森林限界

みなさん、おはようございます。
オリンピックも熱いですが、将棋も熱い。先日、藤井聡太棋士が史上初の19歳での5冠を達成したということで、ほんとに驚きます。羽生(はにゅうじゃないよ、はぶだよ)さんの活躍の時もワクワクしましたが、藤井くんは異次元な感じがします。でも、彼自身は自分の今の実力について「森林限界の手前」と感じているそうです。高い山に行くと、ある高度に達すると木が高く伸びなくなって視界がぱっと開ける森林限界があります。その手前ということは、まだそこまで視界が開けていない、頂上もまだ見えていないということです。
とはいえ、森林限界でも時々森の切れ目から上の方が見えたり、ちょっとだけ視界が開ける場所があったりするものです。信仰の歩みは山上りに似ているところがあります。キリストに似た者にされるという山頂を目指しますが、なかなかてっぺんは見えませんし、視界良好にはなかなかなりません。それでも時々、上のほうが見えたり、美しい景色が拡がっているポイントに来られたりして励まされながら歩んでいくものです。

“それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。” マタイ 17:1

佐々木真輝

2022-02-13 高ぶるものを引きずり下ろす方

2022年 2月 13日 礼拝 聖書:オバデヤ1:12-18

 「偉そうにしているけれど本当は謙虚な人」という人物に会うことは滅多にありませんが、「謙虚そうにしているけれど本当は傲慢だ」という人には時々遭遇します。

高慢さや傲慢さというのはなかなか自覚できないもので、当人にとっては「これは当然」「自分は正しい」とさえ思うものです。しかし周りにいる人たちにとっては、嫌な思いをしますし、傷付いたり、萎縮してしまったりもします。

久しぶりに聖書全体を通して読んでいくシリーズに戻りますが、今日は旧約聖書の中でも最も短いオバデヤ書です。続きを読む →

聞いてもらうこと

みなさん、おはようございます。
昨日の夜、がん患者と家族を支援するチャリティイベントの実行委員会が地元FM局から放送しているラジオ番組の収録がありました。今回は私がお二人おゲストのお話を聞くという体裁。一人はがん経験者で、もう一人は元患者家族。それぞれの立場からがんとどう向き合ったかをお聴きしました。聞きにくいこと、話しにくいことであっても、安心して話せる場があることはとても大事だなあと思いました。放送日は未定ですが、ぜひ皆さんにも聴いてもらいたい内容でした。
私たちにとって、祈りを通して神様に聞いていただけるというのは、実はとてつもなく大きな恵みであり、幸いです。個人的に一人で祈ることも大切な時間ですが、誰かと一緒に祈ることは別な面で重要です。一緒に祈るとき、私たちは神様に聞いてもらっていると同時に、信頼できる兄弟姉妹にも聞いてもらっているのです。そうして私たちは互いを思いやり、交わりの中に神様の愛とあわれみとが満ちるのです。

“私が呼ぶとき 答えてください。
私の義なる神。
追いつめられたとき
あなたは私を解き放ってくださいました。
私をあわれみ 私の祈りを聞いてください。” 詩篇 4:1

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木

釘を拾う

みなさん、おはようございます。
日曜の夜、教会から家に帰る途中で釘を拾ってしまいました。落ちている釘を見つけて拾っただけならいいのですが、知らぬ間に車のタイヤが釘を拾ってしまったようです。昨日の朝、変な音がすることに気づき、教会の駐車場で見てみると、なんとパンクです。泣く泣く一本だけタイヤを買い替えることになったのですが、交換する際に見事にタイヤの溝に刺さった釘を見つけていただきました。運転中にタイヤが裂けたりしなかったのは不幸中の幸いです。
様々な問題は、意識して自発的に拾うときは自分の能力や容量を判断して安全に扱うことができる可能性がありますが、意図せずタイヤが釘を拾うように問題を拾ってしまった場合は、結構な事故になり得ます。ただ、タイヤが拾う釘とは違って、注意深くしていれば避けられることは多いものです。

“ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。” エペソ 5:15-16

佐々木真輝

無理は禁物

みなさん、おはようございます。
一昨日、家内が3回目のワクチン接種を受けたのですが、思いのほか副反応が強く昨日は一日休んでいました。別にこれからワクチンを打つ人を脅かす意図はないし、同じタイミングで受けた他の人はごく軽い反応だったり、まるでなんともなかったそうで「若いから」と言っちゃったりしてますがしんどそうです。無理は禁物ですから、家内はリモートでの礼拝出席になりそうです。
疲れや弱さを覚える時、神は強めてくださるとか、力づけるといった聖書の言葉を思い出して、無理して頑張るという方向にいく人もいますが、聖書はまた神様が休息を与える教えていますし、イエス様も「休ませてあげるから、わたしのもとに来なさい」と言ってくださいます。何より安息日の律法は神の前に静まり、人間に過ぎない私たちが肉体と心の休息をちゃんと取るようにと定められました。だから、疲れたり弱さを覚える時には、どうぞご無理なく。

“すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。” マタイ 11:28

今日は第一主日ですので主の晩餐とコイノニアがあります。

佐々木真輝

2022年2月6日 隔てるものを越えて

2022年 2月 6日 礼拝 聖書:ヘブル11:29-31

 月一度、こうして主題聖句に関連してヘブル11章を少しずつ読み進めて来ましたが、残すところ2回となりました。

私たちの人生や人間関係には、さまざまな形で立ちはだかるものが表れます。

一般的な意味で、何かを成し遂げるために乗り越えなければならない壁ももちろんあります。行きたい大学に入るためには受験の壁を乗り越えなければなりませんし、やりたい仕事があれば採用試験や面接を乗り越えなければなりません。

仕事でもスポーツでも目指す結果に到達するために様々な壁を越えていかなければなりません。

今日の箇所にも、ある意味でそうした壁に似たものに直面した人々のことが書かれていますが、大きな違いもあります。神のことばに従おうとした時に直面する壁、努力や熱意以上に信仰が求められる壁です。続きを読む →

イエス様を知る

みなさん、おはようございます。
3月に開催予定のキリスト者学生会の春期学校に講師として招かれていて、3回のメッセージと一つの分科会を担当することになっています(コロナがある程度収まっていることを期待しています)。まだ原稿を書くまでには届いていないのですが、ずっとテーマについて思い巡らしています。イエス様とはどういう方なのか、イエス様を知るとはどういうことなのか。なかなか幅広く深いテーマですが、学生時代ならではの悩み方もあるのだろうなと、はるか昔の気持ちや葛藤を思い出し、今だから考えることも練り込みながら、まるでマーブルパンを作るみたいに(いや、作ったことはないですが)心の中で捏ね捏ねしているところです。
イエス様を誰だと告白するかはキリスト教信仰の核心と言えるテーマですから、とても重いのですが、実に楽しい思索です。今回も学生たちに分かち合うことを少し手を加えて礼拝の中でお話しようと計画していますので、ぜひよい導きがあるようにお祈りください。そして何とかリアル開催ができるように。

“イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」” マタイ 16:15

今日は****さんの誕生日です。祝福を祈ります。

佐々木真輝

念のためでした

みなさん、おはようございます。
昨日は少し喉の痛みがあり、念のため婦人会と祈祷会をお休みさせていただき、家で仕事をしていました。熱はなかったし、咳もありません。多分疲れが出たんだろうなとは思いましたが、念のためです。昨日のうちに痛みは取れ、他に体調も悪くはないので、様子を見ながらですが、今日からまた教会に行くことにします。
大丈夫とは思いつつ、やはり教会の皆さんにご迷惑になっては申し訳けないですし、何かあったときの教会の評判はどうなるかという考えが頭をよぎったりもします。何を恐れているのか分からなくなります。そういう曖昧で時に自分本位な恐れ方になる私たちですが、そんな私たちを包み込むように愛してくださる神様の愛と、こんな自分でも気遣ってくれる人たちがいることに慰められています。

“愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。” 1ヨハネ 4:18

佐々木真輝

きょう一日を

みなさん、おはようございます。
日曜日の午後は****さんの、そして昨日は**さんのお父さんの葬儀がありました。家族や親しい方を失うこと、お別れしなければならないのはやはり寂しさと悲しみがあります。葬儀のためであっても久しぶりにお会いする方々の顔を見、声を聞いていると、確かに亡くなってしまった方々を通して与えられたつながりがあり、私の心の一部が、どんな形であれ、その人たちによって形造られていると感じます。
私たちの人生はとても限られていて、永遠に比べたらほんの一瞬の時ですから、一日一日を価値ある日として大切にしていかなければならないなあと改めて思わされます。

“「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。” ヘブル 3:13

佐々木真輝

いつかその日が

みなさん、おはようございます。
昨日、大船渡に向かう前にFさんの弔問に向かおうとしていたところ、2年ぶりくらいに高校生のSさんが教会を訪ねて来られました。教会に来たいと思いつつ、コロナのこともあり、なかなか来られなかったとのことです。でも就職が決まったので、お世話になった方々に挨拶をしてまわっていたそうです。気に掛かっていたので、こうやって訪ねて来てくれたことがとても嬉しく、また就職先に行ってからはまた教会に行って聖書を学びたいと言ってくれたこともとても嬉しかったでした。
久しぶりにおしゃべりをしながら、1月のみことばに選んで毎週、唱和を重ねて来た詩篇のことばを思い出しました。人が神様に心を向け、開き、信じ受け入れるプロセスは私たちが願うほど早くないことが多いですが、土の中で種がゆっくり根を伸ばし、芽を吹いていくように、確かにいのちの営みが続いていることだってあるのです。いつかその日が来ることを期待して、祈り、待ち続けたいと思います。

“地の果てのすべての者が 思い起こし
主に帰って来ますように。
国々のあらゆる部族も
あなたの御前にひれ伏しますように。” 詩篇 22:27

佐々木真輝