コオロギの歌声

みなさん、おはようございます。
昨日、車を運転中に信号待ちをしていたらコオロギの鳴き声が聞こえて来ました。気づけば今日からもう9月なんですね。厳しい残暑を覚悟していましたが、それほどでもないようでちょっと安心していますが、この夏はへんな天候だったので、田んぼや畑の生育具合はどうなんでしょうね。
聖書の世界の気候と日本の気候はだいぶ違いますが、それでも季節ごとのしるしがあり、主の恵みの中で実りの時、喜びの時があるのは同じです。未だに終息が見えない新型コロナの驚異やそれぞれの人生の中での様々な課題があっても、よく目をこらして主が備えてくださる季節の変化の兆しを見逃さず、喜びと希望を抱いて歩みましょう。

“わたしは時にかなって、あなたがたの地に雨、初めの雨と後の雨をもたらす。あなたは穀物と新しいぶどう酒と油を集めることができる。” 申命記 11:14

今日は****さんと****さんの誕生日です。祝福をお祈りします。

佐々木真輝

散歩が上手でも下手でも

みなさん、おはようございます。
昨日の夕方、久しぶりに和賀川沿いの公園にワンコたちを連れて散歩に行きました。相変わらず小さい子(体の話でまあまあのオジさんになりました)は本当に歩き方が上手で、足元をピッタリとついて引っ張ることも他の犬に立ち向かったりすることもなく、上手に歩きます。時々こちらの顔を見上げる仕草も可愛さ格別です。大きい方(いつまで経っても子犬のような遊び方をします)は、相変わらず歩き方が下手でとにかく、嬉しくてシカタガナイという感じで跳ね回り、他の犬を見かけると立ち向かおうとします。散歩の仕方の上手下手はありますが、どちらも確かに一緒に歩くのが嬉しいようです。
私たちは神様と共に歩みますが、多分、そこにも上手下手があります。ぴったり寄り添うように神様と共に歩む人もいれば、跳ね回ったり、いろんなことに心が向いて寄り道したり、急ブレーキをかけたりする人もいます。あるいは歩き疲れて「もう歩きたくない」と座り込むかもしれません。そのどんな歩みも、神様と共に歩むことを喜び、また共に歩んでくださる神様へのアピールであったりするわけで、きっと神様はそんな私たちを愛し、慈しんでくださっています。

“信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました。彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証しされていたのです。” ヘブル 11:5

今日は****さんの誕生日です。祝福をお祈りします。
午後からは3.11いわて教会ネットワークのオンラインミーティングです。

佐々木真輝

明日をより良く生きるため

みなさん、おはようございます。
来週の土曜日にオンライン開催するがん患者支援のためのチャリティイベント、リレー・フォー・ライフのために、昨日の午後にリハーサルをしました。今回はかなり慣れたZoomではなく、YouTubeライブです。何度か試しにやったことがあるくらいですので、当日本番いきなり、というわけにはいきませんので、機材を持ち込んでテストをしたというわけです。やってみて分かったことは、ケーブルの長さが足りないとか、機械の設定の仕方を忘れているとか、なれないWindowsの設定に戸惑ったとか。リハーサルの中ではいろいろ失敗や手違いがありましたが、おかげで本番にはさらに十分な準備をした上で臨めそうです。
人生は常に訓練、練習です。明日、より良く生きるための練習と思えば、今日の失敗、今日の間違いもただのマイナスポイントではなく、価値のある経験です。失敗したら謙虚に学び、うまく行ったらもっと謙遜に。

“あなたの御手が私を造り
私を整えてくださいました。
どうか 私に悟らせ
私があなたの仰せを学ぶようにしてください。” 詩篇 119:73

佐々木真輝

2021-08-29 希望の切り株

2021年 8月 29日 礼拝 聖書:イザヤ6:1-13

 みなさん、トンネルの中を歩いたことがあるでしょうか。若気の至りで、一度だけ歩いたことがあります。一時間に1本通るかどうかという電車のトンネルですが、今にして思えばとても危険で、多分、いくつかの法律に違反していると思うので、マネはしないでほしいと思います。

トンネルの中を歩くとある地点からまったく光が届かなくなります。手がかりは足の感覚でレールや枕木の存在を感じ取る歯科ありません。少なくとも、その感覚がある限りは正しい道を歩いているのが分かりますが、時々何か目に見えないものに躓いて転びそうになったりもします。時刻表で電車が来ないと判断はしたのですが、予想外の貨物列車とかあったら逃げる場所があるのかわからないので、本当に危ないことをしなたあと思います。

今日から預言書に入って行きますが、預言者は自ら暗いトンネルの中に入り込んでしまった神の民に、トンネルの中のレールやかすかな手がかりのように、神様が民をトンネルの先へと導くために備え遣わしてくださった者たちです。続きを読む →

何を遺せるか

みなさん、おはようございます。
先日召されたフィリピンの先生の記念会(これまたオンライン)に参加した友人が、感想を書き送ってくれました。「人生は短く、牧師や神に仕える者として、人生はバランスをとって生きるものだと学びました。 つまり、家族も優先されるべきであり、ミニストリーが唯一の重要な業績として行われるものではないということです。あなたが死んだときに、子供たちが何と言うかも重要です。」
自分が死んでしまった後で遺された家族が何を言うか、聞く機会はないでしょうが、それは重要なポイントではないですね。本当に遺せたものが何かがそこには表れると思います。もうちょっと先のことであってほしいとは思いますが。

