2023-07-30 自分のこととして話す

2023年 7月 30日 礼拝 聖書:使徒26:1-18

 2020年10月から聖書全体を一巻ずつ概観し、各書の中心的なメッセージを聞いていくというシリーズを始めました。月一度は年間主題に基づいたメッセージをはさみ、またイースターやクリスマスシーズンなど、季節毎のメッセージもありましたので、2年半以上かけようやく最後の黙示録に辿り着こうというところまで来ました。

やり始めた時はどうなっていくのかと不安と楽しみがありましたが、私自身は聖書全体を一気に読んでいくことで新しい発見があり、すべてのことが一本の筋にしっかりとつながっているという実感を得ることができました。一つ一つの箇所を丁寧に読み込むことで得られる恵みや感動とは別の、大きな視点での神様の恵みの偉大さに気付かされたように思います。

最後の黙示録は内容的に複雑で難しい面もあるので、二回か三回にわけたいと思いますので、来月2週目に再開する予定です。今日は、今まで学んで来たことをいちどおさらいするような内容にしようと考えました。

ただし、これらの学びは、単に聖書に関する知識を蓄えることが目的ではなく、聖書全体を通して描かれている神様の大きな物語と自分の人生がどう結びついているかに気付くことが目的です。今日はパウロがこの点でどう理解していたかを見ていきましょう。

1.自分のことを

第一に、福音について弁明する機会、証しする機会があるときには「自分のこと」として語らなければなりません。

自分とは関係ない知識として伝えるのではなく、自分のこと、自分が信じ、それによって生きているものとして、福音や信仰を証ししなければなりません。

今日開いている箇所は、パウロが云われ無き罪で捉えられ、長い間牢に捕らわれていた時のものです。年代としては西暦59年頃と考えられています。

ここで登場するアグリッパは、当時、ローマ帝国によって承認されたユダヤの王で、ヘロデ・アグリッパ二世です。今日の出来事のおよそ十年後、ローマ軍がエルサレムを攻撃した際にはローマと同盟を結び、自らエルサレム神殿を破壊しました。ユダヤの王として、かたちの上ではユダヤ教徒であり、ユダヤ人の習慣を尊重していましたが、基本的には根っからのローマ人といえる人物です。

パウロはエルサレムで大祭司を中心とするユダヤ人グループに無実の罪で訴えられました。パウロが無実なのは明らかでしたが、あくまで訴え続けるためパウロは「それなら私はローマ皇帝に上訴する」と応じたのです。パウロが牢に入れられていたのは、皇帝への上訴が認められるまで、パウロの身柄が脅かされていたためでもありました。

時が経って新しい総督フェストゥスが着任したときに、ユダヤ人たちがまたパウロのことを訴えましたが、彼はそんな宗教がらみの話をされても分からないし、犯罪にあたるようなことは何もないので、皇帝に身柄を預けるにしてもどうしていいか分からずにいました。そんなときに、着任祝いに駆けつけたのがユダヤの王アグリッパでした。

総督フェストゥスは「こういうのはアグリッパに話しを聞いてもらったほうが良い。何か皇帝に書き送る材料が見つかるかもしれない」と考えたのです。それでパウロに対するアグリッパの尋問が行われることになりました。

前置きが長くなりましたが、アグリッパはパウロに話すよう促します。「自分のことを話してよろしい。」

パウロが総督や王の前で証言するときも、大祭司たちに反論するときも、その内容の中心は「イエスとは誰か」ということなのですが、アグリッパは「あなたのことを話しなさい」と言いました。アグリッパやフェストゥスにとって知りたいのは、彼の信仰の内容というより、それが彼にどういう行動をとらせたのか、そこに違法行為があったかどうかでした。

私たちが誰かに証しをするときに、そういう尋問のような場面はまずないと思いますが、それでもキリスト教について説明を求められるときも同じように「あなたのことを話してください」と聞かれているのではないでしょうか。宗教の難しい話しは分からないけれど、それがあなたにどういう良い影響を与えたかを知りたいのではないでしょうか。あるいは、あなたのうちにある何かキラリと光るものをもたらしたものは何なのかを知りたいのではないでしょうか。それなのに私たちは一生懸命、聖書のことばや教えられたことを記憶の底からたぐり寄せてしどろもどろにでもちゃんと説明しようと焦るのです。人々はあなたのこととして聞きたいのです。

2.神の『物語』

第二に、証しをするときには神様がどのような救いのご計画を持っておられるかを知っておくことが大事です。というのも、私たちはこれが福音ですよという確固とした内容を聞いて信じたのですし、それを伝えることが証しだからです。この神のご計画は、旧約聖書全体を通して表される神様の大きな『物語』と言い換えることができます。

