2024-03-17 手放す信仰

2024年 3月 17日 礼拝 聖書:創世記22:1-17

 先日、家内が文庫本を読んでいました。何を読んでいたかというと、わりと最近読み終わった推理小説を読み直しているということでした。なぜ読み返しているかというと、結末が分かった上で読み直すと、この場面にはこういう意味があったかとか、こうつながっていたのか、といったことが分かるので面白いらしいのです。最近、漫画や映画、ドラマなどで盛んに聞かれるようになった「伏線回収」を発見する楽しみ方かもしれません。

伏線回収ということであれば、聖書全体が壮大な伏線回収が仕込まれた書物と言えます。しかもこれが架空の物語ではなく、人類の歴史をまるごと含む大きな流れの中で、散りばめられた様々な出来事が見事につながって一つの大きな絵を描いているのです。続きを読む →

2024-03-10 主イエスのまなざし

2024年 3月 10日 礼拝 聖書:ルカ22:54-62

 明日は東日本大震災から13年目となります。それに合わせて、今日の午後は釜石で「3.11集会」が行われます。今年は年始めに能登半島で大きな地震による災害もあり、改めて自然災害の多い日本で生活し、その中に私たちクリスチャン、そして教会が遣わされているということの意味を考えさせられます。

災害やその中で被災された方々、支援や復興への取り組みの中で教会やクリスチャンがどう関わるのが良いだろうか手探りでやって来ましたが、そのような中で折々に立ち止まって考えてきたことは、イエス様はこれをどのような眼差しでご覧になっているだろうか、ということです。海外から来たある人たちは、大震災は人間に対する神の裁きだと断言し、被災してぼろぼろになっている人たちに悔い改めるようにと説きました。そうした傲慢で偏ったものの見方をする人たちの考えに「そんなはずはないだろう」と直感的に反応はするのですが、ではこの惨状、悲しみをどうご覧になっているのかと考えざるを得ませんでした。

さて、今日の箇所にもイエス様の眼差しがとても印象的なかたちで取り上げられています。4つある福音書の中でルカだけがイエス様の眼差しに触れていますが、いったいどのような意味合いで記されたのでしょうか。そしてイエス様は私たちをどんな目で見ておられるのでしょうか。

1.逃げ出してはしまったが

さて、今日の箇所はほとんどの方々がよくご存じの出来事だと思います。イエス様が祭司長などユダヤの指導者たちに捕らえられ、いよいよ十字架に引き渡されるというところです。それまでイエス様と共に歩み、威勢良くたとえ命を失ってもついて行きますと鼻息を荒くしていた弟子たちが蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいます。その後、こっそり様子を見に行っていたペテロが人々からイエス様の弟子だろうと見破られ、三度も「知らない」と否定してしまうという、心が痛むような出来事です。

福音書が書かれた時代は、ペテロはまだ存命中で教会の指導者として尊敬されていましたが、4つの福音書のどれもがこの出来事を記しています。誰もペテロに忖度することなく、卑怯な逃亡と裏切りを書いているのです。

しかし、4つの福音書を丁寧に読み比べてみるとそれぞれの書き方の特徴に気付かされます。

マタイとマルコは弟子たち全員が「見捨てて逃げてしまった」と書いています。ところがルカとヨハネは弟子たちがイエス様を見捨てて逃げ出したことには触れず、ルカはペテロが、ヨハネは恐らくヨハネ自身とペテロが捕らえられたイエス様の後をついて行ったことを記しているのです。

おそらく、実際の出来事としてはイエス様が群衆に捕らえられた時に皆逃げ出したのでしょう。それは間違いないのです。しかし、すぐにペテロとヨハネだけはイエス様がこれからどうなるか気になって少し距離をとりながら後をつけたということでしょう。そして、ヨハネには伝手があったのでペテロと一緒に大祭司の家に入ることができましたが、その後二人は別行動を取っていたようです。

なぜルカはペテロが逃げ出したことではなく、ついて行ったことに注目しているのでしょうか。実は逃げ出したことを書いたマタイとマルコも、弟子たちが逃げ出した事実は描くものの、その理由については何も記していません。同じようにルカとヨハネも後をついて行った事実は書いていまが、どちらにもついて行った理由、動機は書かれていません。

