2026-01-04 深みに漕ぎ出して

2026年 1月 4日 礼拝 聖書:ルカ5:1-11

 新年も4日目となり、明日から仕事始めという方も多いかと思います。年末年始はゆっくりできたでしょうか。

元旦礼拝の時に、「バンジージャンプかスカイダイビングをやりたい」ということでいろいろ検索している人がいましたが、スゴイ経験をするためには思い切って飛び出す必要があります。全く同じではありませんが、何か新しいことを始める時は、やはり思い切って踏み出す必要があります。ぬるっと始めたのに長続きしたり、何となく上手くいったということもたまにはありますが、大抵のことは決断と行動が必要です。

今日の箇所は、使徒ペテロたちがイエス様の弟子となっていく場面です。後にイエス様の働きを教会時代に引き継いでリードする器となった人たちがどのように導かれたのか見ながら、イエス様が私たちを新しい生き方や新しい道へと招くとき、どのように取り扱い、導いてくださるのか、ご一緒に学んでいきましょう。続きを読む →

2026-01-01 よろめくことなく誠実に

2026年 1月 1日 元旦礼拝 聖書:詩篇26:1-12

 新年おめでとうございます。

皆さんはどのような心持ちで新しい年を迎えたでしょうか。

2日前に、今年一年を振り返る時間を持ちました。一年を振り返って、2026年の歩みについて考えるためです。

昨年は個人的な目標として「一日一捨」を実践しようと考え、実際取り組みました。毎日何かを捨て、捨てたものを記録するというのを8月くらいまでは何とかやっていました。だんだん毎日というわけにはいかなくなり、8月あたりから記録も途絶えました。結構いろんなものをメルカリに出したり、ゴミとして処分しましたが、新しい趣味も追加になったので、増えたものもあります。そんなことも踏まえて、今年一年の歩みについていくつか取り組んでみようと考えていることがあります。皆さんはいかがでしょうか。

あまり大きな目標を立てる必要はないかもしれませんが、せっかく新しい一年をいただいたのですから、今朝は今年一年の歩みのために詩篇26篇からヒントを得たいと思います。続きを読む →

205-12-28 神の国の福音とは

2025年 12月 28日 礼拝 聖書:ルカ4:31-44

 年が明けてから、祈祷会では「天国」についての学びをしていこうと計画しています。これは、4月から神学校のクラスとして担当する予定の講座の準備のためなのですが、聖書が教える天国って何なのか、私たちはどういう希望を持てるのか、私たちの人生にどういう意味があるのかを学んでいきたいと考えています。

実は、今私たちが使っている聖書には「天国」という言葉は出て来なくて、今は「天の御国」というふうに訳されます。そして「天の御国」という言葉自体はマタイの福音書には出てこなくて、他の福音書ではもっぱら「神の国」という言い方になっています。つまり、天の御国と神の国は同じ意味なのです。

今日の箇所には「神の国の福音」という言葉がはじめて出てきます。私たちが聴き、信じた福音は「神の国の福音」だということなのですが、「天国の福音」だと何となくイメージできても「神の国の福音」はピンと来ない人が多いのではないかと思います。イエス様が伝えようとした神の国とはどんなものでしょうか。続きを読む →

2025-12-21 恵みとまこと

2025年 12月 21日 礼拝 聖書:ヨハネ1:14

 今日はクリスマスということで、こうして皆さんとともに御祝いできることを本当に嬉しく思います。

クリスマスはイエス・キリストがお生まれになったことを御祝いする時ですので、イエス様に注目したいと思います。私たちの家族や友だちの誕生会なら、注目すべき主人公は目の前にいますが、いまイエス様をこの目で見ることはできません。しかし、イエス様は私たちと共にいてくださるので、想像の翼を広げつつ、聖書の言葉に耳を傾けることを通して、イエス様に注目したいと思います。続きを読む →

2025-12-14 約束の成就と人々の憤り

2025年 12月 14日 礼拝 聖書:ルカ4:16-30

 アドベントに入ってクリスマスに向けての準備もいよいよ本格的に進み始めています。リリーベルの皆さんの練習曲もクリスマスに因んだ曲が多くて、かすかに聞こえてくる演奏にクリスマス気分をずっと味わっています。

