2022-10-23 与えられた恵みを何に使うか

2022年 10月 23日 礼拝 聖書:ローマ5:18-21

 先週、リレーフォーライフの勉強会があり、2023年度の活動に向けて動き出しました。実行委員になる人たちは一体何を求めて参加するのでしょうか。

来週の月曜日には、震災後に開拓伝道を始めた釜石市内のある教会で3.11いわて教会ネットワークの牧師や宣教師たちが集まってミーティングを行います。こうしたネットワークに参加するのはどんなメリットがあるのでしょうか。

他にも様々なボランティア活動があったり、地域の活動があります。半ば仕方なく参加しているものもあるかもしれませんが、そうした活動のほとんどは無償であり、場合によっては参加費をわざわざ払ってするものもあります。共通しているのは、自分の利益のためでなく、誰かに貢献するために参加します。誰かの役に立てる、自分が経験したこと、自分が持っているものをほかの人の喜び、良い経験、励まし、成長などのために用いることが出来る、ということ自体に喜びや充実を感じて行うわけです。

先週、ローマ書の4章までのところで、私たちは恵みにより信仰によって救われたこと、この福音だけがローマ教会に起こっていた対立を解決する唯一の土台であることを観て来ました。今日は残りの箇所から、与えられた恵みをどのように使うことで対立を超えた神の家族の交わりを造っていけるか、ご一緒に見ていきましょう。

1.神と人を愛する者に

第一に、恵みによって救われた私たちは、神と人を愛する者へと新しく造り変えられます。

ローマ書の残り、5章から終わりまでは3つの区分に分けられます。まずは5章から8章までで、この区分のテーマは恵みにより信仰によって救われた私たちが新しく造り変えられることが取り上げられています。

5章の始めに、信仰によって義と認められた私たちは神との平和、恵み、希望のある新しい人生に入れられており、それゆえに苦難でさえも私たちを祝福するものとして用いられる、そんな神の大きな愛の中にあることを告げています。

これは創世記のアダムとエバの創造に匹敵する、新しい創造であることが続く箇所で記されます。

12節以下の箇所で、罪と死に捕らわれている人間の代表であるアダムと新しい人の代表であるイエス様を比較しながら、信仰によって古い人が過ぎ去り、新しい人とされることを説明しています。イエス様はアダムをはじめとする人類全体と異なり、人として歩みながらも誠実に神の前に歩みました。最後には罪の身代わりとなって死んでくださいました。神はイエス様を三日目によみがえらせ、イエス様を信じる者にそのいのちを与えてくださるのです。

罪と死に捕らわれ、滅びるしかなかった全人類が、イエス様によってまったく新しく造り変えられ、神と人とを愛する者として新しい歩みができるようにされました。そのことを見えるかたちで表しているのがバプテスマです。6章にはバプテスマがイエス様を信じた者がキリストの死に結びつけられて罪の呪いと力から解放されただけでなく、キリストの復活のいのちに結びつけられて新しいのちに生きるようになったことを表す神聖な儀式であることが説明されています。

ですからイエス様を信じて罪赦され、新しく生きる者となったら、その自由を好き勝手な生き方などに使っていいわけはないということが6章後半で鋭く指摘されています。

しかし、そうなるとユダヤ人側から「ではなぜ神は私たちの先祖を選び、律法を与えたのか」という不満の声、疑問の声が上がって来ます。7章でこの点が論じられています。

律法には613の命令が記されていますが、それらは神様のイスラエルに対するみこころが示されています。12節にあるように、律法そのものは聖なるものです。律法がなければ何が罪で何が正しい生き方か分からなかったでしょう。しかし、律法があってもなくても罪を犯すのが人間ですから、律法が与えられた人々は、律法によって救われるどころか自分がより罪深い者であることを明らかにしてしまうのです。

このようなイスラエルの民のジレンマに解決を備えてくださるのがイエス様であり、私たちを聖め励ます聖霊です。イエス様が不完全な私たちを赦し、新しいいのちに生かし、矛盾を抱えた私たちのために聖霊がいつもとりなしていてくださるのです。

