2020-10-11 たいせつなきみ

2020年 10月 11日 礼拝 聖書:創世記1:26-31

みなさんのお宅には読みかけの本がどれほどあるでしょうか。最近はそもそも本を読まない、買わないという人も多いですが、せっかく買ったのに本棚の飾りになっていたり、図書館から借りてきたのに一頁も開かずに返却した、という話しはよくあります。

私も、自分の楽しみのために買った小説や漫画は割とすぐ読むのですが、勉強のために買った本はさっと目をとおしてちゃんと読まずに置いておくことがあります。キリスト教関係の本は出たときに買っておかないとすぐに絶版になり買えなくなることがあるから、と苦しい言い訳を自分にしたりしてますが、もったいないことですね。続きを読む →

2020-10-04 なぜ聖書を読むのか

2020年 10月 4日 礼拝 聖書:テモテ第二3:10-17

 時が経つのは早いもので、およそ3年に渡って、マタイの福音書をご一緒に学び続けて来て、先週最後の箇所を終えることが出来ました。イエス様の公の働きも3年半と言われますので、だいたい同じ時間を旅して来たような心持ちですし、イエス様と弟子たちの旅がどれほど濃密なものであったかを覚えることができました。

来週からは創世記から黙示録までを一気に取り上げていこうと考えています。毎週1書ずつと思ったのですが、さすがに難しい面もあり、時には数回に分けながら、読み進めて行きたいと思います。

今日は、それに先立ち、なぜ私たちはそうやって聖書を読むべきなのかということをご一緒に考えて行きたいと思います。今月の御言葉として与えられた第二テモテ3:16は、聖書が神のことばであるという私たちの信仰を支える御言葉です。続きを読む →

2020-09-27 主イエスとともに

2020年 9月 27日 礼拝 聖書:マタイ28:16-20

さきほど歌った「イエスはわたしの友」という讃美歌の歌詞は「いつくしみ深き」という古い讃美歌の原曲の歌詞を訳しなおして、新しいメロディをつけたものになっています。私たちにとって、心許せる友人や、自分を任せられる家族は大切ですが、ときとしてそういう家族や友人でさえも、自分の胸の内を明かせなかったり、理解されなかったり、また対立してしまうことがあります。

けれども、イエス様はどんな場合でも私たちの友であり続けるというのがイエス様ご自身の約束です。そんなことを歌にしたのが「いつくしみ深き」であり、先ほどの賛美歌です。続きを読む →

2020-09-20 恐れから喜びに

2020年 9月 20日 礼拝 聖書:マタイ28:1-15

 2016年の暮れ頃から読み始めたマタイの福音書も、いよいよ残すところ、今日を含め2回となりました。今日の箇所は、普段なら春のイースターの頃に取り上げられる箇所です。

よく読んでみれば分かることですが、マタイの福音書には、イエス様の復活の様子そのものは何も描いていません。マタイだけでなく、マルコ、ルカ、ヨハネの三つの福音書も同様です。続きを読む →

2020-09-13 死にて葬られ

2020年 9月 13日 礼拝 聖書:マタイ27:57-66

 皆さんの多くは葬儀や埋葬の場面に立ち会ったことがあるかと思います。牧師になってからは司式者として遺族に寄り添うことが多いので、遺族への気遣いや式そのものへの配慮といったことに気を回すことが多いので、自分の感情はわりと後回しになります。それでも、火葬の時にあの扉が閉じられる場面は何度経験しても胸が締め付けられます。

葬儀で十分に悲しみを注ぎ出すことができ、丁寧に弔うと、実際にお墓に埋葬する時には結構気持ちが整理されていることが多いように思います。悲しみもよみがえりますが、笑顔も見られます。

しかし、イエス様の埋葬の場面はまったく異なりました。続きを読む →

2020-08-23 この方は本当に

2020年 8月 23日 礼拝 聖書:マタイ27:51-56

 「気付いた時にはもう遅い」ということがあります。しかし他方で、「気付くのに遅すぎることはない」とも言います。

起こってしまったことはもう元に戻せませんが、元に戻せないそんな所から、新しいことを始める道も必ずあるものです。

イエス様を十字架にかけてしまうということは、取り戻せないことです。神様のご計画のうちに起こったこととはいえ、当事者たちは、ねたみや怒りに駆られてイエス様を殺そうとし、総督ピラトは群衆の反応を恐れ、兵士たちはまるで余興でも楽しむかのような残酷さをもって処刑を実行しました。しかし、イエス様が息を引き取った後、ある人たちは我に返るように、イエス様が本当に神の子であったことに気付きます。果たしてそれは遅すぎることだったのでしょうか。それとも、遅すぎることはないのでしょうか。続きを読む →

2020-08-16 わが神、どうして

2020年 8月 16日 礼拝 聖書:マタイ27:39-50

 「死に際」という言葉があります。朝から重い言葉ですが、人は、誰かが亡くなった時に、その死に際がどうであったかにとても惹かれます。岩手には、義経伝説がありますので、弁慶が主を守るために何本も矢で射られても死ぬまで立ったままだったとか、義経は本当はその後も生きていたかもしれないなんて話しに興味が惹かれるだけではありません。

家族や友人、知人のいのちの火が消えようとするとき、どんな言葉を残したのか、苦しそうではなかったか、どんな表情だったか。そこにその人の気持ちや思い、あるいはその人の人生の意味や生き方まで重ね合わせ、その死を受け入れていくために、何かを求めて、「死に際」に心を向けるのかも知れません。

いよいよ今日はイエス様が十字架上で息を引き取られた場面となります。まさにイエス様の死に際です。続きを読む →

2020-08-09 十字架の道行き

2020年 8月 9日 礼拝 聖書:マタイ27:27-38

 イエス様の最後の一週間の出来事をたどり始めたのが昨年の11月半ばです。一週間の出来事をかれこれ9ヶ月かけてたどっています。最後の晩餐の日から翌朝の裁判のわずか一日の出来事も3ヶ月ほどかけて読んで来ました。途中、クリスマスがあったり、新年を迎えたり、月に一度は年間主題に合わせ「今月のみことば」を取り上げたりもして、抜けた週もありましたが、それにしても長くイエス様の十字架に向かう道のりをたどっています。続きを読む →

2020-08-02 クリスチャンのしるし

2020年 8月 2日 礼拝 聖書:ヨハネ13:34-35

皆さんが、クリスチャンらしさを発揮しようと思ったら、どういうことをするでしょうか。教会がこの世界にあって、教会らしくあるとはどういうことでしょうか。

イエス様を知らない人と私たちが違う生き方をするとしたら、その違いはどういうかたちで表れるべきでしょうか。子どもたちに、クリスチャンとしての生き方を伝えようとするなら、何を大切にするよう教えるでしょうか。

8月の「今月のみことば」として挙げさせていただいたのは、「新しい律法」とか「新しい戒め」と呼ばれているヨハネ13:34です。続きを読む →