さて、そのクリスマスに人の子としてお生まれになったイエス様は、およそ30歳になったときに、ガリラヤ地方でメシヤ、すなわちキリストとしての働きを始め、あたり一帯で評判になっていました。これまでのところ、ルカの福音書を見てきて分かることは、イエス様がイスラエルの民に約束されてきたメシアとしてお生まれになったということです。それはアブラハムと神様との間に結ばれた契約に基づいており、ユダヤの民は数百年におよぶ外国勢力の支配の中でずっとその実現を待ち望んで来ました。しかし、外国人である日本人にとって疑問なのは、アブラハムの子孫に約束された救い主が、なぜ、外国人である私たちにとっても救い主なのか、自分の国の神々ではだめなのか、ということかも知れません。続きを読む →

2025-12-7 試練と称賛

2025年 12月 7日 礼拝 聖書:ルカ4:1–15

 会社勤めや家業の手伝いなどで最初に任された仕事はどのようなものだったか覚えているでしょうか。もしかしたら掃除だったかもしれないし、簡単なコピーとかだったかもしれません。

イエス様も父ヨセフの仕事である大工の技術を身につけるために、最初にやったのは材料運びや道具の手入れ、掃除とかだったかもしれません。それは技術がない者に任せる雑用ということではなく、仕事全体の土台となることです。

イエス様の生涯における最も重要な務めは神が約束された救いの実現でした。そのスタートは前回見たように、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けることで、神ではなく人として、罪ある者、汚れた者の側に立ち、徹底してへりくだり仕える者としてのあり方を示すことでした。

そして今日の箇所は、働きを始めた時のいわば最初の仕事です。この経験にはどのような意味があったのでしょうか。続きを読む →

2025-11-30 恵みの良い管理者

2025年 11月 30日 礼拝 聖書:第一ペテロ4:7-10

 今日は、私たちは神様から与えられた様々な恵みの良い管理者であることについてみことばから聞いていきます。

ところで10節に「賜物」という言葉が出てきますが、「あなたの賜物は何ですか」と質問すると、ごく稀に「私の賜物は○○です」と自信を持って応える人がいる以外は、多くの人が「分かりません」とか「私には賜物なんてありません」「賜物って何ですか」と応えるような印象を持っています。

賜物をある種の才能というふうに理解してしまうと、自分にはそういうものはないと言いたくなるでしょう。また賜物は「御霊の賜物」だから、クリスチャンになる前に持っていた才能や技術とは無関係な、何かミステリアスで、霊的な何かだというふうに捕らえる人もいますが、それは狭すぎる考え方です。

「恵みの良い管理者」という言葉があるように、神様は私たちに様々な恵みを与えておられますが、特に、教会の交わりや働きに用いるようにと備えてくださっているものを賜物と理解しましょう。続きを読む →

2025-11-23 へりくだりから始まる

2025年 11月 23日 礼拝 聖書:ルカ3:21-38

 この中には、ここ数年で新しく楽器を始めたという方が結構おられます。トーンチャイムとかウクレレとか。始めるときには「楽しそうだな」とか「やってみたい」という気持ちがあったでしょうし、誰かから「やってみよう」と誘われたかもしれません。ちょっとした思いつきであれ、新しく何かを始めるときには、内なる動機とそれを後押しする何かがあるものです。

私の好きな小説家は、神宮球場外野席にある芝生に寝そべりながら野球の試合を眺めているとき、突如「小説を書こう」と思い立ったそうですが、そういう天啓のような場合もあるかもしれません。いずれにしても「よしやってみよう」という瞬間があります。

ここまでルカの福音書でイエス様誕生からバプテスマのヨハネの活動まで見て来ました。イエス様がメシアとして誕生したけれども、ごく普通の赤ん坊として産まれ、その時代の少年と同じように成長してきました。そんなイエス様が、30歳になったころ、突然活動を始めるのですが、いったい何があったのでしょうか。続きを読む →