そのため、裏切り者のユダのことも含め、弟子たちがなぜイエス様を見捨てたのかについて様々な推測がなされ、ペテロがついて行った理由に関しても推測されてきました。命を捨てる覚悟さえしていて、群衆が取り囲んだ時もなお強気だった弟子たちですが、イエス様が無抵抗で捕らえられた時に急に怖くなったのかも知れません。イエス様は私たちのために戦ってくださらないんだと分かったことへの失望かも知れません。理由はともかく逃げ出します。そして、イエス様の身を案じたのかも知れませんし、捕らえられた先で鮮やかな奇跡を行って敵を懲らしめてくれると期待したのかも知れません。理由は分かりませんが、後をついて行きました。

後で詳しくお話しますが、私はルカがペテロの逃亡ではなく、ついて行った事実に注目したのには、二つの大きな理由があったと考えています。一つは福音書の続きである「使徒の働き」で教会指導者であるペテロの活躍を描くわけですから、逃げたことだけで終わらせては物語のつながりが失われること。そしてもう一つは当時の教会では迫害の中で信仰を捨てたり教会を離れるクリスチャンがいるという現実に答える意味があったのではないかということです。

2.予告されていた裏切り

ところで、ペテロの裏切りはイエス様ご自身によって予告されていました。

「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」という有名な予告です。それ自体はマタイの福音書にもマルコの福音書にも、ヨハネの福音書にも記されています。

しかしルカは他の3人が書かなかったことにただ一人注目し、大事なこととして記しています。それは例の「鶏が鳴くまでに」の直前のことでした。

場面は過越の祭のための特別な食事、過越の食事を囲んでいる時のことです。これはとても親密で特別な時でした。イエス様が一番目を掛けてきた12弟子と最後に過ごす時間です。ルカの福音書は22:14節から食事の場面を描いています。この食卓でイエス様はパンと杯を分けること、つまり後に「主の晩餐」と呼ばれるようになる記念の仕方について教えました。

一方で21節にあるように、この12人の中から裏切る者が出るという予告があって、弟子たちの関心はすぐにそちらに移ってしまいます。恐らく「俺じゃない」とか「私の方がイエス様に忠実だ」「いや、俺はイエス様に信頼されている」などと言い合っているうちに24節にあるように「だれが一番偉いか」という議論になってしまったのでしょう。

その時もイエス様は機会を逃さず、教会におけるリーダーシップとはどういうものかを教えています。そして28節で使徒たちに授ける権威と報いを告げるのですが、その直後31節でペテロに対する不吉な予告をなさいます。ルカだけが、イエス様がペテロを名指しで警告していたことを記しています。

イエス様ははっきりとシモン、つまりペテロがサタンの試みに会い、麦がふるいにかけられ余分なものがふるい落とされるように、ペテロ自身がふるい落とされる、つまり誘惑にあって失敗すると告げたのです。言われた方としては結構キツイことです。自分の実力を過信して意気込んでいる生徒が先生に「きっと失敗する」なんて言われたら深く傷付くに違いありません。しかし傷つけるためではありません。続きがあります。32節「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。

イエス様は二つのことを約束なさいました。失敗してイエス様を裏切ってしまうことになるペテロですが、彼の信仰がなくならないということ。そして立ち直るということです。

ルカの福音書が書かれた時代、すでにマタイとマルコの福音書は出来上がっていました。当時、教会の指導者だったペテロには、実はイエス様を知らないと三度も否定したことがある、という衝撃的な事実をすべてのクリスチャンが知っていました。しかし、その彼が今や教会の指導者として立っていることに驚きと神様の憐れみ深さを感じたかも知れません。そしてルカの福音書を通して、ペテロの復活劇には、このイエス様の祈りがあり、イエス様を裏切ってしまったペテロの信仰がなくなってしまわなかったこと、立ち直れたことがイエス様の恵みの故だということをはっきり知る事ができたのです。そして、それはまた自分たちや周りのクリスチャンにとって大きな励ましとして受け取られたことでしょう。

3.イエスのまなざし

大祭司の家の中庭でのペテロは、なるべく目立たないようにしながら、何とかイエス様の様子を知ろうと聞き耳を立てていたに違いありません。しかしそんなペテロに目を注ぐ人たちがいました。

最初に声を掛けたのは召使いの女性です。56節で、灯りに照らされたペテロの顔を「じっと見つめて」いたと記されています。イエスと一緒にいた仲間の中に似たような顔の人がいたなあと記憶を辿りながら、じっと見つめていたのでしょう。まるで指名手配犯の似顔絵と実物を見比べるような眼差しで見ていましたが、ついに間違いないと確信し、周りの人たちに「この人も、イエスと一緒にいました」と言ったのです。

