2023年 4月 30日 礼拝 聖書:ヘブル12:1-5
シーズン外れの話題ですが、若い頃スキーをやっていました。一般的なアルペンスキーとは違って、テレマークスキーというちょっと変わったすべり方をします。その技術を学び始めた頃は難しくてなかなか出来ませんでした。
頭の中で何度もシミュレーションしたすべり方はあるのです。しかし、いざゲレンデに立ってすべろうとすると、自分の姿勢や足の動かし方に気を取られて向かおうとする方向から目をそらして足元ばかり見ていたり、勇気をもって体重を前に移動させることが出来なかったからです。そのため何度もバランスを崩して転んでコースを無様にすべり落ちたりしました。心も挫け、親切にアドバイスしてくれる人がいてもかえってイライラするようになりました。
クリスチャンの歩みにも似たようなことがあるのではないでしょうか。心にあるイメージと実際の生活がちぐはぐで、何かを見失い、いらだち、心が挫けそうになるのです。
困難の中にあったユダヤ人クリスチャンに向けられた手紙であるヘブル書には、繰り返し、イエス様から離れないように、目を離さないように、留まり続けなさいと教え、励まし、警告しています。今日はヘブル書の後半、8章から終わりまでを読みながら今日の私たちに何が教えられ、問われているか、ご一緒に見ていきましょう。
1.新しい契約
まず第一にイエス様によってより優れた、完全な救いの約束が与えられました。ヘブル書をはじめ、聖書では新しい契約と呼んでいいます。毎月、主の晩餐を行うとき、ぶどう液を飲むときに思い起こすイエス様の言葉「これはわたしの血による新しい契約です」の、その新しい契約です。
8章にはユダヤ人たちが長い間大切にしてきたモーセによって定められた幕屋や大祭司を中心とする礼拝や献げ物の規定が、天にあるものの写しなのだという話しから始めます。写しというと、今はコピー機やパソコン上でコマンドキー一つで簡単に複製が出来ますが、聖書の時代、写しといえば手書きで書き写すことになります。
いつだったか、ヨーロッパのとある教会に展示されていたキリストの肖像画の修復を依頼したらお猿さんみたいな顔になってしまって大問題になったという事がありました。写しは常に不完全です。
モーセが定めた幕屋や礼拝は、古い契約に基づいたものですが、それ自体が不完全なものだったので新しいもの、写しのもととなったものが必要です。
それがイエス様ご自身による新しい契約なのです。
8:6~7にこうあります。「しかし今、この大祭司は、よりすぐれた契約の仲介者であるだけに、その分、はるかにすぐれた奉仕を得ておられます。その契約は、よりすぐれた約束に基づいて制定されたものです。もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、第二の契約が必要になる余地はなかったはずです。」
重要なポイントは、古い契約による律法は人の心まで新しくすることはできず、そのためイスラエルの民はあの荒野の旅の間いつも反抗的で、約束の地にたどり着いた後も、何度も何度も神様に反抗し、律法をないがしろにし、約束された安息を得ることが出来なかったということです。
ですからイエス様による新しい契約が必要でした。10節「わたしの律法を彼らの思いの中に置き、 彼らの心にこれを書き記す。 わたしは彼らの神となり、 彼らはわたしの民となる。」そして12節「わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、 もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
古い契約は、律法というルールを定め、それを守ることを求めました。契約に違反すれば災いと滅びを招くという厳しいものでした。神の聖さと義を学ばせるという意味もあったのです。しかし、ルールが人の心を新しくすることはできません。愛だけが私たちの心を動かし、造り変えることができます。
人として歩まれたイエス様が私たちの痛みと弱さを知りながらも、それでも愛してくださるイエス様によってもたらされた新しい契約が私たちの心を造り替え、たとえ私たちの中に不完全で足りないところだらけで、間違いだらけだったとしても、それでも私たちを責めず、私たちの罪を思い起こしてねちねち非難するようなこともならさず、赦し、完全に救うことができるのです。
ヘブル書の中で、このキリストから目を離すな、神の言葉をないがしろにするな、それは信仰の旅路から脱落したイスラエルの民と同じだと警告していますが、新しい契約ゆえに私たちが滅びたり捨てられたりすることはありません。それほど確かな約束の中にあることに気付き、心を定めるべきだと語りかけているのです。
2.キリストの犠牲
第二に、この新しい契約のためにイエス様は自ら犠牲となってくださいました。
9章と10章に、新しい契約のためのイエス様ご自身が犠牲となってくださったことが旧約時代の罪のためのささげものとの比較で詳しく説明されています。旧約時代の罪のためのささげもの、聖めるためのささげものについては細かくは触れませんが、9:1~9で、モーセが建てた幕屋と間取り、そこに置かれたものが簡単に描かれています。大祭司は年に一度だけ奥の部屋、普通は至聖所と呼ばれますが、ここでは第二の幕屋と記されている部屋に入ります。そこには細かなきよめの儀式が必要とされていましたが、9節によれば、これは比喩だというのです。
