ドラキュラ城?

みなさん、おはようございます。
日曜の午後、ゲストハウス側の駐車場に何か小動物のフンらしきものがありました。よく見れば、壁の隙間にまだあります。「これはもしかして」と思って、隙間の中にライトを照らしてみると、そこにはぐっすりお休み中のコウモリたちが。少なくとも3匹は確認できました。まもなく午後の市内牧師会や夕拝があるので、どう対処しようか考えながらとりあえずそのまま。一夜明けて朝確認すると、きっと夜の間にたくさんエサを食べたのでしょう。積もるものも増えている気配。これはさすがにそのままにはできないということで、とりあえずホースの水で洗いながしました。すると、これはたまらんと隙間から這い出すコウモリたちが6〜8匹。建物の隙間からコウモリが這い出すなんてドラキュラ城かと笑ってしまいました。それにしても、あの狭い隙間に潜り込んでいたものです。コウモリたちに退居していただいたあとは板で仮に塞いでおきました。
無理やりな喩えかもしれませんが、私たちの生活や心の隙間に知らぬ間に悪しきものが入り込み、住み着いてしまうことがあります。そこに何かが潜んでいることに気付いた時には、覗き込むのはちょっと怖いです。でも、それは早くみつけて対処しなければ、もっとひどいことになり得ます。

“私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て
私をとこしえの道に導いてください。” 詩篇 139:24

佐々木真輝

2023-06-11 望みに生きる旅人たち

2023年 6月 11日 礼拝 聖書:ペテロ第一1:1-12

 先日、トルコ・シリアの大震災の被災地へ奉仕と視察のために行って来た方から現地の様子をお聞きしました。政府や民間機関が被災者支援のためにあまり機能していない状況の中で、日本の教会が被災地でどのように仕えたかから学びつつ、小さくはあるけれども一生懸命地域の人々のために仕えておられる様子をお聞きしました。もともと聖書の時代に最初にキリスト教会が急拡大した地域で、イスラム教の勢力が圧倒的になってからも相当数のクリスチャンがいましたが、多くのキリスト教徒が暮らしていたと言われる地域が虐殺される出来事がありました。その結果、国内のクリスチャンは圧倒的な少数派になって今に至ります。もちろん、皆が過激な人たちではなく、ほとんどの人たちは親切で温厚な人たちなのですが、宗教的なことではかなり敏感になり、過激な行動をとる人たちがいるために、他宗教には警戒感が強いというのが現実です。

日本もそこまでは過激になることは滅多にありませんが、事情としてはよく似ている面があります。続きを読む →

さびついた戸車

みなさん、おはようございます。
家の引き戸の動きが悪いから見てちょうだいと言われ点検しました。以前つまっていたゴミを取ってから大分時間がたっているせいかなと思いましたが、そうではありませんでした。戸車の一つがさび付いていました。潤滑剤を使ってみましたがどうにも動きません。ちょっと気付くのが遅すぎましたね。あとで部品を買って交換することにしました。
動きが悪くなるというか、人との関係性がギシギシいうようにうまく行かないことがありますね。最初のうちは何とかなるのですが、そのうちだんだんきしみが強くなり、どうにもならなくなります。そうなる前に寛容さ、親切、善意といった潤滑油を注いでおくべきです。

“何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。” 1ペテロ 4:8

今日は****さんの誕生日です。祝福を祈ります。

佐々木真輝

金網

みなさん、おはようございます。
昨日、仙台に向かうために高速道路に入るとほどなく護送車と思われる車列に出会いました。窓がすべて金網で覆われていて中の様子が分かりません。4台ほど並んで走っている後ろにパトカーもついていましたが、追い越して先へ。するとまた同じような団体が。さらにその先でも同じような車列に5回くらい出会って、「いったい何があったんだろう」と思いました。家に帰ってから調べたら、あれは囚人を護送するような車両ではなく、警察の人員を運ぶためのもので、金網は投石や危険物を投げ込まれないようにするためのものなんだそうです。ああ、そういえば先週、天皇が被災地に来たというニュースをやってましたから、その関係なのかなと思ったり(真相は分かりませんが)。
同じ金網でも、犯罪者の逃亡を防ぐためのものもあれば、外からの危険を防ぐためのものもあります。見た目はどちらも厳ついですが、その内側にいる人たちにとってはまるで意味が違います。私たちを守る神様の御手とみことばは、傍目から見たら(私たちから見ても)ちょっと厳しく見えるかも知れませんが、それは私たちを閉じ込め、自由を奪うためのものではなく、私たちを守り、なすべき務めに向かえるようにするためのものです。

“神 その道は完全。
主のことばは純粋。
主は すべて主に身を避ける者の盾。” 詩篇 18:30

今日は*****さんの誕生日です。祝福を祈ります。

佐々木真輝

2023-06-04 希望から希望へ

2023年 6月 4日 礼拝 聖書:ローマ5:1-5

 先週は、70周年記念礼拝をともにお捧げすることができて、本当に感謝でした。記念礼拝の後、食事を一緒にしたときにアメリカに帰ってからのポールさんたち家族の歩みをお話してくださいました。詳しく話すことはできませんが、本当に誰の人生にも起こりうる苦悩や悲しみ、長い年月かかえたままの重荷などを通して、神様の深い愛と恵みを体験させてくださったことをお聴きしました。そして思ったことは、福音の働きは確かに神様の御わざなのですが、それは生身の人間を通してなされるということです。続きを読む →

