2023-08-06 愛の良きわざ

2023年 8月 6日 礼拝 聖書:使徒の働き 9:36-43

 今日は、今年度の主題「いつまでも残るもの」にちなんで、信仰、希望、愛について聖書から学ぶ月一度のシリーズで、愛に焦点を当てます。

愛といっても、かなり幅広いテーマになりますので、私たちクリスチャンが隣人を愛するということについて聖書から学んでいきたいと思います。続きを読む →

金継ぎ

みなさん、おはようございます。
最近、「金継ぎ」というものをやりはじめました。金継ぎというのは、割れや欠け、ヒビの入った陶器や磁器の皿やお椀を漆で貼り合わせ、金粉の混じった漆で表面を飾って修復する古くから伝わる技法です。もちろん、本物の漆や金粉は高価なので、入門用には接着剤や合成樹脂を使い、金粉の代わりに真鍮の粉を使います。
一度割れたり欠けたりして使い物にならなくなっものが、元通りになるのではなく、割れ目や欠けの跡が残されたまま、しかし金で美しく装飾され、味わいのある模様となる姿は、何か欠けのある私たちに対する神様のみわざに通じるものがあります。間違いや足りなさ、欠けの多い私たちを完璧な別人ではなく、傷跡は残りながらも癒され覆われ、味わい深い者とされると考えると、一人ひとりの個性がとても素敵に見えてきます。

“私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。” 2コリント 4:7

佐々木真輝

楽しい時間の後は

みなさん、おはようございます。
久しぶりの朝メールになってしまいました。日曜日の「夏カフェ」は本当に楽しい時間でした。ゲストとしてこられた方々が楽しんでくださったのが何よりです。その勢いのまま翌日は子どもキャンプが行われました。私たちの教会からは子どもの参加はありませんでしたが、一泊二日にぎゅっと凝縮された久しぶりのキャンプは、これまた楽しい時間でした。アメリカのテキサスから来ていた短期宣教チームの皆さんが思いっきり手伝ってくれたので、子どもたちの笑顔も最高でした。
楽しい時間の後は、いつもの生活が待っています。でもそれは「楽しくない」時間ではなく、楽しさの中で経験した神様の恵みによって新しい意味合いをもって過ごす日常ですし、次のスペシャルのための備えの日々でもあります。神様は特別な時も、ありきたりな時も、両方用いて私たちを成長させ、またみわざを行ってくださいます。

“彼らは あなたの家の豊かさに満たされ
あなたは 楽しみの流れで潤してくださいます。” 詩篇 36:8

今日は婦人会と祈祷会があります。

佐々木真輝

2023-07-30 自分のこととして話す

2023年 7月 30日 礼拝 聖書:使徒26:1-18

 2020年10月から聖書全体を一巻ずつ概観し、各書の中心的なメッセージを聞いていくというシリーズを始めました。月一度は年間主題に基づいたメッセージをはさみ、またイースターやクリスマスシーズンなど、季節毎のメッセージもありましたので、2年半以上かけようやく最後の黙示録に辿り着こうというところまで来ました。

やり始めた時はどうなっていくのかと不安と楽しみがありましたが、私自身は聖書全体を一気に読んでいくことで新しい発見があり、すべてのことが一本の筋にしっかりとつながっているという実感を得ることができました。一つ一つの箇所を丁寧に読み込むことで得られる恵みや感動とは別の、大きな視点での神様の恵みの偉大さに気付かされたように思います。続きを読む →

