趣味仲間

みなさん、おはようございます。
SNS上の趣味のサークルのようなものがあり、同じメーカーのカメラを愛用いる方々の写真と参加者との多少の交流を楽しんでいます。他の人の優れた写真を見ては「これはどうやって撮っているんだろう」「同じカメラなのに」と思ったりもしますが、使っているレンズを見ると、プロレンズと呼ばれる高価なレンズを使っている方々が結構おられるのに気づきます。中古のものばかり探している私いはまるで手が届きません。良いレンズは確かにとても綺麗に写るのですが、もちろんレンズの良さだけでなく撮影の技術やセンスも間違いなく素晴らしい方々が多く、驚かされます。
人との比較で自分の価値を過大評価したり自己卑下したりするのは愚かですが、人との比較の中で自分の実力や長所、成長すべき点などを見つけられるのも事実で、それらに目をつぶるのも愚かです。自分が今どこにいて、どこまで到達しているのか。信仰においても大切な問いです。

“ただし、私たちは到達したところを基準にして進むべきです。” ピリピ 3:16

佐々木真輝

虹を見上げて

みなさん、おはようございます。
昨日も雷で、しかも雹まで降ったとか(気づきませんでしたが)。かなりの大雨になったところもありましたが、皆さんのところはどうだったでしょう。稲妻の写真はまたしても撮れませんでしたが、夕方、二重にかかった虹を見上げてちょっと幸せな気持ちになりました。
虹を見るとなんだか希望がわいてきます。具体的に明日何かいいことがあるという縁起の良い予兆とは違いますが、ノアの洪水の後に現れた時以来、私たちの生きる世界には厳しさもあるけれど、神様のあわれみと恵み、救いの希望の中に置かれていることを思い出させるしるしと言うことはできます。

“わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。…虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべての肉なるものとの間の永遠の契約を思い起こそう。” 創世記 9:14,16

今日は***さんの誕生日です。祝福をお祈りします。

佐々木真輝

沼にはまらぬように

みなさん、おはようございます。
昨日は午後から時折カミナリが鳴り出し、夜まで雷雨でした。苦手な人にとってはつらい日でしたね。私は、いつか夜空に輝く稲妻を写真に収めたいと思ってはいるのですが、いつも落雷にあったら嫌だなあと、部屋の中からだと方角が合わないとか、なかなかうまく行きません。そんなにがんばらなくても美しい落雷の写真は世の中にあふれているのですが、やはり「自分でやってみたい」という気持ちは簡単には消えませんし、どうやればあんなふうにきれいに撮影できるのだろうかと考えたり調べたりするのも楽しいです。
好奇心は私にとっては新しいことを発見したり、経験したりするための原動力ですが、また同時に誘惑でもあることを自覚しています。よく趣味の世界では「沼」という言葉を使います。好奇心や探究心が行き過ぎて底なし沼に引きずり込まれないように気をつけないといけないですね(片足つっこんでるなと思うことはありますので)。

“わが子よ。これ以外のことにも注意せよ。多くの本を作ることには、限りがない。多くのものに熱中すると、からだが疲れる。” 伝道者12:12

佐々木真輝

2021-06-13 主の教えが私を生かす

2021年 6月 13日 礼拝 聖書:詩篇19:1-14

 私たちにとって聖書とはどのような書物なのでしょうか。

毎日、少しずつ聖書を読んでいる方もおられるでしょうし、こうして毎週の礼拝で割と長い時間、聖書からの話しを聞き続けるわけですが、それによって皆さんの心に何がもたらされているでしょうか。その質問の答えは、説教者としては聞くのが怖い面もありますが、大事なポイントです。

みことばは、果たして私たちを生かし、自由にするものなのか、それとも自分らしさを殺し、縛るものなのでしょうか。続きを読む →

期待通りでなくても

みなさん、おはようございます。
毎年今の時期は庭に生えているワイルドベリーが実を付けます。ジャムを作ったり、たまにパイにするのが楽しみです。今年は家内が綺麗に雑草を片付けてくれたので収穫しやすそうだなたと楽しみにしていましたが、どうも収穫量が例年の半分くらいな感じです(正確には分かりませんが、感覚的にはだいぶ少ないなという感じです)。でも、2ビンくらいのジャムは作れそうなので十分ですから感謝していただきます。
神様からの祝福が、期待した通りでないことってあります。願って祈った祈りが期待通りにはかなえられないこともあります。それでも、もらえて当然のものではないのですし、私には十分な恵みであると受け止め、感謝したいと思います。

“しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。” コリント第二 12:9

佐々木真輝

寄り添うための信仰

みなさん、おはようございます。
最近宣教師として日本からヨーロッパに渡ったご夫妻がおられますが、奥様の方が体の変化を感じて検査をした結果、大きな病の可能性があり、詳細な検査をしなければならないので祈って欲しいとの知らせが届きました。本格的な働きはこれからという矢先の事ですし、ご夫妻ともども大きな衝撃を受けています。よく知っている方ですので心を痛めながら祈っています。
神様のなさることには分からないこともありますが、神様がお許しになることについてはもっと分からない時があります。どこへ導かれるのか半ば恐るおそるではありますが、なんとかやり過ごしたり、立ち向かいます。そういうときに「それでも神様は信じるで、良い方だ」という信仰を押しつけられるのはなかなかしんどいけれど、そのような確信に立って寄り添い、そっと祈りつづけてくれる人がいることは大きな励まし、力になることは経験しています。