それに対してペテロはすぐさま否定します。「いや、私はその人を知らない」。「だったらなぜここにいるのか」とツッコミが入りそうな言い訳ですが、彼は知らぬ振りを通します。

しばらくして、他の男性がペテロを見ました。ペテロを疑いの眼差しで見る人たちが増えていたのかも知れません。彼はペテロがイエス様と一緒にいただけでなく、仲間の一人だったと確信して「あなたも彼らの仲間だ」と断言します。ペテロはすぐさま「いや、違う」と否定します。元のギリシャ語には「男よ」とあるので、「なんだお前」くらいの強い否定のニュアンスだったと思われます。

三番目の眼差しはさらに1時間ほど経ってからでした。ヨハネの福音書を見ると、この人は、ゲッセマネの園でイエス様が捕らえられそうになったときにペテロが剣で打ちかかって耳を切り落とした大祭司のしもべの親戚にあたる人でした。幸いイエス様が耳を治してあげたので大丈夫でしたが、そんな行動を忘れるわけがありません。そしてペテロがガリラヤ出身であることまで見抜き、「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから」と詰め寄りますが、またしてもペテロは「何を言っているか分からない」と答えます。ここでも「男よ」と原文にあるので、強く否定したことがわかります。マタイの福音書では「嘘ならのろわれてもよい」と誓いながら否定したとありますから、相当必死だったことが分かります。

そして4つめの眼差しは、鶏の鳴き声とともにペテロに向けられました。ペテロが一生懸命言い訳をしている最中に夜明けを告げる鶏の鳴き声が響き渡ります。そして61節。イエス様が振り向いてペテを「見つめられた」のです。

イエス様はこの間、大祭司の取り調べを受けていました。正式な裁判ではなく、イエス様を死刑にするに相当する律法違反をでっち上げるための取り調べで、偽証を含め様々な証人がイエス様を訴え、大祭司が問い詰めるという長い取り調べでした。どういう位置関係か分かりませんが、少なくともイエス様とペテロは目が届くような距離にいました。ある映画では中庭を挟んだ向こう側で別の場所へ連れていかれるイエス様が振り返った場面が印象的でした。ペテロがイエス様の仲間であることを否定することに必死になっているすぐそばで、イエス様は厳しい取り調べや暴言、中傷、からかい、暴力に耐えていたのです。

ルカは61節で、ペテロがイエス様の言葉を思い出したのが鶏の鳴き声ではなく、イエス様の眼差しであったことを明らかにしています。「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた事を思い出し、外に出て号泣しました。

適用:離れた人々のために

ペテロがこの後どうなったでしょうか。24章でイエス様がよみがえったという話しを聞いたペテロが誰よりも先に確かめに行ったことを書いて、ペテロの変化を表しています。しかし本当の意味で回復し、イエス様が言われたように他の兄弟たちを励ます者になるのは、「使徒の働き」に描かれているように、ペンテコステの日に聖霊に満たされることによったのだと思います。

では、どういう意図でルカはこの記事を書いたのでしょうか。神様はルカの視点、意図を用いてどのようなことを私たちに明らかにしてくださったのでしょうか。

以前もお話したことがありますが、ルカの福音書はテオフィロという人を念頭に、伝えられた福音を確信させるために書かれました。これは、テオフィロだけでなく、すでに福音を信じているけれど、当時の教会やクリスチャンのあり方、教えが真実であるかどうか、イエス様が教えたことに叶っているか、確信の揺らいでいる人たちがいたことを表しています。

イエス様が天に上げられた後、その働きは教会に委ねられました。しかし教会というのは、罪赦されてはいても不完全で失敗の多い人間の集まりですから、クリスチャンや教会に躓く人も出てきます。福音書が書かれた時代には各地で迫害が起こっていました。ペテロがそうだったように、恐れたり、困難の中でイエス様が助けてくださらないじゃないかと疑念を持つような事は起こり得ました。

パウロをはじめとする使徒たちや指導者たちが手紙を通してそうした人たちを慰め、教え、確信に留まるよう励ましています。

では、肝心のイエス様はそういう人たちをどう思っておられるのか、どんな眼差しを向けておられるのかを、このペテロの経験と重ねて思い巡らすことをルカは意図したのではないでしょうか。神様はそのようにルカを導いて他の人たちが書かなかったイエス様の予告や眼差しに注目して書かせたのです。