そうやって私たちが細かな律法の決まりを守ることによってではなく、新しい人として生き、神を愛し人を愛する者とされるのです。8章の最後に感動的に記されているように、もうこのような救いを与えた神の愛から誰も私たちを引き離すことはできません。

2.イスラエルへの約束

第二に、神様はイスラエルに対する約束を果たしてくださいます。9~11章には少し難しく思える話題が続いています。

ここまでのパウロの説明は、ユダヤ人だけでなく異邦人も、ただ信仰によって義と認められる、つまり神様の赦しを与えられ、神の民に加えられ、人生が変えられるというものでした。だとしたら、そもそも神様がアブラハムとその子孫に与えた約束はどうなのか。イスラエルが神の民とされたことに何か意味があるのかという疑問が起こってきます。ローマ教会にいたユダヤ人には大問題でした。

そこでパウロは神がイスラエルをお選びになった意味を説明し始めます。彼はまず、多くの同胞が福音を拒絶している事実を同じイスラエル人として心に痛みを抱えていることを告白しています。

神様はアブラハムと契約を結び、子孫であるイスラエルに律法を与え、彼らの歴史を通して礼拝や賛美、知恵などの豊かな実を結ばせました。何よりキリストはイスラエルを通してお生まれになります。そういう意味でイスラエルは特別な選びの器なのです。

しかし、イスラエル出身だからといって、みなが神の御国の民とされるわけではありませんでした。そのことを、実際の旧約の様々な出来事を通して示します。神様はアブラハムの子孫の中から、ある人たちを選び出して民としてこられました。

アブラハムの子孫だからということが神の民となる保証ではなく、神に選ばれた者たちが神の民とされるのです。ある人たちが残され、ある人たちが選ばれなかったときに鍵となるのは神に対する拒絶であり、神に対する信頼と信仰による応答でした。

しかし9:32にあるようにイスラエルの人々は、神に義と認められるのは信仰によってではなく行いによってであるかのように追い求めたので、残念ながら神様が備えてくださった救い主、キリストを受け入れることができませんでした。

10章では、この信仰によって義とされるということが、イスラエルだけでなく、異邦人にも当てはまることが有名な聖句で説明されています。10:9~12です。信じて告白することで救われ、そこにユダヤ人とユダヤ人以外の人たちの区別は一切ないのです。主はすべての人の主であり、誰にでも求める者に豊かに恵みを与えてくださいます。

では、イスラエルの民はどうなったのか。もう神様はイスラエルを見限ったのか。そうではないとパウロは11章で論じます。

今、アブラハムの子孫とされているのはイエス様を信じるユダヤ人とイエス様を信じる異邦人たちです。神様は新しい契約のもと、これらの人々を神の家族、教会としました。それは大切に育てられて来たオリーブの木に野生の枝が接ぎ木されたようなものだとたとえで説明します。なんだかんだ言って、アブラハムの子孫であるイスラエルを通して神の祝福はもたらされてきたし、彼らの拒絶を通して異邦人にも福音が広められて来たという事実はあります。

では、今イエス様を拒んでいるイスラエル民族はどうなるのか。折れた枝はそのまま捨てられるのか。パウロはそうではないと断言します。神様がアブラハムに約束した祝福の約束は守られるから、イスラエルの民がイエス様を受け入れる日が来ると11:26~29で語っています。しかしそれがいつ、どのようにしてかは明らかにされていません。ただ、希望は残っているのです。

3.神の家族の一致

このようにして、全人類の救いのために神様が備えたご計画は、アブラハムに約束され、その子孫を通して受け継がれ、彼らの不信仰や反抗さえもが、すべての人の救いのために用いられて来ました。しかも、神様は義なる方ですから、イスラエルを見捨てず、いつの日か彼らがイエス様を受け入れることになります。「福音には神の義が啓示されている」ということばにはここまで深い意味があり、まだまだ計り知れないところがあります。それでパウロは11:33で「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう」と驚きの声を挙げ、神を賛美しています。