“友はどんなときにも愛するもの。
兄弟は苦難を分け合うために生まれる。” 箴言 17:17

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

がんばりが報われるように

みなさん、おはようございます。
日曜日の午後、娘のアパートに向かいました。もろもろの事情で冬タイヤのままだった車のタイヤ交換をしてあげるという口実?で様子を見に行って来たところです。こんな暑い日にタイヤ交換なんてしたことないぞと思う日でしたが、作業の後でダラダラと過ごしていましたら、陸上短距離の選手が100メートルの日本新記録を出したというニュースに家族で興奮していました。その後、体操のベテラン選手がオリンピック出場権を獲得したということで、こちらもかなりのハンデがあったはずなのに凄いなあと感心しました。ああいう姿を見ると、やっぱり舞台に立たせてあげたい気持ちいなるねという話題になりました(基本的にはやっぱり開催には賛成できないんですが)。
簡単には正解を決められない中で、いろんな人が、いろんな立場で、いろんな思いを抱えて、「今日できること」をやっています(頑張り具合は人それぞれですけど)。意見や立場の違いはあれ、そのことは認め、尊重しなければならないなと思います。そして誰かが「無念」な思いをすることになるのだろうけれど、その忍耐と努力が良い形で報われることを願いますし、誰もが相応しく報われるような世の中であって欲しいとほんとに思いました。

“ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。” コリント第一15:58

昨日は****さんの誕生日でした。遅ればせながら、祝福を祈ります。

佐々木真輝

2021-06-06 喜ばれている人

2021年 6月 6日 礼拝 聖書:ヘブル11:5-6

 自分の存在が誰かに受け入れられ、愛され、喜ばれているというのは、私たちにとってとても大切な感覚です。正面切って、言葉として、あなたを受け入れていますとか、愛してます、あなたの存在を喜んでますと言われるとちょっと気恥ずかしい感じもありますが、言葉でなくても、相手の態度や表情、仕草の中に、その想いが表れていると安心します。

月一度の信仰によって生きた人々から学ぶシリーズですが、今日はエノクを取り上げます。エノクが信仰の人の例としてヘブル書で取り上げられているのは、彼がその信仰のゆえに死を見ることがなかったという点にあります。それ自体がなかなか想像のつかないことなのですが、それとともに、理由として「彼が神に喜ばれていたこと」が挙げられている点に興味が惹かれます。死を見ることなく神のもとに移されるほどの信仰とか、神に喜ばれるっていったい何だろうか。それはあまりにも特殊すぎて自分にどう関係するか、よく分からないと感じるかも知れません。続きを読む →

幼虫が成長すると

みなさん、おはようございます。
先日、奥さんが抜いて集めて置いた雑草を処分するためにゴミ袋に入れていたら、いろんな虫が出て来ました。日陰のジメジメしたところによくいるダンゴムシはもちろんのこと、ゴミ虫や子ども指ほどの太さはあろうかという立派なミミズ。そんな中に「カブトムシの幼虫か?」と見間違うような幼虫がいました。ふつうこういうところにところにカブトムシの幼虫はいないので違うだろうとは思いましたが、夜になってネットで調べてみると、同じような経験している人はいるんですね。カブトムシになると思って育てたら、違う成虫になったというのです。その正体はコガネムシでした、
コガネムシは花壇や畑にとっては害虫ですが、あの綺麗に輝く羽は、子供時代の心をときめかせました。チョウの幼虫もそうですが、あんな不格好な幼虫が成長すると美しい生き物になるのはほんとに不思議です。私たちもいろいろ不格好で足りない所ばかりですが、成長すれば神様の子どもとしてイエス様に似た者に変わることができます。

“愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。” ヨハネ第一 3:2

今日は*****さんの誕生日です。祝福を祈ります。そして第一日曜日ですので、主の晩餐と礼拝後のコイノニアもあります。

佐々木真輝

嵐の中から

みなさん、おはようございます。
昨日はだいぶ雨風が強い一日でした。もちろん教会の窓は締め切っているのですが、最近の建物のように気密性を重視した時代に建てられたものではないので、窓を閉めているのに、あちらこちらの窓のカーテンが一日中揺れていました(換気は十分?)。
私たちの心に働きかける神様の恵みや語りかける言葉は時折、強い風のようです。私たちが心を閉ざして見ないようにし、聞かないようにしても、カーテンが揺れるように、私たちの心の中に吹き込むようです。その力強さに、一度心に迎え入れたらかき乱されるように思え少し恐れをなしてしまい、ますます扉を固く閉ざしたくなるかもしれません。雨風なら窓をあけたら大変なことになりますが、実のところ神様のそうした働きかけは私たちを混乱させるためではありません。私たちの心の中には恵みの雨と聖霊の風が、しかも結構強めのが、必要なのです。

“主は嵐の中からヨブに答えられた。” ヨブ 38:1

佐々木真輝