理由は様々です。恐れかもしれないし、疑いかもしれない。自分がクリスチャンであること、イエス様を信じていることを否定したり、隠してしまうことが人間にはあります。しかも、それですっかり興味を失うことなく、教会のことが気になり、ちょっと距離をとりながら様子を見ている。「でも、お前もクリスチャンなんだろ?」と聞かれると、「前は行ってたけど今は行っていない」「距離をとっている」「躓いて傷付いた」そんなふうにして、イエス様の友であり、仲間であることを否定し、教会から離れてしまう。

私たちがそんなふうに誰かを躓かせたり、困難にあることに気付かず、見捨てられたような気にさせてしまう原因になってしまうこともあります。私の愛のない言葉や人を赦せずにいることが、イエス様の赦しと愛の確かさを疑いわせてしまうことがあるのです。

そういう人たちをイエス様はどんな眼差しで見ておられるのでしょうか。

「やっぱり失敗したよね」と確認するように冷たい眼差しで見るのでしょうか。いやそうではなく、いろんな理由でイエス様を否定する人間の弱さに心を痛めながら、その信仰がなくならないよう祈っているよ、立ち直れるよう支えるよと、見つめていてくださるのではないでしょうか。そしてペテロが立ち直れたように、イエス様の恵みによって信仰を失わず、立ち直ることができるのです。

私にとっては、青年時代を共に過ごしながら教会を離れてしまった何人かが10年、20年経って再び教会に戻って来たという事実が、大きな励ましであり、慰めです。そして、今教会を離れている、信仰から遠ざかっている人たちについて希望を失わずにいられる理由でもあります。

もし、私たちの周りに、理由はそれぞれでしょうが、ペテロのようにイエス様や教会から離れたり、関わりを否定するようになった人がいるなら、その人を見下したり、見離したり、諦めたりしないで、イエス様がどんな眼差しでご覧になり、取り扱おうとしておられるかを思い、謙虚な思いと忍耐強く、私たちも信仰がなくならないよう祈り、立ち直れることを信じましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今日はペテロがイエス様を知らないと三度否んだ記事を通して、弱い私たちへのイエス様の眼差しの意味を思い巡らしてきました。私たちが過ちやすく、恐れに囚われたり、躓きやすいものであるイエス様が、私たちの信仰がなくならないよう祈り、立ち直るために助けてくださることを信じて感謝します。

自分自身のためにも、そして今まさにイエス様や主の教会から遠ざかっている人たちのためにも、このイエス様の愛とあわれみ、慈しみ深い眼差しを信じさせてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

2024-03-03 善良であるように

2024年 3月 3日 礼拝 聖書:ペテロの手紙第二 3:13-18

 最近「コスパ」とか「タイパ」ということがよく聞かれます。値段の割にはメリットが大きいことや短時間で大きなメリットが得られることが好まれます。しかも、そのコスパの良さみたいなのは、自分で買ってみてということではなく、試す時間やコストがもったいないから、ネット上で評判が良さそうなら買う、という人が増えているのだそうです。

ショッピングだけでなく映画やドラマ、小説などを見たり読んだりする前に、ネットで評判を調べてインフルエンサーが面白と言ってたら見る、評価が低ければ見ない、という傾向も増えているという話しも聞きました。最初からつまらないと言われているものにわざわざお金や時間を割くのは無駄だというわけです。確かに、自分も星何個ついているかがお店や商品を選ぶ目安にすることがありますから、良し悪しは別として有り得ることかなと思います。

その点、キリスト教信仰によって生きることはコストパフォーマンスもタイムパフォーマンスも、短期的にはめちゃめちゃ悪い、星1つという評価をされるかも知れません。しかし、クリスチャン生活はこの時代には合わない、コスパの悪い、融通の利かない生き方ということではありません。聖書は人生の幸いということについてこの世の考え方とはまったく異なった視点を私たちに教えます。

今日はペテロの手紙から学んでいきましょう。1.御国は私たちのもの

ペテロの手紙は紀元63年か64年頃にローマにいた使徒ペテロによって小アジアと呼ばれていた地域の諸教会宛に書かれました。

第一にペテロは、読者であるクリスチャンたちが苦難の中にあることを承知の上で、それでも私たちは幸いである、天の御国は私たちのものだから、というイエス様の教えに倣って勧めます。

13節にあるように、クリスチャンが善良な生活、良い人間関係を保つなら、基本的にクリスチャンではない人たちから悪意が向けられることはありません。

とある雑誌の記事で、朝の連続テレビドラマの人気と不人気の違いは何かということの分析が書いてありました。好感をもって見られるドラマの特徴の一つとしてこんなことが書かれていました。「豊かな自然と善行に人はホッとする」。なるほどと思わされました。岩手が舞台になった朝ドラも三陸沿岸の美しい景色や岩手山をバックにした一本桜が観る人を魅了しました。人の良い人、優しさ、助け合い、寛容さ、傷付いた人に寄り添う人、励ます人、弱い者の見方になる人…たとえドラマだとしても、そういったものにホッとし、励まされ、何となく希望を持つものかもしれません。