そして第三に、ローマ書が書かれた、そもそもの問題、神の家族の一致への具体的な解決の道が記されていきます。それが12章から16章までです。

福音は異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンとの間にあった対立を解消し、再び一つに結び合わせるただ一つの土台です。今日のあらゆるクリスチャン同士の対立、へだたり、壁を乗り越えるのも福音です。神様はそれだけのものを私たちのためにそなえ、与えてくださいました。この一点で、カトリックもプロテスタントも、福音派もそうでないグループも一つになれます。

12:1のはじめに「ですから」とあります。私たちは、ローマ人であれ、ギリシャ人であれ、ユダヤ人であれ、神の福音により、キリストを信じる信仰によって神の民とされ、一つ家族とされたのですから、という意味です。ですから、私たちは心を新たにし、変えられていく必要があります。恵みによって一致は与えられていますが、一致を保つには私たちの努力が必要です。

どういうふうに心を新たにするのでしょう。ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンには様々な違いがあり、人間的には隔たりがあるように見えるけれど、私たちは同じ神の恵みによって救われた者同士だから、対立し、否定しあうのではなく、愛し合い、赦し合い、互いに仕え合うべき者同士なのだと、考え方、心の態度を新たにすることです。そして、その思いを実際の行動で表す努力をしていかなければなりません。

12章以下には、ローマ教会の実際の生活場面に応じて、新しい心で互いに愛し合い、赦し合い、仕え合うための様々な指針を与えています。私たちはこれらを新約時代の新しい戒律のように読むのではなく、置かれた状況や文化の中で、どうやって互いに愛し合い赦し合い、仕え合うのか、原則と知恵を学ぶような読み方をする必要があります。

ユダヤ人は異邦人クリスチャンを上から目線で断罪したり見下したりすべきではなく、同じイエス様を信じ、神の民とされた者として受け入れ、異なった生活習慣であっても認める必要があります。同様に異邦人クリスチャンも、安息日や割礼や食事規定を大事にするユダヤ人を古い戒律に縛られている人たちと見下し、面倒な人たちと敬遠するのではなく、彼らを通して聖書が保存され、神の約束が守られて来たことを思い出し、敬意を払うべきです。

福音の本質的な部分では完全に一致しているべきですが、本質的ではないことで様々な違いがあっても、愛によって互いを認め合い、神がそうされたように互いに恵みと赦しを示し合うことで、神の家族の一致は保たれるのです。

適用:何に、誰のために使うか

15:14節からは手紙のまとめの部分になります。15:15でパウロは結構厳しく書いたけれど、「あなたがたにもう一度思い起こしてもらうため」だと書いています。クリスチャンたちがすでに知っていて、信じている福音の意味を改めて説き明かすことで神の家族である教会は一致を取り戻すことができます。そうしてはじめて、パウロは教会に励まされて次の働きへと向かうことができます。24節にあるように彼の願いはローマ教会の兄弟姉妹に会って、心を満たされてから、福音を伝えるためにイスパニア、つまりスペインに向かうことでした。

しかし、残念ながらそれはまだ先のことになりそうです。飢饉で苦しんでいるエルサレムの兄弟姉妹のために集められた献金を届ける仕事があるからです。その際には、ユダヤにいる同胞たちがイエス様を受け入れることや、異邦人のために奉仕しているパウロがユダヤ人の同胞に受け入れられることを願い、祈ってくださいとローマの兄弟姉妹たちに求めています。そして、いつか神様が道を開いてくださって会うことができるよう祈っています。

それからローマ書は最後16章で多くの名前を挙げながら挨拶を述べて閉じられます。挙げられた名前の多くは、古代の様々な碑文や記録にも出て来るローマではありふれた名前だそうですが、それぞれの名前から、多様な出身地や社会的地位の人たちがいたことが分かります。もちろんユダヤ人の名前も見えます。パウロはそうした一人一人のことを思い出し、気にかけ、称賛し、挨拶を送ります。16節には有名な「聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい」という勧めがあります。それぞれの文化の中で親しみや友情を表す挨拶がありますが、言いたいことは、ユダヤ人と異邦人の区別なく、親しみを込めて互いに挨拶をしなさい、ということです。私たちには口づけをして挨拶する習慣はありませんが、教会に来た誰に対しても、声をかけ挨拶すべきです。挨拶は互いの存在を認め、受け入れていることを表す最初の一歩です。