2025-11-09 完成に至るまで

2025年 11月 9日 礼拝 聖書:ピリピ1:3-6

 人生にとって成功とは何でしょうか。やりたいことを全部やったら成功でしょうか。仕事ですごい業績を上げたり、社会的に地位を上り詰めたら成功でしょうか。友だちをたくさん作れたら成功でしょうか。子どもをいい学校に入れられたら成功でしょうか。使徒パウロは最後の書簡、テモテ第二の手紙で、自分は走るべき道のりを走り終えて義の栄冠を主から受け取るだけだと言い切ることができました。彼にとっての成功は、主から託されたことをやり遂げたことでしたが、多くの人たちが困っているのは、主が自分に託したことはいったい何なのか、というところで確信が持てずにいることかも知れません。

では、教会の場合はどうでしょうか。イエス様を信じる者たちの集まりである教会にとって成功とは何でしょうか。素晴らしい会堂を献堂することでしょうか。多くの人数が集まるときでしょうか。

地方の小さな教会にいると、都会の大きな教会、元気で活発な教会、立派な会堂を建てた教会を見ると「すごいなあ」「いいなあ」「上手く行ってるなあ」と単純に羨ましく感じます。

しかしイエス様は果たしてどのようにご覧になっているのでしょう。今日の箇所にも「完成」という言葉が出てきますから、人生であれ教会であれ、その歩みが向かって行くべき方向性があることが分かります。果たして何をもって成功といえるでしょうか。

1.感謝と喜び

今日開いているのは、使徒パウロがギリシャにあるローマの植民都市であったピリピに生み出した教会に書き送った手紙の冒頭部分です。挨拶のあとで、パウロはピリピ教会のことでどれほど神に感謝し、喜んで祈っているかを書き記しています。

パウロは成功という言葉は使っていませんが、ピリピ教会はうまくいっている教会と言えました。もちろん、手紙を読み進めればピリピ教会にも問題がなかったわけではないことはすぐに分かります。それでも、パウロはピリピ教会の様子を思いうかべて祈るとき、感謝と喜びが自然とあふれて来たのです。

パウロが私たちの教会の様子を見たり聞いたりしたとき、同じような反応は返ってくるでしょうか。いったいパウロはピリピ教会の何を見て感謝し、喜んだのでしょうか。それはイエス様がご自身の教会についてこうあって欲しいという姿と深く結びついています。

5節には、パウロが感謝し喜んでいる理由が書かれています。「あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。」

理由は明白なように見えます。ピリピ教会が福音を伝えることに「ともに」携わってきたことです。では「ともに」という小さな言葉が添えられることで何を言おうとしているのでしょうか。

ピリピ教会にとってパウロは、教会の設立者です。しかしパウロはピリピに長くとどまることはせず、次の町へと移動します。

ピリピ書を読み進めると、ピリピ教会が物心両面でパウロの宣教旅行に協力し、大きな励ましになっていたことが分かります。それはパウロにとっては確かに大きな感謝であり励ましでした。他の教会がそこまでしてくれることはあまりなかったのです。

しかしパウロは、サポートしてくれることより、ピリピ教会自身が、パウロと同じ心で、自分たちの町で福音を宣べ伝え続けていたことを何より感謝し、喜んでいたのです。宣教師が、自分をサポートしてくれる教会がたくさん献金してくれているのに、自分たちの町では全然伝道していないと知ったら、献金には感謝するでしょうが、とても悲しく複雑な思いをするのではないでしょうか。

パウロが市ピリピで福音を伝え、教会を設立したのは紀元56年から57年にかけての冬のことだったと思われます。そしてローマで手紙を書いたのが62年の春頃と考えられます。教会設立からだいたい5年くらい経っていたと考えられます。

6節の「最初の日」つまりピリピ教会が始まったときの様子が使徒の働き16章に記されています。パウロはシラスという弟子と途中で加わったテモテにギリシャに渡ります。このとき後に福音書と使徒の働きを書くことになる医者ルカも同行することになります。