鉄は熱いうちに

みなさん、おはようございます。
先日、家族で休みを合わせて県内某所にある刀鍛冶の工房へ体験見学に行ってきました(別に場所は秘密じゃないですけど)。すでに気温が30度を超えていましたので、鉄を鍛錬するために火を起こすと室内は50度くらいになるよと脅かされたのですが、せっかくなのでぜひとお願いし、真っ赤に焼けた鉄を重いハンマーで叩き延ばす作業を体験しました。「鉄は熱いうちに打て」との諺どおりですが、ちょっと叩いたくらいでは鉄は鍛えられないので、「はいもっと叩いて!ぜんぜん延びてないよ」と発破を掛けられっぱなしでした。
鍛錬という言葉はもともとは鍛冶の用語です。鍛錬によって鉄は単に硬くなるのではなく、強さと粘りを併せ持ち、余分なものがはがれ落ちていきます。だから武術の修練や技術を鍛えることにも用いられるわけですが、私たちの信仰や人格の成熟や働きの熟練もまた、試練や苦難の中でなお神様に信頼し、示された道に生きようと心を定め歩み続けることで鍛えられるのだなと改めて実感した次第です。

“肉体の鍛錬も少しは有益ですが、今のいのちと来たるべきいのちを約束する敬虔は、すべてに有益です。” 1テモテ 4:8

今日は****さんの誕生日です。祝福を祈ります。

佐々木真輝

歌を聞きながら

みなさん、おはようございます。
昨日は無事に日帰りのいわき出張を終えることができました。行きのドライブの間「1970年代の邦楽ヒット」という音楽のプレイリストを流していましたが、懐かしいだけでなく、いろいろ考えさせられました。例えば、歌の中で描かれる恋愛や結婚についてのイメージが今とはだいぶ違うこととか、何かに区切りをつけて新しい道に向かって行くんだという決意の歌が多かったなあという印象など。逆に歌が世の中に影響を与えることも多いことにも気付かされます。「歌は世に連れ、世は歌に連れ」とはよく言ったものです。
私たちは永遠の変わることのない真理を信じ、永遠に変わることのない方を賛美しながら歩んでいます。同時に、あらゆる面でどんどん変わりゆく世界の中で生き、そこで生きる人々に証しをしています。40年前のものの言い方で話しても話しや気持ちが通じにくいのは当たり前のことで、今を生きる人たちが何を感じ、何に価値を見出そうとしているか知る事は大切なことに違いありません。

“ソロモンは三千の箴言を語り、彼の歌は千五首もあった。” 列王記第一 4:32

今日は****さんの誕生日です。祝福を祈ります。
婦人会と祈祷会はいつもどおりです。

佐々木真輝

誰でも違う一面はありますが

みなさん、おはようございます。
「仲の良い家族だと思ってました」「温厚そうな旦那さんでした」とは、何か事件があったときに容疑者として捕まった人や家族に対する印象としてしばしば登場する言葉です。そして私たち夫婦や私に対する過分な評価として、クリスチャンではない友人たちからいただくことのある言葉なので、ちょっとどきっとすることもあります。もちろんそういう仮面を被っているつもりはないので、そのように見られていることは素直に嬉しく思いますが、同時にそうではない場面があることも自覚しています。
人間ですから、普段とは違う一面があるのは当たり前のことです。それ自体は異常なことでも、偽善的なことでもありません。ただ、自分の中の闇の部分を知っていて目をつぶり、ないかのように振る舞って自分を偽っているなら、そこに霊的な歪みがあり心や魂、そして身体にさえ歪みをもたらします。ある種のイメージを保つために自分を偽るのと、自分の足りない面や弱さを自覚しつつも目指す姿・あり方を目指して生活することとの違いには天と地ほどの差があります。

“私は不信実な人とともに座らず
偽善者とともに行きません。” 詩篇 26:4

今日は神学校の用件でいわきまで日帰り出張です。行き帰りの道のりが守られるようお祈りください。

佐々木真輝

牛もお休み

みなさん、おはようございます。
昨日の午後、いつものように大船渡に向かう途中、牛が放牧されているエリアを通るのですが、あの暑さの中、牛たちの姿が見えません。ちらっと視線を送ると、日陰が濃く風通しが良さそうな小屋の中に仲良く並んでいました。さすがにあの暑さの中にはいられなかったのでしょうね。帰り道、夕方同じ場所を通し掛かると、幾分涼しくなった牧草地で牛たちがのんびり草を食んでいました。
今週はかなり気温が上がるようなので、ぜひ皆さん、熱中症にお気を付けください。そして暑い日に日陰や飲み水が必要なように、人生の厳しい時期にも私たちの避け所となり、陰となってくださる神様の恵みが必要です。