聖書が言う善良さというのは御霊の実に見られるように、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制とどれをとっても良いものであり、他の人を幸せにしたり良い影響を与えるものです。多くの場合、親切な人や寛容な人は喜ばれます。

しかしながら14節に「たとえ義のために苦しむことがあっても」とあるように、例外的に私たちが善良であろうとするために苦難に会うことがあるのです。

迫害という言葉からローマ帝国時代や日本のキリシタン時代の過酷な迫害を思いうかべてしまいやすいのですが、もう少し日常的な信仰の試練も迫害と捉えています。例えば2:12では「彼らがあなたがを悪人呼ばわりしていても」とあり、また15節には「愚かな者たちの無知な発言」、3:9には「侮辱」という言葉もあります。これらは「悪口」や「誹謗中傷」と言うことができます。

また2:19にはクリスチャンの奴隷が未信者の主人から受ける「不当な苦しみ」とあります。意地悪な扱いを受けるようなことです。また3:1では「みことばに従わない夫」とあります。クリスチャンでない夫が妻のクリスチャンとしての生き方に反対したり、嫌がったりすることはよくあることだったでしょう。それは今も変わらないと思います。

こうしてみると、ペテロの時代のクリスチャンたちと現代の私たちが経験することはそれほど大きな違いはないと言えるのではないでしょうか。そんな苦難を味わうクリスチャンたちにペテロは14節でこう続けます。「あなたがたは幸いです」。

少し前の9~12節を見ると、やはり悪や侮辱に仕返しをするのではなく祝福するように教えていますが、その理由は私たちは祝福を受け継ぐために召されたからです。12節にあるようにその祝福とは主が私たちとともにいてくださるという揺るがない土台の上に立っています。この祝福をイエス様はマタイ5:10でこう教えています。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」迫害の中にあっても天の御国はすでに私たちのものであることを思い出すよう励ましているのです。2.状況は主が支配している

第二に、ペテロはたとえ困難な状況であってもその状況も主が支配しておられることを確信するよう教えています。

14節後半から15節前半に注目しましょう。

「人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。」

人の脅迫はもちろん怖いものです。ものすごい形相をした人が大声で怒鳴りながら脅して来たら、それは普通に怖いです。そういう感情的、本能的な反応を否定してはいません。しかし人を恐れることはこの怖い状況を支配しているのが相手だと思っていることです。そこで本当はその人が状況を支配しているのではないと認識を変え、怖さや怯えに支配されないようにということです。

元サッカー日本代表の選手が、ゴールを決めなきゃいけないというプレッシャーに負けて失敗しがちな選手が多いことに触れながら、こんなことを言っていました。「ボールを持っているのは自分で、100%どこを狙ってもいいわけだから、慌てているのは自分じゃなくて、ゴールキーパーとディフェンスだって思うと、気持ちが楽になる」。状況の見方を変えると意識が大きく変わります。

状況を支配しているのが脅したり意地悪してくる相手だと思うと必要以上にプレッシャーになり、恐れになります。

心理学では、恐怖心はコントロールできるものだと教えます。恐怖心は相手から押しつけられ、逃げられないものではなく、自分の心の中から出てくるものです。そして自分の心の中から出てくるものは私の手の中にあるものだから、手放すことも出来るというわけです。とはいえ、圧倒的に力の差があったり、主人と奴隷のような上下関係や夫と妻のような立場の差があるとそう簡単には恐れや怯えを手放すことができません。

そこでペテロは心理学的な処方箋を超えてこのように教えます。「心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。」

この箇所は、イザヤ8:12~13の聖句とよく似ています。 

11節から読んで見ます。「まことに、主は強い御手をもって私を捕らえ、この民の道に歩まないよう、私を戒めてこう言われた。「あなたがたは、この民が謀反と呼ぶことを何一つ謀反と呼ぶな。

この民が恐れるものを恐れてはならない。おびえてはならない。万軍の主、主を聖なる者とせよ。」

イエス様を主とする、聖なる方とするというのは、単にイエス様は主なんだ、聖い方なんだと思いうかべることではありません。この困難な状況を含め、私たちの人生、この世界の主はイエス様だと告白することです。

