2021-04-11 さあ主の宮を

2021年 4月 11日 礼拝 聖書:歴代誌第一 22:6-16

 おそらく、どの教会の牧師たちも、信仰を持ったばかりの人に信仰生活とはどのようなものかについて最初に教えること、そして一番大事なこととして「日曜日の礼拝」を挙げるのではないかと思います。

もちろん、礼拝は日曜日でなくても出来ますし、聖書の中にも日曜日の礼拝でなければならないとは書かれていません。それでも、使徒たちやその後に続くクリスチャンたちは、イエス様がよみがえった日曜の朝を記念して「主の日」と呼びました。ユダヤ人が週に一度の安息日を大切にしたように、この日に集まって礼拝を捧げることを大切な習慣として守り続けて来ました。続きを読む →

共感してもらうこと

みなさん、おはようございます。
昨日の朝、Kさんから母国におられる3番目のお兄さんが新型コロナに感染し、思わしくない状態だということで、祈って欲しいとの連絡がありました。ついこの間、お兄さんを、その前にはお姉さんを亡くされたばかりですから、心中察してあまりあります。もちろん、いちばん苦しい思いをしているのは病気と闘っている本人なのですが、家族にとっても辛い経験です。私自身、祈る以外に出来ることがほとんどなく動揺してしまいました(動揺していたことは後で分かったことです)。
なかなか整理しきれない苦しい胸の内を具体的なことは伏せつつ、気持ちや考えをSNSで吐き出したら、いろんな方が共感してくださいました。コメントを読んでいると、心にフタをしていたのがちょっと外れていろんな感情が溢れて来ます。悲しさとか怒りとか、悔しさとか。そこで初めて、実はかなり動揺していたことが自覚できました。そして共感してもらうことでだいぶ救われました。悲しむ者とともに悲しむとは、必ずしも一緒に泣くことではなく、苦しくても相手の感情を受け止めていく静かで忍耐と寛容さを要する深い関わりだなあと思わされました。

“喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。” ローマ12:15

佐々木真輝

まだ季節の変わり目

みなさん、おはようございます。
今朝は予報どおり雪になりましたね。慌てるほどの降り方ではなかったにしろ、朝早く出勤される方は車の運転の時に緊張したかもしれませんね。どんなに観測史上もっとも早く桜が咲くような春でも、経験上、4月はまだ雪がふる日があるというのは嘘じゃありませんね。ほんとうに季節の変化が済んで雪の心配をしなくても良くなるのはもうすぐです。
私たちに与えられた救いというのは季節に喩えるなら「早春」です。青葉が芽ばえ、花が咲いて確かに季節は春に変わったのだけれど、日によっては雪もふっちゃうようなもので、救いの恵みのしるしはそこかしこに見られるのに、古いものが時々顔を出すのです。本物の季節の変化とはちがって、この変化の過程が私たちの人生全部を使うほどに長い、というのがくせ者です。油断してはいけませんが、確かなことはやがて完成に至るということです。

“あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。” ピリピ 1:6

今日は夜に神学校のオンラインクラスがあります。

佐々木真輝

品切れ問題

みなさん、おはようございます。
今週の金曜日から始まる神学校のオンラインクラスで教材に指定した書籍が、なんと「品切れで手に入りません」という悲痛なメールがいくつか届きました。キリスト教関連の書籍はもともと発行部数が少なめなのですが、本離れの影響は深刻で、特に学びに役立つような(つまりすごく売れるわけではない)本はなかなか重版されません。クラスは教材が間に合わなくても進められるように工夫はしますが、学ぶ方のことを考えると残念です。
そういえば、これまでも「ほしいなあ」と思いつつも値段の高さ(これも教会関係の書籍あるあるです)に迷っているうちに品切れになったというものが何冊もあります。本当に必要なものは手に入れられるうちに手に入れる。あるいは、良いことは機会あるうちに実行する。これは大事ですね。今は恵みの時とはいえ、機会はいつまでもあるものではないのですから。

“…機会を十分に活かし、知恵をもって行動しなさい。” コロサイ 4:5

今日は*****さんの誕生日です。祝福を祈ります。婦人会と祈祷会はいつもどおりです。

佐々木真輝

神ともにいまして

みなさん、おはようございます。
つい一時間程前に、南のほうに旅立つ**先生をお見送りして来ました(駅に入ること自体、一年以上ぶりでなんだか新鮮でした)。天気もよく、市内でもだいぶ早めに桜が咲く駅近くの公園では何輪かの桜の花が咲いていました。「いい日、旅立ち」です(古いですね)。昔は駅のホームで大勢集まって「神共にいまして」と歌って見送った、なんて場面があったことを思い出しもしました。そういうこともはばかられる時代になり、寂しいなあと思いつつ、ホームに飾られた展勝地の写真の前で記念写真を撮るのがせめてもの記念。
この春新しい歩みが始まった方々、子どもたちを覚えて、その歩みが祝福されるようにと祈ります。不安も緊張もあるかと思いますが、やがて慣れたり、親しい人が出来たりして解消していくことでしょう。神様は、備えてくださったその道のりを、共に歩んでもくださいます。大変な時もあるかもしれません。辛いときは逃げたり休んだりしても良いと思いますが、それ以上に神様は良いことを備え、思っているより素晴らしい事が待っていると信じて祈ります。