今日私たちはローマ書の残りを駆け足で見て来ました。もう少し丁寧に学んでいく機会をいずれ持ちたいと思いますが、今日は、ローマ書が書かれなければならなかったテーマに思いを巡らします。ローマ教会の分裂を回復し、一致を取り戻させるためにパウロが語ったこと。神様がパウロを通してすべての教会に示した、教会の交わり、一致を保ち強める唯一の土台が福音であること。キリストによって神の民、神の家族とされた私たちが、この福音に相応しく神を愛し、互いを愛する者とされるために、心を新たにしなければならないということに集中したいと思います。私たちは福音を信じ、福音に生きる者になる決心をしましょう。

私たちは神様から計り知れない恵みを与えられました。イエス様の十字架の代価によって、すべての罪が赦された者となり、まったく縁もゆかりもなかった神の民に加えられ、神の家族である教会の一員となりました。新しい身分、新しい居場所が与えられたのです。その上、聖霊によって新しく生きる人生へと変えられました。この恵みを以前のようにただ自分のために使うのではなく、他の人のために使うこと。義務感や嫌われたくない、見捨てられなくないという恐れのゆえに他人のために人生をすり減らすという意味ではありません。互いを神が愛してくださった大切な存在として認め、愛と赦しを示し、仕えることを、私たちの生き方として選ぶのです。それが心を新たにするということです。福音を信じ、福音に生きるということです。まずは歓迎の気持ちを込めて挨拶することからはじめてみましょう。そして与えられた恵みを、兄弟姉妹を受け入れ、また仕えるために用いる者になっていきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

私たちに計り知れない恵みを注いでくださりありがとうございます。私たちは、あなたがどれほど愛してくださったか、私の周りいる兄弟姉妹をどれほど愛しているか、十分には分かっていません。

ただ、福音がそうであることを私たちに教えています。その恵みのゆえに、ただ信仰によって赦され、神の家族に加えられ、新しい人生に変えられました。

どうかこの恵みを、どのように使うか、よくよく考え、心を新たにし、他の人のために喜んで用いることができる者としてください。互いの間に様々な違いや分断が起こった時に、赦しと恵みを与える者となることができますように。福音を信じ、福音に生きる者として神と人を愛する者になることができますように。

私たちすべての主であるイエス・キリストの御名によって祈ります。」

食わず嫌い

みなさん、おはようございます。
先日、テレビ番組で「生みそにぎり」が取り上げられていました(そんなこともあって昨日は久しぶりに作って食べました)。東日本の限られた地域で好まれて食べられていますが、他の地域の人たちは「考えられない」とか「美味しそうには見えない」「あり得ない」などとかなり否定的な印象を持つことが多いようです。それでも実際に食べてもらうと、目をまるくして「美味しい」という人たちが続出(という演出だったかもしれませんが)。多くの人たちは食べもしないで見た目の印象や食べ慣れたものと違うというだけで好き嫌いを言っているだけなのです。
福音もまた、私たちにとっては救いであり希望であり慰めなのですが、信じない人たちにとっては愚かしいもの、自分とは関係ないもののに見えるのでしょう。けれども実際に手にし、耳にして我がこととして触れてみれば、みことばに豊かな恵みと愛があふれ「美味しい」ものであることが分かってもらえるはずです。だからこそ、私たちは宣べ伝え続けるのです。

“十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。” 1コリント 1:18

佐々木真輝

野良犬は自由か

みなさん、おはようございます。
昨日は野良犬に会いました。というより、家のすぐ近くにいてじっとこちらを見ている視線に気づき、目をやると一瞬「キツネ?」と思う程痩せた野良犬でした。最近、滅多に見かけることはないのでちょっと驚きました。すぐに逃げていきましたが、いかにも十分食べていないような痩せ方で可哀想であるとともに、近所には小さい子どももいるので少し心配でもありました。
野良犬は飼い主はおらず、そういう意味では誰にも支配はされていませんが、決して自由ではありません。いつも食べ物を自力で探し、自分で身を守り、一緒に遊ぶ仲間もいません。もちろん神様は私たちの「飼い主」ではありませんが、人間は神から離れて生きるときに自らの必要、安心、つながりを得るために必死にならざるをえません。それは誰にも縛られないように思えるかもしれませんが、実際のところ常に恐れに縛られ自由がありません。人間は私たちを愛し慈しんでくださる神様とともにいることで本当に人間らしく、自由でいられるのです。

“キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。” ガラテヤ 5:1

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

減速

みなさん、おはようございます。
昨日の帰り道、もうすぐ交差点ということで減速しはじめたときに、左側から走り出す小動物。タヌキ?と思いましたが、急ブレーキをかけた車の下をけっこうな速さで慌てて走り去って行ったので、ムジナ(アナグマ)だったかなと思います。動物を轢いても事故扱いにはならず、むしろ急ブレーキで後続車に追突させたりでもしたら、そちらの方が問題になります。そうはいっても目の前の生きた動物を轢いてしまうのは心が痛みます(誰かの畑を荒らして来た帰りだとしても)。それにしても危機一髪でしたが、急ブレーキとはいえ減速していたので無事だったのでしょう。
私たちの人生には誰かとぶつかってしまうこと、ぶつかりそうになることがあります。そんなときブレーキもかけずに突っ込んでいったら大惨事です(若い時とか、性格によってはやってしまいがちという人もいますね)。人とぶつかるときは傷付くこともありますが、そこに何かしらの学びや成長もありますが、関係を破壊してしまわないためにも「減速」することは大事ですね。

“怒りを遅くする者には豊かな英知がある。
気の短い者は愚かさを増す。” 箴言 14:29

佐々木真輝

死の陰の谷を歩むとしても

みなさん、おはようございます。
昨日は午後から4回目のワクチン接種に行って来ました。一定の効果はあるらしいのですが気持ちの上では「念のため」という程度です。それはともかく、注射のあと、少し時間があったので『大災害の神学』という本を開きました。しばらく前に買っておいたのですが、なかなか読む時間がなかったので、一気に読みました。以前行われたシンポジウムの講演がそのまま本になったので、すでに知っている内容ではありますが、改めて読むことでいろいろ考えさせられます。
一番心に残ったことは、古代のクリスチャンたちは自然災害や疫病に直面したときに、被害を受け悲しんだり嘆くことがあるからといって、それが神の愛や救いを疑う理由とは考えもしなかったということです。そんな考え方をするようになったのは自然はコントロールできると非現実的な期待を抱くようになった近代以降のことだそうです。なるほどなと思います。案外私たちは勝手に思い描いた神様像、自然像に振り回されているのかもしれません。

“たとえ 死の陰の谷を歩むとしても
私はわざわいを恐れません。
あなたが ともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖
それが私の慰めです。” 詩篇 23:4

佐々木真輝

喜びの来訪

みなさん、おはようございます。
今日は学生時代にお世話になった教会の牧師夫妻が休暇を利用して礼拝に出席してくださるということで、とても嬉しく思っています(県外に出かけた方々が自主的にオンライン出席にすることが多い中、県外から来られた方々は体調に異常がなければ受け入れるというちぐはぐな状況になっていることは何とも悩ましい)。
お世話になった方や懐かしい人を訪ねたり、来訪することは私たちの心を励まし、喜びを満たしてくれます。年数に伴う変化に小さな心の痛みを感じることはあっても、主にある喜びのほうが大きいし、励まされます。早く、何の心配も心に咎めを感じることも人目を気にする必要もなく、訪ねたい方を訪ねられるようにと願うばかりです。