シュートを決めなきゃいけないストライカーが目の前に立ちはだかる屈強なディフェンスやゴールを守る鬼の形相のキーパーに萎縮してしまうように、私たちがクリスチャンとして誠実に、善良であろうとするときに、邪魔してくる者、それを面白くなくて脅したり悪口を言う人、意地悪する人がいると、萎縮してしまい、思うように行動できなくなるかも知れません。でもその反対者は私の人生の支配者ではないし、この世界の主でもありません。私たちの主、そしてこの世界を治めるのは、私たちのために罪を贖ってくださった主です。反対する人に向かってわざわざ口にする必要はありませんが、イエス様が私の主だと心の中で告白し、確信しましょう。3.むしろ機会として

第三に、ペテロは私たちが善良であろうとすることで苦難があることを、むしろ機会と捉えるようにと励まします。

15節で「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明ができる用意をしていなさい」とあります。

これまで見てきたように、クリスチャンとしての本来の生き方は多くの場合、周りの人たちに安心や好意をもたらします。優しさや寛容さ、正直さは誰でもホッとするものだからです。しかし時に反発したり、キリスト教の教えに反対する人がいて、それが実際に悪口や嫌がらせというようなことに発展してしまうことがあります。

それでも幸福は逃げ出したりはせず、私たちはなおも御国の祝福の中にあることを思い出すように。そして心の中で、この状況も含めて支配しているのは相手ではなくイエス様なのだと心の中で告白するよう教えています。物事の見方を変えなさいというわけです。

反対や悪口に対して反撃したり権利を主張して戦ったりするのではなく―もちろん信仰の自由や権利を守ること、勝ち取ることも大事なことではありますが、むしろ静かに、あくまで穏やかに善良であろうとし続けるなら、クリスチャンの生き方や態度に、興味を持つ人たちが起こされます。

2:11~12でもペテロはクリスチャンはこの世界にあって旅人として歩む意識を持つよう教えています。クリスチャンではない人たちの間で立派に振る舞うなら、悪く言う人たちもある日気付きが与えられ、神を崇めるようになるだろうと励ましています。

そのように、好意的に見ていた人たちだけでなく、反対したり悪口を言っていた人たちからも「どうしてそういう生き方ができるの」と聞かれる時が来るから「弁明」できるように用意をしておきなさいとペテロは勧めます。最も良い例は3:1にあるように無言の振る舞いが相手に気付きを与える場合です。反対があっても良い生き方ができたワケは何かという問いかけに、私たちの持つ希望が生活、心の有りようや人に対する態度をどのように変え、励まされているか証言できるように用意しておきなさいということです。

この「用意」には二つの面があります。まず「あなたがたの希望について」とあるように、語る内容です。福音の基本的な知識と、イエス様が与えてくれた希望を自分のこととして話せる準備をしておきなさいということです。

そしてもう一つが態度と動機です。「柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい」。相手を攻撃したり、論破しようとするのではなく、静かに、聖霊が相手の心を動かしてくださることに信頼して話しなさいということです。

そして重要なポイントとしてペテロが指摘しているのは、苦難が証しの機会になるということは、イエス様の生き方と実の結び方に倣う生き方であり、ものの見方であるということです。

17節にあるように「神のみこころであるなら」とあるように、クリスチャンだからといって全ての苦痛を引き受けるべきだと言っているわけではありません。私たちが救われたのはイエス様が十字架で私たちの代わりに苦しみを引き受けてくださったのに似て、私たちが苦しみを引き受けることが、誰かの救い、だれかの希望に成り得ることを私たちは覚えておくべきです。適用:誰かの希望に

今日は受難節第3週目ですが、開いているペテロの手紙から学んだことは、私たちが苦難に会うとしても幸いだという聖書の人生観と言えるのではないでしょうか。

私たちが生きている時代の幸福の尺度は人によって大分違いますが、大方の尺度は自分を中心に測られるものです。コスパの良し悪しだって自分が基準です。自分が望む生活水準にあるとか、望んでいるライフスタイルが実現できているとか、家族に恵まれているとか、人それぞれに基準は違うし、5割程度で満足できる人もいれば9割くらいじゃないと満足できないという人もいるでしょう。しかし、いずれの場合でも、幸福の測り方を自分の望みがどれくらい達成できているかに置きます。苦難は時として教訓を学んだり、大事なことに気付くきっかけにもなると分かっていますが、あくまでも許容範囲の中での話しです。迫害によって命を落とすような、希望をぶち壊すほどの苦難は受け入れがたいものです。