“あなたは弱っている者の砦、
貧しい者の、苦しみのときの砦、
嵐のときの避け所、
暑さを避ける陰となられました。
横暴な者たちの息は、
壁に吹きつける嵐のようです。” イザヤ 25:4

佐々木真輝

2023-07-23 生き方こそが

2023年 7月 23日 礼拝 聖書:ユダ 1-25

 私たちは様々なものと戦って生きています。できればそんなに無理をしたくないとも思いますが、病気と戦わなければならないことがあったり、仕事においてノルマやスケジュールと戦っているような時もあります。今はカビが生えやすい季節ですから、湿気と戦っている人もいるでしょう。

もう少し視野を拡げれば、たとえば人権のために戦っている人もいますし、社会の不公平や不正と戦う人もいます。さらには、祖国の解放のために戦っている人たちもいます。

どの戦いにも「こうあるべき」「こうあってほしい」と思い描く姿や理想のため、あるいはそのように生きられる権利があるはずだという確信があるからとか、何か理由があって戦います。時として会社のノルマや戦争のように強いられた戦いもありますが、それでも家族のためといった何か戦う理由を見つけてがんばります。

では信仰の戦いの場合はどうでしょうか。ユダの手紙が書かれた目的は3節にあるよう「信仰のために戦う」よう勧めるためでしたが、果たして信仰のための戦いとはどのようなものでしょうか。

今日は残り二つとなった聖書66巻の中で、最後の手紙となる短いユダの手紙です。短い割に分かりにくいところもある手紙ですし、私もここから語るのは始めてですが、信仰の戦いとは何なのか、何をもたらすのか、ご一緒に学びましょう。

1.信仰の戦いとは

第一に信仰の戦いとは、福音を土台とした生き方を守るための戦いです。

この手紙を書いたのはユダですが、もちろんイエス様を裏切ったイスカリオテのユダではありません。ヤコブの兄弟ユダと1節にありますが、イエス様の弟にあたります。

兄ヤコブもユダも、イエス様が十字架にかけられるまではイエス様を信じておらず、遠巻きに見ているだけでしたが、十字架の死から三日目によみがえったイエス様に会って、それからイエス様を信じ弟子となりました。開かなくて結構ですが、第一コリント9:5にはパウロが他の使徒たちやペテロと並んで「主の兄弟たち」が妻を伴って福音の働きに従事していたことを記しています。

ヤコブもユダも、ユダヤ人を中心とする教会の指導者でした。そしてこの手紙も、ユダヤ人の割合が多い教会に宛てて書かれたようです。もともとは3節にあるように「私たちがともにあずかっている救いについて」手紙を書こうとしていたのですが、ユダヤ人クリスチャンたちが信仰の戦いに直面していることを聞いたユダは別のテーマで手紙を書くよう計画を変更しました。

いったい、どういう信仰の戦いがあったのでしょうか。4節には「ある者たちが、忍び込んできた」とあります。ここ最近の聖書箇所で度々登場してきた「惑わす者」、「偽教師」たちがここでも登場したというわけです。

4節によれば、偽りを教える者たちは「不敬虔な者たち」つまり神を敬う心とふるまいがない人たちでした。彼らはまた「神の恵みを放縦に変え」つまりキリストにあって自由とされたことを好き勝手に生き、罪を犯しても構わないとねじ曲げて解釈していました。その上、唯一の支配者である主イエス・キリストを否定している者たち、つまり主の教えや命令を軽んじる人たちです。

こういう人たちとの戦いをユダは「信仰の戦い」と言っているのです。しかし戦いといっても、彼らと論争し、論破することで打ち負かすとか、勢力争いを繰り広げて仲間を増やすことで立ち向かうとか、そういうやり方を示してはいません。

