かれた人、ケガ人、汚れにおかされた人をあわれみ癒やし続けました。しかし同時に「誰にも話してはいけない」と命じられ、イエス様が与えようとしている救いが今必要としている問題解決だけではないことを気づかせようとしておられました。

そしてイエス様は私たちクリスチャンにも、隣人を自分自身のように愛しなさいと教え、助けの必要な人に手を差し伸べることを励ましています。それ自体が真の救いや解決ではないとしても、この痛みやすい心と体を持った人間として、やはり切実な必要だし、そういうことを通して愛されていることが分かるものだからです。

けれども、私たちはそうしたあわれみや助けの中で気づかなければならない事があります。私の心が新たにされることにこそ、真の回復のスタートがあるのだということです。

誰でも、人は硬い石の心を持っています。それは硬いだけでなく、重くその人の魂を暗い闇の方に引きずり込もうとします。生まれた時は小さな罪の種に過ぎませんが、成長の過程で実際に嘘をついたり意地悪したり、ワガママに振る舞うことを覚えてしまい、他人や自分を傷つけ、放っておくと雪だるまのようにどんどん大きくなり、固さと重みをましていきます。それは意思の強さなどというものではなく、神様の恵みやあわれみに対する頑なさ、頑固さ、へりくだれない、石の心となってしまいます。口では助けが欲しいと言いながら、へりくだることだけはしない、頑なさとなってしまいます。

イエス様はそのような石の心を取り除き、新しい柔らかな心を与えてくださいます。心が柔らかにされると神様との関係も、人との関係にも柔さが生まれ、堅く鋭い心が傷つけてきたところが少しずつ回復されていきます。それは個人の心や人間関係だけでなく、家族や社会をも変える力を持っています。神様がエゼキエルを通して希望として与えたのはそのような救いなのです。

おひとりおひとりの心にもし、今も堅く重い石の心があるなら、それが取り除かれ、柔らかな心が与えられるように祈ります。

祈り

「天の父なる神様。

エゼキエル書を通して、あなたが備えてくださった救いが、私たちの心を石の心から柔な心に造り変えてくださるものであることを教えてくださり、ありがとうございます。

あなたは私たちが弱い者で、今この時に必要な助けもご存知で、あわれんでくださる方ですが、私たちが本当に自由になり、回復されるために、私たちの心が新たにされる必要があることを繰り返し語り、示してくださいます。

どうぞ、私たちに、自分の中にある硬い心に気づかせてください。頑なで真にへりくだることを知らない私たちに、柔らかな心を造ってください。

主イエス様の御名によって祈ります。」

洗い流すこと

みなさん、おはようございます。
昨日、家の資源ごみを処分するために、いつも行っている処分場に行ったら扉が閉まっていて「閉鎖中」の張り紙が。しかたなく持ち帰って、調べてみたらキイロスズメバチが大量発生したため、安全が確認されるまで閉鎖とのことでした。資源ごみステーションの中に巣があったわけではないそうですが、ちゃんと洗っていないジュースの瓶などの甘い匂いに誘われてハチが集まって来たということらしいです。
資源ごみに瓶やペットボトルを出すときは中を洗ってから、という基本をおろそかにすると大変なことになります。資源ごみは大丈夫でも、私たちもいろいろと洗い流さなければならないものをわりとそのままにしておきがちかもしれませんね。

“神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。” ヤコブ 4:8

佐々木真輝

良いところは何?

みなさん、おはようございます。
「地元の人しか知らないような魅力を教えてください」と聞かれたらどう答えますか?食べ物ならいくつか思いついたのですが、それ以外となると、なかなかこれといったものが思い浮かびませんでした。好きな景色とか場所はあるんですが、それが他の人に魅力的に映るかどうかちょっと自身がないんですよね。
自分たちの「良さ」に気づいていないことって結構あるように思います。他の誰かやどこかの「魅力的」に見えるものと比べると見劣りしているように思えるだけなのかもしれません。神様は私にふさわしい良さを与えてくださっているはずなので、他と比べる必要なんかないはずなんですが。与えられている良いものにちゃんと気づき、良いものは良いと率直に認められるようでありたいです。

“あなたがお与えになると 彼らは集め
あなたが御手を開かれると
彼らは良いもので満ち足ります。” 詩篇 104:28

佐々木真輝

準備だけでなく

みなさん、おはようございます。
何日か前に、朝方夢を見て目覚めました。ちょっとずつ細かい点が違いますが、内容としては何度も繰り返し見ている夢の続きです。ある集会に参加しながら、次の目的地に向けて旅の準備をしているのですが、いざ出発すると何かトラブルがあって目的地にたどり付けなかったり、引き返すハメになったりするというもどかしい感じで目が覚めます。何か心にあるものを映し出しているのかなあとあれこれ考えています。
私たちの実際の生活や仕事でも、準備することは大事ですし必要ですが、実際に出発したり、実行したり、活用しないでしまったら、あんまり意味がないですね。神様が機会を備えてくださっても、それを捕らえないなら、たとえ準備していたとしても意味がありません。全然意味がないということではないでしょうが、ずいぶんもったいないことです。

“ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。” ガラテヤ 6:10

佐々木真輝

ハクチョウ 

みなさん、おはようございます。
朝晩寒さを感じても、日中は暖かったりしますが、北上には早くも白鳥が飛来したそうで、確実に冬が近づいていますね。雪が降るのはまだ一月以上あるでしょうが、やがて来る季節にいろいろと備えなければならなくなってきました。
私たちはいろいろなもののため、将来の様々な事柄のために備えをしますし、しなければなりません。備えは大事です。でもその備えを有効なものとしてくださるのは主ご自身です。だから、私たちは備え、また祈ります。

“戦いの日のためには馬が備えられる。
しかし、救いは主による。” 箴言 21:31

今日は*****さんの誕生日です。祝福を祈ります。
今日の夕方は月一度の夕拝があります。

佐々木真輝

2021-10-10 私たちは待ち望む

2021年10 月 10日 礼拝 聖書:哀歌3:19-24

 最近、皆さんは何かについて嘆いたことがあるでしょうか。

自分の不幸や不運を嘆く事もあれば、世の中の救いがたい不公平や理不尽さを嘆くことがあったかもしれません。

しばしばそれらはただの不平不満やグチとなり、周りの人たちを困らせたり、へんな空気にしてしまったりもします。かといってそうした嘆きをどこにも出さずに心のなかに押し込めてしまうと、こんどは自分が参ってしまいます。よりよい嘆き方、健全な嘆き方があるなら、ぜひとも身につけたいものです。続きを読む →

応援

みなさん、おはようございます。
ひいきのプロ野球チームがシーズン終盤になって快進撃を続けていてなかなか気持ちが良いです。まだ優勝を確実にしたわけではありませんが、今年はだいぶ可能性が高いようです。スポーツに限らず、自分が応援している誰かが活躍してくれたらそれは本当に嬉しいものです。
イエス様も私たちを応援してくれています。私たちが憧れのスター選手を応援するような感じとはだいぶ違って、むしろやっと歩き始めた小さい子を応援する親のような感じかもしれません。私たちが何かを達成したり成功すれば喜び、落ち込んだり失敗しても温かく見守り、立ち直ったり回復できるよう支えてくれます。応援してくれる方がいるっていうのは幸せなことです。私たちも誰かを応援する者でありたいですね。

“…見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。” マタイ 28:20

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