侵入

みなさん、おはようございます。
しばらく朝メールを出せずにいました。先週末、教会やネットワークのホームページを置いているサーバーに不正なアクセスがあり、一部まったく更新も修正もできない状態になりました。サーバー会社に問い合わせたところ、対処方法としては全部一旦削除して、作り直すというもの。どこかの誰かが何らかの良からぬ企みでばらまいたものに、たまたま引っかかってしまっただけなのかもしれませんが、こちらとしては大迷惑です。およそ10年分の朝メールのバックアップも飛んでしまいました(泣)
どういう形であっても他者の領域に勝手に入り込むことは悪です。侵入する方はそれほど悪いと思っていなかったり、ほんの少しだけのつもりだったりするかもしれません。しかし、相手が受ける傷や被害は、その本人でないと分からないものです。私たちの心に語りかけるイエス様でさえ、心のドアの外で叩いて、私たちのほうからドアを開けるのを待っていてくださるのです。私たちはなおさら、理由はどうあれ他者の領域、心に勝手に踏み込むことは良くありませんね。ただ素晴らしい喜びと親密さは、こちらからイエス様を心に迎え入れる時に与えられるということも忘れてはいけません。

“見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。”
今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

2020-11-29 按手式奨励

2021年 11月 29日 礼拝 聖書:コリント第二 4:1-10

 あらためまして、デイビッド先生、そして宮古と盛岡の兄弟姉妹の皆様、おめでとうございます。岩手教会連合を代表して、心からお祝いを申し上げたいと思います。

今回、牧会従事者というあまり聞いたことのないタイトルの働きに立てられるということで、その意義についてしばらく前から考えていました。

宣教師という身分で、盛岡聖書バプテスト教会が主体となってなされている開拓伝道の働きのために派遣された現地責任者である方に、牧会の役割も担っていただく。しかし、牧師ではないという、不思議な立ち位置です。

けれども、これはあくまでこの地上での教会制度上の話しであって、神様がある人たちを教会の指導者として選ぶ場合に求めることは基本的に同じです。牧会の責任を担うというのは、単にバプテスマを授けたり、主の晩餐を授けることができる資格の話しではありません。

牧会従事者という肩書きであっても、福音を宣べ伝え、聖徒たちを整えるにあたって、牧師と同じ心で仕えていく必要があります。

牧会の働きを担って行くということは、3つの真理を発見をし続けることであると思います。

第一に、牧会の務めをする者は、人間の罪の闇の深さを知り続けることになります。

教会にいらっしゃる方々の多くは決してひどい悪人ではないかもしれません。それにも関わらず、その悩みや思い煩いの背後にある罪、家族の中に長く隠されていた深い闇に気づかされることがあります。また、深い悲しみや攻撃的な態度の中に、かつて誰かから受けた悪意やそのために残った傷の深さに気づかされることがあります。脅かすわけではないですが、意地悪な批判や悪意しか感じられないような言葉や態度を、兄弟姉妹であるはずのクリスチャンから受けることもあります。けれども牧会者はまるで素手で刀を受け止めるようにして向き合い、忍耐強く関わることが求められたりするのです。

しかし第二に、牧会の務めをする者は、救いの恵みの素晴らしさを発見し続けることになります。

人がイエス様を信じてクリスチャンになる時はもちろんですが、クリスチャンがみことばによって成長したり、人知れず忠実に歩んでいる姿を見ることができます。深い傷や悩みから回復したり、悔い改め、和解し、他の人のために汗や涙を流すようになるのを見る事ができます。牧会をすることで、救いというものが罪赦され天国行きの切符をもらうだけのことではない、生涯続く恵みの連続であることを知ることができます。

第三に、牧会の務めをする者は、その救いの素晴らしい恵みの器である自分が「土の器にすぎない」というみことばの意味をより深く知り続けることになります。

説教の準備をするとき、人と関わる時、自分の欠点や弱さに気付く時、可愛かった子どもたちが手に負えなくなったとき、肉体的な衰えにちょっと気づき始めた時…様々なときに、宝物ののようなキリストを入れる器である自分が高価な金銀の器ではなく、割れやすく、あまりふさわしくない土の器であることを気づかされます。しかも、それが年々より深く自覚するようになります。けれどもそのような経験こそが、神様の恵みの深さ豊かさを味わう素晴らしい機会になります。それはイエス様の恵みの豊かさが表されるためであり、私たちがますます謙遜になるためでもあります。