それらはやがて来られるキリストによってただ一度完全なささげものがささげられることで、人々を完全にきよめることができるそんなささげものによる罪の赦しと聖めを指し示すものです。そしてそのキリストは今からおよそ2000年前においでになられ、14節にあるように、罪も傷もない完全なささげものとしてご自分をおささげになってくださいました。
そして15節以降で繰り返されているように、この新しい契約のためにはイエス様がただ死ぬ以上に、血を流すことが必要だったと繰り返されます。
律法に記されたささげものについての規定をリアルに想像しながら読むと、そこには実に血なまぐさい、今なら12歳以下のお子様には見せないでくださいと指定がかかるような、そんな生々しい光景が描かれています。
なぜ血を流さねばならないのかというと、血はいのちを代表するものだからです。文学的な表現の中で「血で染まった」というと誰かがいのちを落としたことになりますし、「大地が血で染まっている」と言えば戦争で大勢のいのちが失われたことを意味します。もちろん医学的には血液だけが人間のいのちを左右するわけではありませんが、温かく赤い血が流されるとき、人はそこに命そのものが流れ出ていくことをイメージします。つまり、罪の赦しやきよめのために血を流すということは、人の罪の代償につりあいがとれるのはいのちだけだ、ということです。
私たちの救いのためにイエス様が十字架の上で血を流されたということは、私たちのためにいのちそのものを差し出してくださったということですし、私たちの罪はそれほどまでに大きいということでもあります。
私たちはイエス様が私たちのために投げ出してくださったことを何度でも思い起こす必要があります。それは、自分はだめな人間だということを思い知らされるためでなく、10:19~23にあるように、イエス様の真実さに心をつなぎ止め、動揺せずに希望を告白し続けるため、24節以下にあるように、互いに愛し合い、隣人に善を行い、共に集まり、励まし合うためです。
ヘブル書の著者は32節で、読者がイエス様を信じた後での苦難と試練に耐えた時のことを思い出しなさいと励ましています。皆さんの中にもクリスチャンになる上での葛藤や試みを耐え忍んだ経験があるかも知れません。それによって得られた喜びを思い出して、これからも忍耐しつつ、信頼して歩もうと呼びかけているのです。
3.安息を目指す旅人たち
第三に、ヘブル書の著者は旧約時代の信仰によって生きた先人たちを何人も例にあげながら、安息を目指す旅人の一人として、信仰をもって歩むよう励ましています。
11章に登場する人たちは。アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、遊女ラハブ。
彼ら彼女らは、アダムの息子アベルから始まって、約束の地に到達するまでの時代に登場する人物です。
ヘブル書の著者は、神に背を向けたため安息を失ったアダムの子孫が約束の地に至るまでの歴史を、信仰によって安息を取り戻すための旅になぞらえているのです。もちろん信仰によって歩んだ人たちは彼らだけでなく、11:32に名前が挙げられているように、ギデオン、バラク、サムソン、エフタは士師記に登城し、ダビデ、サムエルは王国時代、そして預言者たちは王国時代から捕囚時代にかけて活躍した人たちですから、どの時代にも信仰によって生きた人々がいるのです。
いままでヘブル書でさんざん警告されてきたことはイスラエルの民は不信仰によって、あるいは不従順によって神に背をむけ、神のことばに耳をかさず、安息に入ることが出来なかったということでした。しかし、ここで登場する人たちは、信仰によって生きた人たちでしたが、彼らも約束のものを手にすることはなく、地上で得られるものよりもっと優れたものを追い求めていたというのです。
38~40節を見てみましょう。
「この世は彼らにふさわしくありませんでした。彼らは荒野、山、洞穴、地の穴をさまよいました。これらの人たちはみな、その信仰によって称賛されましたが、約束されたものを手に入れることはありませんでした。神は私たちのために、もっとすぐれたものを用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです。」
忘れてはならないことは、こうして名前が挙げられている信仰の人たちも決して罪や失敗のない人たちではなかったということです。どの人にも今ならネットで炎上したりマスコミに叩かれるような失敗をしています。それでも、地上では旅人であることを思いながら、神が与えてくださる二度と失われることのない救いと安息、天の故郷を目指しました。そして彼らが求めていたものが今、イエス様を通してすでに私たちに与えられているのです。
私たちは彼らと同じ旅人です。だから12:1~2にあるように、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」と繰り返し勧めているのです。