“あなたは私が歩くのも伏すのも見守り
私の道のすべてを知り抜いておられます。” 詩篇 139:3

佐々木真輝

2021-04-04 扉を開く時

2021年 4月 4日 イースター礼拝 聖書:ヨハネ20:19-21

「イースターの朝にはしらゆりを飾りましょう」と歌いましたが、イエス・キリストが死を打ち破ってよみがえられたことを象徴する、イースターらしい飾り、花があります。有名なところではしら百合以外に玉子に色を塗ったり模様を描いたりするイースターエッグがありますし、なぜかウサギも登場します。

といっても、それはかつて異教世界だったヨーロッパに福音が伝えられ、もともとあった様々な文化的なしるしを用いて、キリストの復活を表すものとして使い続けたものです。イースターのたまごも、うさぎも、しら百合も、聖書の中では復活と関わる意味で用いられることはありません。そういうのはイエス様の復活を想い起こし、喜ぶための楽しいしかけ、風習として受け取ればいいのです。ですから、帰りに卵形のクッキーと、今年は特別に「かもめの玉子」もお持ちいただきますが、ただ楽しんでくださればと思います。続きを読む →

復活祭

みなさん、おはようございます。
我が家の庭にも春の花が次々と花を咲かせ、雪解けの後は何もなかった地面が実にカラフルになりました。雑草も生き生きと拡がりつつあります(笑)。もちろん死んでいたわけではなく、冬の寒さの中、あるいは土の中で時を待ちいのちの力を蓄えていたわけです。それでも、長い冬があけ色味の少ない景色が一気に華やぐ春は、イエス様の死の中からの復活を思わせる季節の巡りです。
今日はそんなイエス様の復活をお祝いするイースターです。イースターエッグ探しのようなイベントはありませんが、イースター礼拝を通して喜びを分かち合いましょう。いつものようにイースターのクッキーも用意しています。

“キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。” コリント第二 13:4

佐々木真輝

人にも自分にもご無理なく

みなさん、おはようございます。
コロナ禍となってから大人数での会食を控えるようにと言われ、飲食店には営業時間の短縮などが要請されるようになってだいぶ経ちます。教会でも食事の交わりやカフェなどが1年以上出来ていませんね。そんななか、最近目に付くのが国や地方の旗振り役であるはずの方々がこっそり宴会やってましたって話し(「会食」とやわらかく表現されてはいますけど)。人とふれあう、食事を一緒にする、仲間と大声で笑い合う、肩を寄せ合って泣く。人間が何千年も当たり前にして来たことを「ダメ」と言われているのですから、相当無理なことではあるんですよね。
こっちが頑張ってるという気持ち(実際の行動も)が強いほど、ちゃんとしてなさそうな人に腹が立つかもしれませんが、こういうことは厳しさだけでなく、愛と寛容さも合わせてやっていかないと身も心も持ちません。人に厳しく求めすぎると、それは自分も負いきれない重荷として自分に返ってきます。人にも自分にもご無理なく。

“そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。” コロサイ 3:14

佐々木真輝

眼のかゆみとともに

みなさん、おはようございます。
黄砂のためにうっすらとそらが黄色がかって、折からの花粉とのダブルパンチで昨日は一日中眼がかゆくてしかたがありませんでした。今年になって花粉症になったという友人もおり「いらっしゃいませ〜」と仲間が増えたことを喜んでます。悪いですね。この辛さを共有できる人が身の回り増えるくらいしか楽しいことがないのが花粉症の辛さです笑。
私たちがこの世界に生きている限り、この世界の様々な動きに影響されます。大陸の砂漠が生み出す黄砂は周辺の土地を豊かにするような効果もあるのだそうですが、遠く離れた日本ではちょっとした公害にならざるを得ません。人間が良かれと思って山ほど植えた杉の木がこんなにたくさんの花粉をまき散らしてアレルギーを引き起こすなんて、たぶん誰も想像しなかったことでしょう。この世界は人間が思うように扱えるほど小さくはないし、人間に良いものを与えるだけでなく厳しさもあるのです。このあたりも、やがてイエス様の救いの完成とともに回復されるはずです。罪によって傷ついた人間が赦され救われるだけでなく、罪のために傷ついたこの世界もいやされるのです。

“被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。” ローマ 8:21

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

ていねいに生きる

みなさん、おはようございます。
昨日の夜、サッカー日本代表のワールドカップ予選をテレビで観戦しました。相手はモンゴル。実力差があるのは分かっていましたが、それでも14対0という一方的な試合でした。そんな大差でつまらない試合だったかというとそうでもありませんでした。かといってコテンパンにやっつけてやろうとか、力でねじ伏せようというような嫌な感じもありません(主観的かもしれませんが)。日本代表も最後の最後まで一切手を抜かず、余裕をこくこともありませんでした。だから相手チームも負けたとはいえ、最後まで全力で挑戦し続けていました。
実力差があっても甘く見ない。余裕で出来ることでも手を抜かない。こういう姿勢は相手や仕事に対する敬意、誠実さとして大切なことだなあと思わされました。やり慣れたこととか、それなりにベテランの域に入っているなら、なおさら忘れてはいけない事ですね。今日も丁寧に生きて生きたいと思います。

“主は正直な人のために、すぐれた知性を蓄え、
誠実に歩む人たちの盾となり、
公正の道筋を保ち、
主にある敬虔な人たちの道を守られる。” 箴言 2:7-8

佐々木真輝