2021-07-18 みことばの贈り物

2021年 7月 18日 礼拝 聖書:詩篇119:1-8

 「戒め」という言葉には厳しい響きがあります。「○○を食べちゃいけない・しちゃいけない」という戒律。戒めを破ったときの罰則としての「戒規」。「懲戒処分」なんて言葉もあります。

不思議なことに、この戒めが詩篇の世界では「喜ばしいもの」「ハチミツのように甘い」ものとして描かれることがよくあります。そしてこの戒めに従うことがどれほど幸せなことかと何度も歌われるのです。クリスチャンはそういうことばを聞いて「アーメン、その通り!」と言うかもしれませんが、そう言う割には大好きな珈琲は毎日飲めても、なかなか聖書通読も続かないし聖書の学びに時間を取ることは結構決意と努力をしなければなりません。続きを読む →

腰の帯を締め

みなさん、おはようございます。
昨日、お昼頃にふと気づいたら、ベルトをしていませんでした。悲しいかな、ベルトをしないでもズボンがずり落ちないお腹周り。ではありましたが、さすがにちょっと緩くて、しまりがありません(その微妙な感じがとっても「いずい」)。
ファッションでそうやっている人もいますが、まあ好みは人それぞれです。腰周りがしっかりしていないと力が出なかったり、職種によっては危険だったりします。「腹をくくる」という言い方もありますが、その覚悟が自分自身の決意や熱心さだけでなく、ちゃんとみことばが指し示す真理によって強められたものなら、力も出るというものです。今日はちゃんとベルトをして出かけます。

“そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、” エペソ 6:14

今日は*****さんの誕生日です。祝福をお祈りします。

佐々木真輝

効果が出るまで

みなさん、おはようございます。
最近、16時間断食というのをやりはじめました。飽きやすいのでいつまで続くかわかりませんが、とりあえず三日坊主ではないようです(体調が良くなったという知人が何人かいて、影響されただけです)。日曜日も礼拝中にお腹すくんじゃないかなとちょっと心配しましたが、ほとんど気にならず、遅めの昼ご飯になっても大丈夫でした。何もたべない時間をとることで内臓の休息時間ができ、血管の状態が良くなるので体調が良くなったり、体脂肪減少の効果があるのだそうです。医学的なことはよくわかりませんが、カロリーさえ取らなければ水やコーヒーは大丈夫だそうですから、安心してやりはじめました。
ある人からは一ヶ月くらいで体調が良くなったということも聞きました。痛み止めや熱冷ましなんかの対症療法はすぐ効いて欲しいですが、体質改善みたいなことは時間がかかります。霊的な体質改善もちょっとやったくらいで効果がないからとすぐやめたりしないで、ぜひ続けましょう。プチ断食もがんばってみます。

“私は、今していることを今後も続けるつもりです。” コリント第二11:22

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

怖さも人それぞれ

みなさん、おはようございます。
少し前のことですが、朝、髭を剃っているときに眉毛の中に白い毛が混じっているのを見つけました。白髪頭なのに何をそんなにと思うかも知れませんが、それはそれ、これはこれ。結構驚きました。そんなことがあったせいか、その日の夜、ちょっと変わった夢を見ました。朝目覚めると、一晩で頭の髪の毛が絶妙な中途半端さで抜けてしまっているのを発見するという夢です。さして驚きもせず「ああ、そうなんだ」と受けとめているのでした。まあ、夢だからかもしれませんが、白い一本の眉毛のほうに驚くというのは何でしょうね。
私たちは、それぞれに恐れるものや心配することが違います。ある人にとってはささいなことが、別の人にとっては大問題だったり、多くの人が大騒ぎしていることに全く動じない人もいます。自分にとってどうでも良いことだからといって、ほかの人をばかにしたり、その人の恐れを否定してはいけないですね。かえって思いやり愛するなら、そうした恐れを退けることができるでしょう。

“愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。” ヨハネ第一4:18

佐々木真輝

気持ちを合わせて

みなさん、おはようございます。
日曜日のコイノニアの時間にトーンチャイムの演奏を楽しませていただきました。ほとんどが事前収録で、実際には撮影や編集で何度も見てはいるのですが、それでも皆さんと一緒に見て、あらためて感心しました。トーンチャイムは一人では演奏できない楽器です(ハンドベルもそうですね)。一人で何本も扱うことはあっても、やはり何人かで一緒にやらなければなりません。その時にいちばん大事なのは、やっぱり気持ちを合わせるということでしょう。それぞれが正しいと思うタイミングでは合いませんし、自分のリズム感が正確だと自信があっても、一緒に演奏する人たちと呼吸を合わせないと一つの曲になりません。
曲全体の中での自分の役割を理解し、互いの呼吸を合わせたり、お互いの音を聞いたりするのは、教会の交わりによく似ているなと思いながら聞いていました。

“わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。” ヨハネ 13:34

佐々木真輝

2021-07-11 私を心に留めてください

2021年 7月 11日 礼拝 聖書:詩篇106:1-12

 先週は、2年ぶりに墓前での召天者記念礼拝を捧げることができて本当に感謝でした。

遺族にとっては自分の家族、そして教会にとっては主にある兄弟姉妹であったり、教会家族のつながりの中にある大事な一人一人です。そうした方々が生きた証しやイエス様を信じて生きた姿を思い起こす機会にもなりますし、私たちが何を信じ、どんな望みを持って生きるのかを確かめたり、証しする機会にもなります。葬儀や記念会は、生きている者にとってこそ大事な意味があるものです。

さて、葬儀といえば、今回取り上げる詩篇の第四巻は、詩篇90篇の「モーセの祈り」から始まります。大抵の葬儀で、どこかのタイミングで読む詩篇の一つです。死にあらがうことのできない、決定的な弱さ、限界を持つ私たちが神のあわれみゆえの慰めを望み、与えられている限りある日々をよりよく生きる力を願うのです。続きを読む →

心を留めてほしいこと

みなさん、おはようございます。
先日の召天者記念礼拝の時に、いつものように召天記念会員の方や納骨堂に埋葬されている方々のお名前を読み上げました。今年は27名分だったのですが、お名前を読み上げながら、そのうち半分以上いの方の葬儀をさせていただいたことにあらためて感慨深い思いがしました。教会員だけでなく、クリスチャンではないご家族の方もおられました。子どもの頃からよく知っている方や自分の家族もいれば、直接はお話ししたことがなかった方もおられます。
日本の文化では葬儀と毎年の記念はとても大事にされるので、その都度、心を込めて葬儀をしてきました。毎年の記念礼拝には、普段教会に来られない方も、この時には来てくださいます。教会には「何回忌」という考え方、習慣はありませんから、何年たっても続けて行きますが、何よりの願いは、亡くなった方々の信仰が指し示していた救いと希望に心が向けられることですね。いつの日か自分も辿る道ですから。

“祝宴の家に行くよりは、
喪中の家に行くほうがよい。
そこには、すべての人の終わりがあり、
生きている者が
それを心に留めるようになるからだ。” 伝道者 7:2

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

検索

みなさん、おはようございます。
昨日調べ物をしていて、何度も何度もグーグルに検索条件を変えては答えを探していました。ようやく知りたかったことを見つけてホッとしましたが、身の回りの人に聞いても多分分からないことを調べられるというのは確かにすごい技術だなと思います。その昔、今では当たり前のインターネットでの検索サービスというのが始まった時代、「これからは検索の時代だ」とか「検索サービスを抑えて企業が世界を制する」とか言われていて「何のこと?」とピンと来ませんでしたが、確かにそうなってしまいましたね。人に聞く、本で調べる、図書館に行く、自分で勉強する、といった知識を得るための努力と時間は相当効率化されました。良い面だけじゃないとも思いますが、、便利ではあります。
「救いの道」については検索すれば、真っ当な答えからとんでもない珍説まで見つかりますが、救いの道そのものを見出し、自分がその道を歩んで行くことは、昔ながらのやり方しかできません。便利でもないし、自分自身とも向き合わなければならない面倒で心探られる時がありますが、得られるものは単なる知識ではなく、永遠のいのちです。

“イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。” ヨハネ 14:6

佐々木真輝

かもしだす雰囲気

みなさん、おはようございます。
昨日、とあるお店で妹とばったり会いました。お互いマスク姿だったので、声を掛けようかと思いながらも「似てるなあ、でも別人だったりして」とちょっと迷いましたが、ほぼ同じタイミングで「やっぱり、そうだよね」と声をかけあいました。そして迷った理由もやはり同じでマスクのせいです。でも、マスクで隠れてはいても何かしら分かるポイントはあるものですね。
ときどき見ず知らずの人でも、ちょっとした発言で「この人、もしかしたらクリスチャンかな」と思うことがあります。いかにもクリスチャンっぽい単語の使い方というより、発言の背後に感じられる考え方や人に対する態度にクリスチャンらしさを感じることがあるのです。もちろん、そうでない場合もあるのですが、「ああ、やっぱりそうだった!」ということがあります。自分の中にも、かもしだす雰囲気の中にキリストの姿が重なっていたら嬉しいですね。

“私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。” コリント第二 2:15

佐々木真輝

2021-07-04 救いのために

2021年 7月 4日 礼拝 聖書:ヘブル11:7

 ふだん威勢の良いことを言ったり、偉そうな態度をしていても、いざ本気度が試される場面になると急に威勢の良さが失われ、他人の影にこそこそ隠れるような人がいます。

信仰者も、普段は立派な、信仰深そうな、聖書の知識が豊かにあるふうで話しをするのに、いざという時だめになる人がいます。それはかつての自分の事なのですが、信仰について、教会について聞かれてもどうどうと話せなかったり、もごもごと誤魔化したりするようなところがありました。続きを読む →