神様がユダを通して示している信仰の戦いは、そのような歪んだ教えで惑わす者たちに惑わされずに、神様の豊かな恵みに支えられて福音に根ざして生活していくための戦いです。それは誰か個人と対決するということよりむしろ、惑わされやすい自分自身を自覚し、自分が何に立って生きるべきかを思い定めるという戦いです。

当時すでに多くの教会、クリスチャンたちが偽教師たちの攻撃に晒されていただけでなく、迫害の中にもありましたが、その場合も信仰の戦いは基本的に同じです。迫害するものを打ち倒すとか、キリスト教を認めない社会や国家をひっくり返す運動や活動をするというよりは、そうした誘惑や圧力に負けずに福音に生きるための、自分自身のうちなる信仰の戦いなのです。

ちょうど畑の雑草との戦いのようです。確かに作物や花にとって雑草は生長を妨げ、美観を損ねます。でも雑草との戦いばかりに気を取られず、作物を丈夫に育て、花を美しく育てるための戦い、水や栄養が十分行き渡るようにとか、他の害虫や病気から守るといったことにも注意を払わなければなりません。目標は敵を倒すことではなく、信仰によって建て上げられることです。

2.思い起こすこと

では、信仰の戦いはどのようにして戦っていくのでしょうか。

まずユダが繰り返し述べていることは「思い起こしなさい」ということです。信仰の戦いは、神様が様々な方法で教えてくださっている大切なことを思い起こすことから始まります。

「思い起こしてほしい」というユダの言葉が5節と17節に出てきます。実際、5~19節は旧約聖書の様々な例を挙げながら偽教師たちのような生き方がどういう結末をもたらしたかを思い起こして、そのような生き方に惑わされないように、という警告になっています。

さて、この5~19節はユダの手紙の中でもややこしい箇所の一つと言われています。一見すると分かり難いかも知れませんが、よく読んで見ると、旧約の出来事とはいっても、旧約聖書から直接引用している部分と、聖書以外のユダヤ人の文書からの引用とが入り交じっているからです。これはユダヤ人以外の人たちには簡単にはピンとこない所なので、この手紙がユダヤ人クリスチャンに向けて書かれた、といわれる理由の一つになっています。

当然のことですが、ユダヤ人は聖書以外の書物も書いていますし、よく読んでいました。現代のクリスチャンにも、信仰の理解や励ましに役立つような書物を読むよう薦めることがありますが、ユダヤ人たちもそうやって聖書ではないけど、これも読んだほうがいいよ、というような書物があったのです。具体的には「エノク書」とか「モーセの遺訓」といった書物から引用されています。

さて、そうしたものを用いながらもユダは旧約の幾つかの実例を思い出させます。

5~10節には神に反逆した人々の反抗と、それに対する神の裁きの例が挙げられています。荒野で反逆したイスラエルの民、神に反逆した御使いたち、神の御使いに暴力を振るおうとしたソドムの男たち。彼らは神様の権威に逆らい、性的な不道徳に陥り、彼らに警告を与えるために訪れた神の使いを拒絶しました。

また11~13節には人々を惑わし堕落させた実例が挙げられています。

彼らはいずれも、厳しい神の裁きがくだされ、後生の人々への警告とされました。そして12~16節にあるように、教会を惑わす人々は、こうした反逆し、人々を堕落させた者たちと何も変わらないのです。一緒に食事をしているけれど、その交わりを汚す人であり、自分を養うことにしか関心がなく、雨を降らせない雲のようにただ流されるだけで役にたたないもの。枯れて根っこも抜かれたき付けや薪として燃やされるのを待つだけの木のように何の実もむすばないもの。これらの厳しい言葉は旧約の預言者たちがそれぞれの時代の反抗的な民や指導者に向けて語った言葉でした。またやはりここにも聖書以外のユダヤ文学からの引用もあります。

その上で、17~19節で使徒たちが語った警告を「思い起こすように」とここでも語っています。人を惑わす者が現れることはパウロやペテロ、ヨハネなどの手紙を通しても繰り返し警告されていたことが思い出されます。福音をねじ曲げ、クリスチャンが福音に根ざして生きることや教会が建て上げられるのを邪魔する者たちです。どれほど信仰深そうに聞こえる言葉を語っているとしても教会に分裂を引き起こすようなことは聖霊によるものではありません。