そうやって牧会の務めにあたる人は、へりくだり仕える、キリストに似た者とはどういう者かを指し示すモデルにもなるのです。牧師じゃなく、牧会従事者だから、と言うわけにはいきません。しかし、名前に関わらず、この素晴らしい恵みを味わう特権が与えられています。

牧会の働きはそのように、重い務めであり、そこに真実に取り組もうとしているのですから、デイビッド先生はよく祈り、みことばに学び、人々の魂によりそいながら、忍耐強くご奉仕していただきたいと思います。そして教会は神様が立てた者として敬い、支えていく責任があります。

宮古めぐみキリスト教会の祝福のために、今日はこの場においでになれない岩手教会連合の諸教会の兄弟姉妹、先生がたと共にお祈りしています。

 

2020-11-29 荒野の旅路

2021年 11月 29日 礼拝 聖書:民数記6:22-27

 若い頃の自分を振り返って、もう少し素直で謙遜だった、もっと多くのことを学べたのではないかと思うことがあります。あまり良い生徒ではなかったかも知れません。

今、新しいことを学んだり、身につけようとしても、集中力は続かないし、覚えてられないしということで、担当している神学校のクラスの準備にもなかなか苦労しています。知的にもそうですが、習慣を変えたり、身につけるのも同じように、あるいはそれ以上に難しいなあと実感します。

学べるときに学び、成長できるときに最大限機会を生かすといいなと思うのですが、当事者には今が学び時、成長のチャンスだとなかなか気づかないでしまうものです。続きを読む →

静かなクリスマス

みなさん、おはようございます。
クリスマスの飾り付けがされて、こんどの日曜から「アドベント(待降節)」の期間が始まります。いつもなら、クリスマスに備え、待ち望むアドベントの最初の日曜日に、クリスマスカフェを開催し、音楽ゲストを招いたりしていましたが、もちろん今年はそうしたイベントがありません。
さびしい反面、良い面もあると信じたいです。
それぞれの仕事や家庭での年末年始の忙しさ・慌ただしさに加え、教会でもクリスマスのイベントを成功させることが目標になりがちです(やるからにはもちろん成功を目指すのは当たり前ですが、目標はそこじゃないですよね)。いつにも増して静かなこの季節をより良く使いたいです。イエス様が人としておいでくださったことを静かに感謝し、その意味を思い巡らしたり、イエス様を心にお迎えすることの意味や恵みを深く味わう、というようなことに時間を使えたら素晴らしいなと思います。

“私は 主のみわざを思い起こします。
昔からの あなたの奇しいみわざを思い起こします。
私は あなたのなさったすべてのことを思い巡らし
あなたのみわざを 静かに考えます。” 詩篇 77:11-12

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

引っ越し

みなさん、おはようございます。
日曜日は午後の大掃除、クリスマスの飾り付けと、限られた時間と人手の中、ありがとうございました。
ところで、日曜日の朝、そして午後と警察官や警備員が街角に立ち、何台も救急車が通るのを見かけました。某病院の入院患者の搬送作業ですね。いよいよ今日から診療を開始するということで、地域医療にとっては期待が大きい出来事です。
これまで何度も引っ越しをしていますが、その都度悩むのが、次の部屋や家に何を持っていくか、そして何を処分するか、ということでした。この機会に不要なものを処分しようと、けっこう頑張るのですが、それでも捨てきれずに結局また箱に詰めたまま眠らせておくものがあったりするんですよね(そんなことはしないというスパッとできる人がちょっと羨ましいです)。新しい生活に紛れ込む古いもの。思い出や記念品とは違う、あきらかに不要なものまで取っておいてしまうように、クリスチャンとしての新しい生活にも似たようなこと、不要なもの、捨てるべきもをなかなか捨てられない、ということがよくあります。それでも新しい生活は始まっています。「すべてが新しくなった」ということばを信じましょう。

“ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。” コリント第二 5:17

佐々木真輝

2020-11-22 きよい神の前で

2021年 11月 22日 礼拝 聖書:レビ記1:1-2

旧約聖書から聖書通読をはじめた人の多くが足踏みし、脱落してしまう箇所の一つがこのレビ記です。あまり人気があるとは言えず、「私、レビ記が一番好きです」という人は滅多にいません。