“私はあなたの涙を覚えているので、あなたに会って喜びに満たされたいと切望しています。” 2テモテ 1:4

佐々木真輝

2022-10-16 全ての人への良い知らせ

2022年 10月 16日 礼拝 聖書:ローマ1:8-17

 以前もお話したことがありますが、我が家で飼っていた二匹目のワンコがジストという特殊ながんにかかったとき、手術や治療がなかなか難しいと言われました。ただし、人間用に開発された分子標的薬なら、犬に使ったケースはほとんどないけれど効果があるかもしれないと教えてもらいました。保険が利かないし、国内で手に入れようとするとかなり高額になりますが、海外から個人輸入という形ならだいぶ安くなるという情報も教えてもらいました。実際、それを用いたら腫瘍が小さくなっていき、最後はほとんど見当たらないまでになったので、ジストの話しや犬の薬の話しになると、ついつい聞かれてもいないのにしゃべるようになりました。良い知らせとはそういうものです。

聖書を創世記から順番に見ていくシリーズは今日からいよいよ書巻に入ります。続きを読む →

手付かずだった剪定

みなさん、おはようございます。
昨日、家に戻ると留守の間にお願いしていた木の剪定が終わっていました。乱雑に伸びた枝を払ったり、隣地との境界に植えた後で大きくなりすぎた木を思いっきり詰めてもらったりしました。前々からやらねばと思いつつまとまった時間がとれず、切った枝の処分にも手を焼きそうでなかなか手がつけられませんでした。そんなわけで自力ではやらず助けを求めたというわけです。
Mさんと学んでいる本の中に、私たちは軽いリュックは自分で背負うべきだけれど、重すぎる岩を自分で背負おうとしてはいけない。そういうときは助けを求めるべきだ、というたとえが載っていたのが印象に残っています。負いきれない重荷を私たちの代わりに負ってくれた最大の存在はもちろんイエス様です。イエス様をはじめとする多くの人たちに助けられながら私たちは生きていますね。

“すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。” マタイ 11:28

佐々木真輝

痛みを担う

みなさん、おはようございます。お久しぶりです。
錦秋湖で神学校理事、教師、スタッフのリトリートが行われ、深い交わりと話し会いが出来、これからの働きのために良い時間となりました。それは良かったのですが、半月程前から足の親指の爪が皮膚に食い込む、巻き爪の状態になっていてかなり痛くなって来ていました。炎症も起きていたので、これ以上悪化する前にと昨日クリニックへ行き処置をしてもらいました。食い込んだ爪を浮かせてそこに保護のためのチューブを入れるのですが、まあこれが痛い事。我慢はできましたけど、それでも処置を受けている間に、小説や映画で何度か見聞きした拷問の場面が脳裏をよぎり「きっと痛みに耐えかねてペラペラしゃべっちゃいそうだな」なんてことを考えていました。
痛みは感覚を狂わせ、心をくじき、判断力を鈍らせ、痛みから逃れるためならば時として信念や道徳的な規範さえも放り出したくなるものです。ご自分が負う必要のなかった大きな痛みを、ただすべての人の罪の赦しと回復のためにイエス様が担ってくださったということの愛の大きさ、意志、謙遜、忍耐の限り、その苦しみの先にある希望を望み見る信仰、それらすべてがあらためてすごいことだなあと思わされます。そして「痛みを担い合う」ということが言葉は美しいけれど、本気でなかったら使えない言葉だなとも。

“まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。” イザヤ 53:4

佐々木真輝

2022-10-09 希望の光は地の果てまで

2022年 10月 9日 礼拝 聖書:使徒の働き28:17-31

 私は楽しみのために、たまに一人でテントを張ってキャンプをするのですが、その時に欠かせないのが灯りです。だいたいキャンプをする場所は外灯などはありませんから、手元を照らすためにも、雰囲気作りにも灯りは必要です。安物でも小さく炎がゆらめくランタンなんかがあると満足度が高くなります。

何であれ、灯りをともしたら当然適当な高さの所に吊したり、テーブルの片隅に置いたりして、必要なところに灯りが届くようにします。これは必ずそうします。ライトをつけてそのままリュックの中にしまうなんてことは絶対にしません。

イエス様は灯りをつけたら誰もそれを隠す人はいないというたとえをお話しになりました。ルカの福音書には、神の国について教えている箇所とエルサレムへの旅の途中での2回、イエス様がその話しをなさったことが記されています。続きを読む →