2020-05-24 あなたがたはみな躓くが、

2020年 5月 24日 礼拝 聖書:マタイ26:31-35

 私は、いろいろなことに興味があり、すぐに手を出すのですが、同時に飽きっぽくて、長続きしないところがあります。「今度は続けよう」と決心しても、しばらくたつと、その決意は薄らぎ、まあいいかという気持ちの方が強くなってしまうのです。そういう弱さを自覚しているので、先週開いた最後の晩餐の席で、イエス様が「弟子の一人が裏切る」と予告されたとき、弟子たちが一人一人、イエス様に「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた場面はよくわかる気がします。

自分がその場にいたら、果たして「私は絶対大丈夫」と言い切れる人はどれだけいるでしょうか。虚勢を張ってそう言う人はいるかもしれませんが、心のどこかに「それでもひょっとしたら」という不安が残るのが人間ではないでしょうか。続きを読む →

2020-05-17 その日が来るまで

2020年 5月 17日 礼拝 聖書:マタイ26:17-30

 先週、「緊急事態宣言」が解除されましたが、これは主に経済活動を殺さないためのもので、新型コロナウイルスの感染拡大の危険性がなくなったわけではないということであろうと思います。

それでも、どうすれば感染拡大を抑えられるか、治療が効果的になるのかが分かってきていますし、ワクチンの開発も続いていますので、いずれはかかったら怖い面もあるけれど、つきあっていける病気の一つになっていくのかなと思います。

教会の様々な活動も、イベントも、やがて以前のように普通に出来るようになるでしょうし、また新たな可能性をもって出来るようになると思います。気をつけつつも、あまり気を張らず、その日が来るまで待ち望みましょう。続きを読む →

2020-05-10 語り継がれる二人

2020年 5月 10日 礼拝 聖書:マタイ26:1-16

 先日の葬儀では、ある意味貴重な体験をしました。新型コロナの影響で、人数が少なかったというだけではありません。火葬で待っている間も、持ち込んだ飲み物以外は飲食禁止になっていましたので、1時間半の間、普通なら何かつまむものがあって会話が止まっても何とか間が持つものですが、ちょっと手持ち無沙汰で、みな自分のペットボトルを持ったまま時折お話をし、その後また沈黙が流れるというような時間がしばらく続きました。

それでもポツポツと**兄の思い出や、十七年前に亡くなった**姉の思い出が語られ、ほんの少しだけ、お二人の人生に触れることができました。終わり頃にはかなり暖かい雰囲気になりました。

こうして、亡くなった人の人生を語ることは、生きている者にとってはとても意味のあることです。親であれ、肉親でなくても人生に影響があったり、関わったりした人との思い出や、彼らが後の時代に託した願い、時には彼らとの間にあった葛藤やいろいろと割り切れない思いなどが、やはり今の自分を作っています。続きを読む →

2020-05-03 私の歩く道

2020年 5月 3日 礼拝 聖書:箴言3:5-6

 私たち、現代人の生活はあふれるほどの情報と知識に囲まれています。ある研究によれば、現代人が1日で受け取る情報量は江戸時代の人の1年分にあたるそうです。

学校で勉強すべき内容も幅が広くなっていますし、身につけるよう期待されていることも増えています。しかし、たくさんのことを学び、知識として蓄えたからといって、生活や心が豊かになるかというと、必ずしもそうではありません。

このことは信仰によって生きることを目指す私たちにとっても大事な問題です。どれほど信仰が熱心であっても、あるいは聖書の知識が豊富でも、人生が確かで豊かになっているかは別問題です。続きを読む →

2020-04-26 最も小さい者の役割

2020年 4月 26日 礼拝 聖書:マタイ25:31-46

 今日はみことばを味わう前に、動画をひとつ見ていただきましょう。先日、中部病院の緩和ケア病棟で、入院中の****さんの病床洗礼が行われましたが、その時の様子を録画していますので、導入として、見ていただきます。続きを読む →

2020-04-19 良い忠実なしもべ

2020年 4月 19日 礼拝 聖書:マタイ25:14-30

 まだまだ収まる気配のない新型コロナの影響で、世界のクリスチャンたちの一部では、「もう世界の終わりが来るのではないか」と心をざわつかせている人たちがいます。

今日は3週間ぶりにマタイの福音書に戻りますが、確かに、最近、マタイ24章以降でイエス様が教えておられる「世が終わる時のしるし」が次々と起こっているように思えたりもします。続きを読む →

2020-04-12 わたしを信じなさい

2020年 4月 12日 イースター礼拝 聖書:ヨハネ20:24-29

 世界中を覆っている新型コロナの脅威の中で、世界の諸教会は、どうやって礼拝と交わり、宣教の働きを続けていけるか、どういう形ならできるかということに悩みながら歩んでいます。アメリカの***さんから昨日来たメールでは、10人以上で集まることができないので、家にこもっているそうです。教会には行けず、ネットで礼拝に参加し、まるで最初のイースターの時のように、家のドアに鍵を掛けてイースターを迎えるのだと書いてありました。続きを読む →

2020-04-05_ひとり子を与えるほどに

2020年 4月 5日 礼拝 聖書:ヨハネ3:1-5,16

 イエス様が十字架にかかって死なれたという事実は、私たちが神に愛されていているということを意味しています。2千年前の地球の裏側で起こった出来事ですが、現代の私たちにとっても、その神の愛が変わることなく、私たちに向けられていることを、今日、あらためて確信したいと思います。特に、今世界を覆っている新型コロナの不安と恐怖の中で、多くの人が無力感を覚えたり、希望を見いだせずにいたり、逆に無関心を装っている中で、それでも私たちは愛されていることを確かめましょう。そして、この「私たちが」愛されていることの意味合いを味わいましょう。続きを読む →

2020-03-29 再び来られる主

2020年 3月 29日 礼拝 聖書:マタイ24:29-35

 子供が産まれて少し経ってから、当時一緒に働いていた宣教師家族が、私たち夫婦だけの時間を作れるようにと、まだ小さい娘を預かってくれると言ってくれました。

もちろん、娘は不安がり、泣いたりもするのですが、そのときその宣教師夫妻は私たちたちに大事なことを教えてくれました。「お父さん、お母さんがどこかに出かけても必ず帰って来るということを教えることになる」ということでした。続きを読む →

2020-03-15 人の愛が冷えるとき

2020年 3月 15日 礼拝 聖書:マタイ24:1-14

 私たちの信仰の土台である福音には、主イエス様が私たちの罪のために死なれ、よみがえられ、天に上げられたということで終わらず、この世界をさばくため、そして私たちを新しい御国へと招くために再び帰って来られるという内容が含まれています。

その終わりの時とは一体どういうものなのか、聖書ではいろいろな描き方がされていて、興味を引いてきました。終わりについての教えは「終末論」というふうに呼ばれていますが、個人的には、礼拝説教で語るのが難しいと感じていました。この先どんな破滅が待っているかなんてことが、いったいどんな励ましになるのかという思いもありました。続きを読む →