それに対して、聖書は苦難があっても私たちは幸いだと語ります。それは幸福の基準を自分の望みがどれくらい達成できたかではなく、私たちを愛し、私たち共にいてくださるイエス様が共にいてくださることに置くからです。

もちろん、できれば苦難は避けたいです。すべての苦痛を我慢して耐え忍ぶことがクリスチャンの生き方というわけではありません。しかし、クリスチャンとして愛と真実、正直で公正、柔和で寛容、裏表のない善意といったことを私たちが身につけよう、行動で現そうとすると、それを煙たがる人たちがいて、時には厳しい迫害として襲いかかることもあります。そういう中でも、私たちは悪意や敵意を向ける人たちを恐れたり、萎縮したりするのではなく、この困難な状況も含めてイエス様の御手の中にあることに慰めを得ることができます。つまり私たちは今このときも天の御国の中にあることを思い起こして、だから大丈夫だと平安を取り戻し、揺るぎない愛と、受けている労苦への十分な報いがあることに喜びと希望を見出すことができるのです。

そして私たちが苦難の中にあっても幸いであることの最も特徴的な面は、私たちの受ける苦難が、他の誰かの救いや希望になり得るということです。それは愛の最も優れた側面です。

クリスチャンでなくても、例えば親は自分が苦労しても子どもが幸せになってくれたら十分に幸せを感じられます。愛する誰かのためだったら苦労があっても頑張れるのではないでしょうか。そんな愛をイエス様は十字架の犠牲を通して完全に現してくださいました。私たちが受けるはずだった罪の報いをイエス様が十字架の上で引き受けてくださったので、私たちは赦され、新しく生きることができます。そんな愛を私たちはイエス様から受け取り、この愛に支えられ、この愛に倣って生きるよう召されました。

私たちに出来ることはせいぜい、悪口や嫌がらせがあっても誠実に善良であろうとすることくらいです。そして誰かに「どうしてそんな生き方が出来るのか」と聞かれた時に、私たちの希望について証しすることくらいです。私たちに誰かを救う力はありませんし、私の話を聞いてイエス様を信じてくれるかどうかは分かりません。ただ、聖霊様のお力に信頼し、その証しがその人の中で種となり、いつの日か芽を出すこと期待して話すのです。そのためにも、苦難があっても幸いであることを思い起こし、また私たちの希望を証しするためによく備えておきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

私たちがイエス様にならって歩もうとするとき、イエス様のゆえに優しくまた正直に生きようとする時、時として思いがけない反対や苦難に会うことがあります。それでも天の御国はあなたがたのものだと言われたイエス様のお言葉を信じて感謝します。苦難の時も私たちを愛しておられるイエス様がともにいてくださることを思い出させてください。そして、そのような時が証しの機会となり、私たちの受ける困難が誰かの幸いにつながり得ることを覚えて、期待をもって備えさせてください。誰かが私たちの希望について知りたがる時に、喜んでお話することができるように準備しておけますように。

イエス様のお名前によってお祈りいたします。」

2024-02-25 仰ぎ見れば生きる

2024年 2月 25日 礼拝 聖書:民数記21:4-9

 今日の聖書箇所を特別なものにしているのは、1200年後のイエス様が、人が永遠のいのちを得るために必要なのは信仰だということを説明するために、この出来事を引用していることです。

そのことについては最後に取り上げますが、それにしてもなぜ「青銅の蛇」なのでしょうか。続きを読む →

2024-02-18 踏み出す前に

2024年 2月 18日 礼拝 聖書:マタイ 4:1-11

 伝統的な教会のカレンダーによれば、今週から受難節に入ります。レントという呼び方もされますが、イースター前の一ヶ月ちょっとの期間、イエス様が苦難を受けたことを思い起こして礼拝する期間というふうになっています。

そんなわけで今日選ばれた聖書箇所は「荒野の誘惑」と呼ばれる、イエス様が40日の断食と悪魔の誘惑を受けた箇所です。

私たちは日頃の生活で様々な誘惑に会います。最近の私の誘惑はふらっとラーメン屋さんに飛び込みたくなるというものです。続きを読む →

2024-02-04 福音の生命力

2024年 2月 4日 礼拝 聖書:マルコ4:26-29

 世の中には「話し上手」と呼ばれる人たちがいます。私はこうやって人前で説教したり、講演とかで呼ばれればお話しますが、決して話し上手というわけではありません。

車に誰かをお乗せしても、黙っているほうが楽だし、たくさんの人が集まる会合でも、自分から積極的に話しかけるのは結構勇気がいるほうですし、知らない人と知り合いになろうとするのもかなりハードルが高く感じます。牧師という肩書きにずいぶん助けられています。話し下手というより、コミュニケーション能力があまり高くないということかもしれません。それでよく牧師なんかやってるなと言われれば「ごもっとも」で、それもまた私の「土の器」であるところです。続きを読む →