そして最初の主要都市であるピリピの町でリディアという紫布の商人と出会い、彼女が最初にキリストに導かれます。さらにシラスとともに捕らえられてしまいますが、鞭で打たれ牢に入れられた夜に起こった奇跡を通して看守とその家族がイエス様を信じます。その後パウロたちは次の町に向かうために旅立ちます。しかし、手紙を書いている時には、教会は成長しており、使徒の働きには出てこない名前も手紙に出てきます。この5年間、リディアと看守家族はパウロから聞いた福音を信じて自分たちだけで信仰を守っていたのではなく、パウロの福音宣教を引き継いで宣べ伝えていたのです。

2.主が始めてくださったこと

一昨年、私たちの教会は70周年を迎えました。その数年前に最初の宣教師、ソレンティノ先生の長男ポールさんがご夫妻でおいでくださいました。退職を記念して、奥さんが取り計らってお父さんのはじめた教会がどうなっているかを見たかったからです。5年と70年ではだいぶ違いますが、それでも、70年前に主がお父さんを通して始めてくださった宣教の働きがただ細々と維持されているだけでなく、世代を超えて確かに働きが広がっているのを見て本当に感動し、喜んでいました。ですから70周年記念の時に、ピリピ1:3~6を引用して、お祝いの言葉と祈りを捧げてくださったわけです。

教会に成功があるとするなら、それは、主が始めてくださったことをやり遂げて、次の世代にしっかりと受け継ぐことができることだと言えないでしょうか。一つの世代で完成することはありませんし、何世代かけても、その時代時代にいろいろな課題、問題に直面し、その都度悩み戦わなければなりません。完成させてくださるのは主であり、それは主が再びおいでになるときのことですが、私たちはいつもその日を待ち望み、その日に向かって主が始めてくださったこと、また委ねてくださった良い働きに取り組み続ける必要があるのです。

では主が始めてくださった良い働きとはなんでしょうか。

9~11節にはこの良い働きのゴールが書かれています。愛が豊かになり、良いもの、大切なことを見分けることができ、まっすぐな心と誠実な振る舞いができ、豊かに実を結んで、神の栄光と誉れを表す者になっていることです。

そのために何が必要かというなら、27節にあるように、キリストの福音にふさわしい生活をすることです。そしてキリストの福音にふさわしい生活というのは、単に道徳的に正しい生活とか、教会の伝統や教団の規範を守っているというようなことではありません。教会の交わりの中で信仰と心が一つにされ、福音の証のためにともに戦うということなのです。そうすることで30節にあるように、ピリピの兄弟姉妹たちが目撃したパウロの経験、つまり福音に生き福音のために苦闘する姿を、自分たちも経験しているのだと説明しています。牢屋の中でそれが、パウロのいうところの「福音を伝えることにともに携わってきた」ということの意味合いです。

そして、このことこそがピリピの町でイエス様が始めてくださったことであり、イエス様がもう一度おいでになる時に完成させてくださることです。イエス様が私たちのうちに始めてくださった良い働きというのは、私たちの罪が赦され、良心の呵責や不安から自由になり、安心して幸せに暮らせるというようなものではなく、もちろん罪は赦され責めから解放されるのですが、それだけでなく、私たちがますますみことばによって心も人との関わり方も神の家族の間での関係や奉仕、私たちが暮らしている世界での生き方も新たにされ、この世界の人々に福音を携えて遣わされることまでを含んでいるのです。

つまり、イエス様が始めてくださった良い働きの完成というのは、私たちがクリスチャンとして成熟することだけでなく、神の家族としての教会が心を一つにし、福音を宣べ伝える働きが完了することまでを含むということです。

3.福音の務めと成熟

では、クリスチャンが成熟し、神の家族として心を一つにし、福音の務めを果たしていくために、具体的に何に取り組む必要があるのでしょうか。

もしかしたら多くの人が挙げるのは「礼拝」ということかもしれません。信仰生活や教会の中心は何だと言ったら、迷いなく「礼拝」と答える人が多いと思います。確かに、現代の教会は日曜日の礼拝を中心に回っています。場合によっては礼拝さえ守っていれば教会は大丈夫、信仰生活は大丈夫とさえ思われています。私たちの教会の週報には第3807回とまで書かれています。