しかも、キリスト教の実際の生活では、レビ記に記されている様々な決まりごと、礼拝の中での献げものや食べ物の規定、汚れに関する規定や、それらを聖めるための手順などは不要とされています。それでもレビ記が聖書の一部であることに変わりはありません。極端な考えを持つ異端やカルト的な人たちの主張と別にすれば、2000年のキリスト教の歴史で、レビ記を聖書から外すべきだと言われたことはありません。

レビ記を昔々の古い規則集として読むと何の意味があるのか分からなくなりますが、レビ記を通して神が語ろうとしていることを理解すると、私たちに与えられている恵みがどれほど素晴らしいものかが分かって来ます。続きを読む →

タイミング

みなさん、おはようございます。
先日「しし座流星群」が観られるようだという話しを聞き、カメラをかついで夜外に出かけました。11月末まで観られるという話しですが、天気が良い日でないと観られないので、遅い時間でしたがちょっと頑張りました。1時間もしないで雲が出てきたこともあり、思ったほどには流星を観ることは出来なかったのですが、それでもわくわくして時間を過ごしました。
素晴らしいものを観たり体験するにはタイミングがとても重要です。自分のがんばりだけではどうにもならない面があります。というか、自分の努力以外の要素のほうが大きかったりしますね。だから私たちは自分の分を最善を尽くしながら、神様の導きや助けや奇跡を期待し祈らなければならないのです。

“どうか あなたの光とまことを送り
それらが私を導くようにしてください。
あなたの聖なる山 あなたの住まいへと
それらが私を連れて行きますように。” 詩篇 43:3

今日は午後から大掃除とクリスマスの飾り付けを行います。私は午後から大船渡に向かいます。

佐々木真輝

いつもありがとうございます

みなさん、おはようございます。
いつも皆さんに祈られ、励まされ、見守られ、いろいろ見逃していただき(笑)働きを続け、日々を過ごすことができています。今日は誕生日ということになりました。いつもは誕生日を迎えた方々の祝福を祈っていますが、今日は、普段支えていただいている感謝を伝えたいと思います。本当にありがとうございます。フライングでおめでとうメールをくださった方もありがとうございます。
私たちは誰一人、自分だけで生きていける人はいません。自助・共助・公助の順番がどうのこうのという議論もありますが、どれもが重要で、どれもが必要です。自分ですべきこと、助けてもらうべきこと、社会全体で支えるべきことはそれぞれ違いますからね。というわけで、皆さんに支えられながら、与えられた務めを果たしている(そうあろうとし続けられる)ことは本当に幸せなことだと思っています。

“私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。”
ピリピ 1:3-5

佐々木真輝

継承

みなさん、おはようございます。
先日の日曜の午後、墓園の雪囲い作業が行われました。雪がちらついたり、みぞれが降るような年もあるのですが、今年は素晴らしい青空が広がっていっました。私は少し遅れて現場に到着したのですが、すでに皆さんが散らばって作業がどんどん進んでいました。囲うべき植栽に支柱を立て、紐で縛るという作業が繰り替えされていました。毎年やってくださっている方も居ますし、Sさんの細かな指導がなくてもてきぱきと進めている様子に「技術の継承」は大事だなあと思わされていました。
私たちの信仰も、「何を信じるか」という中身はもちろん大事なのですが、「いかに生きるか」という信仰に立って生きる術を次世代に伝えることが大事ですね。もちろん時代が変われば通用しなくなる事もあるのですが、技術の底にある原則は時代や文化が変わっても変わることがありません。そういう継承が出来るようにと願います。

“それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家に座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。” 申命記 11:19

昨日は****さんの誕生日でした。遅ればせながら祝福を祈ります。

佐々木真輝

2020-11-15 あなたがたはわたしの宝

2020年 11月 15日 礼拝 聖書:出エジプト記9:1-6

 イエス様を信じてクリスチャンになり、その信仰の証しとしてバプテスマを受けると、皆におめでとう!と拍手で迎えられます。ところがその後、けっこういろいろなことをクリスチャンとして求められることに驚いたり、引いてしまう方もおられます。教会に来なさい、献金しなさい、何か奉仕をしなさい、友だちや家族に証しをしなさい、聖書を読みなさい、祈りなさい。もちろん、それらは強制されるものではないのですし、それをしなければクリスチャンの資格を失うとか、救いが取り上げられるということではありません。でもなぜ、そのようなことが求められるかというと、神様が私たちを救うのは私たち自身を救うためだけでなく、もっと多くの人に神様の祝福をもたらすためです。続きを読む →