2節からパウロの弁明が始まります。最も特徴的なことは、パウロの信仰と生き方は、ユダヤ人が良く知っていることに根ざしているということでした。

生き方というのは5節にあるように、パウロがパリサイ派という律法に関しては最も厳格な宗派に属していたことで、彼がどれほど熱心に律法を守ろうとしてきたかは有名なことでした。そのような生き方をもたらしたのは、パウロだけでなくユダヤ人が共通して待ち望んで来た神の約束に根ざすものです。

神の約束とは6節にあるように「父祖たち」つまり、アブラハム、イサク、ヤコブを初めとするユダヤ人の先祖たちに与えられた神の約束です。それは創世記12章に記されたアブラハムへの約束から始まり、その後のイスラエルの歴史を通じて常に『物語』中心となっていた約束です。旧約聖書全体が、この約束を中心とした大きな神様ご自身の『物語』なのです。

これまで旧約聖書を少しずつ読みながら見て来たとおり、アブラハムの子孫を通して全世界を祝福する、というシンプルな約束は歴史を辿るにつれて預言者たちを通して少しずつ具体的にされていきます。やがてダビデの子孫から新しい王が誕生し、イスラエルだけでなくすべての民に祝福をもたらすという驚くべき神様のご計画が明らかにされてきました。そして神様は預言者を通して、この新しい王となる方が犠牲の小羊のように苦しんで死なれすべての罪を背負う贖いを成し遂げることで栄光を受け王になり、イスラエル民族に限らず信仰によって神の民とされた人々による新しい御国を打ち立てるということまで明らかにされます。

大祭司たちユダヤ人側がパウロを訴えているのはこの神の約束をめぐる大きな『物語』についてなのです。パウロは十字架で殺されよみがえったイエスこそが、神の約束された王であり救い主であると主張していましたが、大祭司たちはそれを否定していました。

もちろん、私たちが日本という社会の中で証しをするときに、アブラハムへの神の約束がどうかというようなことを気にして説明を求める人は滅多にいません。しかし私たちの証しもイエスとは誰なのか、というところに一番のポイントがあるはずです。

キリスト教の良さや教会の交わりの素晴らしさをうまく説明できたとしても、ではなぜそのように生きるのかと言えば、やはりイエス様を信じているからだし、イエス様が私たちにそういう新しい生き方を与えたからです。そしてなぜそんな生き方を選ぶべきかと言えば、私たちがイエス様を救い主として、王として信じているからなのですが、イエス様が王であり救い主であることは、旧約聖書の神様の大きな物語に基づいているのです。ですから、旧約聖書を学者のように隅々まで知っている必要はありませんが、大筋を知っておけば、効果的に証しできるだけでなく、私たち自身の確信にも役立ちます。

3.パウロの物語

第三に、パウロは、イエスが誰であるかを明らかにする神様の大きな『物語』を自分の人生の物語と結びつけて説明しています。

パウロは神様がアブラハムに約束された祝福が、ダビデの子孫から生まれる王によって神の国が実現される、というところまでは理解し、信じていましたが、その王がイエスであるというクリスチャンの主張には大反対でした。9節にあるように「ナザレ人イエスの名に対して、徹底して反対すべきである」と考えていたのです。

ナザレ人イエスは律法やユダヤ人の伝統をないがしろにしているように思えたし、神殿や大祭司に対しても批判的でした。熱心な律法主義者であるパリサイ派のパウロにとっては赦しがたいことでした。それで激しい怒りをもって教会を迫害していたと告白しています。自らの手でクリスチャンを捕らえることもあれば、処刑に賛成票を投じることもありました。会堂に集まるクリスチャンを罰し、イエス様を汚すようなことを無理やり言わせる、精神的な拷問とも言えるようなことをしました。

そんなパウロにとっての転機が訪れたのはダマスコに向かう旅の途中のことでした。そ真昼なのに太陽より明るい光に包まれ、同行者一同その場で倒れ込んでしまいます。

圧倒的な光の中で語りかける言葉は旧約時代の預言者たちが見聞きし、聖書に記してきた神ご自身の現れ方と同じでした。その声が「なぜわたしを迫害するのか」と問いかけるのです。パウロはもちろん神の敵を迫害しているつもりでした。しかし、神のような方の声が「なぜわたしを迫害するのか」」と問うのです。パウロはわけが分からなくなりました。「主よ、あなたはどなたですか」と問いかけるパウロに、その声の主は「わたしは、あながた迫害しているイエスである」と応えました。

さらに声の主はパウロに対して、イエス様にお会いしたことや、イエス様が示したことを異邦人にまで伝えるという新しい使命を与えます。大切なのは18節の終わりです。「わたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである」。ここに、すべての民族に祝福をもたらすという神様の約束がどうやって実現するか、これまで秘められて来たご計画がパウロに明らかにされました。アブラハムに約束された祝福の相続者に異邦人も加えられること、それが律法を守る事によってではなく信仰によるということが示されています。