2024-01-28 いつも心に光を宿して

2024年 1月 28日 礼拝 聖書:コリント第二 4:6-10

 時々、私は自分がこうして皆さんの前で聖書を解き明かし、メッセージを語ることについて「自分には資格があるだろうか」と考えます。テーマによっては話しずらいと感じることもあります。

昨年入院中にせん妄状態の中で見た最初のころの幻覚の一つは、いろいろな方々から「お前は資格がない」と非難される内容のものでした。目の前の仕切りのカーテンや食事のためのテーブルの表面に薄い鉛筆文字でびっしりと書き込まれている幻覚を見ましたが、その内容は生活の仕方や動機、人格への非難でした。思い返してもなかなかの悪夢です。やがてその悪夢は解消し、非難していた人たち和解し、友情を取り戻し、励まされる内容に変わって行くのですが、それがどういうプロセスで変わって行ったかは、また後でお話します。続きを読む →

2024-01-21 安心して行きなさい

2024年 1月 21日 礼拝 聖書:列王記第二 5:1-19

 日本という国、文化の中でクリスチャンとして生きていくことには特有の悩みが付きまといます。周りを見渡せば仏教や神道などの宗教的な伝統、習慣、価値観にあふれています。特定の宗教団体に属さず、日常的に宗教的な習慣をもたない人は多いですが、信仰心がないわけではありません。お盆になれば先祖が帰ってくると普通に言いますし、誰かが亡くなれば成仏してもらおうといろいろやります。祭となれば信仰心と地域の結びつきと経済効果が一体となったような盛り上がりを見せ、ドーンとあがってパッと散る花火に人のいのちや亡くなった誰かとの関わりを思い起こします。

そういう中でクリスチャンとしてどこまで関われるのか、具体的には葬式の時に線香を上げていいのか、どういう振る舞い方をしたら良いのか悩み、お祭りに誘われた時にどこまで許されるのか悩みます。続きを読む →

2024-01-14 この道を行けば

2024年 1月 14日 礼拝 聖書:ヘブル12:12-24

 一週間のうち、何度か車を使わずに教会までを徒歩で往復しています。退院後、最初は家の周りを500m、800m、1kmと少しずつ歩く距離を伸ばし、やがて教会まで歩けるようになりました。片道30分くらいですが、往復すると1万歩前後と、まあまあの運動になります。今年は雪がほとんどないので、この時期でもまだ歩けるのがとてもありがたいです。

教会と家を往復するときはいくつかルートがあるのですが、大体同じ道を通ります。風が強すぎるとか途中で寄りたいところがあるといった場合はよさそうな道を選びます。もちろん、どの道を行っても、道の先に何があるか分かりますので、夜あかりが少なくて道が見えにくくても、ほとんど困ることはありません。

しかし人生の道のりはというと、いつも道の先がよく見えているわけではありません。見えているつもりだったのに分からなくなったり、出だしから不安のまま歩き始めることがあります。しかし何かの芝居の台詞のように「一寸先は真っ暗闇」なんでしょうか。続きを読む →

2024-01-07 持たざることの幸い

2024年 1月 7日 礼拝 聖書:コリント第一 1:26-31

 新年が始まり、すでに七日。お休みできた方も、変わらず仕事があったという方も、故郷に帰っていたという人、子どもや孫を迎える側だった人、とくにすることなくのんびりしていたという人、様々なお正月を過ごされたことでしょう。

そして、新しい年を迎えたということで、何かに取り組み始めたという人がいるかも知れません。

私は普段、あまり新年の抱負というようなことを考えたり、言ったりしないのですが、今年はあります。「元気でいること」と「働き方改革」です。元気でいることを抱負に掲げると一気に歳を感じてしまうのですが、去年のこともありますし、まだ治療のプロセスの中にありますから大切だと自覚しています。そして「働き方改革」は健康や体力が元に戻っても、同じ働き方をしたらまた心臓に負担がかかることは目に見えています。それで、夜まで仕事を引きずらない、家に持ち帰らないということを去年から意識しています。どうしても避けられない事はあるかも知れませんが、減らしていきたいと考えています。

そして毎週の説教についても新しい試みを始めます。続きを読む →