“私たちの神 主の慈愛が
私たちの上にありますように。
私たちのために 私たちの手のわざを
確かなものにしてください。
どうか 私たちの手のわざを
確かなものにしてください。” 詩篇 90:17

今日の婦人会と祈祷会はお休みです。

佐々木真輝

伸びた枝はばっさりと

みなさん、おはようございます。
いくつかの庭木が大きくなりすぎて、お隣に枝葉がおおいかぶさるようになっていました。一つは柿の木で、風で実が落ちたりもして汚くもしていましたから、枝を切り詰めました。容赦なく、ばっさりと。木の枝が伸び、葉っぱが茂るのは元気な印で喜ばしいことですが、お隣に迷惑をかけるとやっぱりまずいですからね。
人間も元気なのはいいことですが、勢い余って他人の領域に踏み込んだり、境界線を勝手に超えてしまうのは良くないですね。他人の心にづけづけ踏み込んだり、頼まれてもいないのに「教えて」あげたり…。神様が「刈り込む枝」にはそういう面も含まれているのかもしれませんね。

“わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。” ヨハネ福 15:2

走り終えて

みなさん、おはようございます。
昨日は、盛岡の**さんと***さんの第一子誕生の知らせに心から喜びましたが、その直後に悲しい知らせを受け取りました。(すでに第一線は退いていましたが)フィリピンの保守バプテスト諸教会で長い間リーダーシップを取っておられたレネ・アティエンザ先生が新型コロナ感染症のために召されたという知らせでした。実は数日前には奥様も同じく召されていました。親しい方々から次々と情報が届き、だんだん最期の様子がわかって来ました。肺炎になり呼吸が苦しくなった状態でも、病院の医師に福音を伝え、その医師はイエス様を受け入れたそうです。非常に力強いリーダーシップを持ちながらも、個人的にお話するると本当に温かい方で、お会いした回数こそ少ないですが、今でも肩に手をおいて祈ってくださったときの手の温かさを思い出します。フィリピンの友人たちは「お父さん・おじいちゃん」を失ったような悲しみを覚えているそうです。奥様と共にずっと愛し仕えて来たイエス様とともに天にいるということだけが慰めです。

“私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。” 2テモテ 4:7

佐々木真輝

確信と固執

みなさん、おはようございます。
今日は第四主日ですので、いつもなら午後に大船渡の教会に行くはずなのですが、ここのところの県内の(そして市内の)感染拡大の状況を踏まえて、キャンセルすることにしました。こういう判断をしなければならない時がまだ続くのかと思うとちょっと憂鬱な気持ちになりますが、やれることをできるだけちゃんとやる、というこれまで言って来たことを続けるしかありません。
こういう判断が「正しい」のかどうか、いつも難しいと思います。もしかしたら「科学的に」とか「合理的に」考えたら、恐れるほどのリスクはないのかもしれません。しかし、物事は科学的な面だけでなく、情緒的なことも考慮しなければなりませんので、「不安」を取り除く、教会の周囲の方々に配慮する、ということも含めて考えなければなりません。どちらか一方の視点だけだと、他人の行動が「不合理」「無駄」に見えたり、逆に「非常識」「自分勝手」に見えてしまったりします。自分なりの正しさの確信を持つのは大事ですが、そこに固執することは別問題だとわきまえないといけないですね。

“あなたは正しすぎてはならない。
自分を知恵のありすぎる者としてはならない。
なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。” 伝道 7:16

佐々木真輝

2021-08-22 ある愛の詩

2021年 8月 22日 礼拝 聖書:雅歌1:1-7

 先週、、盛岡のN兄の奥様のお母さんが召されたとの知らせを受け取りました。以前から存じ上げており、家内と同じ場所でがんを患い、闘病しておられました。葬儀に行くことはできなかったのですが、家内がリモートで葬儀に参加したということでその様子を聞きました。

ご主人がご挨拶の中で、亡くなった奥様を本当に愛しておられたことを率直なことばで語っておられたということを聞いて、胸が締め付けられ、大変感動しました。それは愛の力と美しさへの個人的な感動だけでなく、ちょうど、今日雅歌を通して語るように教えられていることが、そのまま目に見える例として示されたように思えたのです。続きを読む →

いつでも喜びを

みなさん、おはようございます。
去年の今頃は、岩手県でずっと0が続いて来た新型コロナの感染が7月末の第一号からついに二桁台になりました、という時期でした。それ以前から多くの方々がかなり緊張して過ごしていたと思いますが、第一号が出て少し気が抜けた感じがありました(あくまでも個人的な印象ですが)。それから一年経って、状況は悪化しています。我慢すること、制限されることが多く、精神的にも不安や恐れ(必ずしも病気そのものへの恐怖に限らないです)を感じたり、常に意識の中にトゲのようにあり続けることに疲れも覚えています。
でも、日曜日に取り上げた伝道者の書を通して、思いに任せない日常でも神様が備えてくださる良いものはあるのだから、それを感謝し、精一杯喜び、やるべきことを楽しんでやったら、世界が違って見えるんじゃないかなと思わされました。説教準備や神学校のクラスを導くようなことであれ、お風呂掃除のようなことであれ、楽しみや喜びは見つけられますし、日常の景色の中にも喜びは見つかります。

“また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。” 伝道 3:13

佐々木真輝