3.自分自身を築き上げる

信仰の戦いのもう一つの面は20節以下の最後の勧めに書かれているように、「最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げ」ることです。

「最も聖なる信仰」というのは、惑わす者たちの、聖霊によらず神への敬いもなく、キリストの権威も認めず、自己中心な考え方に対して、聖霊が指し示してくださる信仰のことを言っています。つまり、私たちが聞いて信じた福音のことです。この福音の上に自分自身を築き上げることが私たちの信仰の戦いなのです。

イエス様を罪からの救い主として、私たちが加えられた御国の王として信じ、敬い、イエス様が神を愛し隣人を愛しなさい、互いに愛し合いなさいと命じ、使徒たちを通して示された新しい人としての生き方を自分の生き方としていくことです。

そしてこれは個人のことではなく、兄弟姉妹とともに、まるで神殿建設のように教会を建て上げていくことを示しています。

この勧めからも、クリスチャン生活や教会の交わりを惑わす者との戦いは、誰かをやっつけたり戦うことではなく、信仰に根ざした愛の交わり、祈りとみことばによって私たちの歩み、教会の交わりと働きをしっかりと建て上げる戦いだということが分かります。戦うべき相手がいるとしたら、それは惑わされやすい私たち自身だと言えるかも知れません。

偽教師の考え方や自分勝手で欲望にまみれた生活を変えてやろうと努力することは徒労に終わる場合が多いです。可能ならば間違った道から救い出してあげるべきですが、私たちのなすべき分は自分自身を建て上げることです。

私たちは様々な問題に直面したとき、ついつい他人を変えようと躍起になって疲れ切ってしまいます。他人の問題のほうが見えやすいということもありますし、自分の問題には気付いても「正当な」あるいは「やむを得ない」理由や事情があると思いたがります。それにも関わらず、相手の問題についいては「やむを得ない」と思いやることが難しかったりするのです。

しかし、ユダが手紙を書き送った教会で人々を惑わしていた偽教師たちのように、明らかに問題がある、それ以上に忌み嫌うべきやり方、教え方をしているとしても、それでも彼らをどうこうするよいも、彼らに倣わないよう注意し続け、自分自身が福音に根ざした生き方を確立することに注意を払いなさいというのです。

なぜ、ユダや他の使徒たちも、福音を信じているというだけでなく、信じている福音の上に自分の人生や教会を建て上げることを重視し、偽教師や惑わすものを見分ける基準にさえしているのかといえば、やはり生き方こそが、福音が真実であることをあかしするものだからです。

イエス・キリストが死からよみがえられた救い主で、信じる者の罪を赦し、新しいいのちに生きる者にしてくださるという福音が本物かどうかは、緻密な論理やこざかしい議論によってではなく、クリスチャンの生き方にしか現れないのです。

だからクリスチャンたちが偽教師や惑わす者に出会った時、彼らと論争したり、やっつけたりすることより、惑わされず自分自身の生活、教会の交わりを福音の上に建て上げること、愛のうちに築き上げられることに注意を向けるべきなのです。

適用:恵みに応えて

最後にユダの手紙のまとめにあたる箇所を読んで終わりましょう。24節と25節です。他の手紙にもあるように、読者のために祝福を祈る祈りですが、ここに私たちがイエス様を信じるだけでなく、信じて生きること、福音によって生きることの動機、また力の源があります。

特に24節はユダの手紙独特な強調点です。「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、」

私たちはイエス様から大きな恵みを与えられています。私たちはイエス様によって罪赦されただけでなく、長い人生の中で惑わされたり、誘惑されたり、自分自身でも確信が持てなくなるようなことがあったりしても、つまずかないよう守っていただくことができ、傷のない者として立たせていただけるよう造り変えることのできる唯一の方です。