このイエス様との出会いによって、神様が約束しておられた祝福、王であり救い主である方が誰なのか、神様はどうやって人々を御国の民とし、すべての民族に祝福を与えようとしておられるか、すべてが明らかになりました。そしてパウロは自分がこれから先何をすべきかはっきり理解したのです。それは聖書に記されていた神様の大きな物語の中にパウロ自身の人生が結び合わされ、位置づけられることで、あらゆることの意味が新たにされたり、明確にされるような経験でした。

私たちはだれもがパウロほど劇的で衝撃的な体験をするわけではありませんし、新たな啓示が与えらることはありません。それでも、永遠の昔から神様がご計画なさっていた祝福の約束の中に、私も結び合わされているのだということを発見した物語が一人ひとりのうちにあるはずです。

適用:私の物語

私たちは、それぞれの仕方でイエス様を知ります。イエス様による救いをもたらした神様のご計画、神様の大きな『物語』との出会い方も様々です。

ある人は、長い求道生活の中でじっくり神様の大きな『物語』に触れ、イエス様を救い主として受け入れる頃には聖書の代表的なエピソードは知っているでしょう。

ある人は、短い求道生活の中で基本的な福音の内容を学んでバプテスマを受けます。その後の学びの機会があるかどうかで聖書のあらすじを掴めるかどうかが左右される面があります。

またある人は、クリスチャンの両親のもとに生まれたり、小さいころから教会に通って、やはり長い時間聖書に触れることで、自然に聖書の代表的なエピソードを知るようになります。ただし、全体のつながりや順番についてははっきり分からないという人が案外多いのではないかという印象があります。

聖書全体を通して表された神様の『物語』の全体像を知ることは、聖書それぞれの箇所の意味を理解する上でも助けになりますが、何より、私たちが自分の信じている福音が確かなものであることを確信する土台になり、説得力のある証しの土台になります。

アブラハムやイスラエルの歴史を証しの中で話す機会は滅多にないと思いますし、そんな外国の話しをされても分からないという反応が返って来るのが落ちでしょう。

しかし、私たちが悩んで来た問題の根本には、この世界を造り私たちにいのちを与えた方を知らずに反抗して来た罪の問題があることに気付くのはこの神様の大きな『物語』を通してです。私たちを罪と死の支配から救い出すためにアブラハムを選び、ご計画を進めてくださったこと、歴史を通して神様の『物語』は進み、神である方が人としてお生まれになり、私たちを救うために死んでよみがえってくださったこと、それがイエス・キリストであることを理解するのもまた神様の大きな『物語』を通してです。さらに、その救いの恵みと祝福を全世界に届け、信じた人々が神の民として永遠の祝福の中に結びつけられるために教会を生み出してくださったこと、やがて再びイエス様はおいでになり、この世界と私たち個人を完全に救い新しい御国として再建してくださるという希望を知るのもまた神様の大きな『物語』を通してです。

しかし、何度も言うように、そしてパウロがそうしたように、私たちはこの神様の大きな『物語』を、単なるお話や知識としてではなく、私たちの人生に意味を与え、人生や物事の見方、そして生き方を変えた『物語』として理解する必要があります。

かつて、私にとってこうした聖書の『物語』は子どもの頃から耳にし、「よく知っている」お話でした。それぞれのお話の中には教訓的なものもありますから、そういう意味では役立つものでもあったわけですし、幼いころから聞いていたことは幸いでした。

けれども、神様が本当に私という人間を知っていてくださり、それでも愛し、イエス様が十字架で苦しまれた時に、私の分も担ってくださったのだと分かることは神様の愛や自分自身の存在価値についてずいぶん考えを変えてくれましたし、その実現のためにイスラエルの民が辿った道のりや彼らの失敗を通して示された警告や教訓を覚える時、より自分ごととして味わえるようにもなりました。互いに愛し合うべきだということやイエス様が帰って来られる時を待ち望んで生きるのだという人生観は物事を決断する上でとても大事な指標になっています。何より、決して約束を忘れたり、どれほど背を向けられてもあきらめない神様の忠実さは、迷いやすい自分にとっては大きな慰めでした。

皆さんが、聖書全体を通して現される神様の『物語』を大まかでもいいから受け止め、そこに示される神様の愛、真実、イエス様の犠牲、未来に計画されていることを自分のこととして理解し、信じ、福音を自分のこととして証しすることができたらどんなに素晴らしいことでしょうか。

祈り

「天の父なる神様。

聖書全体を読み通してみるという試みを始めて、旧約聖書から新約聖書全体に神様の約束という一本の芯があり、すべてがつながっているということを幾らかでも感じ取ることができました。

私たちは今、その感覚が神様のご計画や大きな『物語』に触れた感触であることに気付かされています。

そうした神様の『物語』の中で私たちの人生や存在を見つめるとき、どれほど愛され、守られ、期待されているか気付かされます。どうか、この福音を、知識の羅列ではなく、自分のこととして証しすることのできる者にしてください。

イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。」

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