知らずにいたこと

みなさん、おはようございます。
岩手にいるとまったくそんな気配はないのですが、台風の影響で相当広い範囲で災害レベルの雨になっているようで心配ですね。ニュースで知っている人たちがいる町の名前を聞くたびに余計に気がかりです。知り合いで事故やケガという話しは聞いていませんが、被害の状況は今後分かってくることでしょう。実は、スマホの気象データのサービスで大雨だということは知っていたのですが、実際に何が起こっているかは夜になってニュースを見るまで分かりませんでした。
私たちが知りうること、実感できることは、本当に小さな世界、狭い範囲のことに限られます。私たちはよく自分の経験で分かったつもりで語ってしまうのですが、ものごとには自分の知らない面や、気付いていない人の事情や気持ちがありうるということをいつも忘れないようにしていたです。

“主を恐れることは知恵の訓戒。
謙遜は栄誉に先立つ。” 箴言 15:33

佐々木真輝

祈り合うために

みなさん、おはようございます。
ほぼ一年ぶりでしょうか、市内牧師会が再開することになりました。少し前から「そろそろ再開したいですね」と話しはしていましたが、それぞれの状況の変化もあり、なかなかタイミングが掴めずにいました。リレーフォーライフの関係で訪ねたりしている中で話しが具体的になっていき実現に至ったというわけです(リレーフォーライフのイベント翌日というハードな日程ではありますが)。
互いの励ましのため、祈り合うためには時間をつくり、いろいろな予定を調整しなければなりません。それは余った時間でやるようなものではありません。無理して、いやいやするものではありませんが、大切なことであり、互いのためになることなので、いくらかの犠牲を喜んで払う価値のあることです。それでいて「犠牲を払っている」という感じはしなくなるものです。

“そして彼らに別れを告げると、祈るために山に向かわれた。” マルコ 6:46

今日は***さんの誕生日です。祝福を祈ります。

佐々木真輝

指紋のように

みなさん、おはようございます。
先日の70周年記念礼拝は、神様の真実さ、忍耐、恵み豊かさを味わう素晴らしい時となりました。この日のために準備にあたってくださった皆さん、祈り支えてくださった皆さんの働きも本当に素晴らしいものでした。私にとって印象的だったのは、ソレンティノ先生の長女キャシーさんのお手紙と長男ポールさんの祝辞で引用された聖書箇所が同じピリピ書1章の挨拶の箇所だったことです。そして、私が教会のことを考える時にまっさきに思い浮かぶ箇所も同じみことばです。
兄弟姉妹たちの労苦や忠実さ、愛をよく知っていればこそ、それらすべてをもたらしてくださる神様の恵みと主イエス様の忠実さが際立ちます。というのも、教会の歩みに表れる信仰と愛と希望に根ざした忍耐が神様が真実に働き続けてくださっていることのしるしだからです。皆さんの労苦の中に神様の忍耐が、皆さんの奉仕にイエス様の忠実さが指紋のようにくっきりと浮かび上がるのです。

“あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。” ピリピ 1:6

リモート参加された方々が70周年のビデオをちゃんと見られなかったようですので、ご覧いただけるよう準備しています。少しお待ちください。

佐々木真輝

迷うとき

みなさん、おはようございます。
昨日の午後、ポールさんたち、将司先生たちが無事に到着しました。一緒に夕食をいただくために予約していたレストランに行ったのですが、皆さん(自分も含め)なかなか注文を決められません。お店の人も「まだかなあ」という感じを出さないようには気を遣ってましたが、だいぶ待ってもらって何とか注文もまとまり、無事に食事にありつきました。
いろいろ迷って、悩んで、なかなか決断できない、選択ができない、ということは時々ありますね。思慮深くあらゆることを検討して決める人もいますし、思いつきや直感に従う人もいます。誰かに決めてもらいたがる人もいます。いつでも確信をもって決められるわけでもないかもしれません。70年の教会の歩みを思い巡らすとき、きっといろいろな場面で迷ったり悩んだりしたのだと思いますし、私自身も「あの時の選択は正しかったのか」と悩むことも少なくありません。それでも教会が生き続けて来られたのは間違いなく私たちの選択の正しさではなく、神様の真実のゆえです。個人の人生においても、イエス様は私たちに対して真実でいてくださるので、どんな選択をしてもイエス様が良いことへと導いてくださる信頼と期待を持っていましょう。

“私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」” 2テモテ 2:13

今日は70周年記念礼拝です。共にお祝いできることを感謝します。***さんの誕生日でもあります。祝福を祈ります。

佐々木真輝

いつのまにか

みなさん、おはようございます。
昨日朝いちばんに石材屋さんとの打合せのために教会墓園に行くと、どなたかが綺麗に草刈をしてくださっていました。あの人か、この人かと想像しましたが、誰にも何も言わず、黙ってやってくださるその姿勢がかっこいいですね。石材屋さんの社長さんは「佐々木さんがやってるんですか」と聞いたので「誰かが自発的にやったんだと思う」と応えたら、「素晴らしい、それこそ極楽浄土の…」と言いかけて「キリストの教えにかなったことじゃないですか」と謎の褒めことばを頂きました。言わんとすることは分かります。
誰かに見せるためにではなく、主に示されるままに喜んでやったことは、何も言わずとも見るべき人の目にはちゃんと見えるもので、優しい気持ちや喜びを周りにもたらすものです。

“あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。” マタイ 6:3

ポールさんたちと将司先生たちは今日の午後、北上に到着予定です。道のりが守られるようお祈りください。

佐々木真輝