ところが、教会について新約聖書が教えていることを見ていくとき、私たちが思いうかべる礼拝についてはほとんど教えていません。確かに、賛美、祈り、みことばの教えといったことは書かれていますし、命じられています。そして聖書全体が神を礼拝することを強く指し示しています。しかし、それは私たちが日曜日に教会堂で決まったプログラムで礼拝するということとは大分異なった意味合いで言われているのです。もちろん、日曜日の礼拝は不要だとか、間違っているということではありません。しかし使徒たちが教えた教会の姿はもっとシンプルな集まりでした。食事を共にし、みことばから互いに学び、励まし合います。そうした交わりの中で一人一人の成熟を目指し、各家庭や神の家族としての教会を建て上げ、福音の素晴らしさを生活を通して証しする。奉仕についても、礼拝を中心とする現代の奉仕と比べてずいぶん違って見えます。

実際、パウロをはじめとする使徒たちが教会に教えていることを大きな視点で見ていくと新しい発見があります。

例えば、ピリピで宣教をしていたときに行動をともにしていたテモテに宛てて後に書いた手紙には、次世代の教会指導者に対して、教会で何を教えるべきかが書かれています。

そこには、私たちが教会の会議や話し合いで議題になるようなことは出て来ません。テモテ自身が福音にしっかり立ち人々の模範になること、他の人に教える能力のある人たちを励まし強め働きを委ねること、家庭や神の家族としての教会の中で人々がどのように振る舞うべきかを教えることが書かれています。

教会に関するまとまった教えが書かれているエペソ書を見ても、教理的な教えをどう実践するかという後半部分では、夫婦や家族、神の家族としての教会の交わりを互いへの愛と尊敬によって築くことにもっともページが割かれています。

福音についてまとまった教えがあるローマ書でも、後半の12章で「自分を献げる事が相応しい礼拝だ」といって、教会の交わりの中での仕え方、人間関係、社会での生活の仕方がほとんどです。

教会の様々な問題を取り上げたコリント書でも何が問題になっていたかというと、教会の集まりの中での人々の行動です。有名な聖餐式についての教えも、儀式としての聖餐式をどうするかとか、パンと杯に対してどのような信仰・態度で向き合うかではなく、パンと杯を共にするお互いに対してどのような関係を築いているかを問いかけています。

同じようにピリピへの手紙の中でも、神の家族の中で宣教を共に担っているユウオディアとシンティケに仲違いせず心を合わせるようにと、名指しで励ますのです。

適用:完成を目指して

聖書の教えはどれも目新しいものではなく、何度も聞いたことのあるものかもしれません。しかし、それが実際に私たちの教会の課題や問題意識、目標と結びついているかというと、かなり偏ったものになっていなかったかと考えさせられるのです。また個人の生活と教会の働きとがバラバラになっていることもしばしばです。

子どもの頃に歌った賛美歌で「福音の汽車に乗ってる、天国行きにポッポ」というのどかな歌がありました。もちろん、この歌はイエス様を信じるだけで救われるんだよ、ということを子どもに向けて歌ったものだし、その面でそれは正しいと言えます。しかし信仰の歩みは、電車の中でよく見かける光景のように誰とも話さず、眠っているかスマホをいじっているかしていれば目的地に着くというようなものではありませんし、新幹線で移動する修学旅行生のように自分たちだけで盛り上がってワイワイやっていたら自動的に天国に到着するようなものでもありません。

イエス様は私たち一人一人にただ電車に乗って到着を待つような信仰生活ではなく、一人一人に、置かれた家族や教会の交わり、社会の中でなすべきことを与えてくださいました。それは私たちが罪赦され救われるためにする善行や徳を積むようなことではなく、キリストが王として治める世界はこういうものだという実例を示すようなことです。互いに愛し合い、尊敬し合う家族や教会の姿はこの世界に対して、それだけで力強いメッセージになります。そして私たちにとっては、神様の前での生き方、妻や子どもたち、教会家族や隣人達に良いものを与え、遺すことができたと思えるなら、それが人生の成功と言えるでしょう。

