2020年 8月 16日 礼拝 聖書:マタイ27:39-50
「死に際」という言葉があります。朝から重い言葉ですが、人は、誰かが亡くなった時に、その死に際がどうであったかにとても惹かれます。岩手には、義経伝説がありますので、弁慶が主を守るために何本も矢で射られても死ぬまで立ったままだったとか、義経は本当はその後も生きていたかもしれないなんて話しに興味が惹かれるだけではありません。
家族や友人、知人のいのちの火が消えようとするとき、どんな言葉を残したのか、苦しそうではなかったか、どんな表情だったか。そこにその人の気持ちや思い、あるいはその人の人生の意味や生き方まで重ね合わせ、その死を受け入れていくために、何かを求めて、「死に際」に心を向けるのかも知れません。
いよいよ今日はイエス様が十字架上で息を引き取られた場面となります。まさにイエス様の死に際です。続きを読む →