私たちが経験する試練はもはや罰や呪いではなく、訓練です。私たちが失敗したり、道を見失ったせいで罰が当たったのではなく、神様が私たちをますます聖い者とし、平安の実を結べる者として成長させるために訓練なさるのです。そこには圧倒的な神様の私たちへの愛があります。
これほど大きな恵みを決して無駄にすることがないようにと著者は再び旧約のさまざまなエピソードを交えながら警告します。
クリスチャンであるとは、私たちを愛し、自らいのちの犠牲を払って救いをもたらしてくださったイエス様に信頼しながら旅する者なのです。
適用:善を行い、分かち合う
最後に手紙のまとめ、13章を見て終わりにしましょう。ヘブル書の著者はパウロや他の使徒たちと同じように、旅の仲間、すなわち教会家族の兄弟姉妹や周りにいる隣人たちを愛するよう教えます。
13章には兄弟愛、旅人へのもてなし、牢につながれた人たちへの思いやり、虐げられている人たちへの思いやり、結婚の尊重、慎ましい生活などが挙げられています。迫害に直面していたり、同胞が各地に散らされていたりするような状況を思わせる内容もありますが、これらの勧めは基本的にパウロが諸教会に書き送った手紙の中で教えてきたものと変わりません。イエス様の弟子として生きるうえでの基本的な生き方であって、主にある兄弟姉妹が互いに愛し合い、隣人を愛することを具体的に実行することを求めています。
つまり、試練や苦難の多いわたしたちの人生において、信仰によって生きること、イエス様の愛と真実に信頼し、希望を持って生きることは、一人で忍耐し、心を強く持って生きていくというようなものではなく、イエス様への信頼と希望ゆえに、他の人に心を寄せ、旅の仲間である兄弟姉妹と助け合い、隣人を愛する者として生きることなのです。
そして最後に20~21節で私たちすべての大牧者であるイエス様への祈りで手紙は締めくくられます。これをみると、この祈りがヘブル書全体で語ってきたことのまとめであることが分かります。
22節に「私は手短に書いたので」我慢して読んでくださいと書いていますが、なかなかのボリュームでした。そして旧約律法に馴染みの薄い私たちには少し理解が難しいところもありました。ですが、この20~21節にの大牧者の祈りはほんとうにヘブル書を要約した祈りだと思います。
私たちは、様々なことで心を揺さぶられ、迷い、信仰心が強くなったり弱くなったりします。それは誰でも経験することですから、そういうことがあるからといって私の信仰はだめな信仰だ、自分はクリスチャンとしては二流、三流なんだとか、まだまだだと思う必要はありません。おそらく、そうした迷いや弱さはこの地上の旅の間、いつになっても顔を出してくるものです。大事なことは、そういう場面で諦めてしまったり、投げ出したりせず、こういう私のために十字架につけられ大牧者となってくださったイエス様を思い出し、「わたしがともにいるから大丈夫だ」と言ってくださるイエス様に望みを置くことです。
ヘブル書の宛先になったクリスチャンたちは迫害の中にあって信仰が試されました。23にあるようにパウロの同労者であったテモテもパウロとは別に囚われの身となっていたことが分かりますし、24節にあるイタリアから来た人たちというのは、迫害を逃れてきたクリスチャンたちかもしれません。
そういった種類の迫害を今この日本で受けることは滅多にないでしょう。しかし別のことで私たちの信仰はやはり揺さぶられます。
情報化社会が進み、嘘か本当か分からない情報に踊らされるようになった結果、何が真実か見極めが難しくなり、信仰や宗教なんて世の中ではあまり歓迎されないムードになっていたりします。楽しいことや心を充実させるように見えるものは山ほどあるので、教会に集まるより楽しいかも知れません。社会の変化の中で仕事が生活の中心になり、礼拝を捧げたり共に集まり交わりの機会を持つことが少なくなる人もいます。
今日、私たちは聖書の時代とは違ったクリスチャン生活の難しさの中に置かれています。自分はなんともなくても、隣りにいる兄弟姉妹や、今日ここに集まれていない兄弟姉妹の中にはずっとその難しさの中で信仰も心も弱ってしまっている人がいることを思いやるべきです。
大祭司となってくださったイエス様から自分自身が目を離さないようにと共に、同じ教会家族一人一人のことを心にかけ、思いやって、その一人一人もまた主から目を離さずに歩めるよう、互いに励まし合い、声を掛け合い、思いやり合って歩んでいきましょう。
祈り
「天の父なる神様。
イエス様が私たちのためにいのちを差し出し、血を流され、その犠牲によって確かな救い、揺らぐことのな新しい契約を結んでくださったことを感謝します。
私たちはあなたの愛と真実に信頼して地上を歩む旅人です。あなたから目を離さず、賛美を捧げ、互いに愛し合い、隣人を愛する者、善を行い、分かち合うことを私たちの日々の暮らしの中で具体的に行うことができる者にしてください。心や信仰がよわりそうな時こそ、あなたから目を離さずにあなたの救いの確かさと恵みの大きさを思い出すことができますように。
私たちの大牧者、イエス・キリストの御名によって祈ります。