確かに主は、私たちのうちに良い働きを始めてくださり、主がもういちどおいでになるまでにそれを完成させてくださいますが、これまで見たように、この良い働きは、教会で取り組む個別のプログラムや事業ではありません。それらは時とともに変化し、始まりもあれば終わりもあります。私たちには自分の人生を通して、この地上の現実世界の中で生活しながら、神のご支配とご愛が目に見える形でこの世界にやってきたことを示す務めが与えられているのです。私たちが日々の人との関わり、家族や教会をどう建て上げていくのか、私たちが受け取った救いの恵みを他の人に分け与えるために何ができるのか、私たちは聖書に教えられながら考え、取り組み続けていくことで、パウロやピリピのクリスチャンたちとともに福音を伝えることに携わる者の列に加わるのです。

今日の午後、私たちは教会の将来について語り合う、「みらいワークショップ」の1回目を開こうとしています。今やっていることを継続するという視点から一旦離れて、イエス様が私たちのうちに始めてくださったことを、私たちのこととして受け止め、どのように取り組んで行くのかという視点で考えられたら素晴らしいと思います。

今日の午後はとくにこれまでの72年の歩みをみんなで振り返りながら、イエス様が私たちの教会をどのように導いてくださったか、その中で教会が取り組んできたこと、やめてしまったこと、成し遂げたこと、やり遂げられなかったことなどを確認し、教会が何を大事にしてきたか。聖書が教える教会の姿と比べていったいどうだったのか、足りなかったことは何か、もっと創造的にできることはないかなど、考えていきましょう。

私たちのうちに良い働きを始めてくださった主イエス様は、それを完成させてくださいますが、私たちの世代でできること何か、次の世代にできるだけ良いものを受け渡すためにどうしたらいいのかを考えたいと思います。

祈り

「天の父なる神様。

あなたの深いお考えと摂理によって、私たちのうちにもイエス様による良い働きを始めてくださり、ありがとうございます。私たちの罪が赦されて天国に行けるというだけでなく、私たちが福音に根ざして生活し、生き方を通して福音を証し、また福音を語る働きに加えられる新しい人生へと招いてくださいました。

いろいろ足りない所がある私たちですが、それでも私たちのうちに始めた良い働きを完成させてくださるとあなたは約束してくださいました。私たちの不完全さではなく、あなたの約束と真実を信じて、私たちが自分の人生、この世代で家族や教会を通してなすべきことを示してくださり、私たちもまた喜んで仕えていけますように。

どうぞ私たち一人一人の人生と家族、また神様の家族としての教会の歩みを祝福し導いていてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

2025-11-02 荒野で叫ぶ声

2025年 11月 2日 礼拝 聖書:ルカ3:1-20

 「荒野で叫ぶ声」で思い出すのは、昔観た西部劇の「シェーン」の最後のシーンです。荒くれ者に困っていたある家族のもとに、ふらっと立ち寄ったシェーンという流れ者が、家族の世話になりながら、その家の男の子と交流を深め、荒くれ者たちから守って旅立っていくとき、馬に乗って荒野を遠ざかって行く姿を目で追いながら「シェーン、カンバーック」と呼ぶシーンが印象的でした。その後、「シェーン、髪バーック」という、育毛剤のCMに使われたりもしましたね。古い話ですみません。

荒野に声が響き渡る情景はとても印象深いものがあります。見渡す限りの荒野なのに、声があちらこちらに跳ね返りこだまします。ある種の寂しさやすさんだ心の情景を重ねて感じ取ってしまうのかもしれません。

今日は月初めの主日ですので、主の恵みの器として用いられた人を取り上げる日ですが、ちょうどルカの福音書でバプテスマのヨハネの箇所に来ましたので、バプテスマのヨハネにスポットを当てたいと思います。

荒野で声を上げたヨハネはいったい何のために荒野で語り始めたのでしょうか。今日は彼に倣うというより、彼が何を語ったのかに耳を傾けたいと思います。続きを読む →