私たちはこのお方に助けを求め、また惜しみなく助けてくださるその恵みに応えて、信仰による戦いを戦い、福音に根ざした生き方を確立していくべきです。それ以外の方法で戦おうとしても結局は力及ばず、疲れて終わってしまいます。

実は、近々我が家のワンコは内視鏡検査を受けることになっています。ペットのためにそこまでやるかと思うかもしれませんが、二日に一回はご飯を食べたがらなかったり吐いたりするのが何週間も続いて、かかりつけのクリニックでも「ここの設備では原因がはっきり見つけられない」と言われたら、やはり何とかしてあげたくなります。紹介された動物病院は専門の設備と技術があるということです。もちろん、お金がもったいないとか、きっと大したことはないだろうと勝手に決め込んだりすれば、その助力は得られません。そこに頼らないという選択肢は私たちにはありませんでした。

ところが、私たちは霊的な事柄について、つまり私たちの生活を福音に相応しいものに整え直していくという大切な努めについては、労力を惜しんだり、問題に向き合うことを避けたり、このままでも大丈夫だろうと勝手に自分に都合良く決め込んでイエス様の助けを得ようとしないでしまうことがあるのです。

ある時、ややこしい人間関係の問題にぶつかってしまい、私はその問題を「敵との戦い」のように捕らえてしまいました。手を尽くして相手に勝つことを求めましたが、それは何も生み出さないばかりか、消耗戦のようになってただただ疲れるだけでした。ずいぶん時間がかかりましたが、相手が正しかったか間違っていたかという見方を手放して、自分は今置かれた場所で福音に根ざして生きるとはどういうことか、ということを考え始めた時に、ようやく落ち着きを取り戻し、喜びを回復しました。

イエス様は24節にあるように、私たちを大きな喜びとともに立たせることのできる方です。イエス様の願いは福音に根ざした生き方を身につけ、大きな喜びを味わうことです。そのために十字架で死によみがえってくださったのであり、私たちを躓きから守り、傷のない者にしようと助けてもくださいます。

私たちが信仰の戦いに立つ時、私たちの戦いは福音に立って生きることを学びとる戦いであることを思い出しましょう。惑わす者や責める者と同じ土俵に立ってしまわないように注意し、自分自身を築き上げること、教会の交わりを建て上げることに力と知恵を尽くしましょう。そして私たちを躓きから守り、助けてくださるイエス様の大きな恵みに心から応答しましょう。

祈り

「天の父なる神様。

ユダの手紙を通して私たちの信仰の戦いというものがどういうものなのか教えてくださり感謝します。

私たちの戦いは敵や惑わす者と争ったり、打ち負かしたりすることではなく、私が福音に立って生きているかどうかにあります。いつもそのことを思い起こさせてくださり、私たちが躓かないよう手を差し伸べてくださるイエス様の恵みに頼り、助けを求めて歩ませてください。

惑わす者や敵対する者がいたとしても、そうしたものに惑わされたり確信を投げ捨てたりせず、信仰を持って歩み続けられるように約束の通りに私たちを支えてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」

梅雨明け?

みなさん、おはようございます。
今日はもしかしたら梅雨明けかも知れないと聞きました。どうでしょうね。止まない雨はないとか、明けない夜はないとはよく言われます。観測技術と気象の研究が進んだことで、あと何分くらいで雨が降ります、なんて情報がスマホに届き、その通りに降るのが当たり前になって来て、梅雨明けの見通しも結構正確に分かるようになってきました。夜明けの時間なんて、何年先までもほとんど誤差なく予測できます。
私たちの人生に降りかかる雨や暗闇のほうは、残念ながらいつ止み、明けるかを予測できません。ただ、そうした苦しみや嘆きの時は永遠ではないし、主の御手の中でかならず明けるとき、止む時が来ると希望を持つ事ができます。そのことは忘れないようにしたいです。

“私に耳を傾け
急いで私を救い出してください。
私の力の岩となり
強い砦となって 救ってください。” 詩篇 31:2

佐々木真輝